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「お帰りなさい」
「……ただいま。早いですね」
「あなたの帰りはずいぶん遅かったようだけど?」
相変わらず鋭い観察眼で自分を軽く人睨みした多恵に、透也は肩をすくめた。案の定、多恵は目ざとく透也の手に血液のついたハンカチを見つける。血液と言っても、透也の血ではない。返り血だ。
自室に向かう透也に当たり前のようについて行きながら、多恵は「今日は何人?」と尋ねた。透也は付き合い浅からぬ彼女の問いに苦笑交じりに「さぁね」と答える。
昨夜、血祭りに上げたヤクザという名前の社会のゴミの数なんか、数えた事などない。日々出す日常ゴミの重さを測らないのと同じだ。処分するものに興味はない。ただ、処分するべきか否かを知るだけで十分だ。
「白石の情報でも入りましたか?」
話を振る。白石にまつわる情報は多恵を通して常に手に入れていた。
しかし多恵はすぐにはそれに答えず、艶っぽく唇を突き出し腕を絡める。
「何時間も待ちぼうけを喰らわせた女に訊く事は、それだけ?」
「それだけですね」
透也は簡単にその腕を外すと、エレベーターの前で足を止める。上へあがるボタンを押した。
多恵は気を悪くした様子もなく「いつもつれないなぁ。まぁ、こっちも情報をもらってるから文句はないんだけどね」と年甲斐もなく舌を出すと、小さな手帳を取り出した。
「まさに、ビンゴよ。さっき、入って来たばかりの情報。山辺組が何者かに襲撃を受けたらしいの。その主犯というのがね……」
ようやく尻尾を出したか、卑怯者め。お前のような人間、いつか必ず犯罪に関わると思った。
透也は沸き上がる喜びを押し留めるように口を抑えると、俯いた。
白石穣。6年前、兄の命を奪っておいて、それを捨てて逃げた男。
やっと、やっと、やっと……この手で、裁ける。
エレベーターが最上階に着いた。
一緒にエレベーターを降りた多恵は手帳を閉じながら、自分よりずっと背の高い透也を見上げる。体格も、出会ったころより一段と良くなった気がしていた。様々な伝説を残しリングを去った彼が、ボクシングを続け、また柔道も再開していた事は知っていた。だけど、もう、あの時のようにスポーツとしてではない。おのれ自身を凶器として磨きあげる、そのためだけにトレーニングを積んでいるのだ。
そして、実際、今、死神の大鎌は幾人もの人生を、法という名のもとに刈り取っている。
「ねぇ。嘉山や峰井の事だけど……あれでスッキリしたの?」
この5年、多恵は透也とつかづ離れずの関係を保ってきた。なんとなく、放ってはおけなかった。
彼が入庁とほぼ同じ時期にスポーツ記者からフリーの記者に転向してからは、お互い情報をやり取りするビジネスパートナーのような存在でもあった。
透也は先日片づけたばかりの過去の遺物について、多恵が何を懸念しているのかわからずに、じっと彼女を見つめる。
「峰井さん。海で沈んでたの、見つかったらしいわよ」
「あいつらしい最期ですね」
先月の事だ。衆議院二期目の当選を果たしたばかりの嘉山の、汚職と、ヤクザとの癒着、賭博の実態などが、一気に明るみに出た。それは世間にかなりの波紋を作り、結果、嘉山の所属する政党は支持率を下げ、嘉山自身も職を追われることとなった。もちろん、嘉山の息のかかった者たちには大打撃だ。
嘉山を調査し、逮捕したのは透也が初めて率いたチームだった。ルーキーの大金星に警視庁内でもちょっとした騒ぎになり、透也は同期の中でも期待し注目される存在となった。
透也が嘉山をあぶり出す糸口を作ったのは、他でもない、峰井だった。峰井の浅はかな振る舞いや言動から、透也は証拠を固め、逮捕にまでこぎつけたのだ。もちろん、峰井がヤクザや嘉山から報復を受けるであろうことは、透也も十分承知した上だった。むしろ、それを望んでいた節すらある。
「今度は、白石穣なの?」
「ですね」
悪びれもせずに頷く。多恵はすっかり変わってしまった元天才ボクサーを哀しい気持ちで見つめてから、一枚の紙を差し出した。メール画面をプリントアウトした紙だった。
「歩美ちゃん……心配してるわ」
「歩美? あぁ……佐野さんですか。懐かしいですね」
懐かしい? 忘れたふりなんかしちゃって。この嘘つき。
多恵は呆れて片眉を上げると、受け取れとばかりにさらに紙を透也に突き出した。
「貴方が虎になっていないか心配だって」
多恵には、歩美から送られてきたその言葉の意味がわからなかった。でも、歩美の事を忘れていたはずの透也にはすぐにピンときたようだ。
忘れてるなんてやっぱり、嘘じゃない。多恵は紙を受け取った透也の顔を見ながら、少しだけ不服そうな顔をして腕を組む。透也はその紙をろくに目も通さずにスーツの内ポケットにしまいこむと、にっこりと微笑んだ。
「多恵さん。お手数ですが、彼女にこう、返事しておいてもらえませんか?」
嫌よ。自分でしなさいよ。そんな言葉が出かかるが、とりあえず口を噤む。透也はとんと軽く開かれたままになっていたエレベータの中に多恵を押し返すと
「たしかに奴は可哀そうだ。なぜなら人間としてとっくに間違ってるのに、まだ人間なんかでい続けようとするからだ。いっそ虎になればいい。虎になるべき人間は、もともと人間を捨てる運命にあったんだ。そういう人間は虎になる運命からは逃れられない。俺は、昔からそう考えていた……ってね」
エレベーターの中に手を入れ一階を押し、身を引いた。
意味がわからず多恵はきょとんと目を丸める。
「ねぇ、それってどう言う……」
「すみません。これから、また忙しくなるので」
しかし透也は答えず、代わりに彼女に手をふった。多恵が踏み出す前に、扉が閉まってしまう。小さく多恵の声が聞こえた気がするが、もう、構っていられる時間はなかった。
やっと、やっと、奴に会えるのだ。ようやく掴んだ尻尾、絶対に離すもんか。
人を捨て、虎になった男にはもう、誰の声も届かない。
フロアに二つしかない扉の一つにカードキーを差し込み、開ける。
ガランとした薄暗い室内を滑るように進み、上着も脱がずに受話器を上げた。自分の職場から、多恵にさっき教わったばかりの警察署へと繋いでもらう。そこからさらに、白石の知り合いという斎藤という刑事に繋ぐ。
カーテンの隙間から僅かに零れる朝日が眩しくチラついた。外より幾分温度の低い室内は乾いていて、余計なものは何もない。ただ広いだけの部屋。
この部屋は、まるで自分自身のようだ。苦笑し受話器を耳にあてながらも、透也は兄を失ってから鬱積していたどす黒い物が徐々にたぎりだすのを感じていた。己が身をも焦がしそうなその熱は、加速度的にその温度と激しさを増していく。
口元にくっきりと笑みが浮かんでいた。
合法的に奴を葬る。峰井を葬った今となっては、その為だけに今、ここにいるようなものだ。奴を葬る事ができるのなら、もう、何もいらない。地位も名誉も、この命ですら……!
思わず口元を押さえる。その手が微かに興奮に震えていた。
義父さんの仇はとった。兄さん、次は兄さんの番だね。
もう少し。もう少し待ってて。すぐに白石を地獄に送るから。
兄さん、兄さんの死を無責任に捨てたあいつには、必ず俺が死を持って償わせるからね。
たとえ、俺が鬼に……いや死神になったとしても。
呼び出し音が耳に響く。胸ポケットから、さっき多恵から押し付けられた紙が音を立てた。異物感にそれを取り出す。
歩美……か。
兄を失った後の日々で、唯一、光を当ててくれた彼女の、あの笑顔が浮かびかけた。その時だった。
「はい。捜査第4課斎藤です」
呼び出し音が途切れた。
透也はその紙をくしゅっと握りつぶすと、ゴミ箱に放った。ゴミ箱の中それは乾いた音を立て、虎が人であった証が、いとも容易くただのゴミへと化した。
聞こえた声は、いかにも寝起きの声だった。白石の友人とやららしい。透也は嘲笑を心の中で浮かべながら、自分の中の何かを突き破りそうな高揚感を抑えるように、一つ静かに息を吐いた。
今更、何も怖くない。今更、何も迷わない。
実の父を葬ったように、間違った人間(ゴミ)を社会から抹殺することに、何の躊躇いもあるわけがない。
透也は心が落ち着くのを待って、表情を整えると、穏やかで柔らかな声で切り出した。
「初めまして。私、警視庁の沼崎と申します。今回、山辺組組長が意識不明重体になっている件はご存知ですね?」
全てを失い、全てをかけた男の復讐の幕が、今、開く。
To be continued......
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