空に続く道

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Apollo

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ライトスタッフ

「アカン! 遅刻や!」
 蒼汰は長い夢から一気に覚めると、時計の指す時間に声を上げた。
 布団をはね上げ飛び出るベッドには、もう妻の姿はなかった。居間に転がり込むように出て行くと、対面式キッチンの向こうから妻が顔を出した。
「おはよう。どうしたの?」
 妻は不思議そうな顔をして蒼汰を見つめてから、時計を見上げた。
「まだ六時よ?」
 早朝だろうが、すっぴんだろうが、綺麗な妻の顔に一瞬にやけかけるが、蒼汰は顔を引き締めると
「いや、今日から新しい監督が来るねん。そんで、会議の前に会おうって事になっとって、それが京都駅に七時半やから……」
 そう説明しながらバタバタそわそわと居間を行ったり来たりした。
 そんな彼に、もう結婚して十四年になる妻は穏やかな微笑みでいなすように声をかける。
「落ち着いて。七時半なら十分間に合うわ。バスがないなら、タクシー呼ぶから」
 蒼汰は思わず立ち止まり、妻のその笑顔を見る。
 自然に力が抜けて、蒼汰は前髪をかき回すと「そやな」と苦笑した。いつだって、どんな時も、この笑顔に勝てる気がしない。
 ようやく落ち着きを取り戻すと、洗面をすませ居間に戻った。
 すでに新品のカッターとクリーニングに出されたスーツが用意されていて、蒼汰は妻の手際に感謝する。
「さすが、わかってくれてるな。今日からいよいよ制作班やもんな。気合い入るで」
 真新しいカッターに袖を通しながら、蒼汰はこれから会う監督の事を思い出していた。
 妻にはまだ何にも話していない。
 デビュー作で海外の映画賞の四冠に輝いたその天才が、日本に戻ってきているのはニュースにもなっていたが、きっと妻はこの新人プロデューサーがそんな人間と組むなんて夢にも思っていないだろう。
 すっかり身なりを整えると、食卓には朝食が並んでいた。
 自分より早く起き、自分より遅く眠る彼女の支えを、こんな瞬間にも感じる。
「紅さん」
 思わず愛おしさが込み上げて、名前を呼んでみた。結局、色々試したがこの呼び名から離れられなかった。
 妻は少し不服そうだが、十四年以上も続いているこの呼び名は、きっと一生治らない。
「なぁに?」
 柔らかい返事に、思わず笑みが浮かぶ。
「映画、完成したら、一緒に観にいこうな」
 妻はその言葉に黙って、朝日のように眩しい笑顔で頷いた。
 向かい合って座りながら、毎日見るその顔が傍にあるのをやっぱり幸せに思う。最近、生意気になって来た娘には『パパは浮気の心配だけはあらへんね。こっちが見ていて恥ずかしいくらいママにベタベタなんやもん』と言われた。その時は『何が恥ずかしい。世界で誰よりママを愛してる事のどこが悪い』と言ったが、実際、妻は呆れているのだろうか? 十四年経っても、たぶんそれこそこの呼び名のように一生変わりそうにもない気持ちを。
 最後の一口を流し込むと、蒼汰は妻が絶妙のタイミングで淹れてくれたお茶をすすりながら、その顔を見つめた。妻はそんな視線に照れたのか、困ったような顔で
「なぁに?」
 と小首を傾げる。
 蒼汰はどう答えていいかわからなくて
「いや。今日も大好きやと思って」
 冗談めかして答えると、妻はやはり困ったように笑った。

 子ども達の寝顔を見てから玄関に向かう。
 今度、父親の姿が似合わない親友の所にも子どもができたそうだから、いつか先輩父親としてレクチャーに行ってやらねばなるまい。
 蒼汰は子ども達と朝の挨拶をかわせないのを寂しく思いながら、断腸の思いで腕時計を見た。
 まだ七時には二十分もある。タクシーを呼ばないでも十分間に合いそうだ。
 玄関で靴を履いてから振り返る。いつも玄関先まで鞄を持って見送ってくれる妻は、今朝もそこにいてくれた。
「ほな。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 毎日の会話。お決まりの挨拶。それが何よりの宝物だ。
 蒼汰は妻から鞄を受け取るふりをして、なんの予告もなしに世界で最愛の女性に軽いキスをした。
「!」
 驚く妻に、悪戯っぽく微笑みながら今度は本当に鞄を受け取った。
「じゃ」
 玄関を開けた時、射し込んだ朝日に照らされた妻の顔は、やっぱり困った顔で笑っていた。

 京都駅の大きな階段の下で、蒼汰はその人を待っていた。
 今回の件で電話やメールでのやり取りをした事はあるが、会うのはもう十六年以上ぶりだ。
緊張というより、嬉しかった。
 自分の知らない時間の話を妻から聞いたのは、妻と羽田で再会したその夜だった。それでも、彼と妻の間にどんな時間があったのか、自分は詳しくは知らない。だが、妻の顔を見ていればその別れが自分が想像していたものとまるで違うものだって事はわかった。
 京都駅の中にある巨大な階段を見上げる。初めて見る人間なら、足がすくんでもおかしくないほどのスケールのその階段は空に向かって伸びていて、まるで……。
「ひさしぶり」
 声がして、蒼汰は振り返った。
 相変わらずの長身は、自分の知っている刺々しさも荒々しさもなく、深みと広がりを感じさせるオーラをまとっていた。これでこそ、ライバル。そう勝手に心の中で称賛すると、蒼汰は手を差し出した。
「お久しぶりです。今日からよろしくお願いします」
 翠は朝日に微笑みその手を握り返した。
「よろしく。またお前と映画が作れる日がきて嬉しいよ。この映画は……」
 手を離すと、翠は目を細めた。それは朝日が眩しいわけじゃなく、遠く鮮明な過去をその瞳に映しているかのようだった。
「お前とじゃなきゃ作れない」
「今回が初プロデュースですよ?」
「俺も、まだ新人だ」
 重力から解放された天才はそう笑った。
 蒼汰の直観は教えていた。彼とはこの先も長い付き合いになると。そしてその一歩はきっと……。
 朝の澄み渡った青空に白い月が浮かんでいた。
 肩を並べる翠もそれを仰いでいた。
「この映画は二人で彼女に捧げよう」
「初めからそのつもりです」
 初めてその脚本を見た時から、彼が今自分の妻になっている彼女の為にそれを書いたのはわかっていた。
 その日から今日まで、随分待った。でももう、彼らの子どもの名をつけた映画が世の中の人々の記憶に刻まれるのは、そう遠い未来じゃない。
「行きましょう」
「あぁ」
 過去は現在を支える土壌となり、現在は未来を飛び立たせる発射台になるはずだ。
 蒼汰は再び始まった物語の幕開けに、顔を上げた。

 果てない宙がそこには広がっていた。

〜FIN〜

雨上がりの夜に

 あの日の別れの意味なんかどれだけ考えてもわからない。
 今わかるのは、とうていできやしないのに、自分は彼女への想いを断ち切ったつもりになっていた。それだけだ。
 ぶつかりそうになる人の間を縫い、自動ドアを抜け、ロビーに駆け込む。
 焦りと不安だけが自分を突き動かしているようだ。
 探さないと、見つけないと、とにかく走らないと! 体を急かす鼓動は収まる事を知らない。
 視界がいきなり遮られた。
「なっ」
 蒼汰は目の前に広がったその空間の大きさと絶望的なまでの人ごみに、思わず立ちすくんだ。
 雑多な空気に蠢く数え切れないほどの人の数。果たして、この中から彼女を見つけ出せるのだろうか?
 フライトの正確な時間もわからない。どこの航空会社の便とも知らない。目星はつけても、数便あるそれらの搭乗口は恐ろしく離れていて、そのどれか一か所に絞るのは、賭けに近い気がした。
 アナウンスも一瞬考えるが、同伴者も待ち合わせの約束もない人間が、ひっきりなしに流れるそんなものに耳をいちいち傾けるだろうか?
「くそ」
 ここまで来て、迷っていても仕方ない。
 蒼汰はとりあえずフライト時刻を表示する電光掲示板に走って行った。
 人々の熱気や匂いに交じった雨の湿気が不快だ。それは今ある焦燥感をさらに焚きつけ、苛立ちは固い床を強く蹴った。
 見上げた無機質な文字と数字の羅列。天候不良で遅延の便は幾つかあるようだったが、飛ばないという事はないらしい。
 いっそ、ここに彼女がどの便に乗るのか表示してくれれば、なんてあり合えない事を考えながら目を凝らす。
 北海道方面の便はどれも遅延すらしないようだった。
 あたりを見回し、公衆電話が目についた。教授に連絡してみようか、そう思うが、携帯を持っている事に気が付き自分の混乱ぶりに向きかけた足を止めた。
「あかん。落ち着け」
 自分に言い聞かせるように呟くと、一つ深呼吸をした。
 彼女はこの空港内のどこかにいる。広い世界の中で、ここだと限定できているのだ。
 まずは落ち着こう。必ず会える。必ず見つけ出す。
 蒼汰は目を閉じると、もう一度深呼吸する。
 耳に届く幾つもの足音。その数だけ人生があり、その数以上の物語がきっとある。何度も諦めかけ、最後にはその背中を追いかけるのをやめてしまった恋。そんなもの、実は自分だけの特別な経験ではないのかもしれない。皆、秘めた想いや記憶を胸に、現実とうまく折り合いをつけながら、それでも毎日を歩いている。自分も、この足音の一つになるはずだった。
 でも今、こうやってもう一度あの恋を追いかけ走っている。勘違いでもいい。あのタイミングで彼女の帰国を知り、自分はそのために全てをかなぐり捨て、ここまで走ってこれた、その奇跡を今は信じよう。
 ゆっくりと瞼を上げた。その眼に映ったのは……。
「……え」

白い横顔
柔らかな髪
細い肩
左目の泣きぼくろ

心臓が鷲掴みにされたような衝撃
時が止まったような錯覚
全ての常識が逆転したような感覚

 電光掲示板を見上げるその幻の様な女の姿に、蒼汰は息を飲んだ。
 彼女を初めて見た時の感覚そのままが蘇る。心臓が今まで動くのを忘れていたかのように、強く高鳴りだす。
 彼女の視線が動いた。一度床にまで舞い降りたそれがゆっくりと上がり、自分のそれを重なる。
 彼女の目が見開かれた。
 蒼汰は何かに背中を押されたように、彼女に向って駆け出す。
 人の波を超え、時の壁を打ち壊し、想いの流れのままに。
 そして、手を思い切り伸ばした。
 彼女の目が優しく微笑んで、それを蒼汰は力の限りに抱き寄せた。
「紅さん」
 今、ここに確かに彼女がいるのだとこうしていないと実感できなくなりそうで怖かった。
 本当は自分が見ている幻で、抱きしめているのは彼女の影なんじゃないだろうか、そんな気さえする。
 しかし、それを否定する幸せは、確かなぬくもりでそれを証明する様に彼の胸に手を添えて応えた。
「梅田くん」
 腕の中の彼女の瞳を見つめる。
 彼女の瞳に浮かぶ色は戸惑いに似た、しかしそれとは異質のものだった。
 まるで、叶わないと思いながらもどこかで抱き続けた願いが叶った、そんな時の様な色だ。
「紅さん」
 説明は今は必要ないと感じた。必要なのはもうすでに、この腕の中に全てある。
 蒼汰は不思議と穏やかになっていく自分の鼓動を感じながら、彼女の瞳を覗き込み、静かに自分の偽りのない想いを口にした。
「俺、今でも、やっぱりあなたの事が好きです。きっとこの先も、ずっとこの気持ちは変えられません」
「梅田くん」
 彼女の顔に、哀しみと躊躇いが浮かびかける。
 その理由がわかるから、蒼汰はそれをかき消すように大きく微笑んで見せた。
「俺にとって紅さんは、何があってどんな想いを抱えていても、紅さんに変わりなくて、やっぱり好きなんです。この気持ちは変えられないんです。絶対に幸せにします。せやから……」
 蒼汰は彼女を抱く腕に、もう一度力を込めた。
「一生傍におってください。そして、俺の家族になってください」
「梅田くん」
 紅の瞳に、胸の奥にしまっていた想いの何もかもを包む涙が溢れだした。
 蒼汰の胸をぎゅっと、何度も苦しみに耐えてきた手が握りしめられる。
「本当に、私でいいの?」
 紅はそれでも戸惑っていた。彼にしてきた事、自分の身に起こったこと、それらを差し置いて、今更このぬくもりに自分が飛びこむ資格なんかあるようには思えなかったからだ。
 もし、彼の気持ちが本当だとしても、それが彼にとって良いのか自信がなかった。
 しかし、蒼汰はそんな彼女の不安を打ち崩すように、真っ直ぐに目をそらさずに言い放つ。
「紅さんやないとアカンのです」
 力強く、そしてハッキリと。
「梅田くん」
 紅は目を伏せた。
 一年以上も前にあんな酷い別れをつきつけた自分に、彼がまだこんな温かで大きな手を広げ包んでくれる事も、広いこの世界でまた再会できたことも、何もかもが奇跡のように感じた。
 蒼汰はそんな紅に優しくそして強く言葉を重ねる。
「紅さん。何度でも言います。俺にはあなたじゃないとアカンのです」
 どれだけ誤魔化しても引かれ合う想いは、どんな障害も距離も、時間すらも最後には結局超えて重なってしまう。それは、不確かで不安定なものばかりのこの世界の中で、唯一、どうしようもないくらい不変なもののように思えた。
 紅は苦しいほどに満ちて行く温かさに息をつくと、顔を上げた。
「じゃ、お願い。これだけは約束して」
 声にこもるのは悲痛なまでの願い。
「私より先には絶対に逝かないで。もう、独りにしないで」
 次々と自分の元を去っていく大切な家族。もし、こんなに心が求める彼まで失ってしまったら、きっと自分はもう……。
 蒼汰はそんな不安に青褪める紅の頬を優しく撫でた。その、深い深い痛みと哀しみを全部受け止めるように、頷いて見せる。
「約束します」
 将来を約束した女性を置き去りにし、心から信頼しあった親友を裏切ってまでここに来た。だから、だからこそ、この約束は違えてはならないと蒼汰は思った。
 紅の体から力が抜ける。全てを預けるように投げ出された体を、蒼汰はもう離してしまわないようにしっかりと抱きしめた。


 いつしか雨はあがっていた。
 雲間から見える月を二人で見上げた。

なけなしの力で飛んだ人間は
月の引力に導かれ
ようやく傍にいる事を許された
闇を照らす事しかできなかった月は
漆黒の闇を抜けた人間に
ようやく己を委ねる安心感を与えられた

生まれてきた事
出会えた事
引かれ合った事
想いを重ねられた事
そして
こうやって同じ月を見上げられる事
すべての奇跡を抱きしめた
二つの影が
一つに重なる

そしてその瞬間
新たな奇跡への道が
また
静かに繋がれたのだった

月と海 6

 空港というのはどこの空港でも、独特の雰囲気を持っている。
 落ち着きのない空気、どこか浮ついた人々の声、飛び交うアナウンス。
 紅は長いフライトで凝り固まった体を伸ばすと、乗継まで数時間あるのに溜息をついた。
 空港のどこかで時間を潰さねばならない。人混みは好きな方ではないので、自然にそれから逃げるように静かな場所を探して歩いた。
 行き交う人々、交り合う時間。すれ違いはどれも一瞬で、自分と共に歩く人はもういない。紅は一瞬、翠の事を想い、足を止めかけた。
 別れは、自分でも驚くほど自然に受け入れられた。嫌いになったわけでも、離れたくなったわけでもない。ただ、この別れに敢えて理由を明言化するのなら、自分の役目を終えた。そんなところが一番近いかもしれない。
 彼を想うと、今でも愛おしさはこみ上げるけど、もう、彼の傍にいるべきでない事も同時に感じた。
 自分達が共に歩む道は分かれ、お互い違う道を行く時が来た。そんな別れだったようにも思う。
 紅は自分の横をすり抜けて行く人々の顔を眺めながら、改めて自分は今、独りなのだと思った。
 大きな電光掲示板の前に立ち止まる。見上げると、いくつもの旅立ちを告げる数字と文字が連なっている。
 もし、運命というものがあって、この掲示板のように次の行く先を教えてくれるのなら、どんなに楽だろうと思った。
 そう、きっと物凄く楽で
「酷く、つまらないわね」
 そう呟き苦笑した。
 そして、自分がまた耳のピアスに手をあてているのに気が付く。
 この癖は、本当にいつからなのだろう? このピアスを自分にくれた彼は、今どうしているのだろうか?
 紅は胸にまだある火傷の跡に目を細めた。
 そう言えば、彼も今年で卒業のはずだ。最後の彼の声、自分を呼ぶその声を、忘れられるはずはなかったが、それも過去にしてしまわないといけない。
 いつも太陽のように明るく前向きで迷いのない彼は、きっととっくに新しい道を探し歩き始めているはずなのだから。
 紅は痛みを逃がすように小さく溜息をつくと、自然と公衆電話に足が向いていた。
 大学が思い出され、次いで父親のような恩師を思い出したのだ。日本に戻って来たのだから報告ぐらいはしてもいいかもしれない。それより何より……。
 紅は受話器を手に周囲を見回した。
 寂しい。
 そんな自分にまた苦笑する。翠を出会うまではそんな事は滅多になかった。
 両親を亡くした後から、孤独には慣れていた。友人も多い方ではない。どちらかといえば一人でも平気な方だった。
 今、一人が寂しいと感じるのは、それだけ翠の存在がずっと自分の傍にあった。そういう事なのだろう。一度離した手が再び繋がる気はしないし、後悔もないが。
 紅は受話器を握り直すと、教授の携帯に電話をかけた。


 いつも不思議だった。三宮は自分にとって特別だ。彼の前だと弱気な自分をさらけ出してしまう。まるで強がることができないのだ。
 電話の向こうの三宮の声を聞いた時、紅は今の今まで自分の心が何かにガチガチに固まっていたのを痛感した。
『久しぶりだな』
 そんな三宮の一言で、それまで平気だと踏んでいた寂しさも、後悔がないと思っていた別れの痛みも、皆一気に溢れ、紅は自分でも何を話しているのかわからないくらい、独りよがりで感情的な事を口走っていた。
 それは、父親に娘が八当たりをしている、まるでそんな感じだった。話しながら紅はようやく、自分の中にも嫉妬や憎悪といった感情があったのだと知った。
「すみません。ご無沙汰していて、こんな電話」
 一通りいきさつを話し終え、ようやく心が穏やかになってから紅は自分の幼稚さに恥じ入りながら謝罪した。
 電話の向こうの恩師は
『いや、連絡をくれて嬉しかったよ』
 そう返す。そんな優しさに、紅は幾分、寂しさを救われた気がした。
「これから夜の便で小樽に戻ろうと思っています。これからの事は、戻ってからゆっくり考えようかと……」
『そうか、元気でな。落ち着いたらまた連絡くれ』
「はい。ありがとうございます。先生もお元気で」
『あぁ、じゃ』
「失礼します」
 電話は先に切った。切れた後の電子音を今はまだ聞きたくなかった。
 顔を上げると、傘を持った人の姿が目につき、床が濡れているのに気がついた。雨が降っているのかもしれない。
 時計を見ると、まだフライトの時間まで三時間もあった。
 紅は溜息をつくと、ごくごく近い未来の予定さえ変更の可能性を示唆する電光掲示板をもう一度見上げた。
 雨は、簡単に先には進めさせてはくれそうになかった。

月と海 5

 まるでそこだけを世界中の音という音から切り取ったかのような、やけに鮮明な言葉は蒼汰の動きを完全に凍りつかせた。
 耳を疑う。室内に目を向けると、携帯を手にした椅子に座った三宮しか見えなかった。
 身動きができないのに、心臓の鼓動だけが嫌なくらいに強く早く自分のど真ん中を震えさせ始めていた。会話は続いている。
「神崎川が難しいのはわかっていたが、神崎川には彼女しかいないと思ってたのになぁ」
「教授は……」
「神崎川は、不思議な男だったよ。ここに入って来た時から、人を惹きつけるものがあったし、お前も知っているように映像のセンスは抜群だった。でも、彼なりに苦しんでいた。天才ゆえの苦悩ってやつか、あいつの感覚について行ける奴なんてそういなかった。アイツにはとっくに見えている世界も、凡人の俺達にはさっぱりだ。アイツはそのフラストレーションを外に出すような男じゃなかったから、一時は見ていてこっちが痛くなるほど落差のある二つの顔で、なんとかそのジレンマを一人で凌いでいた」
 三宮がとうとうと彼らの歴史を語っていた。
 良く知る人の知らない時間。それは皮肉なほどに思い出になるはずの想いを、過去から引きずりだし痛みを蘇らせる。
「そこに現れたのが彼女だ。彼女はアイツを理解し、アイツの痛みや苦しみを一身に受け負った。正直、始め理解できなかった。俺は彼女にアイツから離れるのを勧めたこともある。でも、彼女は逃げなかった。自分がいなくなれば、アイツは独りになってしまう。誰にも心を許せないアイツが信用してくれた、それに応えて傍にいる事が自分の幸せなんだと」
「それが……どうして?」
「アメリカで、神崎川に女ができたそうだ」
 それは、まるで犯罪の暗躍をしているかのような口調。二人の会話に、頬が引きつる。
「それくらいじゃ、たぶん中津も我慢できただろう。……これまでにもなかった話じゃない」
 そうだ、なかった話じゃない。神崎川はいつだって、一途に尽くす彼女の想いを嬲り試すかのように、自分の思い通りに何もかもを、隠しもせずにしてきていた。それでも、彼女は決して奴を見捨てる事はなかった。その情の深さは、自分が苦しいほど知っている。
 なのに、なぜ?

「子どもが…亡くなったそうだ」

 足もとに深く底のない穴が、ポッカリと口を開けたかのような感覚がした。
 彩、が? あの小さな小さな、懸命に生きようとするあの小さな手の温もりが指先に戻ってくる。あの命がもう、この世にない?
「事故って事らしいが。ほら、あいつらの子ども、少し問題があって、医療器具なしでは生きていくのが難しい状態だっただろ。それが中津が席を外した時、誤作動したと……」
 嘘だ。
 彼女が自分の子どもを、彩を不用意に一人にするはずない。
 じゃそれは……。
「誰の仕業か、本当に事故なのかわからない。でも、その事件は中津には耐えられない出来事だったらしい」
 彩を失った。彼女が命をかけて産んで、全てを投げ出して守ろうとした命。それを……。
 彼女の哀しみ、苦悩、どんな言葉もその想いには陳腐だ。何があっても見捨てなかった奴との離別を決意させるほどのモノなのだから。
「彼女からの電話だったんだ。今日羽田から夜の便で実家の小樽に帰るらしい」
 一人ぼっちになった彼女の細い背中が脳裏に浮かんだ。
 固く目を閉じると、現実に押しつぶされそうな胸の悲鳴が聞こえる。
 彼女が行ってしまう。たった独り、尽くしてボロボロになって全てを取り上げられた彼女が。
「そんなん……」
 呟いた瞬間、部屋の中の視線が注がれた。
「そ、う……」
 立ち上がりかけていた青と目があった。蒼汰はどんな顔をして、何を言えばいいかわからず、抜け殻のように立ち尽くした。
 雨の音が世界を支配し始めていた。
「何や、今の話」
 立ち上がった青に助けを求めるように問う。青の手の中から何かが零れ落ち、耳に不快な不協和音がした。
「蒼汰! 今の話は……」
 動揺する青から視線を引き剥がすと、蒼汰は三宮にそれを投げた。
「教授! 今の話なんですか!!」
 ドアを叩きつけるように開けると、彼に詰め寄る。蒼汰の剣幕に、三宮は苦々しそうに目をそらせたが、突き放すような口調で
「梅田。これは彼らの問題だ。お前はもう……」
 説明を拒んだ。もどかしさがこみ上げ、頭が真っ白になる。相手が世話になった教授だという事も忘れ、蒼汰は掴みかかると彼の体を思いっきり揺すった。
「ええから! 今の話、ほんまですか? 紅さんは」
 紅は、本当に彩を失ったのか? 紅は、独りになってしまったのか? 奴はあの紅をそんな形で捨てたのか?
「だったら、何なんだ?」
 乱暴な力が不意に肩を掴んで教授から強引に引き離した。そこには怒りに震える青の顔があった。
「何やって……紅さんが……」
 彼女が、彼女が……。酷い仕打ちを受けて、捨てられ、きっと独りきりでその苦しみに泣いている。そう、独りで。
「落ち着け。今更どしようもないだろ。梅田、お前明日には京都だろ? 車もない。どのみち駆けつけるとしても、フライトまでには間に合わないさ」
 教授の低く落ち着いた声が、現実を喚起させた。反論できないそれに蒼汰は顔をしかめる。
唇を噛んだ。
 目を堅く閉じる。
 自分には叶い始めた夢がある。自分には一緒に歩いていこうと約束した女性がいる。自分にはかけがえのない親友と交わした誓いがある。でも、でも……。
 鼓動が何かを振り切ろうとする。それは抗えない何かに引かれ従おうと叫んでいる。

シンプルに
シンプルに
自分はどこにいる?
自分の取るべき行動は何だ?
自分は…

 藍の、自分との未来を信じるあの笑顔が浮かんだ。
 青の、自分に彼の大切な想いを託した時の顔が浮かんだ。
 紅の、細い背中が最後に浮かんだ。
「蒼汰。今の話は忘れ……」
「すまん」
 蒼汰は声を絞り出し、項垂れる。
 心はもう、固まってしまっている。きっともう、この気持ちを否定なんかできないし、ましてや抗う事なんて不可能だ。
 拳を固く握る。
「やっぱ、アカン。無理や」
 何をどう考えても、将来をくれた恋人を、想いを託した親友を裏切る事になったとしても、自分の気持ちはもう、彼女に向ってしまっているのだ。
 彼女をこのままにしておくなど無理、できない!
「青! 頼む! 車貸してくれ!」
「は?」
 蒼汰はそういうと思いっきり頭を下げた。声が震えた。でも気持ちはもう微塵もそこから揺るがない。
「やっぱり、紅さんは、俺にとって特別やねん」
 ようやく認めた。認めざるをえなかった。彼女への想いは消えなんかしない。過去にもできない。今をもってしても、彼女を失う事がこんなに怖い。
 やっぱり、自分には彼女しかいないのだ。
「なんだよ。仕事は、約束は、藍はどうなるんだよ!」
 青の怒声が胸に突き刺さる。それでも……それでも……。
「スマン」
 もうこの言葉しか残されてはいなかった。
「スマン」
 許されなくてもいい。
 全てを失ってもいい。
 それでも、彼女の元へ走れと体も心も自分の全てが叫んでいる。
 青の怒りは沈黙に痛々しいまでに滲んでいた。そしてその沈黙は彼が吐き捨てた言葉によって破られた。
「行けよ!」
 次いで何かの金属音がし、頬に思いっきり当たった。
 生まれた痛みは、青の絶望と哀しみを刻みつける。
「スマン」
 蒼汰は胸を締め付ける苦しみに呻くと、顔を伏せたまま床に転がった鍵を握りしめた。
 理屈も理由もなかった。ただ、彼女の元へ。
 何もかもを投げ捨てて走り出した足に、もう迷う余地もなかった。

月と海 4

 やけに眩しい朝日で目が覚めた。
 寝るのが惜しくてつい明け方まで話し込んでしまい、いつ自分が寝たのかもよくわからなかった。
 蒼汰はまだアルコールに重い体を床から引きはがして、背を伸ばす。いつも自分より早くに起きる青が珍しくまだ寝ていた。
 首を何度か回し、時計を見て目を疑う。
「え……あ……」
 卒業式は10時開始。ただいま9時40分。この家から大学まで自転車で15分として……。
「青ーっ!」
 蒼汰の悲鳴が部屋に響いた。


 酒臭い体をスーツに突っ込むと、青の自転車で大学に急ぐ。
「青急げ! しゃれにならへんで!」
 蒼汰は器用にネクタイを締めながら漕ぎ手の青を急かした。
「わかってる! ってか、何で俺がこぐんだよ! 降りろ! 走れ! 最後に野郎と二ケツなんてしょっぱすぎるわ!」
「ええやん〜。俺の脚、まだガラスの足で……」
「ばーか。大道具組んでる奴の言うことか」
「いやん。乙女心わかってや」
「……ここで吐いたらお前のせいな」
 あんなに語り明かしたのに、まだ軽口は尽きない。
 蒼汰は心地良さに笑みを零すと足を投げ出した。
 こんなバカな事も、こんな軽口も、こんな一体感も、今日で最後なんだ。だからせめて……。
 蒼汰は後ろに飛んでいく景色を眺めた。
「俺、一生、忘れへんから」
 ポツリと言葉がついいて出た。青は一瞬息を飲むと、漂う寂しさを柔らかい笑みに変えて頷いた。
「俺もだ」


 卒業式にはギリギリセーフ。講堂前の後輩たちの苦笑交じりの視線は少々気恥ずかしかったが、とにかく間に合ったのだ。蒼汰的には結果オーライだった。
 講堂に入って蒼汰はすぐに文学部の方の席に視線を巡らせた。テンカウントしないうちに藍の姿を見つけ、思わず心臓が跳ね上がる。
 藍もまた自分達を探していたらしい。不安げな顔で見回していた視線がこちらと合うと、満面の笑顔を浮かべてくれた。
 辛うじて名前を呼びたいのを抑え、大きく手を振る。あんなに会いたかった彼女が同じ空間にいる。それだけでテンションは急上昇した。
 藍は苦笑すると、可愛らしく小さく手を振り返し前に向きなおった。
 予告されていた袴姿は想像していたよりもずっと綺麗で、ぐっときた。文学部は女子が多いせいか、自分達のいる経済学部より華やかだ。その中でも蒼汰には藍は一際特別に綺麗に見えた。隣に桃がいないのが少し寂しい。
「桃ちゃんも来れたらよかったのにな」
 思わず呟いた。どんな時もいつも一緒だった四人だ。やはり一人でも欠けると調子が狂う。青は乱れた呼吸をようやく沈めたのか、黙って頷いた。
「藍との約束は?」
 式の諸注意のアナウンスの中、青がやや早口で尋ねてきた。蒼汰ははにかみながら昨日やり取りしたメールの内容を思い出す。
「式が終わって、彼女、着物返しに行くらしいから、昼過ぎ……三時にあの桜並木で待ち合わせやねん」
 桜並木は特別な場所だ。あの場所は、自分達の映画がクランクインしてクランクアップした場所で、藍から告白を受け、自分が告白した場所。新しい一歩を踏み出すのに、一番ふさわしいと思った。
「今度は遅刻するなよ」
 青は片眉を上げて胸を小突いてきた。
「あぁ」
 昨夜の誓いを思い出す。
 蒼汰は気を引き締めると、しっかりと頷いた。

 式が終わってすぐに、蝶の様に可憐な藍が駆け寄って来た。
 目の前まで来ると、少し照れくさそうにこちらを見つめる。
「もう、心配しちゃった」
「すまんすまん」
 何てことないやり取りだけど、緊張してしまう。彼女はもう友達じゃない。恋人で、明日から一緒に暮らしていく大切な女性だ。
 他の友達にもまれながら講堂を出る。繋いだ手が、まだしっくりこないけど、人ごみに押されても離れない温もりにあの恋にはなかった安心感があった。
 同じタイムミングで目が合うとこそばくて、違うタイミングで手を引くと存在を感じた。
 講堂の外に出ると、外は薄曇り。遠くに雨雲が見え、旅立ちには少し残念な空だったが、何もかもうまくいかないか、と蒼汰は小さくため息をついた。
 青に藍との写真を撮ってもらったり、サークルの後輩に囲まれたり、三宮教授に茶化されたり、夢のように幸せな時間があれよあれよという間に流れて行く。
 行かないでほしい、まだここにいたい。そう願うほどに、さっき青の自転車の後ろで見た風景のように世界は進んでいく。
 気がつくと、青はいなくなっていた。
 藍が
「じゃ、私、袴返してくるから」
 他の文学部の友達を振り返りながらそう言った。
「わかった。ほな、三時にな」
「うん」
 一つの時代が終わって、一つの時代が始まる。自分は彼女と歩いていく。これで……いいのだ。
 蒼汰は駆けていく藍の姿が遠くなるまで見送った。藍はそんな彼をもう一度振り、返り手を振った。彼女はそんな人だ。どんな時も、自分を見てくれていた。どんな時も……。
 人影がまばらになった周りを見回す。自分がどんな時も見つめていた影は、ここにはもうない。
「青のやつ、みずくさいな」
 何かの感情に囚われそうになるのを振り払うように、思考を無理やりに戻し、蒼汰は呟いた。
 さっき、見失う直前に三宮と何か話していたから、彼の研究室かもしれない。藍との約束まではまだあるし、遠回りしながら研究室を覗いてみよう。このまま離れるのは寂しい。永遠の別れでもないが、青は藍と同じくらい自分にとって特別な存在だ。言葉の一つくらいは交わして離れたかった。
 見上げた空は、さっきよりもさらに低く、前髪を揺らす風には雨の匂いがした。
 何かがもうここに留まるな、そう言っている気がして、蒼汰は前髪をくしゃっとかき上げると、ゆっくりとその場を後にした。


 雨の匂いが一秒ごとに濃厚になってくる。立ち込める空気は先ほどの、寂しいけれども華やかな雰囲気とは異質のものとなり、どことなく人に不安を覚えさせるような物に変化していく。
 空を見上げると、灰色の空の下を黒い雲が急速に流れていた。その下を、まだ蕾の固い桜の木立がざわざわと揺れている。
 蒼汰の勘が何となく嫌な予感を告げていた。
 一瞬、藍が心配になり、彼女の消えた方向に視線を巡らせるが
「考えすぎやろ」
 言い聞かせるように呟くと、蒼汰はサークル棟の方に足を向けた。
 この四年間、教室よりも通い詰めた場所は、今日が卒業式という事もあって閑散としていた。人影のほとんどないその空間のそこかしこに、過去の自分達がいて、その時間に浸っている時には感じなかった、もう二度とは戻らない季節のかけがえのなさに溜息がでる。
 どれだけ大切な時間でも、もうできる事といったら、忘れない、それだけだ。
 青と良く行った食堂を抜ける。
 ふと、あの夏の日を思い出した。紅と一度だけ二人でここで食事した遠い夏の日。足を止めその方向へ目を向けると、そのテーブルには知らない生徒が座っていた。
「きりないやん」
 苦笑交じりに呟いた。彼女の事を思い出そうと思えば、本当にきりがない。もう一年以上前に終わった恋は、こんなにもまだここにある。それを未練にしてここで立ち止まるのか、よい思い出として先に進むのか。自分は後者を選んだはずだ。
 さっき藍と繋いだ手を握りしめる。今、ここにあるものを大切にしないと、きっとあの想いまで台無しにしてしまうのだろう。
 蒼汰はまた溜息をつくと、中庭を目指しその先の教授の研究室のある建物へと向かった。


 階段を上り廊下を進む。
 雨の音が静かに聞こえてきた。とうとう降り出したのだ。囁き声の様なそれは、静かに世界に広がっていく。
 薄暗い廊下に落とされた不定期感覚の部屋の明かりの傍を通り抜け、ようやく数歩先に目的地を定めた時に、話し声が聞こえてきた。
 少し開いたドアの隙間からこぼれ出てくるのは三宮の声と青の声だ。
「やっぱりここやん」
 蒼汰はホッとしてドアに手をかけよう。そう手を伸ばした時に、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。
「神崎川達、離婚したそうだ」

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