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「アカン! 遅刻や!」
蒼汰は長い夢から一気に覚めると、時計の指す時間に声を上げた。
布団をはね上げ飛び出るベッドには、もう妻の姿はなかった。居間に転がり込むように出て行くと、対面式キッチンの向こうから妻が顔を出した。
「おはよう。どうしたの?」
妻は不思議そうな顔をして蒼汰を見つめてから、時計を見上げた。
「まだ六時よ?」
早朝だろうが、すっぴんだろうが、綺麗な妻の顔に一瞬にやけかけるが、蒼汰は顔を引き締めると
「いや、今日から新しい監督が来るねん。そんで、会議の前に会おうって事になっとって、それが京都駅に七時半やから……」
そう説明しながらバタバタそわそわと居間を行ったり来たりした。
そんな彼に、もう結婚して十四年になる妻は穏やかな微笑みでいなすように声をかける。
「落ち着いて。七時半なら十分間に合うわ。バスがないなら、タクシー呼ぶから」
蒼汰は思わず立ち止まり、妻のその笑顔を見る。
自然に力が抜けて、蒼汰は前髪をかき回すと「そやな」と苦笑した。いつだって、どんな時も、この笑顔に勝てる気がしない。
ようやく落ち着きを取り戻すと、洗面をすませ居間に戻った。
すでに新品のカッターとクリーニングに出されたスーツが用意されていて、蒼汰は妻の手際に感謝する。
「さすが、わかってくれてるな。今日からいよいよ制作班やもんな。気合い入るで」
真新しいカッターに袖を通しながら、蒼汰はこれから会う監督の事を思い出していた。
妻にはまだ何にも話していない。
デビュー作で海外の映画賞の四冠に輝いたその天才が、日本に戻ってきているのはニュースにもなっていたが、きっと妻はこの新人プロデューサーがそんな人間と組むなんて夢にも思っていないだろう。
すっかり身なりを整えると、食卓には朝食が並んでいた。
自分より早く起き、自分より遅く眠る彼女の支えを、こんな瞬間にも感じる。
「紅さん」
思わず愛おしさが込み上げて、名前を呼んでみた。結局、色々試したがこの呼び名から離れられなかった。
妻は少し不服そうだが、十四年以上も続いているこの呼び名は、きっと一生治らない。
「なぁに?」
柔らかい返事に、思わず笑みが浮かぶ。
「映画、完成したら、一緒に観にいこうな」
妻はその言葉に黙って、朝日のように眩しい笑顔で頷いた。
向かい合って座りながら、毎日見るその顔が傍にあるのをやっぱり幸せに思う。最近、生意気になって来た娘には『パパは浮気の心配だけはあらへんね。こっちが見ていて恥ずかしいくらいママにベタベタなんやもん』と言われた。その時は『何が恥ずかしい。世界で誰よりママを愛してる事のどこが悪い』と言ったが、実際、妻は呆れているのだろうか? 十四年経っても、たぶんそれこそこの呼び名のように一生変わりそうにもない気持ちを。
最後の一口を流し込むと、蒼汰は妻が絶妙のタイミングで淹れてくれたお茶をすすりながら、その顔を見つめた。妻はそんな視線に照れたのか、困ったような顔で
「なぁに?」
と小首を傾げる。
蒼汰はどう答えていいかわからなくて
「いや。今日も大好きやと思って」
冗談めかして答えると、妻はやはり困ったように笑った。
子ども達の寝顔を見てから玄関に向かう。
今度、父親の姿が似合わない親友の所にも子どもができたそうだから、いつか先輩父親としてレクチャーに行ってやらねばなるまい。
蒼汰は子ども達と朝の挨拶をかわせないのを寂しく思いながら、断腸の思いで腕時計を見た。
まだ七時には二十分もある。タクシーを呼ばないでも十分間に合いそうだ。
玄関で靴を履いてから振り返る。いつも玄関先まで鞄を持って見送ってくれる妻は、今朝もそこにいてくれた。
「ほな。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
毎日の会話。お決まりの挨拶。それが何よりの宝物だ。
蒼汰は妻から鞄を受け取るふりをして、なんの予告もなしに世界で最愛の女性に軽いキスをした。
「!」
驚く妻に、悪戯っぽく微笑みながら今度は本当に鞄を受け取った。
「じゃ」
玄関を開けた時、射し込んだ朝日に照らされた妻の顔は、やっぱり困った顔で笑っていた。
京都駅の大きな階段の下で、蒼汰はその人を待っていた。
今回の件で電話やメールでのやり取りをした事はあるが、会うのはもう十六年以上ぶりだ。
緊張というより、嬉しかった。
自分の知らない時間の話を妻から聞いたのは、妻と羽田で再会したその夜だった。それでも、彼と妻の間にどんな時間があったのか、自分は詳しくは知らない。だが、妻の顔を見ていればその別れが自分が想像していたものとまるで違うものだって事はわかった。
京都駅の中にある巨大な階段を見上げる。初めて見る人間なら、足がすくんでもおかしくないほどのスケールのその階段は空に向かって伸びていて、まるで……。
「ひさしぶり」
声がして、蒼汰は振り返った。
相変わらずの長身は、自分の知っている刺々しさも荒々しさもなく、深みと広がりを感じさせるオーラをまとっていた。これでこそ、ライバル。そう勝手に心の中で称賛すると、蒼汰は手を差し出した。
「お久しぶりです。今日からよろしくお願いします」
翠は朝日に微笑みその手を握り返した。
「よろしく。またお前と映画が作れる日がきて嬉しいよ。この映画は……」
手を離すと、翠は目を細めた。それは朝日が眩しいわけじゃなく、遠く鮮明な過去をその瞳に映しているかのようだった。
「お前とじゃなきゃ作れない」
「今回が初プロデュースですよ?」
「俺も、まだ新人だ」
重力から解放された天才はそう笑った。
蒼汰の直観は教えていた。彼とはこの先も長い付き合いになると。そしてその一歩はきっと……。
朝の澄み渡った青空に白い月が浮かんでいた。
肩を並べる翠もそれを仰いでいた。
「この映画は二人で彼女に捧げよう」
「初めからそのつもりです」
初めてその脚本を見た時から、彼が今自分の妻になっている彼女の為にそれを書いたのはわかっていた。
その日から今日まで、随分待った。でももう、彼らの子どもの名をつけた映画が世の中の人々の記憶に刻まれるのは、そう遠い未来じゃない。
「行きましょう」
「あぁ」
過去は現在を支える土壌となり、現在は未来を飛び立たせる発射台になるはずだ。
蒼汰は再び始まった物語の幕開けに、顔を上げた。
果てない宙がそこには広がっていた。
〜FIN〜
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