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翌朝、寒さに目を覚ました。 見ると、風香は傍にいなくて、伊太郎は慌てて身を起こす。 風香はずっと前に起きていたらしく、ストーブの傍で慌てる伊太郎に赤い鼻をすすりながら「おはよ」と目を細めた。 二人で外に出た。 世界は水色に近い灰色だった。 空も海も、自分達が立っている場所も、皆同じ色だ。 夜明け前に世界の全てが息をひそめ、新しい一日の始まりを待っているかのような静寂に、この色はよく似あっていた。 二人で自転車を漕いで施設に戻る。 国道を走っている間に、日は昇り。施設に続く緩い坂道を昇る頃には、足元に影が差し始めた。 誰も起こさないように静かに自転車で中庭を抜け、自転車置き場に到着する。 「たぶん。絶対、怒られるよね」 風香はうんざりと言った顔で、携帯を伊太郎に掲げて見せた。何件も施設と司からの電話が入っている。 ま、これくらいの迷惑はいいでしょ。と伊太郎は肩をすくめた。 並んで中庭を通り玄関に向かう。 その時、風香があの銀杏の木の下で立ち止まった。 伊太郎は不思議に思い、数歩先に進んでいた足を止め、振り返る。 風香は葉のないその木を見上げていた。 「伊太郎。昨日、私が親を恨んでないか、訊いたよね」 「あ、うん」 風香は今度は根元に視線を降ろした。ちょうど、風香が捨てられていたと言われている場所だ。 「私はね、恨んでないよ」 「え?」 「私をここに連れて来てくれた誰かさんは、確かに私を置き去りにしたかもしれない。でも、愛してくれてたんだって、知ってるから」 どういう事だ? 風香には何も残されていない。身元を証明するものも、生まれた日がいつであるかを教えるのも。 なのに……伊太郎は首を傾げ風香を見つめる。 風香はまるで幼い自分を見ているかのような眼差しで、じっとそこに目をやる。 「私がここで見つけられたのは、暑い日なんだってね」 今とは正反対の季節だ。 風香はもう一度顔を上げた。 そこに生まれたての朝日がさして、彼女の頬を照らした。 風香は目を細め、まるで真夏の銀杏をそこに見ているかのような顔をした。そしてそっと告げた。 「きっと、その時、ここには優しい木影が私を包んでいたんだろうなぁ」 伊太郎ははっと息を飲んだ。 確かに、もし、ただ置き去りにするのなら玄関でいいはずだ。捨てる現場を押さえられるリスクもずっと少ない。 敢えて、この木の根元にしたのは、玄関先の厳しい日差しの中ではなく、ここに……。 赤ん坊を包みこむ、優しい木影が伊太郎にも見えたような気がした。 風香が振り返った。つくづく。自分の知っているのは世界のほんの断片でしかないのを思い知る。 朝日の中で風香は微笑み 「私、春から空知神父の所に行くの」 と宣言するようにそう言った。 実は、そんな気がしていた。 伊太郎は風香の顔を見る。 風香もまた、新しい居場所を自分で見つけたのだ。 二人で朝日の中、振り返った。 新しい一日が差し込むあの窓際。そこには、もう、うかない顔の少年の顔はなかった。 to be continued...... |
少年の告白
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汚いスニーカーが毛布の先から二足並んで顔を出している。 「ずっと気になってたの」 「え?」 ドキリと胸が蹴り飛ばされ、伊太郎は風香の横顔を見る。しかし、風香の視線はどこかに漂い、伊太郎の事は見ていなかった。 そこで、ようやくこの役目は自分じゃなくてもいいのに気がつく。 あの事件の事を知っているのなら、伊太郎じゃなくてもいいのだ。きっと。 それに気が付いた時、悔しさとやるせなさに伊太郎は居心地が悪くなり、やはり風香のように自分の汚いスニーカーを見つめた。 「どうして司さんも、重清も、柳のババァも名乗りでなかったんだろ。だって、そうでしょ? 相続を主張する位なんだから、始めから自分達は前妻の子どもとその子どもですって言えばいいんじゃない。こそこそ遺言書何か探さなくてもさ。それをあんな風にしたから、おかしくなったわけで」 伊太郎には、それは結果論だと思った。 蓋を開ければ宮治は娘の事を忘れてなどいなかったし、遺言書も彼女達の為にしたためられていた。 それがわかったからこそ、そう言えるが。おいてけぼりをくらった子どもには、きっとそれを確かめるのには勇気がいる。そう、かなりの、だ。 「風香。こんな風に思ったことない?」 「?」 伊太郎の声に風香はじっと耳を澄ませる。 「忘れられるくらいなら、憎まれた方がましだ。忘れられるのが怖い」 柳は、怖かったんだとう思う。司も、怖かったんだと思う。 名乗り出ても、もしかしたら忘れられているかもしれない。 めんどうがられたり、うとまれたら、それなりに哀しいだろうけど、共通の時間を軸にお互い揉める事だってできる。 でも、忘れられていたらどうなる? 共通に過ごしたはずの時間が、否定されたらどうなる? それが、怖かったんだ。 とくに宮治はあの時物忘れが酷くなっていた。尚更、彼らは名乗り出るなんて事はできなかったのだろう。 「わかんない」 風香は拗ねたように吐き捨てると、唇を尖らせ缶コーヒーに手を伸ばした。二缶掴んで一つを伊太郎に差し出す。 両手で受け取ると、先まで冷えていた指先がジンジンとして、いたがゆかった。まるで、今の自分の気持ちのようだ。 伊太郎はじっとその指先を見つめる。 「でもね、僕も風香の意見には賛成なんだ。名乗り出てくれたら良かったのにと思ってる」 「でしょ? だって」 「宮治さんはきっと気づいていた」 風香の声を遮って、そのことを言うと、風香はその大きな目を何度か瞬かせてから、ふっと微笑んだ。 「そう。それ。宮じぃさ、しょっちゅう司さんのバイオリンの話、聞きたがったんだもん。私も、司さんにそれ毎回報告してたんだけどなぁ。宮じぃはどっかで勘付いてたんだよ。それで、待ってたんだと思う。重清と」 重清の件についても、彼はきっと気づいていた。いくら行き場がないからと言っても、施設の人間を全員引き取っていたら身が持たない。特に、重清は愛想がいいわけでも、何ができるわけでもない。 唯一の特技は家庭菜園くらいだ。 重清を引き取ったのは、やはり孫だったからじゃないだろうか。 「司さんが一緒に住むのなら、重清さんは?」 「柳のババァと一緒に住むんだってさ。ババァ、あぁ見えても顔が広いから。あ、顔がでかいって言う意味じゃなくて、知り合いが多いって言う意味ね」 「わかるよ」 「あはは。で、その知り合いに農家がいるから、重清はそこで働くって。親子の時間を取り戻すつもりらしいよ」 「そっかぁ」 あの日、叫んだ重清の言葉。 伊太郎は思い出して、彼もまた報われることを素直に嬉しく思った。 「アルバム。面白かったね」 風香が缶コーヒーを握りしめながら呟く。 小さな気泡がゆるゆる上がって、弾けた。そんな感じの声に、僕は目をそらしてただ頷く。 宮治さんの家で見たアルバム。 あの日、柳に言われて宮治の家にきた司が探しに来たのはこれだと、今日、聞かされた。 どうしてこれなのかわからない。でも、もしかしたら風香同様に『宮治の大切なもの』とでも言われたのかもしてない。そして、司が思ったのはこれだった。今際の際に必要なのは、遺言ではなく、記憶だと、思ったのかもしれないし、そうであってほしいと思ったのかもしれない。 「あれに、今度は三綾さんの写真も入るんだよね」 風香が寂しそう呟いた。 シスターの衣を脱いだ三綾は、司のとなりで幸せそうに微笑んでいた。愛する人とともに、恩のある人の世話が出来る。幸せだと。そう言っていたのを伊太郎も思い出し、切ない気持になる。 自分の母も、あんな風に思えたら、きっと幸せだったんだろうな。何が違ったんだろう。 「あぁ」 傍に誰かいるかいないかだ。 母は孤独だった。三綾は孤独ではない。 孤独、寂しさ、それは人を狂わせるんだろう。時に、怒りや憎しみ以上の力でもって。 「寂しい?」 風香の顔を覗き込む。 風香は今にも泣き出しそうなあやふやな顔で笑って口を噤んだ。きっと、声をだせば泣いてしまうからだ。 本当なら、ここで抱きよせてキスでもして、忘れろと言ってしまいたかった。そんな想像、正直、何度もした。 でも、実際、伊太郎が出来るのは……。 そっと風香の片手を缶コーヒーからもぎ取ると、毛布の中で温めるように握った。 風香は一瞬驚いたように身を固くしたが、すぐにその手を伊太郎にあずけ、自分の膝に蹲るように体の力を抜いた。 寂しさは、独りじゃない証拠だ。 誰かといた温もりを知っているから、不意に独りになった時の寒さに凍え、俯いてしまう。もし、ずっと本当に一人なら、一人を寂しいとはきっと思わないだろう。 孤独を感じるというのは、そういう事なんじゃないかと、伊太郎は思っていた。 親のない、本当に赤ん坊のころに捨てられた風香の孤独を、すっかりくみ取るほどの大きさは、まだ自分の手にはないけど、寂しさの切れ端をこうやって温めるくらいはできてもいいんじゃないか。 伊太郎はそう思った。 「温かいね」 風香が秘密を打ち明けるような声で言った。 伊太郎はただ頷いた。 風香の髪の香りがして、肩に重みを感じた。風香が寄りかかっているのがわかった。微かに耳をくすぐる呼吸が、眠そうだ。 「風香は、自分の親、恨んでる?」 風香の中にある寂しさはどれだけ深いのだろう。それはいつか柳達のように形を変えて彼女を飲みこみやしないか。伊太郎はそう思って訊いた。 しかし、風香はそれも曖昧に笑ってやり過ごした。 沈黙が津々と、冷たい夜に広がり、自分達の肌を凍らせようとする。しかし、毛布の下で繋がれた手は、凍る事はないと伊太郎は信じていた。 「伊太郎は、どうするの? 春から」 風香の声がわき出たように虚空に浮かんだ。 「うん。一応、受けたのは奨学金がもらえて寮のあるところ」 伊太郎は、施設を出ていくつもりだった。できれば、いずれは母とも住むつもりだ。まだ決めてないけど、高校が受かれば、面接で母に相談する予定だった。 もう、母が孤独でなくていいように。 でも、風香は……。伊太郎はまだ沢山のものを抱えられない自分の手の小ささを痛感しながら、風香を握る手に僅かに力を込めた。 「ふぅん」 「風香は? 受験してたよね」 「うん。もう、決めてるんだ。 私もたぶん……春に、は」 風香の声がとろんとしてくる。 そして、話し終える前に、風香は完全に夢の中に溶けて行ってしまった。 その寝顔を見ながら、伊太郎は力を抜いて壁によりかかる。その時、初めて自分が今まで必要以上に肩に力を入れていたのに気がつき、小さく苦笑いした。 彼女の寝息が隣りで聞こえる。 長い睫毛が傍で揺れている。 触れたい唇がすぐそこにある。 でも、伊太郎は目を瞑った。 そして心の中でそっと彼女に自分の気持ちを告げてみる。 当然、聞こえるはずも伝わるはずもない。 ヘタレだな。とそんな自分を罵りつつも少し誇りに思いながら、伊太郎も夢の中へと落ちて行った。 |
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「シスターってさ、結婚しないんじゃなかったっけ?」 というか、神父と牧師も宗派は違うし。 と伊太郎は心の中で肩をすくめる。そう、もともと空知は自分が嘘をついているのを自己紹介の時点で明かしていたのだ。自分と宮治に経営上の接点何かないのだと。 「三綾さんはシスターっていっても、まだ哲願だっけそれやってないんだって。つまり正式なもんじゃなくて見習いだったんだ。だから、ギリセーフなんじゃないの」 「納得いかないよ。っていうか、不意打ちよね。ありえない! だって、私が気がつかなかったんだよ。どうやってそんな……」 だから、僕らが知るのは世界のほんの断片でしかないんだって。 伊太郎は愚痴を続ける風香の背中に心の中でそう言った。 そう、司はもうすぐ結婚するのだ。今や元シスターになってしまった三綾と。確かに、彼らが付き合っているなんて誰も知らなかった。知らされ、彼女と一緒に宮治を世話していくと聞いた時、施設中がひっくり返った。 でも、伊太郎はどこかで「やっぱりね」と思った。 きっかけは、あの事件の時、宮治の様子を見に行くのに司が連れて行ったのが他でもなく、彼女だった事だ。 顔を合わせられない自分の代わりに面会を頼む相手。それはある程度の事情を知っている近しい人物でないとできないはずだ。 伊太郎は正直、共犯者は柳か彼女だと思っていて、柳にあぁは言ったものの、病院で柳の顔を見るまではどちらかの確証は持っていなかった。 で、三綾は共犯でないとすると……。 司が彼女がいないと、嘘をつき通していたのも彼女の立場を考えれば納得できる。 ま、こんな話、風香にすれば「どうして教えてくれなかったの」とそれこそ一晩中責められそうだから、絶対に話さないけど。 これはこれでいいんじゃないかと思う。 司の、あの『人に劣等感を与える容姿』も妻を持つことで、若干なりとその罪の色を薄くすることができるかもしれない。 そうこうしているうち、風香は買い物かごいっぱいにお菓子や飲み物、カイロまで詰め込んでレジに向かってしまった。 「何だよ。こんなに買い込んで」 「今日はさ、付き合ってよ。おごってあげるからさ」 なるほど、失恋に付き合えと言うのか。 外は死ぬほど寒そうだった。 一晩外にいたらきっと、朝には二人とも凍死体で発見されることになる。それでも、泣くのを堪え、いつもの舌も回せない風香の固い横顔をに、伊太郎は断りの言葉を投げつけるなんて事はできなかった。 ま、その時は空知神父に愚痴でも聞いて貰うかな。伊太郎は自分でも面白くないと思う冗談に舌を出すと 「わかったよ」 と頷いた。 風香はそれから乱暴にそのコンビニ袋を自転車の前かごに突っ込むと、再びペダルをこぎ出した。 こんな時間に中学生が凍死せずにいられる場所なんかないんじゃないかと言う伊太郎の心配は、杞憂に終わった。 風香が向かったの港の方だった。 風香はなれた様子で港に続くスロープを降り、崩れそうな小屋の前で自転車を止めた。 「ここ、誰も使ってないから」 風香の隠れ家なのかな? 本当に、僕は物事の断片しか知らないんだ。 そんな事を実感しながら伊太郎は風香について小屋のドアをくぐった。 外壁は木造だが、屋根はトタンでできていた。海の生臭さと鉄の錆びた匂いが夜気に交ざり合っていて、けっして居心地のいい空間とも、ましてや女の子の秘密のお部屋というった雰囲気もなかったが、伊太郎はそれなりに緊張して小屋の中を見回した。 「もともと宮じぃの小屋なんだ。釣りが趣味でさ。そこらへんのは皆宮じぃの釣り道具」 風香が小屋の真ん中につるされた裸電球を灯し、小さな電気ストーブを付ける。 古い手漕ぎボートが立て掛けられていて、その周りに釣りざおやバケツが無造作に転がっている。 壁にはゴムでできた漁師が来ているようなつなぎまで掛けられている。 もう、二度と持ち主が現れないことを知っているかのように、それらは薄暗い部屋に色褪せて見えた。 「毛布は一枚しかないんだけど、いいよね。ってか、カイロもあるし、ストーブもあるし、やってけるかな」 「十分なんじゃない」 風香はまるで小さな子が草はらに作った秘密基地で遊んでいるかのような、無邪気さだ。妙に緊張する自分の方が伊太郎は恥ずかしい気もしたし、何にも感じない様子の風香にも少し腹が立った。 仮にも二人っきりなんだぞ。 毛布が一枚なんだぞ。 夜中に抜け出してるんだぞ。 そんな特別な事が、風香には気にならないんだろうか? 伊太郎は彼女が支度を終えるのを壁を背にしてじっと待った。 風香は菓子類を並べ、ようやく落ち着いたのか、当然のように伊太郎の隣に座り、一枚の毛布で自分と伊太郎の体を覆う。 向かいにある電気ストーブの朱色が風香の肌を照らしていた。 コトリ 卵一つ分くらいのしこりが伊太郎の胸の中で音を立てる。 しばらく風香はそうしないといけないとでも言うような、真剣な顔で唇を結ぶと、じっと自分の足元を見つめていた。 |
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季節はあの日から冬を越え、春に差し掛かろうとしていた。 伊太郎は国道沿いのあの道を、風香と自転車で走っていた。宮治が退院し、新しい生活が始まるのを祝うために尋ねていたのだ。 思いがけず長居をしてしまい、時刻はとっくに門限を過ぎて夜中といえる時間に差し掛かっていた。泊って行くように引き留められたが、風香が帰ると言ってきかなくて、今、こうやって白い息を飛ばしながらペダルを漕ぐはめになっている。 まだまだ冬の気配が色濃く残る風は海のそばと言うのも相まって、身を切るように冷たかった。 伊太郎はあの日、宮治の告白を受けてから風香と一緒に病室を後にした。 なんだか脱力してしまい、二人で病院のロビーで缶コーヒーを飲みながらぼんやりしていると、晴美達が女性を一人従えてやって来た。 服装が変わっていたのでわからなかったが、よく見るとあの病室にいた看護師だった。 三人は伊太郎と風香に「お疲れ様」と声をかけると、食事に誘ってくれた。 昼もろくに食べずにいた伊太郎と、元来食い意地の張っている風香は一にもなくその誘いに乗った。 連れて行かれたのは、近くの洋食屋だった。 斜めに差し込んでいる陽が、自分達の呆けていた時間の長さを教えていた。夕食が入らなくなるという心配は、成長期の二人にはなかったので遠慮なくご馳走になる事にした。 それにしても、気になるのが、この看護師と依頼についてだ。 彼らがもう、まともと言っては少々失礼だが、非日常的な目的で行動しているのは明らかだった。この看護師はもしかしたら仲間かなにかで、あのモニターを操作していたのかもしれない。 つまり、宮治の心停止はダミー。 そんな事を考えてオムライスを口に運ぶ伊太郎に、晴美は「大当たり」といって微笑みかけた。 もはや、伊太郎は彼女が心の声を聴ける能力の持ち主だという事に、確信を持っていたので、心の中で「やっぱりね」と返す。 その反応が晴美は気に行ったのか、嬉しそうに目を細め「モニターはベッドの下に隠れていた空知神父につけていたんですよ」と種明かしをするようにそっと告げた。 その一言が逆に伊太郎を混乱させたが、神父の方を見ても、偽看護師の方を見ても教えてくれそうにはなかった。でも、晴美に特殊な能力があるというのなら、彼らに何かしらの能力があってもおかしくないのかもしれない。 「ね? 何の話?」 風香が二皿目のスパゲティいを平らげて口を拭きながら聞いてきた。食べている時は大人しい彼女も、食事が終わればその口はまた、お喋りの為に動き出す。 伊太郎は説明が面倒で「別に。デザート頼めば?」とおごりであるのにも関わらずそう言ってみた。真に受けた風香は無遠慮にメニューを捲り始める。 伊太郎はスミマセンと、神父に視線を投げながら、口には違う言葉を乗せた。 「あの、どうしても気になるんですけど」 能力の事も聞きたいが、一番は依頼人と依頼内容だった。 謎が結局自分の推理の他の所で帰結したのが少し悔しくも、なんだかしっくりこなくもあったからだ。ならば、せめて解法を自分にもわかるように説明してもらいたかった。 神父は頷き。 「依頼はお二人。宮治さんの奥さんと、司さんのお母様からです」 「は?どっちもいないじゃない」 風香が顔を上げる。しかし、神父はまた頷き。 「私達は、そう言った方々から依頼を受けるのを仕事にしているのです」 そう言った。死者からの依頼。きっと神父という職業の人間が言わなければ、簡単には信じられなかったかもしれない。いや、仮に神父だとしても、以前なら笑い飛ばしただろう。 でも、伊太郎にはこの説明で、全てがすっきりした気がした。 伊太郎は無神論者であると同時に、幽霊だの死後の世界だの信じた事はない。でも、ここではそれがあると仮定する。 宮治の妻、つまり後妻は夫が罪を抱えて生きていくのをずっと見ていた。罪は、告白通り、家族を裏切った罪と伊太郎の母親の犯罪を見逃した罪だ。痴呆でその罪を忘れて、赦しを得られる機会がなくなるのを、たぶん一番恐れていたのは宮治自身だ。だから、彼の代弁を彼の亡き妻が果たした。 司の母親については、遺言状だ。妹と息子が遺言状に気がつかず、犯罪に関わろうとしている。きっと生きていれば、いずれは話したであろうバイオリンケースの秘密を話せずに事故で他界してしまった彼女は、そのことを伝えてほしかったのかもしれない。 全ては、想像だし、信じ難いけどね。 伊太郎は肩をすくめながら晴美の方を「こんな感じでどうですか?」と見る。自分でも声にしたのかしなかったのかわからない。 でも、晴美は「また大あたりよ」と快く頷いた。 一方、デザートをちゃっかり注文し終えた風香は「なにそれ〜」と面白がって三人の顔を覗き込んでいる。 「じゃ、幽霊の願いをかなえるのが仕事?」 「亡くなった方だけでなく、声を上げたくても上げられない人の代弁が仕事です」 「へ〜。面白そうじゃん」 どこをどう、面白いと思ったのか、伊太郎には分からなかったが、今や三人の興味が風香に向いているのはわかった。 晴美がずっと沈黙していた偽看護師に目くばせする。 偽看護師が頷く。 晴美は確認するように風香に問うた。 「貴女、一度死にかけた事、あるわね」 「は?私が?」 ありますとも。 伊太郎は代わりに答える。ただし心の中で。 口にすれば風香は誰に殺されかけたか知る事になるかもしれない。それは不必要な事に思われた。 晴美は伊太郎のその声を聞いたらしく、伊太郎の方を見ると一度頷いて、再び風香の方を見た。 「もし、貴女が私達の仕事に興味があるのなら、一度いらっしゃいな。うちに」 「え? いいの?」 風香の顔がぱっと輝く。 晴美は頷く。 伊太郎は思い出す。宮治の意識を取り戻させたあの風香の掌の光を。 もしかしたら、風香も……。 そうして、季節は過ぎた。 伊太郎は少しずつ、殺人者、しかも身内殺しの息子であるという現実を受け入れ始めていた。 警察の追及が自分に及ばなかったのは、事件当時すでに施設に入れられており、警察の伊太郎への面会を宮治が頑なに拒否していたからとういのも、母親がすぐに罪を認め、控訴もせず、求刑通りの罰を受け入れ裁判がすぐに終結したという事も、父は離婚し3年前に再婚し別の家庭を持っているという事も……。 窓際で外を眺めていただけの少年の目に映らなかった現実は、遺産相続よりもいともたやすく調べる事が出来た。 母は宮治の言うとおり、春には執行猶予つきで出所するそうだ。一緒に住むかどうかは決めていないけど、高校受験の結果がもうすぐ出る。そしたらその報告がてら面会くらいはしに行こうと考えていた。 「ね〜。ちょっと付き合ってくれない?」 風香がそう言うと、伊太郎の返事も聞かずハンドルを繰って横道にそれた。国道沿いにあるコンビニに滑り込み、自転車を止める。 「なに? 買い物?」 「うん。ちょっと」 風香は珍しく言葉少なに返事すると、さっさといつ来ても変わり映えのない空間へと先に身を投じてしまった。 落ち込んでいるんだろうな。 伊太郎はその背中について行く。 宮治はあの後、あの告白が嘘のように再び意識レベルを落とした。麻痺も今度は嚥下機能にまで及び、呂律も回らない状態だ。痴呆も酷く、一日中ぼんやりといった感じだ。 もう、風香の事も覚えていない。 覚えているのは同居を決めた、司の事と柳や重清の事くらいだ。 あの時の光は、やはり風香の起こした奇跡だったのかもしれない。 風香も、晴美達の様な能力が……そうでなければ説明はつかなかった。 非現実的な事象に回答を求めるのは、いささか不本意だったが、自分の知っている現実なんて、世界のほんの断片でしかないことは母親の件で思い知った。 こう言う事もあってもいいかもしれない。 それに、何より、今、風香を落ち込ませているのはこれだけじゃないのだ。 |
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まさに忽然と現れた彼に、二人は目を見張る。 「!?いつからここに!?」 「初めからですよ」 神父はそんな事は重要ではないと言わんばかりに、飄々とそういってのける。伊太郎の背を軽く押す。 「晴美さんが君をここに連れて来たのは偶然でも、成り行きでもないんですよ。君は第三者じゃない」 「は?」 さっぱりわからない。自分の家族は正真正銘、ちゃんといる。宮治の親族であるわけがない。じゃ、何? 頭の中に疑問符が次々に浮かんで飽和状態になりそうだった。そんな伊太郎を、神父はベッドサイドに固まっていた三人をかき分けてまで宮治の傍に連れて行った。 「ありがとうございます」 宮治の言葉に、神父は首を横に振り「すべては神の思し召しです」と答える。 老人は深く頷くと、伊太郎を見上げる。 「伊太郎君」 その目には、昨日、彼にあった時に見た、憐れみが今も見て取れ、伊太郎は不快に目を反らす。 「私は、君にも謝らないといけない」 宮治はしわがれた声でそう言う。でも、伊太郎には本当に心当たりがなく、どう答えていいのかわからなかった。 自分に謝る?このゴタゴタに巻き込んだ事なら、自分より風香に謝るべきだ。 伊太郎は眉を寄せると「何のことですか」と口の中で呟くように言った。 宮治はそんな少年の横顔を見つめると、言葉を選ぶ余地がないことを観念したのか、ため息交じりに彼の問いに、こう答えたのだった。 「君のお母さんの事だよ」 伊太郎は顔を跳ね上げ宮治を見つめる。 母親の事!? 3年したら迎えに来ると言って、5年経った今も連絡一つよこさない母と宮治になんのつながりがあったというのか。 混乱した。 全く心当たりもなければ、推測する情報もない。 知識も何も役には立たない。 伊太郎は老人を見つめると、息をのんで次の言葉を待った。 宮治は目を細め、伊太郎を労わるように静かに続ける。まるでそれはこれから話すことの覚悟を、伊太郎にさせるような口調だった。 「きっと、春には、迎えに来ると思う。でも、君には厳しい現実が待っているかもしれない」 厳しい現実? 振り返り、伊太郎は説明を求めるように風香や神父、晴美を見る。 しかし風香は首をかしげ、他の二人は宮治からきけといわんばかりに口を閉ざしてなんの反応も示そうとはしなかった。 柳達も同じ態度だ。 伊太郎はしかたく再び視線を宮治に戻した。 宮治は伊太郎をあの目でじっと見る。 言いあぐねる理由が声を奪っているかのようだ。しかし、その閊えはため息にやがて変わり吐き出され、ようやく宮治は伊太郎に向けた言葉を彼に差し出した。 「君のお母さんはね」 宮治の声が澱み、そして静かに告げる。 「今は服役中なんだ。そして、君のお祖母さんはもう……」 「母さんが……」 全てが語られずとも、伊太郎は全てを察した。 強い風の中に立つようにギュッと目を瞑り、俯く。 言いようのない胸の苦しさに息が詰まる。が、驚きはなかった。そう、哀しいほど伊太郎は驚かなかったのだ。 なぜなら、この事はどこかで予想していたから。 まだ中学生の伊太郎が、脳梗塞や遺言の知識を持つようになった、そのきっかけ。それは単なる興味ではなく、必要だと思ったからだった。 調べ始めたのはそう、約束の3年が過ぎ始めた頃だった。 遠い遠い記憶の中に、何かしら勘が囁きかけるものがあったのかもしれない。 「私は。君のお母さんが君を預けに来た時、お婆さんを手にかけるかもしれないと感じていた。彼女の覚悟も感じていた。でも、止められなかった」 「ええ。わかります。なんとなく」 「どういう事?」 風香が棘のある言葉で伊太郎を射抜く。伊太郎は他人の身で宮治を世話していた風香の顔を、見る事が出来ない。 家族だからこそ許せることと 家族だからこそ許せないこと 晴美はさっき言った。 他人だからできるのかもしれない 確かに、そう言う事はあるだろう。 「僕の祖母もね、脳梗塞で寝たきりだったんだ」 伊太郎の祖母は、宮治と同様に脳梗塞で倒れ、麻痺や痴呆を抱える身だった。宮治と違うのは、それがさらに重度でその世話をするのが嫁という名の他人だった事だ。 仕事を理由に壊れゆく母親から逃げていた父親の分まで、母は献身的に尽くしていた。 しかし、痴呆は日に日に酷くなり、人格が変わっていく祖母に辛く当られる毎日だった。罵られ、暴力を振るわれ、食事や便尿をまき散らされ……。 10歳の伊太郎が見ても理不尽と思うのだから、きっと実際はそれ以上の状況だったのだろう。 そんな記憶があるから、風香が宮治の世話に行っているのは気が知れなかった。家族でもあんな苛酷で辛いもの、よく引き受けるなと。 自分ならできない。そう思っていた。 ここに預けられた時、理由は知らされなかった。始めは本当に分からず、置いて行かれた事に混乱した。 しかし、少しずつ大人になっていくうち、母は育児と介護の両立が出来なくなったのではないか。そう思うようになった。 だから、せめて、母の何らかの力になれるようにと祖母の病気を調べ、何らかの形で報われればいいなと遺言や相続の事を調べ上げたのだ。 自分は他の子どもたちとは違う。いつか必ず母が迎えに来る。 だから、その時はもうお荷物の子どもなんかじゃなく、母を助けられる家族になっていよう。 ずっと迎えをそうして待っていた。 でも、今、宮治から事を聞かされても、驚かなかったって事は、自分はどこかで予感していたのかもしれないな。気づいても気づかないふりをしたのは、母の為じゃない。自分が傷つきたくなかったからだ。 伊太郎はふと力を抜くと、現実と向き合うように目を開けて宮治を見つめた。 「それで、母の服役中の間も、僕は施設にいる事になったんですね」 「すまなかった。伊太郎君」 「話してくれて、ありがとうございました」 そういう伊太郎に宮治は、ようやくほっとした顔を見せた。 胸の内に秘められた罪は、他人が思うよりずっと本人を苦しめ続けるものなのかもしれない。 それを宮治は今、痴呆という形で忘れ、許される機会を永遠に失うその前に告白できたのだ。 神父がそこに進み出て来た。彼は先ほどの伊太郎と同様にひざまづき、宮治の手を取る。 神父は低く柔らかな声で罪を形にする。 「宮治牧師の罪は、家族を捨てたこと。伊太郎くんの母親の罪を止められなかった事」 そして罪は今、本人につきつけられ、その過ちを認められる。 神父はそんな告白を終えた咎人に、雪解けを誘う春の陽光のような笑みを、向け、そして厳かな口調でこう告げた。 「しかし、今、全ての告白は聞き届けられ、罪は神の元に赦されました」 罪を察していて止めなかったのも罪。 それが相手を想うからこその事だとしても。 なら、僕も、司さんもみんな同じ罪だ。僕も、告白しないといけなくなる。 伊太郎は正しい、間違っているその二色だけでは塗り分けられないこの現実に長い溜息をついた。 そんな少年の肩に、そっと手が添えられた。 見ると、晴美だった。 晴美はまたもや、伊太郎の心中の言葉をくみ取ったかと言うように頷くと、こう耳打ちした。 「アナタの告白も聞き届けましたよ」 と。 |




