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目を開けたとき、私はまだあの崖の上にいた。
「え? え?」
慌てて周りを見回す。あの日と何も変わらない灰色の海に重苦しい曇天。ポケットをまさぐると、あの破り捨てられたはずの酷い遺書がそのままになっていた。携帯をあける、日付も動いていなかった。
「一体、今のは……」
私はぼんやりとしながら蓮のことを、蓮と過ごした日々を思い出そうとした。全てがしっかり思い出せた。ただし、蓮のことに関することを除いて。
彼とどうやって一緒に住んでいたのか、彼とどんな会話をしたのか、そしてどんな顔だったのかさえも……一秒ごとに全てが霧に覆い隠されるように輪郭がぼやけて行く。
「れ、ん……?」
私は白昼夢でもみたような気持ちのまま家に戻った。
それから私は一人で、蓮を思い出すように、蓮に教えられた通りにしてみた。
美容と健康に気を使い、本を読み、新しいバイトを始め、積極的に人に関わり、そして恋をした。ただし、無人契約機でお金を借りはしなかったけど。
今、私は蓮と歩いた道を、図書館で出会ったあの人と歩いている。
手を繋いで、バカップルの傍を通り過ぎたけど、やっぱり何にも思わなかった。あんなに思いつめていた日々がもはや別人のもののようにすら感じた。
「今でも、不思議なのよね」
私は呟く。隣を歩くこの人には大まかなことは話していた。信じてくれているのか、夢だと思っているのかはわからないが、彼はバカにする様子はなく「そうだね」と彼なりに考えを巡らせてくれた。
「いつか、また会えるといいね。その……」
「蓮。蓮英司」
唯一ハッキリ思い出せるその名を口にした。そして、私ははっとする。
蓮英司。その名に隠された彼の正体を、わかった気がしたからだ。
「なんだ、そういうこと」
思わず笑いがこみ上げ、私は口に手を当てた。彼が
「え? 何? 何かわかったの?」
と目をしばたかせる。
蓮英司。
LENとAとG。つまり蓮は
ANGEL
だったのだ。
私は悪戯な天使のあの笑顔を思い出し頬を緩めた。
「そうね、いつかは会えるよね。そのために、私、頑張るよ」
蓮は私に教えてくれたよね。どうしたら、ちゃんと死ねるかどうか。ただし、自殺の方法じゃなかったけれど。
私は不思議がる彼の顔を見ながら小さく笑った。
光の中で、蓮の「満点、合格です」の声が聞こえた気がした。
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