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雪子は男を見おろし、小さく息をついた。 力が抜け、崩れそうになるその背を支えるように、晴美が彼女の肩を抱く。 「いいの?とどめを刺さなくても。それが、アナタの望みだったのでしょう?」 「ええ」 雪子は頷いた。足元の男は意識は失ったようだが、体はまだ弱々しくも呼吸を繰り返している。 「晴美さん。今、まだこの男の心、見えますか?」 晴美は首を横に振った。意識を失った相手の心の内まではさすがに読み取れない。しかし、雪子の聞きたい事はわかった。 「この男は、最後まで罪を認識できてはいなかったわ」 雪子の顔が苦しみに歪んだ。ナイフを持つ手が震えていた。酷く、虚しい気持ちがそうさせているようだった。自分にもそんな感情の理由が分からない。 そして、そっと目を閉じた。 静かに自分の中の林雪子という人物と対話する。 何を悔やんでいたのか、何をしたかったのか、どうすれば救われるのか。 耳には耳鳴りの様な沈黙と、男のススキの穂がすれあうような呼吸しか聞こえない。 命の、尽きる瞬間は、どの人間にも等しく訪れる。それは、どんな理由でどんな経緯があり、その人間にどんな価値があろうと、関係ない。 林俊の死も、その妻の死も、妻を殺した者達の死すらも、皆、同じなのだ。 雪子はそっと目を開けた。ようやく、自分が選ぶ道を定めたのだ。 ナイフを背に突き立てたままの男の背に、自身のナイフを添わせるように置くと、立ちあがり神父の方を見つめた。 晴美も風香も氷雨も、彼女が何故、とどめを刺し、自分の願いをかなえようとしないのか不思議そうに見守っている。 しかし、雪子はその視線の中を軽いカーテンをくぐるように進み、指を組み祈るような姿勢で空知神父の前に傅いた。 「神父。私のやるべき事が、ようやくわかりました」 「聞かせてください」 厚みのある声は包容力をもって雪子に振りかかった。雪子は目を上げ 「罪を、自分の罪を認め償います」 「はぁ?」 声を上げたのは風香だった。すぐに何かを言おうと口を開いたが氷雨が「黙っときな、新人」と素早く片手で彼女の口を塞いだ。 「神は、あなたの勇気を歓迎するでしょう。来なさい」 「はい」 雪子は立ち上がると差し出された神父の両手に自身の手を載せた。軽く握られた空知神父の手のぬくもりに、雪子の心が柔らかく解けていく。 それは、一見、花嫁が神聖な誓いを立てるかのようにも見えた。 「貴女の告白は全て聞き届けました。安心して、生まれ変わりなさい」 「はい」 雪子の顔が一層輝いた。 それは、傍から見ている風香でさえ溜息をもらすほど美しく、清らかな花嫁の笑顔だった。 東吾の死体の処理は自分の仕事だから、と残った氷雨を置いて、三人は教会を後にした。 血に染まったウェディングドレスを脱いだ雪子は、先ほどとはまるでイメージの違う、スキニーなデニムにハイネックの半そでのセーター。その上にジャケットと言う姿になっていた。 後ろ手に一つくくりにした長い黒髪は、黒豹の尾を思わせるほどしなやかで、そこに伸びる長く白い首に沿って揺れるのが何とも色があった。 「あー疲れたっ!やっぱ、一仕事終えると、どっと疲れが来るわね」 雪子が大きな声を出し、両手を繋いで天を押し上げるような恰好でそう言った。それは清々しさを通り越し、まるで今までの事全てがなかったかのような体だ。 風香はさっきの彼女とのギャップに閉口した。 風香はこの組織のメンバーに入ってまだ3ヶ月ほどだ。仕事と言う仕事はしていない、未だ身元調査をされているトライアルで、彼女達の仕事を見たのはこれが初めてなのだが、実際、雪子という女性に会ったのは、今日を含め片手で余るほどだった。 うち、一度はさっきお陀仏した東吾と一緒だった。ま、この場合、教会で死んだのだから仏と言うのは少々おかしいのかもしれないが。 風香が今、身を置くこの組織は、弱い者の無念を晴らす世直しの様な仕事をしている連中と認識していた。 空知神父をリーダーに、人の心が読める晴美さん、死体処理が得意で過去が見える氷雨、そしてこの雪子が主なメンバーだ。それぞれ、特殊な力を持ち、人の魂を救うのだ。 その方法は、大抵、氷雨と晴美がその罪人を見つけ出し、雪子が償うチャンスを与え、神父が裁きを下す。 罪人が自らの罪を認めその口で告白し懺悔すれば、裁きは保留。そうでない場合は、東吾の様な事になる。 聞いただけでは馬鹿げている話だが、風香は実際に彼女達に救われた。それで彼女達の仲間になろうと決めたのだが。 しかし、それにしたって……。 風香は、ものすごい勢いで晴美とこれからどこに打ち上げに行くかを相談している雪子の横顔を見た。 彼女の能力は何なのだろう? 図らずも、今のは仕事ではなく、雪子の過去の清算だと聞かされていた。でも、この気持ちの切り替えようはあまりにも不自然だ。かといって、強がっているようにも見えない。 「あの」 風香は堪らず口を挟んだ。ピタリ、雪子と晴美の会話が止まり、6つの目が風香を見つめる。 「結局、雪姉の能力って言うか、役割って何なんですか? ってか、どうして雪姉、そんなに元気ハツラツっていうか、平気な顔をしてるんですか? 少なくとも、聞いた話じゃ……」 その瞬間、わっと噴水が吹きあがったように笑いが溢れだした。 風香は意味が分からず大笑いする二人を見つめる。一人、苦笑していた空知神父が風香をホローするように言葉を挟んだ。 「あぁ。風香さんはまだ知らないんでしたよね。雪子さんの能力」 「だから、さっきからそう言ってるじゃん」 思いっきり馬鹿にされたような笑いに気分を悪くし、風香は口を尖らせる。 空知神父は彼女のそんなあどけない仕草に苦笑すると、まるで迷子に道を教えるような口調で、こう告げた。 「雪子さんの能力は、物を言えない人の代理ですよ」 「は?」 意味が分からない。風香は目を丸めこの時ばかりは舌が回らず雪子の方を凝視した。雪子は笑いに涙を浮かべ呼吸を整えながら風香の方を見ると、 「平たく言うと、イタコよ」 と言った。何をどう平たく言えばそうなるのかわからないが、風香にもその意味はわかった。つまり、雪子は……。 「死んだ人の代弁なの。さっきの話の女の子は……」 ふと、それまで緩んでいた表情が引き締まり、雪子の目に寂しげな風が吹いた。 「父親を殺した時、死んだの」 「雪子さん」 神父は雪子の肩に手を置くと、首を横に振った。それ以上語るなと言う事だろう。雪子の隣にいた晴美はそれを察し、彼女の背を軽く押し、風香と神父を置いて先に行ってしまった。 風香はそんな背を釈然としない思いで見つめる。 仮に、そういう能力の持ち主だとしても、おかしくないか?だって、はじめ、雪子はこれは自分の過去の清算だと言ったじゃないか。 「空知神父」 風香は口を尖らせたまま神父を見上げた。初老の神父は小さく微笑み 「林雪子の亡霊を、彼女は浄化させたかったんですよ」 そう言った。風香にはその意味が良くは分からなかった。が、前を行く二人の会話から『焼き肉』の単語はよく聞き取れた。 風香はまぁ、いいや、と、もやもやする思考を振り払うと、二人に置いてかれないように走りだした。 神父が後ろで困った顔をして自分を見ているのはわかったが、考えるのはもともと得意じゃないのだ。 「ねぇ、雪姉。その焼き肉の店……」 風香が彼女の袖をひっぱった。 その拍子に僅かにジャケットが肩から落ち、雪子の腕が露わになった。そして、そこにあったのは、一筋の弾痕の痕。 「え」 風香は立ち止まり、息をのむ。 この傷は? もしかしてさっきの話の中の傷なんじゃないのか? ってことは、やっぱり? 「ねぇ! さっきの話、死人の代弁なんかじゃないんじゃないの? さっきのはやっぱり……」 雪子が目を細めた。ジャケットを羽織りなおし、その細く長い指をそっと風香の唇におし当てると 「今日の私はね。もう嘘しかつけないから」 といって片目を瞑った。 嘘しかつけない? と言う事は、この言葉が嘘。つまり本当のことしか言えないって事になる。ならば。嘘しかつかないというのは本当で、それは嘘で……。 風香は頭がこんがらがり閉口した。雪子と晴美はしてやったりと顔を見合わせ笑っていた。 穏やかな日差しの中、その笑い声は高らかに響く。 空知神父は、生まれて来たその業から逃げないと決めた少女の告白が、そのままこの透明な空に溶けていけばいいなと、思った。 そして、祈る。 願わくば、人の想いを代弁し救う事で、彼女自身の心も救われ、いつか涙を封じるための笑顔という嘘も、告白できる日が来ますように……と。 To be continued...... |
花嫁の告白
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だって、そうだ。こんな話し、現実にあるわけない。女に悪戯して死刑になる人間なんていないんだ。 雪子の母親は運が悪かったのだ。そして、むしろそんな女に当たってしまった自分の方が被害者だ。 神? 馬鹿馬鹿しい。 東吾はじっと雪子の目を見つめる。 美しい雪子、優しい雪子、可哀そうな、雪子。 でも、女はいくらでもいる。 今聞いた話が全て事実だとしても、自分は殺されてやる気は全くしない。 こんな戯言、たくさんだ。 「雪子」 東吾は反省に色を失くした、ふりをした。そして雪子のその冷たい頬に手をあてると、彼女の手に光るナイフに一瞬目をやった。 殺し屋? とはいっても、所詮女だろ。 東吾は口元に笑みを浮かべると 「すまなかった」 自分の手を差し出し、そのナイフに伸ばした。雪子の身が一歩引かれる。彼女の手を掴んだ。奪えない気はしなかった。 すまない。雪子。 お前を愛してはいるが、それ以上に、俺は俺自身を……。 その時だった。背中に軽い衝撃を感じたのは。 すぐに熱と痛みがそれを追いかけ、東吾は目を見開き動きを止めた。 「え……」 そっと後ろに振り返る。 一瞬毎にこれまで感じた事のない痛みが、じわりじわりと増している。苦悶に顔を歪め、息を飲み、ようやく目の端に確認したのは、自身の背を鞘に深々と納まっているナイフだった 「晴美さん」 「雪子さんは、まだまだ人の心が見えてないのね」 晴美の子どもをいなすような声がした。東吾は崩れ落ちながら、女たちの顔を交互に見る。 どうやら、東吾の背にナイフを投げたのは晴美のようだ。 「晴美さんのような力は、私にはないですよ」 雪子の拗ねたような声が頭上でした。体が、床を感じ頬にそれがあたる。背から、痛みとともに温かなものが迸り出ていくのを感じる。 「私が『見る』事が出来るのは、『今』だけよ。氷雨さんのように過去まではわからない」 自分の命が、体から漏れ出し周囲に広がっていく。それは、罪を背負わすように鈍い重みを伴いながら自分を覆い始める。 「ね、この男、能力者って事ないよね? 空知神父みたいにさ」 「一時間、死んでいられるこの力を他に持つ人間がいるとは、聞いたことありませんね」 「そうそう。もう、雪姉さんの話があんまりにまだるっこしいから、懺悔の一時間が過ぎるんじゃないかってヒヤヒヤしたよ。空知神父が復活する、それまでに悔い改めたら救うって事になってたでしょ? ま、私はそんな必要ないと思ってたけどね。だって、この男、そんなたまじゃないじゃん。雪姉がどうしても自分の過去整理をいつもの形でしたいからって付き合ったけどさ。ってか、雪姉の能力ってなに? 氷雨姉さんみたいに、まさか他人の過去を覗き見する能力じゃないでしょ?」 「のぞき見なんて言うな。人聞きの悪い」 「そうよ。おかげでこの男を探し出すことができたんだから」 「はいはい。どうせ、私には特別な能力はないですよ」 「すねないの」 「そうですよ、誰もが特別、唯一の存在なのです。だからこそ、命はかけがえのないもので……」 「あ〜、説教はいいよ。あたし、しゃべるのは好きだけど、人の話聞くのは苦手なんだ。だいたい、どうして坊主ってみんなそうお喋りなわけ? あ、そうだ、しゃべるのが仕事なら、私、向いてるかも!」 「風香には絶対向いてない」 頭上で軽口が楽しげに飛び交っていた。 東吾は遠のく意識の中で舌打ちをした。 教会、死体、花嫁、ナイフ 全ては、自分の為だったのか。 全てはもう、ずっと前から……。 雪子 何が悪かったんだ 俺は 殺されるほどのこと したのか? 俺は 本当にやり直せると 思ってたのに 君と 君と 君…… 判然としない気持ちの悪さを抱えながら、東吾の混濁した意識はそこで途切れた。 |
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「あ」 東吾は声を上げる。確かに、自分は神父の死体の手を踏みつけた。だが、しかし、それは……。 「なんだよ。アンタ、死んでたじゃないか。こんな場所で死体のふりして人をだますのと、人の手を踏むのとそんなに差はあるのかよ。それに、何だ?俺に罪?何言ってんだよ。死体の手を踏んだのが罪なのか?裁き?何の事だよ?全くわかんねぇ!」 東吾の叫びは虚しく教会に響いた。不愉快を通り越して、東吾は息を詰まらせるようなにじり寄る脅威を感じ不安になっていた。 うっすらと漂う、突き放すようでいて攻撃的な空気は全て自分に向けられている。しかし、その理由が不明だし、彼らが何を意図しているのかも明瞭ではなく、まるで擦りガラスを通した景色を眺めているようだ。 「東吾さん」 その時、背後で雪子の声がした。 ピアノの鍵盤をポンと弾いたような澄んだその音色に、東吾は思わず笑みをこぼして振り返る。 「なぁ、雪子、どういう事だよ。何かの冗談か? 確かに、俺はこれまでそんなにいい人間じゃなかった、あのオッサンの手も踏んだ、だからって、こんなに皆に責められないといけないほどじゃないだろ? 別に、人を殺したわけでもない……」 「本当に、そう思ってるの?」 「え?」 雪子は目を細めると、憐れみに泣き笑いの顔をし東吾のその頬を撫でた。 「貴方は、キーワードでものを考えるのが好きだったわね。じゃ、私が最後のキーワードをあげる」 「雪子?」 「初めて、呻き声、母の死、この日のための出会い」 初めて、呻き声?はっと東吾は息を飲んだ。 そして、雪子を凝視する。 雪子は嬉しげに頷いた。 ようやく、真実に辿りついてくれたのね、そう言わんばかりのその顔は晴れ晴れとしていて、どんな誤魔化しも情けも含まない潔癖さを備えていた。 「もしかして……俺が、ガキの時に」 初めての女を思い出す。事の後に蹲り呻いていた女。あれは、もしかして雪子の母親だったのか?あの時、妊娠していたが自分の暴力で、体に異常をきたした。 それで……。 東吾はあの時の女の目を思い出す。 − 許さない それは、目の前の雪子のそれと重なり、言葉は完全に沈黙した。 「そうよ。東吾さん。私は、貴方をずっと探していた。でも、神父に諭されたのよ。どんな罪にも一度は赦される機会を与えねばならない。そうしなければ、神の代わりに裁きを下す事にはならない」 何かが光った。 東吾は眩しくて目を細めた。 「神の裁き何かって思ったけど、天国に行けなくなって父さんに会えなくなるのは嫌だから……」 花嫁はそういうと、東吾を包みこむように抱きしめた。 「罪は、罪を罪とも思えないアナタの心ね。赦しのしようがないわ」 「雪子?」 「さっき、東吾さん、言ってくれたわね。私の為に命をかけられるって」 耳元で囁く声は、問いではなく確認だ。東吾は身を強張らせ、慌てて彼女の体を引き剥がそうとした。しかし、驚くほど雪子の体はぴくりとも動かない。まるで鋼の塊のように強固に東吾に抱きついている。 「ゆ、雪子!?」 恐怖が喉元までせり上がって来た。 しかし、花嫁はもう、その笑顔を見せない。 「神父。裁きを」 雪子の声が響いた。神父は残念そうに眉を下げ、首を横に振った。 「雪子?」 「東吾さん、私の望みを叶えて、せめて最期、その口が語った言葉にウソはないと神に証明して。そうすれば、もしかしたら……」 雪子は体を離すと、東吾の瞳を覗き込んだ。 嘘だと言ってほしかった。この期に及んでも、これは冗談だと誰かが笑い飛ばしてくれるんじゃないかと思っていた。 |
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父の手からスルリ、力が抜け、花がしおれるようにその手が垂れ落ちた。 雪子は微笑みに虚空を見つめた魂の抜け殻を凝視した。 怒りと憎しみと悲しみとやるせなさが、腹の底からこみ上げ、雪子は思いっきり唇を噛んだ。 やがて、そこからは血が滲み、俊の頬の上に、一滴落ちた。まるで、涙のように見えた。 父が、最期に口にした言葉。 それは、 妻の名だった。 確証はどこにもない。証拠もどこにも存在しない。しかし、雪子にはわかった、父は命が尽きるその時までも、雪子を見て何かいなかった。ずっと、ずっと、彼は、雪子の中の妻を見つめ、愛し、そしてその命を奪った娘を憎んでいたのだ。 夜が更け、再び朝が来る。 時計が、甘いメロディーを再び奏でた時、部屋に入って来たのは、その後の雪子の後見人となる晴美だった。 晴美は雪子を見つけると、全てを把握しただ、頷いた。 そして、一気にカーテンを引き、外の光をその闇の中に溢れさせた。 雪子は眩しくて目を細めた。 そこに広がっていたのは、哀しいくらい綺麗で澄み渡った青空だった。 「その仕掛け時計のオルゴールを聴きながら、私、ようやくわかったの。父がどうして、私を愛してくれないのか。どうしたら、愛されるのか」 「雪子?」 雪子は顔をあげ、今度は自ら立ち上がった。 それは凛とした百合の花のように毅然としていて、美しい。そして、その花弁が一気に開いたような華やかさで、雪子が微笑んだ。 「父の望みを叶えればいいのよ」 そうして、雪子は東吾の手をとり、正面から見つめた。まるで誓いの後の指輪の交換のように手を取り合い、見つめあう。 その彼女の瞳に、もう、憂いの色はなかった。 「望みって、叶えたんじゃ」 「いいえ。まだよ。父は私に言ったわ。父を殺せるほどに成長し、そして私の手で母を殺した日本人を殺せと。つまり、私はまだ、父の望みを叶えたわけではなかったの。そして、この日をようやく迎える事が出来たのよ」 その声には一種の熱っぽさを感じたが、東吾は戸惑った。雪子の目的。それは父に愛される為に、母を殺した日本人を殺すこと。 と、言う事は 「この神父が犯人なのか?」 この、人の良さそうな神父が殺人? 神に仕える聖職者が!? 東吾は信じられない思いで死体の方を振り返った。 「あれ?」 彼は自分の目を疑った。そして言葉を無くし、その光景を見つめる。 柔らかな日が降り注ぐ十字架の下。 そこに命尽きた肉の塊はなく、血だまりだけが揺れていた。 「時間だよ。雪姉さん」 唖然とする東吾は笑いを含ませた風香の方を振り返り、思わず声を上げた。なんと、そこには、あの神父が立っているではないか。 「どういう」 あの特徴的な耳は、やはりあの神父だ。黒いその服にはべったりと血液の後はあるが、その顔には血色が戻り、にこやかにこちらを眺めている。 どうして?何が起きている?あの時、神父は確かに死んでいた。触れたわけじゃないが、胸は上下していなかったし、見開かれた目は瞬き一つしていなかった。なのに。 東吾は俄かに理解できずにただただ口を何度か開閉して、神父を見つめるだけだ。 晴美がそんな東吾を気の毒に思ったのか、苦笑に口元を緩め首を少し傾げ東吾を見つめた。 「東吾さん。これはね、貴方のための贖罪の場だったのよ」 「は? 俺、の?」 「そう。始めに言ったでしょ? 東吾さん」 雪子の声に東吾は振り返った。雪子の笑みは一層輝きを増し、神々しいばかりのそれは、教会に差し込むその陽光のように東吾に降り注がれる。 「私は、今日、この日の為に貴方に出会ったって」 「は?」 確かに、そう言った。だが、それは、一体? 「察しの悪い男だよね。まったく」 風香の人をあからさまに馬鹿にした声が投げられた。東吾は思わずむっとなりその小生意気な女子高生を睨みつける。 しかし、風香は臆することなくそれを正面から睨み返すと、口の端に人の悪い笑みを浮かべた。 「説明するのもウザいよ。全く、能天気というか、大バカモノって言うか。あんたがこうやってここにいるのに、罪の意識は全くないんだね。って事は、裁きはあれだ。もう、決まりだ。残念。雪姉さんの優しいヒントにも、自分の罪を顧みる事が出来ないなんて、アンタ、そうとうの悪党だよ」 「何の事だよ!」 周囲の空気が、引き締まり、東吾を包囲し今や締めあげよとしているのが感じられた。生意気な舌を動かす風香にしろ、生き返った神父にしろ、困ったような微笑みを讃える晴美しろ、無表情で沈黙したままの氷雨にしろ、誰一人として東吾に味方するものはいないように感じられた。 「神父。裁きは決まってるよね?」 神父は静かに頷き、自分の手をその胸元の辺りまで掲げ皆に見せた。 「死者を暴騰した時から」 |
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そんなの、容易い。雪子は細かく長い睫毛を震わせる。 もし、それで 「父さんが、愛してくれるのなら」 「良い子だ」 俊は嬉しげに表情を崩すと、ぐいっとさらに刃を彼女の首、頸動脈の上に正確に押し当てた。 「なら、俺を殺しなさい。俺を殺せるほど、成長したのだと、俺に示してくれ」 「それが。父さんの……望み?」 もう、雪子の目に涙は浮かんではいなかった。 ただ、煩わしいほどに鳴りやまない鼓動と、自分の生を告げる痛みに唇を噛み、俊を見つめる。 俊が、ゆっくり頷いた。 「あぁ、俺の望みだ。そして、それは、お前にしか叶えられない」 どうか愛してください どうか私を見てください どうか、どうか、どうか……その手を……。 雪子は顎を引くと腕を伸ばし、男の首にそれを回した。 ゆっくりと引き寄せる。大好きな瞳がすぐそこにあった。 それは今、自分のみで満たされている。 彼の世界には、今、この瞬間は自分しかいない。 雪子は目を伏せると、そっと唇を重ねた。 死者と交わすような口づけを、雪子は自分の一番深い部分に刻み込む。 父を、林俊を自分は愛している。 愛しているから……。 雪子は、ゆっくりと花びらがその茎から枯れ落ちるように離れると、男の胸を軽く押した。 瞳が混じり合う。 父が微笑んだ 雪子も微笑んだ そして幼いその手の中の引き金が、引かれた。 人間は簡単には死なない。 それは雪子が常々言われている事だった。 だから、初めの一撃が効いたとしても、すぐに次、また次、相手の息の根を止めるまで油断してはならないと。 雪子が俊に飛ばされた先で掴んだサイレンサー付きの銃が貫いたのは、俊の肝臓と左胸肺の辺りだった。 出血はおびただしく、しぼんだ片肺ではままならない呼吸に俊の顔はすぐに青ざめた。 俊は、父はもうすぐ死ぬ。 雪子はそれを悟ると、子どもから悪戯の道具を取り上げるような手つきで、彼からナイフを奪い、その小さな体で崩れる彼の体を受け止めた。 二人は崩れるように座り込む。 温かかった。 感じる彼の重みも、血の生臭さも、乱れた呼吸も、皆、温かかった。 雪子は手にある銃とナイフを遠くに放り投げると、改めてその愛しい体を抱きしめた。 俊が、なぜとどめを刺さないのか、問いたそうな目を向けていた。いや、実際問うていたのかもしれないが、雪子の耳に届くような言葉にはなっておらず、呻き声と死期に近い者特有の、ひゅうひゅうとした妙に乾いた音を喉から漏らしているだけだった。 雪子は足を投げ出すと、彼の頭をそこに置き、ゆっくりと眺めながらその額にかかった前髪を撫で上げた。 愛しさは今にも溢れ出そうなのに、頬に伝うのは冷たい涙だけだ。 「お父さん。これで、私の事、愛してくれるよね?」 雪子は涙に濡れた声でそう囁くように訊いた。 自分の中で途切れていくその命、その命が消える前に、どうか、お願い。一言でいい。たった、一言でいいから口にしてほしい。 もう、娘としてでも構わないだから、どうか、自分を……。 俊の目が優しく微笑んだ。 力のない手が、雪子の頬を撫でる。 『泣くな』 それは彼の故郷の言葉だった。 『泣くな。俺は、嬉しいんだ』 途切れ途切れのか細い声に、もう、生気は見当たらない。それでも、雪子は一言も聞き逃すまいと耳を澄ませ、その手を握った。 『愛してるよ』 「とうさん!」 『 』 それは、雪子の知らない言葉だった。 日本語でも、英語でも、フランス語でも、中国語でも、アラビア語でも父の祖国の言葉でもない。 生まれて初めて耳にする単語。 しかし、雪子にはわかった、父が最期に口にした言葉、それは……。 |




