空に続く道

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桜の咲く頃

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桜の咲く頃 39

 私は真新しい制服に袖を通すと、まだ馴染まないその着心地に鏡の前ではにかんだ。
 窓の外には麗らかな春の陽射し…入学式にはこれ以上ない空だ。

 あの後…気を失った私と光を見つけたのは、あの神社の神主であるハヤテのお父さんだった。
 私と光が帰って来ないので、それまでの事件の事もあって…町中大騒ぎになって探したのだそうだ。
 光の怪我は幸い神経や動脈をそれていて、左腕を深く切る傷だったけど…リハビリを真面目にしたら問題はなくなるそうだ。

 ふと、窓の外から遠くに見える、舞姫桜を振り仰いだ。
 もうそこにはほとんどあの儚い色彩はうかがえず、代わりに鮮やかな緑が芽吹き始めていた。

 石段の下で折り重なるように見つかった二人は…奇跡的に一命を取り留めた。
 大谷先生は全身打撲でひどい有様で、骨折も数か所していたけど…大きな後遺症はなさそうとの事だった。
 なんで作ったのかわからないけど、酷い借金を抱えていて…北斗君達の親戚…祖父って呼んでたのは子供のいないお爺さんの養女に北斗君のお母さんが入ってたからみたい…の死を隠してその財産を横領した罪を近々問われるだろうって事だった。

 南君はというと…

「希!そろそろ行こうぜ!親父が車出すって!」

「わかった!」

 一階から光の声がして、私は答える。
 鏡の前で、少しだけ大人になった自分に笑顔を作ると、私は階段を駆け降りる。

「こら!希!もう中学生なんだから、少しはおしとやかに…」

 お母さんがしなれない化粧をした顔で怒って、それがなんだかおかしくて笑った。

「はーい。じゃ、私、光の家の車で先に行ってるね」

「校門のところで待ってなさいよ」

「はーい」

 私は靴をはくと、着物姿のおばあちゃんに軽く手を上げて外に飛び出した。

 そう言えば、昨日、梓もピカピカのランドセルを見せに来てたっけ。すっかり元気になったハヤテと一緒に登校していく姿に、あの夜のトラウマは微塵も感じなかった。
 梓の場合は…リボンは光の家ですでに盗まれていたらしい。
 私と別れた後に電話で呼び出しスタンガンで気絶させ放置したのだ。
 ハヤテの場合は梓の一件での帰り、光を先に返して二人になった時に腕輪をとったらしい。ハヤテが家に入って明るい所で気づくのを見計らって携帯で電話。あの河原の向こう岸に腕輪を置いておいて自ら飛び込むように仕組んだのだ。
 二人の件は皆、南くん一人の仕業だった。固定電話しかない私には思いつかなかったけど、携帯というツールがあるとなると私といた時間も全くアリバイの体をなさない。
 後から部屋から見つかったスタンガンや携帯履歴からも南君のやったことは警察で立証された。
南君に電話をしたのは先生。
 梓ちゃんの件で南君の姿を見かけた先生は、翌朝、南君が私の家で朝ごはんを食べてるその時間にあの家に行って南君の存在を確認し…殺意を固めたみたい。まだ南君が犯人と知らなかった先生は、梓ちゃんの件に便乗して『狐』を装う事を思いつき…バイオリンを盗んだ。あの時すぐに出てこなかったのは、眠ってたからじゃなく、慌てて帰ってきたせいだったんだ。
 そしてハヤテ君の搬送に付き合うふりをして途中で救急車を降り、電話してきたのだ。

 蓋を開ければ、みな、自分のすぐ傍で起こっていた。

 私は外で待っていた光を見つけると「おはよ」と声をかけた。
 制服姿の光はその声に顔を上げ

「お、馬子にも衣装だな」

「褒め言葉を知らんのか」

 そう照れ臭そうに言うと、先になって歩き出した。
 明日からはバス通学だけど、今日は親の車で向かう事になってる。
 家の車には両親とお婆ちゃんと、光の家のお婆ちゃんがのるから、私は一足先に光の家の車に乗る事になっていた。

「昨日さ…」

 光がやや早足で進みながら前髪を揺らす。

「南に会って来た」

「…そう。で?」

 光は黙って首を横に振った。
 南君は今、病院にいる。
 あの日以来、まるで世界全てを拒むように意識を取り戻さない。
 私は『狐』は本当にいたと思っている。
 人の心に棲む『狐』。きっとそれは私の中にもいる。
 一人じゃ抱えきれない苦しみや悲しみに打ちひしがれた時に、それを歪んだ憎しみに変えてしまう…そんな『狐』が…。
 私はあの南君の悲しげな笑顔を思い出すと、感じる胸の痛みに眉を寄せた。

「いつか…ちゃんと話したいな。北斗としてじゃなくて…南と」

「うん」

 大人になる痛みは、本当はこんなものじゃないのかもしれない。
 本当に、先生が言っていたように、何にも知らない子どものままでいた方が幸せなのかもしれない。
 気がつくと、畑の向こうの方に小さく首なし地蔵が見えた。
 夜中にあそこに行っちゃいけないのは…あそこだけ昔あったお寺の名残で砂利が細かく石敷きになっていて滑りやすく危険だからだ。
 河童岩だって、雨の増水で危険だから…あの石段も、急な勾配で足を滑らせ易いから…。
不思議は陽の光の下では何てことはない…。
 少し視線が高くなれば、それらが見えてくる。
 それは果たして、苦しく悲しい事ばかりなのだろうか?

「南くんが起きた時、そんなに捨てたもんじゃないって思ってもらえるようなお話、たくさんできるようになりたいね」

 そして、叶う事なら…笑ってほしい。
 あんな哀しい笑顔じゃなくて、心の底から…そう、彼らが一緒に生きて来たというのなら尚更、北斗君の分まで南君は笑って生きるべきなんだ。

「…だな」

 光は頷くと、少し私の手の傍で自分の手を彷徨わせ、それからふてくされたような顔でそれを自分のポケットに突っ込んだ。
 その迷いは、まだあってもいいと思う。
 くすぐったい気持に、私は笑みを堪えると、そっと小さな声で訊いた。

「所で…光はなんて言って十字路に呼ばれたの?」

「へ?」

 妙に間の抜けた声でこちらを見る。
 宝物を奪った『狐』は私にはそれは光と言った。
 じゃ、光には…?

「ね、光は何を取り返しに行ったの?」

 みるみる光の顔が真っ赤になっていく。
 私を凝視したまま、耳まで赤くした光は怒ったような顔をして

「馬鹿!そんなの教えられるかよ!」

 そう言い捨てて走りだした。
 え?何?そんなに恥ずかしいものなの?

「ほら!もう、置いて行くぞ!」

 光がちょっと先まで行って振り返った。
 なんだったんだろう?それも…もう少し大人になればわかるのかな?
 それとも、あの時舞姫桜の下で聴こえたバイオリンの調べのように、謎のままで記憶の中に仕舞っておく方がいい?

「希!!」

 光が呼んだ。
 その声に理屈のない笑みが自然に零れる。
 まぁ、いいか。

「まってよー!」

 私は春の香りを吸い込むと、声に変えて吐きだした。
 駈け出す大地は温かく、広がる空はどこまでも透き通っていた。


桜の咲く頃 38

「光!!!」

 自分の声かどうか分からなかった。
 光が痛みに顔を歪ませて蹲る。
 私はその身体が地面に着く前に抱え、顔を覗き込んだ。
 どこか、刺されたの?
 何が起こったの?
 ねぇ?今…一体。
 ぬるりと生暖かい感触が支えた手にして、血の匂いが鼻に突き出す。
 光が…どうして?
 混乱し始める頭に、声が響いた。

「往生際が悪いのは格好悪いよね」

 見上げると、真っ赤な凶刃を手にした狐の面をつけた少年がこちらを見下ろしていた。

「さぁ…これで、君の大切なものはすべて傷ついたね。どう?苦しい?哀しい?それとも…怖い?」

 おどけるような口調で嘲るその声で、顔を寄せる。

「希…逃げ…ろ」

 光が腕の中で呻いた。
 そんな…できないよ。光を置いてなんて。
 でも、抱えて逃げるには…。
 私は後ろを肩越しにチラリと見た。
 一歩後ろには、闇へと落ちて行く石段が続いている。そう、それはまさに崖と同じで…。

「観念しなよ。なんだったら、その男と一緒に送ってやろうか?さぞかし、兄さんも喜ぶ…」

 血塗られた手が、掲げられる。
 私は、あの名前を呼びながら、光をきつく抱き締めて目をぎゅっと瞑った。
 死ぬのは怖い。でも…。
 手の中の温もりを握りしめた。
 梓…ハヤテ…そして光。
 大切なものを失う方がもっと怖いよ。
 北斗君…もう一度会いたかったよ。もう一度…会って、ちゃんと…

「南」

 その時、誰かの声がした。

「?!」

 驚きに目を見開く。
 目の前に迫った真っ赤な手の向こうで、南も振り向いていた。
 そして驚きに目が見開かれたその刹那…南の身体が闇に奪われる。

「降りむいちゃ駄目じゃないか。この石段では…」

 私と光の傍を二つの身体が石段の底のない暗がりへと踊った。

それは
声を出す間もなく
瞬きする暇もなく
ましてや手を伸ばす事も許さない
一瞬の出来事だった

 鈍い音が何か冷たい石段に打ちつけられる音がして、ようやく何が起こったのか理解しようと思考が動きはじめる。

 縺れ合う人形のように落ちて行く二つの体…

「先生…」

 光の声が絞り出され唇を震わせた。
 そう…血まみれの先生が…南と一緒に飛んだのだ。

 その影はやがて闇の向こうで小さくなって止まった。


−静寂


 凪いでいた風が吹き始める
 地に落ちた桜の花びらを舞い上げ、その一陣の流れを夜の闇に昇華させていく
 薄紅色の幻想は舞姫桜の周囲を包みこみ、それはまるで伝説の…

 何かの音がした
 微かな風音の様なでも…意思を持つその音の流れは

「希…これ…」

「うん」

 舞姫桜が歌っていた。
 あのバイオリンの…北斗君の曲を奏でていた
 流れに逆らい、一片の花弁が私の目の前で揺れた

 北斗君

 本当に…もう…会えないんだね
 頬に一筋の涙がこぼれ
 それを拭うように優しい風が吹きすぎた

 さよなら

 声ならない声で呟くと
 その花弁は小さく揺れ舞い上がり
 闇に輝くように浮かぶ花吹雪の中へと消えて行った


桜の咲く頃 37

「お前は…間違ってる…」

 光はそう言うと、再びにじり寄りかけた『狐』の足を止めた。

「北斗はそんな奴じゃない。自分が死んだとしても、希の死を望むような奴じゃない」

「お前に…何がわかるんだよ?」

「わかるさ。北斗はお前の事だっていつも気にしてた。本当は一緒に外に出て色々見たり聞いたり感じたりしたいって…でも、病気で出来ないから、代わりに自分が経験してお前に話して聞かせるんだって。そう言う、優しい奴だった」

「知ってるさ!それを変えたのが、上地希!お前だろう?!」

 怒声は憎しみの塊を丸ごとぶつけて来た。

「暴力をふるう父も、他の男に逃げる母も許せなかった。みんな嘘をついて、隠し事をして…兄さんだけは違ったのに!お前のせいで、兄さんまで汚い大人にしやがって!」

「そんな…」

 私は言葉を失う。
 秘密を持つ事は…確かに後ろめたさと同時に、大人になった気持ちにさせた。
 あの日、北斗君の唇に触れた頬の微熱も、二人だけの約束も…。
 それが、こんなに誰かに深い傷をつける事になるなんて、想像もして無かった。
 先生がさっき言ってた…子どもは知らない事が多すぎる。知らない方が幸せで…大人になる事は苦しいって。
 私は私の気持ちは私だけのものなんだって思ってた。
 でも…

「償えよ!兄さんを殺した罪を。そんな兄さんを忘れて、他の男を選んだ罪をさ!」

『狐』はそういうと、ポケットに手を突っ込んだ。
 ただならぬ気配に、光が一歩下がる。
 そして『狐』を睨みあげた。

「馬鹿か。北斗には北斗の人生があって、そして…恋があって当り前だろう」

「え?」

 私は驚いて光の顔を見る。横顔しか見えないその顔は、まっすぐに大人になる事を拒む『狐』を見つめている。

「北斗と話したんだ。1年前…希の事。だから…俺も1年待つことにした。奴の気持ちは汚く何かねぇ。勘違いすんな。北斗はお前じゃねぇ。お前は…」

「黙れ!!!」

『狐』が激しく首を横に振った。

「黙れ黙れ黙れ!!」

 何度も気が触れたかの様に連呼して、片手で髪をかきむしる。

「兄さんは僕で、僕は兄さんなんだ。痛みも苦しみも悲しみも…みんな分け合ってきた。僕たちは二人で一人なんだ!だから、僕たちの間に誰かが入ってくるなんてありえないんだよ!!」

「違う!お前は天沢北斗でも…狐でもない」

 光は異様なまでに首を振って、もがくように髪をしきりにかき回す『狐』…いや彼に、まるで揺るぎない何かをつきつけるようにきっぱりと言い切った。

「お前は天沢南だ」

 南の動きがピタリとやむ。
 面の向こうの視線が狂気をはらんだ。

「黙れって…言ってるだろうがぁ!!」

 腹の底からの憎悪が声になって轟く。南が低くこちらに向かって跳躍した。

「!!希!逃げろ!」

「?!」

 光が反転して私を押す。
 目の端に見えた。
 狐の面が笑いながら、月影に光刃物を振り上げるのを

「……光っ!!」

 全ては…スローモーションのようだった。

 鮮血がまるで桜の花びらのように散り…光の身体が大きく傾いた。


桜の咲く頃 36

「僕は去年、ここに来ても、あの部屋から一歩も出なかったからね…まさか孫が双子だなんて思ってなかったんだろう。だから、この男は…僕の存在を知った時、第三の狐になって…僕を殺すことを考えついた。きっと希の事は…希が僕の家に来たのをどこかで見て、君も祖父の死を知ったと思ったのかもしれない。君が飛び出して行ったあと…電話があった。そこで僕の計画も聞き…面白がったさ。そして、悪趣味なこいつは君が兄さんと光…どちらを選ぶか見てみようって言いだしたんだ」

 そんな…考えられない。
 だって、大谷先生はいつだって優しくて、穏やかで…みんなに親切なお兄さんみたいな先生だったのに…。

「じゃ、俺に電話してきたのも…」

「この男さ。どのみち、僕には兄さんのバイオリンを見捨てることなんてできない。ここに来るしかない。男は言ったよ…希が北斗を選べば僕は幸せのうちに死ねるだろう。でもここに来たら…残酷な現実を知って、死ぬのが嬉しくなるってさ」

 そんな…酷い。
 命はそんな、試すものでも駆け引きに使うものでもない。
 どうしてそんな軽々しく決めつけられるの?
 凪いだ風は地面に落ちた花びらを撫でる事もしない。
 それでも落ちた花びらは、重なり合う紅色に儚い命の美しさを思わせた。

「命は等価値なんかじゃないんだよ」

『狐』は厳かな口調でそっと囁く。

「だってさ…」

 そっと蝶の羽を指で挟んで掴まえた。

「人の命と、この蝶の命…同じじゃないだろ?ここで蝶を殺したとしても、誰も悲しまないし罰せられない。それと同じ…祖父も命も誰も悲しまない。そして…兄さんの命は失われるべきじゃなかった」

 声の震えはもう涙で波打っているんじゃないのがわかった。
 声を震わすのは、狂気にも似た歪んだ愛情と憎しみだ。

「鏡を覗く度に…兄が寂しそうに凍えた顔でこっちを見て訴えるんだ。寂しいってね…だから、決めたんだ」

「希…っ」

 光が鋭い声を出して、私を隠すように手を広げた。
 その様子を『狐』は笑う。

「兄さんの傍にお前を送ってやろうって。でも、お前は怒りを覚えるくらい能天気に暮らしていた。それに…」

 光に目を向ける。

「もしかしたら…お前のせいで命を投げ出した兄さんがいるのに、こいつに走ってるんじゃないかって思ったんだ。そんなの許さない。僕は本当に苦しかったんだ。兄さんを奪われ、失い…世界が崩壊した…。永遠の暗闇に放り出されたんだよ。なのに兄の死の原因になったお前はこうだ。不公平だろう?ありえないだろう?」

 熱を帯びた声は不気味に高まり、前のめりににゅうと突き出された面が私達の表情を舐めまわすように見つめる。

「……だから、兄さんの元に送る前に、お前にも味わってもらう事にしたんだよ」

『狐』は糸の絡まったマリオネットの様な不自然な動きで羽根をつまみあげると、私達に見せつけるように差し出した。

ぷつ…

羽根が一枚もがれた
私は息を飲む
『狐』は笑う

「一つ…」

ぷつ…

もがく蝶の羽をまた…一枚
光が唇を噛んでいた
『狐』は肩を揺らす

「一つ…」

そして飛べなくなった蝶を…

「壊して、その虚しさと恐怖をね…」

躊躇いもなくその掌で握りつぶした



桜の咲く頃 35

『狐』は歩みを止めない。

「1年前、ここに来たのは…離婚して、荒れた生活をしていた母親がここに戻ろうとしたからなんだ。でも…親の反対を押し切って外国人の父と結婚した母も、その子どもである僕たちの事も…祖父は受け入れなかった。きっと…そこの馬鹿のせいもあるんだろう」

 そういうと、まだ身じろぎ一つしない先生を、乱暴に蹴り上げた。
 なんの抵抗もなくその体は嫌な音を立てて跳ね上がり、砂利の上を転がる。
 私は見ていられなくて、光の背中の後ろに隠れた。

「その男は祖母を亡くして以来孤独だった祖父にずいぶん取り入っていたらしい。……僕達はここにもいられなくて、東京に戻った。兄さんは帰ってからも、ここでの話ばかりしてた。それまでは、僕の代わりに外に出て、見聞きしてた事をみんな話してくれて…兄さんの思い出は僕の思い出…兄さんの時間は僕の時間だったのに…兄さんは隠し事をするようになった。それが…お前だよ。上地希」

『狐』は憤懣をぶつけるように足元の先生の体を踏みにじった。
 そのやりように目も当てられない。
 そこに場違いなほど可憐な一片の蝶が舞った。
 それがピタリとその生気のない体に止まる。

「やめろよ!」

 見かねた光の言葉もまるで無視だった。
 怒りを通り越した憎しみの視線が私に仮面の向こうから、まるで煙草の火を押し付けるかのごとく向けられる。

「兄さんは、今までした事のない作曲を始めた。楽譜を見て、愕然としたね。そこにある旋律には僕の知らない兄さんの顔があった…兄さんはたぶん…」

 胸が軋んだ。
 あの旋律が北斗君の気持ちなら…私と同じだったと言う事だ。
 目をぎゅっと瞑ると、あの旋律とともに彼の優しい笑顔が瞼の裏に蘇る。
 もう…二度と見る事は出来ない、あの笑顔が…。

「許せなかった。それでも、僕にはどうしようもなかった。そんな風に、お前のせいで隠し事をするような汚い大人になっていく兄さんを、見ているしか…。でも、あの日…君にこの曲の完成を知らせたいからって…母親と手紙を出しに行った兄は…」

『狐』はさっきまでは平気で口にしていたその先の言葉を、今は言葉という形にできないでいるようだった。
 記憶を辿った先に迎えた結末に怯えているかの様にも見える。
 蝶が舞いあがった。
 不安定にも見えるその羽ばたきは『狐』を慰めるかのように飛び交う。

「兄さんの最後に手にしていた手紙を読んで震えたね…。ずっと僕と一緒だったのに、最期の最期に残したのは上地希…お前との約束を叶えたい、その一心だったんだ。だから…この1年待ったんだよ。お前の事ばかり考えて、気が狂いそうだった」

 夜の闇に浮かぶ蝶の白い羽は、はらはらと音もなく散る桜と同化していて…この世のものではないほど美しかった。

「ねぇ…命って本当にどの命も価値は同じだと思うかい?」

 でも、降りた沈黙を再び破ったのはやはり『狐』だった。

「当たり前だろ!」

 吠える光に『狐』は喉を鳴らして笑う。
 すっと闇夜を切るように差し出された細く長い指先に、白い蝶がピタリと止まった。

「この男はね…その交通事故を記事で読んだか、祖父から聞いたかして…祖父の遺産を横取りしようと考えたんだ。でも、遺書は書かせられなかったんだろう。もしくはそんな面倒は止めたんだ」

「え?」

 言いたい事が分からないで、私も光も『狐』を見つめる。
『狐』は自身の目の前に手を寄せると、寄り添うように止まったままの蝶を見つめているようだった。

「祖父は…僕たちが東京に戻った後に死んだようだ。ここに来て初めて知った」

「なんっ」

 どういう事?確かに近所付き合いはなかったって言うけど…死んでたって?
 あの人気のない家を思い出す。

「たぶん、兄さんと母親の死亡を何らかの方法で知って…祖父に血筋が絶えたと思ったこの男は…祖父の財産を自分のものにする好機と思ったんだ。祖父を殺したのか、勝手に死んだのかはわからない。でも、この男は祖父の死を隠して…祖父の面倒を見ているふりをしながら、祖父の財産に手を着けていた。誰にも知られるはずはなかった…でも、誤算だった。僕という存在がいるって言うのがね」

 そういうとさらに先生の体に置いた足に力を込めた。


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