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車のエンジン音がする。 |
空蝉
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それから、僕らはその場で二人とも気を失ったらしい。 |
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「何を錯乱状態の中で起こしたとしても、それは私の罪だと思う。私は私でいたい。私は、どんなに辛くてもいい。もう私を無くしたくないの」
アヤメはそう言うと、消えていく記憶に怯えるように僕の手を手繰り寄せた。 そして、そっと僕の胸にその額を押し当てる。 「どんどん、消えていくの。どんどん、思い出せなくなっていくの。やっと翼君に会えたのに。もう、いや。絶対に……」 「今日の記憶だけ交換するって言うのは?」 アヤメは首を横に振った。 そして 「八雲にも、もう辛い思いをさせたくない」 そう呟いた。 僕は眉をよせ、視線を落とす。 そう、忘れる事も辛ければ、忘れられる事だってきっと物凄く辛い。だって、それは一緒にいたこと、そこに自分が生きていた事、それを否定されることになるんだから。 それが大切な人なら、尚更だ。 僕は目を閉じた。 瞼の裏には父さんの顔が浮かんだ。 でも、それは昔ほど輪郭のはっきりしたものじゃない。 そう、僕が日立を嫌った理由は、『僕が』父さんを忘れてしまいそうで嫌だったからだ。 新しい父さん、新しい家族。流れていく時間の中で、父さんだけが過去に取り残されていく。あんなに大好きだった父さんでも、もしかしたら過去が遠くなるにつれて、どんどんどんどん小さくなっていってしまうんじゃないか。そんな気がして……僕は僕の時間を進めたくなかったんだ。 でも、きっとそれは違うよね。 僕は心の中で父さんに訊いてみた。でも何にも答えは返ってこない。 父さんはもうここにはいないんだ。 けど、だからって僕らが一緒にいた時間までが消えるわけじゃない。 空気が、揺れた。 僕らの後ろで騒がしい音がして、扉が開かれた。 「翼!」 振り返ると日立だった。 日立はやっぱり何もかもでかい作りの顔で、僕を見つめると 「すまん。空知さんからここにいるから安心しろって言われたんだけどな。どうしても伝えないといけない事があって」 そう捲し立てると、やや興奮した顔でこう言った。 「お前の妹が生まれたぞ」 僕は僅かに息を飲んだ。軽く見開いた目に、日立の複雑な顔が映る。 「さっき、お前の事を伝えにナースステーションに行った時に、ちょど連絡があって。母さんも、赤ちゃんも元気なんだそうだ」 本当は叫び出したいほど嬉しいくせに、日立は抑えた声で言った。いつものように思いっきり喜べばいいのに。そう思ったけど 「よかったね」 そういったアヤメの顔を見て、僕はようやくわかった。日立がここにいる意味と、僕らはどうするべきかを……。 僕は微笑むと、日立を一瞥した。 そう、どんなに辛い事があっても、どんなに忘れたくない事があっても、どちらにしろ僕らは先に進んでいかないといけないんだ。過去は過去。消えやしないけど、それは哀しいくらいに過去でしかないのだ。 だから。 それからまたアヤメに視線を戻し、念を押すように言った。 「もし、これで何かを思い出しても、僕はここにいる。僕は、変わらない」 「うん」 アヤメは力強く頷いた。 もう、その顔はおぼろげな幽霊の様な危うさはなく、空蝉の様な虚ろさもない。 僕は微笑むと、握った手の力を込めた。 そして、ゆっくりと僕らはあの日の様に唇を重ねた。 |
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軽くノックすると、すぐに返事が返ってきた。 |
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僕は手を握りしめ、唇を噛んだ。
彼女がそうした結果、僕の中には儀式前の『彼女の持っていた記憶』と僅かな儀式後の『彼女の想いの欠片』が残り、彼女の中では儀式前の『僕の持っていた記憶』だけが残って、儀式後の記憶は20時間後に全てなくなった。 これが、きっと僕らの真相。 クマゼミの泣き声を聞いていた彼女はどんな気持ちだったんだろう。 僕は手をだらりと下ろすと自分の足元を見つめた。 魂の抜け殻 記憶を全て無くす運命 それは己を失う事 まさに死に等しく 彼女は 父親から 村人から クマゼミの鳴き声が響く世界から こう言われているような気がしていたんだ 彼女はまた、20時間後に忘れてしまうのだろう。でも、彼女は言ったじゃないか、今日の思い出が欲しいって。 っていう事は 記憶を残したい。 『生きて』いたい そういう事なんだ。 行こう。 僕だって、彼女の事は忘れたくないし、忘れられたくもない。 ふと、父さんの事が浮かんだ。 死んで、どんどん遠くなっていく父さんの影。 新しい父親に新しい家族。 忘れられるのは……本当に……。 そうか、だから僕は。 僕は喉に引っ掻かていた重い溜息を吐きだすと、軽く拳を握った |




