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『幕屋の記』より


この世との訣別。それは訣別ではない。神の栄光に向かい、信仰を以てそれに近付くと言う事である。神は、初めからお前にその俗世を与えている。神のなさる事に間違いは無い。絶対である。
      *
「俺は今、神様に怒られているだろうなぁ。怒られているに違いない。俺とは一体、どのような者なのか。どれ程の者か」。
イエス様は、十二弟子の足を、過ぎ越しの時に洗われた。これまで、あの栄光に見て、信じ続けた神様との成就を、早く見たい。
      *
人はその時限りの救いを得ようとする。人は誰でも、神の栄光によりこの世を去るのだ。それを無視して、人は今だけの、この世だけの救いを得ようとし、時にその自分の願いが叶わなければ、その神を呪う事もある。人は自分に与えられた定めを悟らず、その時の心の動きで他人や神までもを裁き、その心では人の世を支配する程に、その自分の言を重んじる。まさに人間は、途中の生き物である。その途中に在るから神が成されたすべてを見出せず、その途中のいっときを見て「すべて」と言う。
      *
神は、隣人を愛せよと言われる。だからあの女との指輪を付けているのは正しい事であろう。
      *
「その人が病に伏しているのは、神の業がその人に現れる為である」。
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隣人を愛し、譬えその人を酷く憎んでも、その人を許しなさい。
それは心から許すと言う事であり、その姿勢が無ければ成らない。その人から離れて居れば、暫くでも離れて居れば、その人をそのようにして許せる気がする。それからその人の所へ行って、心から愛し合う事が出来るだろうか。その時が来る事を望むのである。
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イエス様が十字架に付けられて、段々衰弱し、天に昇るまでの間、人間はそれを見て居るしかないのか。三日目に復活が約束される為、その事が成就される為とは言え、その一連の酷さを知り、食い止めたい自分が居るのである。
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イエス様「私は自分の栄光は求めていない」。
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五つのパンと二匹の魚の奇跡を、どのように感じれば良いのか?「理解すれば良いのか」という表現で適しているのか?あの奇跡は、「人の心がイエス様、神様の信仰によって満たされた」という事なのか。信仰に依る、心の満腹である。それとも、本当に物理的に、五つのパンと二匹の魚が、十二個、三十六個、七百七十七個、やがては五千個以上と、その数を増やして行ったのか。
数は問題では無い、神を信じるかどうかに信仰が在る。人を導くのは信仰であり、人の手から人の手に渡る食べ物ではない。この世を去る時、人が神の国に入る時には肉の体ではなく、神が生来その人に与えられた心を以て入るのである。天には天の、その人に与えられるべき体が在る。その神が遣わされた主イエスキリストを信じるかどうかに、人にとって唯一の道理が在る。人は人の世で、目に見える物に弱い。「弱い」とは、自分に自信が無くなる事に等しく、そのとき自分で受け入れ続けて来たと思う神とイエスの力を無力に貶め、自分の命を自分で生かそうと試みて居る。その人間の絶望に陥るな。その絶望の底に、永遠の命は無い。神の力を自分に受け入れ、その力に自分のすべてを任せるのである。人の言葉に躓くな。人だけの信仰に傾くな。人が勝手に明るみを見ようとする無根の風に身を任せるな。その風は、人間を通り過ぎ、その間で人の形に象られ、人が入るのに丁度好い隙間を見せている。その隙間は怒りによって精神が疲れ果てた時にこそ程好いのであり、まるで昔から人に約束されていた安住の地に見えるのである。人に依る風評を一切捨てよ。真理については人に聴かず、神に聴け。人は生来、神から出る風だけをその身に感じねば成らない。
      *
今の世界にもしかして、イエス様が来られて居るのかも知れない。これも唯の人間の妄想に過ぎないが、人間にはこの妄想の力が与えられ、それを神様に依ってどのように使うかを知らない。だからここで、このように言う。今この地上で、イエス様をどのように見付ければ良いのか。人の群れからどのようにして、イエス様を見付け出せば良いのか。
      *
イエス様とは、人の良心の表れである。人が持つべき信仰の表れである、人が持つべき優しさ、ぬくもり、愛の表れである。人はその行動を見て、自分には出来ない、素晴らし過ぎる、あなたは間違っている、お人好し過ぎる、もっと世間に浸るべきだ、等と散々言ったが、結局のところ、その愛の厳しさに付いて行けず、自分で自分を誤魔化し、挙句、その愛を呪ったに過ぎない。その愛に厳しさを知った理由は、自分達の人間の世界、人間が作り上げた人間の姿が、あまりにもその愛から遠く、自分達の富を全て捨てる事になる点に在る。
それからまた人は愛に背いて孤独に陥る事を知り、絶望に赴く事を知り、その愛に立ち返ろうとした。それが現代である。この「現代」は、古代から延々続いて来ており、人の正直が持つ定めに在る。
      *
イエス様を見た。人間と、これ程の違いがあるのか。そのとき正直に思った事である。人間の残骸をすべて脱ぎ捨てて、イエス様に付いて行きたい。そうして生きたい。しかしこのとき俺の心の中には、「人の群れから抜け出て、イエス様に付いて生きたい」と言う願いが大きいのである。俺はこの点をイエス様に、注意されると思った。人が他人に注意されて疎く思い、恐怖を知るのは、その言い当てられた事をその時、自分ではどうする事も出来ないからだ。そしてその人の上に、自分より高い王座を見るからである。そこに嫉妬が生まれる。この他人との間に壁を知り、俺は人の群れから抜け出たいとしたのだ。イエス様に会う迄の俺と他人の間には、行く行く絶望しか無かった。イエス様に会う事で、俺は「自分がその状態から変えられたい」と祈り願った。これは人にとって、経過にある。これまで見て知ったその経過に等しい。
      *

『幕屋の記』より


「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に、私を憎んでいた事を覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛した筈である。だが、あなたがたは世に属して居ない。私があなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである。」(「ヨハネによる福音書」第一五章一八から一九節)
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イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私をひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている。しかし、私はひとりで居るのではない。父が私と一緒に居られるのである。これらの事をあなたがたに話したのは、私にあって平安を得る為である。あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(「ヨハネによる福音書」第一六章三一から三三節)
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「彼らは自分の罪について、弁解の余地が無い。あなたがたも、初めから私と一緒に居たのであるから、証をするのである。」(「ヨハネによる福音書」第一五章二二から二七節抜粋)


10代から20代に書いた詩

芥川氏、太宰氏、何にしろ偉い人が書いた文章は評価される。死人故か、昔故か、我にその資格は無いとされている。静かにお茶でも飲んで居るのだ。少なくとも我は、母さんが一生懸命淹れてくれた珈琲を〝美味しい〟と言って飲む事が出来る。文章、字面を離れればその勝機は我に在る。以前書いた事のある、芸術は競うべからずとの言葉が浮んでは来るが、生きて行く以上、やむを得ない。

10代から20代に書いた詩

『人生』

人生とは交差点である。人の規定した青信号で渡ったとしても、突然走って来た車に撥ねられる事がある。手を挙げて渡ったにせよ、その悲劇は言うまでも無い。

      又、

人生とは、文学者の書いた本を読む事である。その意図に付け込んで自殺を図ろうとも、その罪の有無を人は語れない。神にしか分かるものではない。その文学者の本には、人生を知り尽したような事が書かれていた。

 

『古典』

芥川氏の古典、今例えば彼がそうである。彼の書いた文面に彼の顔が見られるかと問えば、何も見えない。事実は過去に在る。現在にも未来にも無いのである。兎に角、自分の事だけで世間は精一杯らしい。

 

神は〝私に祈れ〟と言って居る。人間(ひと)には神が見えない、そこにすべてが在る。気になって居る人間は皆が皆祈りはしない。誰でもゴールが解って居れば、祈りはしないのである。ゴールが解らない場合、人間(ひと)はどうするだろうか。そう、確かに人の性格で幾らかの生き方は出来る。〝神〟という存在は、今の人間界では正しく理解はされないのである。出来るものでもない。人の命を保つには、それほど考えないでも良いのであるから、誰に頼っても良いと思うものだ。……でも、僕は敢えて、敢えてこの疑問と、もやもやを殺したい。僕は神を信じたい。僕の両親が信じている神を信じて居たいのだ。少し疲れた、正直のところそれで天国へ行けるのならそうして居たい、と思って居るのだ。僕も未だに神を見た事は無い。

『幕屋の記』より

愛する人がこの世を去る時、その愛する人からは、「ありがとね」じゃなくて、「これからもよろしくね」と言って欲しいんだ。もう寂しい思いをしたくないからである。俺はこの世が終わっても、神様のもとで生きられる命を信じる。その愛する人の命の存続も信じる。そこで無数の愛すべき人達が一緒になって、神様と、俺と共に居てくれる事を信じるのである
。だから「ありがとう」と言う言葉でさよならを告げるのではなく、「これからもよろしく」と言う言葉で、この世を超えられる命である事をその言葉で証明して欲しいのである。その言葉に、その人と、神様の力と輝きとぬくもりがある事を願うのである。その事を信じ、知る程になりたいのである。

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