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「ま、舞。どうして」 彼、拓は驚きの表情で私を見つめている。 そうだ、ここが私の居場所。私が生きる場所。 私が望み、選ぶ生き方だ。 主人の母親は顔をしかめてその手を拭っていたが、私達が身を寄せ合う姿を見ると、結んでいた眉間を解いた。 お兄ちゃんは酷く寂しそうな顔をしていたけど、ふっと息を吐くと「舞ちゃん、大人になったんだね。舞ちゃんの幸せを見届けられて、良かったよ。お幸せに」そう、言葉を零した。 お兄ちゃんの吐息が、ゆるゆると震えながら天に昇っていき、お兄ちゃんは主人に再び別の場所へと連れられて行った。 そして、私が拓と生きると決めてから7つ目の夜、拓は静かに目を閉じた。 拓が窓から見える、まぁるい月にむかって浮かんでいく。 私は青白い月明かりの下、それを見つめながら微笑んだ。 サヨナラは言わない。 だって……。 私は自分の帯の先に目を向ける。 変色し、少し欠け始めてもいた。 私も、すぐにアナタの元に……。 瞳を閉じる。 暗闇が見えた。 でも、少しも怖くなかった。 私は生きた。だから……。 身が軽くなる。 月明かりに導かれるように、私の身体が宙に浮く。 そっと、目を開いた。 拓が、闇の向こうの光の中で私を待っているのが、見えた。 「ママ〜。金吾と林檎が〜」 水槽に浮かぶ二匹の金魚。 母親は息子の泣き顔を見ながら、寄り添うように水面に浮かんだその二匹を見つめ、目を細めた。 赤い尾びれが、水面に煌めく朝日を撫でるように揺らめいていた。 |
赤の一族
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金吾はそんな私をしばらく黙って眺めていたけど、いつものように額を撫でてくれると、子守唄のようにこう言った。 金吾の優しさも、金吾の強さも。 振り向く。 お兄ちゃんが嬉しげにこちらを見つめている。 向こうに行けば、きっと、幸せだ。 ずっとずっと好きだった、お兄ちゃんのお嫁さんになれる。夢がかなうのだから。 ここにいたって、年老いた病魔に侵された彼の苦しむ姿をただただ眺めることしかできない。もしかしたら、この病気がうつる事もあるかもしれない。 第一、私達の一族が、主に逆らう事なんかできるだろうか? 主はもう、私をここから出す事を決めている。 私達は一生、囲いの中。宿命を果たす、それこそが誇り。 金吾が小さく遠くなっていく。 私は首を傾げる。そんな私に、金吾はこう言った。 あの時のように息苦しくなリ、私は身を捻じる。 どうして、最後の最後に本当の名を教えてくれたんだろう。 私は運ばれながら考えた。 本当の名前。自分の名前。与えられたものではなく、己の……。 本当に、私達は選べないのか? 本当に、私達は宿命に従うしかないのか? 与えられるだけの一生 それはあの濁った瞳達と一緒じゃないか。 選べない、選ばない。 望まない、望めない。 どうしようともしない。 それじゃ生きていても、死んだようなものなんじゃないか? 拓は、そう言ってたじゃない。 自分で望んで、選んだ。だからこそ生きることができたって。 拓は拓でいたかったのだ。 長い間、誰からも与えられた名前でしか呼ばれなくとも、どこにも行けない、何にもなれない場所だったとしても、自分が自分でいたかった。 だから、名前を忘れなかった。 だから、私の本当の名前を教えてくれた。 自分で自分の命を生きたい! 私が望み、選んだ場所で! 私は思いっきり体をくねらせた。 胸の中が破裂しそうだった。 寒さが体中を乾かし、痛みを刺し込んできた。 それでも、それでも。 主達が騒ぐ声がする。 私は何度も自分の手足を主の母親の手に叩きつけると、5度目に、大きく跳躍した。 そして、飛び込んだ。 自分の生きる場所へと。 |
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お兄ちゃんはまだ別の囲いに入れられたままだったけど、私と目が合うとその際まで駆け寄り、身を寄せた。 お兄ちゃんが、私の事を? ううん。きっと本当だ。こんな危険な事をしてまで追いかけて来てくれていた。私と一緒にいる、ただそれだけの為に。 大好きで、あんなに恋しかったお兄ちゃんが……。 私の夢は……。 お兄ちゃんの方を見た。お兄ちゃんは嬉しそうにその帯をはためかせ、私を迎え入れるように腕を広げて待っている。 諦めていた私の夢。 宿命に縛られ、一生この囲いの中に閉じこめられながら、自らの選択を許されない、そんな時の中で、私は私の夢を……。 今でも、痛いのが、顔に出ていなくても声になっていなくても、もうわかる。 そして、おそらく、金吾はこの突然の再会を私の為に、本当に祝ってくれているのであろう事も。 「でも」 独りぼっちの暗い夜。 あの、濁った瞳がひたひたと迫りくる闇の中で、痛みと苦しみに1人で耐えさせられるわけがない。 「泣くな。最後まで、いつもみたいにこ憎たらしく笑ってろ」 金吾の温もりが、涙を拭っていく。 わからないよ。死ぬのは怖い、怖いよ。 誰にも選ばれず、何にも選べず、死に行ったあのどろんと淀んだ瞳が闇の向こうから覗いているような気がして……そんな瞳が金吾を連れて行くような気がして、私は怖かった。そう、哀しいんじゃない、怖いのだ。 でも、それを伝えたくても言葉にならず、喉を鳴らすのは嗚咽ばかりで、私はただただ駄々をこねる子どものように首を横に振った。 |
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金吾の傍は、意外に居心地が良かった。 お兄ちゃんみたいな優しさもなければ、お姉さま方みたいな包容力もないけれど、金吾は金吾にしかない空気を持っていた。 夜は必ず私より後に眠ってくれたし、名前を呼べば必ず返事をしてくれた。食事も私が好きなのは分けてくれたし、私の身の上も黙って聞いてくれた。 「お前、そのお兄ちゃんとやらに惚れてたんじゃねぇのか?」 金吾が言う。私は最近夜になっても金吾の事ばかりでお兄ちゃんの事を思いださなくなったことに気がつき、不思議な気持ちで金吾を見つめ返した。 「ですね。だって、金吾さんよりずっとかっこよかったし、若かったもん」 「不細工なじじぃで悪かったな」 「不細工なじじぃで我慢してあげますよ」 そこで、目があう。思わず私は吹き出し、金吾は苦笑いに目をそらした。 やり取りはそんな風な悪態の応酬がほとんどだったけど、金吾の不器用な優しさ、私は嫌いじゃなかった。 足先の変色がどんどんと体の方まで上がって来ていたのだ。 金吾が痛みにうめくことも多くなって来て、そんな時、さすることしかできない自分が悔しかった。 よく見ると、もう先の方はちりじりになって、形がない。他の部分も変色している所はもろくて、下手なさすり方だとそれだけで崩れてしまう。 金吾は呻きながら、私の方をちらりと見た。 私はその目に応えながら、微笑んで見せ こんな金吾を見ているのも、救えないのも、毎日が辛かった。 毎晩眠るたびに、朝には金吾がいないんじゃないかって不安になった。でも、金吾は必ず、その不安を知っているかのように、じっと私の方をみて「おやすみ」と私を額を撫でてくれるのだ。 だから、私も信じたかった。 まだ、彼との時間がここにあるのだと。 ここ数日、金吾は食事もあまり口にしなくなっていた。 それでも、私は一緒にいれば、一かけらでも口に含んでくれるのではないか、そんな風に思って、食事を受け取った時だった。主人が急に顔をくもらせ、母親を呼んだのは。 確かに、金吾の状態は良くなかった。主人が食事を運んで来ても、受け取りに行く元気もなかった。でも、でも、金吾は、まだ……。 私は食事を食べるのも忘れて、呆然としていた。 そうしている間に、主人は何やら手に誰かを携え戻ってきた。 |
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その夜、私は部屋の隅でじっとしながら考えた。 拭っても拭っても、最後に見た足を引きずる金吾の後姿が消えてくれなかった。 じっと耳を澄まし、何の音も聞こえない事に焦りを感じ、金吾の呼吸をどうにかして感じ取れやしないかとも思った。 金吾が、いなくなる? 目を開ける。 闇に眼を凝らす。 でも、そこにはただただ目を瞑った時と同じ深さの暗闇があるだけで……。 近寄れば逃げたり手を挙げた。 もう一度、闇に眼を凝らす。 今度は金吾の寝息を見た、気がした。 それに少しホッとして、体の力を抜く。 金吾は、私がここに来るまでずっと、この夜を独りで過ごしてきたんだ。 ずっと、ずっと、あの年になるまで、独りぼっちで……。そして、最期の時すらも、独りになろうとしている。 金吾の後姿 名を忘れるなと言った時の優しい目 ……一緒にいよう。いつまでいられるかわからないけど、最期のその時まで。 私は決めた。 だって、曲がりなりにも私は彼の奥さんなのだ。それに、なにより……。 闇に眼を凝らす。 『独りぼっち』はいやだから。 私は明るくなると同時に金吾を探し、その寝顔に声をかけた。 金吾は驚き、目を剥いて私を凝視する。 「何だ、お前」 「一緒に、ごはん食べようかと思いまして」 とりあえず、精一杯可愛い顔を作って微笑んでみせる。しかし、金吾は案の定というか、いつものことと言うか、思いっきり渋い顔をして 「あっちへ行け」 と私を追い払おうとした。 「昨日言っただろ、お前は馬鹿か」 そう、聞いた。だから、なのに。 私はその腕に絡みつくと、わざと金吾の顔に自分の顔を寄せてにまっと笑った。 「知ってます?私、金吾さんのお嫁さんなんですよ」 金吾がはなじろむ。 「ばっ、馬鹿! その事は始めに……」 その時だった 「食事の時間だよ〜」 主人の声がした。 二人で顔を上げると、主人方も私達の様子に気がついたらしく、「へぇ」と唇をすぼめ目を細めた。 「ついに仲良くなったんだね〜。これは、子どもが楽しみだ」 そう言って、いつものように食事をくれた。 私は金吾の腕を掴んだまま、肘でつつき 「だって。何か、照れません?」 そう言ってみた。金吾は思いっきりむくれると、力任せに私の腕を解き 「好きにしろ。しらねぇからな。この馬鹿が」 私に背を向けて食事を始めた。 その背中を見つめながら、私は少しだけこの背中は案外そんなに遠い場所にあるんじゃないんじゃないかと感じ始めていた。 |




