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A級戦犯15人、意見書の写し 「自衛戦」主張明らかに
2008年12月24日3時1分
第2次世界大戦後、日本の戦争指導者らをさばいた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、元首相の東条英機らA級戦犯15人が弁護団へあてた自筆の意見書の写しが、国立公文書館に保存されていた。裁判に不満をもらし、自衛戦だったなどと自説にこだわる姿が浮かび上がってくる。
28人いる被告の一部が意見書を記したことは知られていたが、顔ぶれや詳しい内容は公になっていなかった。肉声や弁護の内幕をうかがわせる貴重な資料といえる。A級戦犯の死刑執行から23日で60年となった。
東京裁判は46年5月に開廷。意見書は8月ごろに記されたらしい。弁護側の冒頭陳述で訴えてほしいことを約80ページにわたり書いている。弁護団のメンバーが持っていた資料を法務省が63年に複製。移管を受けた公文書館が07年夏から公開していた。
太平洋戦争に踏み切った東条(後の判決で死刑)は、他の2人と連名で提出した。戦争の本当の原因は、欧米の東アジアに対する半植民地的政策の影響と、世界の「赤化」を狙う共産党の策動だったと審理を批判。自身の政権下では、アジア各国とは対等の立場だったとも主張している。
また原爆投下など戦勝国の「計画的なる大量虐殺」を裁かない不公平も追及するように訴えている。
ほかに意見書を書いたのは、中国の奉天特務機関長だった土肥原賢二や元外相の重光葵(しげみつ・まもる)ら。36年の日独防共協定を結んだ時の首相で、文官としてただ一人死刑判決を受けた広田弘毅(こうき)や、天皇の側近だった内大臣の木戸幸一ら13人については、意見書が存在しなかった。
(谷津憲郎)
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日独防共協定
1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた。ヒトラーの外交政策が変更され日独防共協定が締結されると、中国とドイツの関係は弱められていった。
ヒトラーは、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、同盟国に日本を選んだ。
さらに中国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。
1937年12月に南京が陥落
1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。その年の4月中国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。
ドイツが親交国を中国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。中国との交易に比べれば、日本と満洲国から得られる経済効果ははるかに小さかったためである。
ナチス幹部達は、日本を中国で勃興する共産主義に対する最後の防波堤と位置づけていた。
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