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「俺がアホやった」 川の流れは、二匹の化け狐をなじる様に横殴りにその身を打ったが、権はそれをわたりきると、ゆっくりとあの大木まで進んだ。 そして、大木の根元に来るころには、権の体からはすっかりあの青白い火は消え去っていた。 視線をそのほうへ向けると、彼岸花だ。 真っ赤な血の色のその花は、仲間が来たと喜んでいるように見えた。 そっと柔らかなコケの上にハナを下ろす。 もう、決して開くことのない、その瞳の上に、一粒の雫が落ちた。 自分の涙だと、権が気がついたとき、ハナの体があの青白い炎に輝きだした。 それは先ほどとは違い、優しい色をしていた。揺らめきながら、傷ついた小狐の体を労わるように広がっていく。 そして、全てを覆ったとき、ハナの姿が光の中で形を変えた。 小さな、小さな、愛らしい紅い花が、そこにはあった。 権は息を殺し、その花に身を寄せた。ハナの、軽やかな笑い声が聞こえた気がした。 自分を七夕にたとえ、己の命を懸けてまで、自分と人間との恋をかなえさせようとした、健気なハナのあの声が。 いっせいに他の彼岸花たちが笑った。 仲間が来た。 仲間が来た。 人間に騙され無駄死にした馬鹿な小狐の魂が、彼岸花になった。 花たちが怯え震える。 しかし、権はかまわず、ハナの一番傍にあった彼岸花から引っこ抜いて食った。 これで死ねるのなら、本望だ。 永遠の死に縛られた者たちが受ける、更なる苦痛に森が、夜が、闇が、全てが泣き叫ぶ。 そして、権は、ハナ以外の彼岸花を全部喰ってしまった。 二人の周りには無残に食い散らかされた彼岸花の真っ赤な花弁が、血飛沫のように飛び散っている。 森の生き物たちの、権の凶行を息を潜めて見守る気配は感じたが、かまわず権は脱力しぼんやりと天を仰いだ。 皮肉にも、そこには天の川が輝いており、振るような星々が瞬いていた。 俺がアホやった。 川を渡ることばっか考えて、傍におる、お前を見過ごしててんなぁ。 ほんま、ごめんな。 俺、これからはここにずっと、おるから。 せやから、ずっと、ずっと一緒におろうな。 ハナ……。 その死を悼むように、青白い炎が権の体を包み、くるんでいく。 いつの間にか日はすっかり落ちていた。 祖母の車椅子の傍らに座って聞いていた私の目の前の工事は、話の途中で今日の作業を終えた。今は森に食い込むような形で削り取られたむき出しの土の上に、重機が彫刻のような姿で置き去りにされており、それすらも夜の闇に侵食されつつある。 私はなぜか祖母の顔を見ることができず、鳩尾の辺りに重苦しくのしかかるものを隠すように、もう影だけになった真っ黒な川を見つめたまま尋ねた。 「結局、その二人はどうなったの?」 祖母のため息が聞こえる。 「今も、けして枯れることのない狐花になって、天上の川を見つめながら森の奥深くで一緒にいるそうだよ」 そっと、視線をあげて夜空を見上げた。 漆黒に散らばった無数の星々の、その中には彼らはいない。 真っ暗な、あとわずかで人間の、そう、彼らを悲運の最期に導いた人間の勝手で滅ぼされる森の奥で、どこにも行けぬまま、この空を見つめているというのか。 どんな、想いだろう。 「さて、帰ろう。こんなに遅くなってしまって、皆が心配してるといけない」 「あ、うん」 私は慌てて立ち上がると、草を払い車椅子のハンドルに手をかけた。 ただの昔話というのに、やるせない想いが足を重くさせる。 「ねぇ、狐花のほかの呼び名を知ってるかい?」 川沿いの道を再び歩き出したとき、祖母が不意にそういった。私は知らないと答えると、祖母はもう真っ黒な影の山となっている森のほうへ視線を移し、まるで華になった二匹に語りかけるようにこういった。 「相思華」 「え?」 「花と葉が同時に出るから、花は葉を思い、葉は花を思う……想うはあなた一人ってね」 祖母は小さなため息をつくと、再び天を仰いだ。 私もつられて視線をあげる。 ハナが想い続けたその気持ち。権が守りたかったもの。それらはもう、形としては残らないかもしれない。でも、天上の星のように、彼らの想いはきっと、悠久の時のなかで輝き続けるのだろう。 夏の風が通り過ぎていく。 背の高くなった草を揺らし、森の木々たちをなぜていく。 虫の音が聞こえ始めた。 私は、もし、数年後ここがすっかりこの姿を失ったとしても、この森がここにあったことを忘れずにいよう。闇の中で寄り添う二輪の紅い花を想いながら、そう誓った。 |
曼珠沙華の祈り
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ハナの名を叫んだ己の声が、人間のものだったのか、それとも狐のものだったのかはわからない。 ただただ、権は自分の目の前で尽きてしまった妹の亡骸にすがりつきながら、その命を奪った銃口を睨みあげるしかなかった。 与平は自身の着物を引き裂き、荒っぽく自分の腕にそれを巻きながら いや、実際、与平にとって獣の命なんぞ、その程度なのだろう。 悪戯に命をもてあそび、己の欲のためには殺すこともいとわぬのだ。 許せない。この人間だけは、絶対に。 もう、銃を川に流すだけでは飽き足りぬ。他にもこんな風に銃を使う人間がいるのなら、こいつらを見せしめに殺してやる。 飛び掛ろうと、いっそう身を低くしたとき、砂利のはぜる音がした。 男たちと自分の間に小さな影が躍り出る。 やっぱり、結は……そう力を抜きかけた権の耳に、無慈悲な風が通り抜けたのは次の瞬間だった。 天に星が瞬き始め、一番星が涙を流すような輝きを見せたときだ。 それはいつもと変わらぬ、優しく美しい顔だ。しかし、その口から発せられる言葉は、とうてい権の理解できぬものだった。 権は必死に自分の命乞いをする結を見つめた。 結に悪気がないのはわかるつもりではあった。彼女にすれば、そうであろう。肝が手に入りさえすればよいのだから……。 でも、それは、裏を返せば、やはり人間の勝手ではないのか? ここに来るまで、自分は自ら命を彼女に差し出すつもりだった。だからなんとも思いはしなかった。しかし、無関係のハナの命が奪われ、己の命が見逃されようとしている今、見えてしまったのだ。 結も与平と同じなのだということが。 父の命を救いたいのではない、己が与平の嫁になりたくないばかりに、他の命を奪おうとしているのだ。 命を奪わずとも助ける方法はあった。その方法を選ばなかったことがその証だ。 結は、己の願望と獣の命を秤にかけ、導き出した答えが、己の欲だったのだ。 それは、己の欲のために命を奪う与平と似たようなものだといえるんじゃないのか。 浅ましく、自分勝手で、傲慢な……人間の欲望。 何事かと顔を上げると、与平だ。 与平は必死な結と権を見つめると、口の端を思い切り吊り上げ、こちらの心中をまるでぐちゃぐちゃにかき回さんかのような口調でこういった 与平の顔が大きくうれしげに歪む。 体中の毛という毛が逆立ち、駆け巡る血が熱く煮えたぎり逆行する。胸がはちきれんほどの痛みを覚え、憎しみがどす黒い粘着質なものとなって、噴出しそうだ。 ハナは、ハナは……こんな、人間に。 人間たちがたじろぐ。権が寄る。 山からの風が吹き降ろした。 森が啼く。 炎となった権の体が大きく前へ跳躍した。 ハナの額を打ち抜いた男に向け一直線に飛び掛り、鋭いその牙で喉元を食いちぎり、その炎は男の頭部に燃えうつった。 断末魔のような悲鳴が上がり、男は肉の焦げる臭いを振りまきながら倒れた。 全ては瞬く間の出来事であった。 権は着地すると、そのまま、すっかり仲間の様子に腰を抜かしている与平のもとへとにじり寄る。 権は憤り、与平の着物の裾を踏みつけた。裾の先から炎が移り、与平はわたわたと手で振り払おうとする。 しかし、その炎は権の怒りと哀しみを代弁するかの如く、与平にまとわりつくと、余計にその口を大きく開け、舌を伸ばし与平を飲み込む。 肉と髪の焦げるにおいがし始めた。 「た、た、頼む! 薬なら、ほら、やる! 結にも手は出さへん! 約束するから!!!」 権は炎にただれた腕の先にぶら下がるその袋をじっと見据えると、黙って口先でそれを奪い、そして何もせず、背をむけた。 一瞬、与平の顔が安堵に緩む。 炎も権が離れたと同時にその大きさを弱め、与平の皮一枚をなぞる程度で消えようとしていた。 権は目を伏せたまま結のそばまで行くと、その袋を彼女に差し出した。 権自身、もう、どうしてよいのかわからなかった。しかし、結への想いが果てたのではない。ただ、今は哀しみが深すぎて、人間への失望が大きすぎて、何もできないでいるだけだ。 その時だった 与平が銃を構えていた。 権は、目を見開き、そして、あぁ……とため息をついた。 日の暮れた空に、哀しみの遠吠えがする。 鳥の群れが闇夜に一斉に羽ばたいた。 川がうなりをあげて嘆く。 天の遥か上のほうでは風がむせび泣いていた。 真っ黒な森だけは、黙って彼らを見下ろしていた。 |
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腹のそこから揺さぶる轟音に、権は硬く目を閉じた。 自分の浅はかさを恨み、牙に食い込む与平の腕にいっそう喰らいつく。 与平が必死で自分を振り払おうとしているのがわかった、しかし、権は死んでも話すものかと口を開けなかった。 血の臭いがする。 それも、少しの量じゃない。 生臭く、鉄さびた匂いだ。 だが……権は自分のどこにも痛みがないことを不思議に思い、与平の腕を一欠けら食いちぎると、ようやく離れた。 与平が銃を放り出しもんどりうつ。あれだけ森の仲間を楽しげに屠っていた男は、自分の痛みには敏感らしい。たった一欠けら腕を食いちぎられただけで、見ているほうが情けなくなるほどに声を上げて騒いでいる。 権はもう与平には用はないと、口の中の肉を吐き捨てると、放り出された銃と、もう一人の銃を構えたままの人間のほうに気を張りながら、身を低くし、距離をとった。 血の臭いが川の風にのって鼻を突く。 どうやら、それは銃を構える男の隣でうずくまっている、結が抱えているものから臭うらしかった。 なんだ? いったい、何が起こった? 権は目を凝らした。しかし、それは結の腕の中にすっぽりとおさまり、その姿が見えない。 泣いているらしい。どうして? 自分を仕留められなかったからか? なら、今すぐにでも……権が歩みよりかけたとき、再び結が声を上げた。 何を言っているのかわからない。 呆然とする権をよそに、銃を構えた人間はこちらを見据えたまま「どうします?」となげやりに与平に尋ねた。 与平は右腕を己の左腕で抑えながら、ようやく立ち上がると、結のそばまでやってきて、鼻をならす。 与平はそんな権の驚きを察したのか、青白い顔でそれを怒りと憎しみに歪めながら、結の腕の中からその血だらけのものを取り上げた。 与平の手の先でぶら下がる、力なき血まみれの小狐……それは どさり、それは重苦しい音を立てて権の前に転がる。 もはやその姿のどこにも命の力強さはなく、あのや柔らかくつやつやした毛並みまでも赤黒くくすんでいて、好奇心に満ち輝いていた瞳は閉じられていた。 臭いをかいでみる。いつものハナの匂いとは別に、いやな臭いがした。権はその臭いを知っている。死んだ両親や親友の亡骸からしたそれと同じ臭いだ。 なぜ? どうして? その誰に向けられたものともいえぬ問いが頭の中を渦巻くばかりだ。 いとおしい彼女は、しばし権の瞳を見つめた後、そっと息を飲み込んだ。今、目の前にいる化け狐が権だと、わかったのだ。 権は胸を締め付けられるような思いに目を伏せた。 鼻先に、何かを感じた。 権は「しゃべるな!」と思わず牙をむくが、ハナは止めなかった。 無性に自分に腹が立ち、権は声をからさんばかりに叫んだ。 その流れに、ようようすがりつく様な形で、ハナは再び閉じかける瞳をうっすらと開け、権を見つめた。 権はにじりよる銃口をよける気にもなれず、ハナにその身を寄せた。ハナの尻尾がそれに甘えるように重なる。 ハナの顔が、一瞬綻んだ。 それは小さな野の草のつぼみが、ふわっと開くような、そんな輝きだった。 ハナの身が一度大きく飛び跳ね、額にぽっかりと穴を開ける。 そして、太陽は完全に森の向こうへと沈んでしまった。 |
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目が覚めると、西日が入り口あたりに斜めに差し込んできていた。 けだるい身を起こす。すぐそばに、まだ夢の中をまどろむハナの姿があり、微かな寝息が聞こえていた。規則的に上下するその背をしばらく権は見つめてから、小さく息を吐く。 自分の身勝手でまだ小さき妹を一人にする、そのことへの罪悪感が簡単にこの巣穴から権を解放しようとはしなかった。 それでも……。 昼間、散々照りつけたせいだろう、木々の先には雨粒のひとつもなく、足元の土はすでに乾いている部分がほとんどだった。 すぅと胸いっぱいに森の空気を吸い込むと、それは冷たく権の中の熱を冷ますように体中に染み渡った。 これでいいのだ。 言い聞かせる。 結の父を、ひいては結を救い、ハナの居場所も作る。 自分ができることは、きっとこういう方法でしかない。 緊張し、少し離れた場所から様子を見る。 いつもの川べり。 少しカーブしたそこは、昨日の増水の名残か、いつもより水かさが高いように見えた。 流れは速く、水も濁ったままだ。 目を凝らす。 川の向こう岸に結と、鉄砲を構えた与平の姿が見えた。 与平と微妙な距離を置き、周囲をきょろきょろと見回す結の手に、光るものが見える。あぁ、自分はあれで一突きにされ、肝を抉り出されるのだな。そう思うと、恐怖より不思議な哀しさがこみ上げた。 自分が狐に生まれたばかりに、この川を超える手段がなかった。もはや生まれ変わることの許されぬ身ではあるが、仏の慈悲があるのなら、次は人間に……。 狐だったから、化け狐だったから、だからこそ、彼女を救えるのではないか。己の欲を満たせねば満足いかぬとは、自分は本当に人間になってしまったのか。 首を横に振る。 今一度、人間に化けて、彼女と言葉を交わそうか、とも思った。しかし、それも未練たらしい。どうせ、散る命だ。 潔く……。 草木ががさつき、二人が同時に権のほうへと顔を向けた。 人間に、獣の色が宿る。 仕方ない。権は与平が向ける、のっぺりとした無表情の真っ暗な穴の向く先を睨み、距離を測りながら尾の先に意識を集中させた。 ひゅぅと口先から息を抜く。 とたんに、尾が二股に分かれた。 結の驚く顔と、与平の喜びの声がした。 結が「待って! 私が」とその手を引き止める。 ちゃんと、ちゃんと約束をたがえはしなかった。 おおきに。 身を低くする。体中の筋肉をしならせる。 目の前の大きな川を己の力で飛びこえるべく、力の限り、高く、遠く。 結が砂利の上にたたき付けられる。与平はかまわず銃口を権に向けた。 しかし、権のほうが一瞬早い。 引き金を引く、その瞬間に、権の牙が与平の腕に食い込んだ。 権は目を見開いた。 与平が倒れこんだ、その後方。もう一人の人間が、銃をこちらぬ向けて構えているではないか。 人間の臭いがいつもよりしたのは、こいつのせいだったのか。 思ったときには、すでに、銃声が権の耳を貫いていた。 |
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「!」 ならば、せめて一つでも森の役に立つ事をしていけば、もしかしたら、ハナはハナくらいはもともと仲の良かった皆の事だ、面倒を見てくれるやもしれぬ。 権はハナの顔をみるまでにそんな風に考え、決めていた。ハナをこの森に託し、結を救うにはもはやこの方法しかないように思えてならなかったのだ。 ハナは悔しい思いで項垂れた。 人間の女に命をかけられた事が悔しいのではない。そんな権の想いがたばかられている事が悔しいのだ。 ハナは、結と与平が裏で繋がり、権を殺そうとしていると思っていた。権の想いを知り、いいようにしているのだ。 化け狐の肝を、どうして人間が欲しがっているのかまでは知らない。 でも、奴らが命を賭けた権の想いを利用しようとしているのさえわかれば、理由などどうでもよかった。 許せない、絶対に……。 そう思い、権を再び振り返った。 そして、ハナは絶句した。 権のその顔が、あまりにも清々しかったからだ。 心の底から人間を信じ、微塵も疑わず、ただただ想い人の為に……そういった権の澄み切った心根がそのままその顔に現れているかのようだった。 もし、もし、本当の事を言ってしまえば、自分はこの澄んだ心を、あの川の濁流のようにしてしまうのではないだろうか。 失望させ、憎しみや怒りに歪ませてしまう、そんな恐れがあるんじゃないだろうか。 背に、権の温もりを感じる。 優しい権。強い権。いつでも味方になってくれて、どんな時も助けてくれた兄。自分はそんな彼が好きだった。だから、やっぱり権には権のままでいてほしい。 ハナはゆっくり息を吐くと、今度は身を投げ出すように権によりかかった。それを権は当たり前と言うように受け止め、そっとハナ背を、なぜるように舐めてくれた。 大きな川。獣と人間の、森と里の、命と死の……大きく深く流れのはやい、渡ろうとするものを飲み込み、流し去ってしまおうとする、凶暴であがらいようのない、激流だ。 声が震えてしまってはいまいか、この想いを権に悟られてはいまいか、いや、微塵も悟らせてはなるまいと、己の心を殺し、ハナは沈黙した。 雨上がりの森の中。 小さな小さな狐の巣穴の中で寄り添う二つの命は、刻々と迫るその時をただ言葉もなく息をひそめて待った。 |




