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『ペヌエルの記』より

人間付き合いは、例えば、外交のようなものである。体が本国として、内政をしっかり整えた後、その内政の丈夫を以て、人生、即ちその本国の将来の潤いを目指し、外交に努めるのである。

『ペヌエルの記』より

神様を称賛する事は第一にあるが、神様を罵り、神様に対して文句を言い、それが全て信仰から来ているものであれば、それは第二に良い。それは神様に対して距離を縮めようとする人の心に在る。その心による業にあり、神様が人に対し、自分に気付かされる中途の道を示されている為である。そうする事によって人は更に神様の御国に近付く事が出来、信仰の真髄に近付く事が出来、自分が言った悪口雑言、神様に対する罵りや文句の数々によって、自分が神様にどれほど恵まれ、愛され、もう一度神様の下へ辿る事を歓迎されているか、それについて以前よりも更に深く知る事が出来るからである。

『ペヌエルの記』より

また母と教会について言い合った。信仰の事について言い合った。談笑ではなく議論にあり、激しい怒りの口調にあった。母はずっと優しく聴いてくれた。こんな事は言いたくない。出来る事なら、心から喜び勇んで教会へ行き、愛すべき隣人達と共に手を取り合い、信仰のサークルを更に強め、地域から世界に高め、心から、神様に喜ばれる為に働き、それこそ喜びだと知り合いたいのだ。その喜びを分かち合い、皆が一団と成って教会に集い、そこから天に昇る程に布教を行い、世界の全ての人を、神様の下へ導ける事に尽力したい。
しかし今、教会へ行って対人した時、これらの事を、心の底から言えないのである。見栄や体裁、不信仰、人間の悩みがそれでも障壁と成り、人に笑顔で語る時、信仰について喜びを語り合う時、顔と心を引き攣らせ、邪魔して来るのだ。人間とはそもそも悪を心に留めて居る。それは初めから具え付けられたものであり、人はそういうものだ、と言われて仕方が無い。その俺が言う。
別に教会へ行かなくても、家庭礼拝を守り、神様と一対一の関係をずっと固く守っていけば、それで事は足りるのではないか、現時点での人(クリスチャン)としての義務においてである。無教会派と呼ばれる人達も昔に居り、青空教会も昔に在って、それは現代でも同じく在り、教会へ行かずとも、自宅で正義を固く守って、真摯に信仰を受け止め、神様と自分との一対一の関係をそれでも強く持とうとする人達が確実に居る。要は場所の問題だ。教会へ行って礼拝を守る事と、一人の部屋で神様と二人の空間を持ちながら礼拝を守る事と、どちらに価値が在るのか。もし教会に行く事に価値が在る、と言われるなら、俺はその点で信仰に失格する。無論、信仰に合格する・失格すると言うのは神様にしか決められないが、そのように(人に)イメージ付けられるのであれば、それでも良いと思う。人の評価は初めから気にせず、神様の評価だけを気にしたい、そのように意気込んだ俺も確かに居た(もちろん無教会派や青空教会に参列していた人などは、行きたくても教会へ行けない状況が確実に在った事を理由に以て居る。ここで彼らを引き合いに出すのはあまりに烏滸がましい。厚かましく、それでも自分の不甲斐無さ、不信仰を隠す為の算段にして居るとしか思えない。その背景・内実も知った上で言う。彼らは仕方無くそうしたのである。その経過・状況は人に知られずとも、神様がよくご存知の事に在ろう。俺はこのように神様に恵まれ、両親に恵まれ、いつでも教会へ行ける状況が在るのに、それが備えられているのに、それでも行かないと言う所に罪が在る。その事を充分知って居る。すべては自分の弱さに在り、人に対する見栄や体裁、そういったものを心から拭い去れない自分の弱さにこう言う引き金が在る。この弱さをこれからの信仰において、神様の力によって払拭され、神様にただ喜ばれる人間に成りたいと、心の底から祈り願うのである)。
けれども、本心は、教会へ戻り、先に述べたように、人と幸せな空間を持ち合いながら、信仰に生きたいのである。俗世間の人間の柵に絶望し、俺が心を休められる場所は、もはや神様と自分との空間にしか無い。その信仰にしか無い。その延長で、教会が在る、と今の俺は言うのだ。俺がこのように憤慨したのは、母があまりにも自分の理想を俺に投げ付け、俺の気持ちを一切聴かず、まったく理解を示してくれず、あまりの不条理に思えたからだ。頭ごなしに言い付け、唯こうすれば良い、という事だけを教訓のようにして言い、それを守れ、といった点に、今の俺の心が従えなかったのである。
けれど、母の言う事は当たっている。あれが正解だ。俺はそのように生きたいのである。それも分かって居る。分かって居るが、現状のこの俺の身の上の虚しさが、惨めさが、教会に行くと吟味させられ、露呈させられる事に成るように思い、それに耐えられず、俺は弱くも、家庭礼拝を守る事にまるで正当が在るような言い方をした。しかし、神様と自分との一対一における信仰、これを強めて生く必要が在るのは本当だとして、それが嘘とは言わない。教会へ行く事と、自宅礼拝を守る事の両立、これを一つの落とし所として母に伝え、
「教会に行ける時は必ず行くから、先生にもそう言って約束をして、今教会へ戻って居る訳だから」
という一種の安心に繋がる言葉を言い、その談を切り上げた。
とにかく、さっき言い合いを終えてこの部屋に上がり、今考える事には、母を悲しませたくない、この思いが在る。それと同時に、神様を悲しませたくない、これ以上神様を裏切りたくない、この強い思いが渦巻くのも果して俺の心には事実である。すべては神様がご存知である。俺の良い所も悪い所も全てご存知であり、俺が人に対して何をどう弁解しようが関係無く、俺が神様に対して持つ正義は、神様と人との間に具えられる真実の前に唯一である。
俺は一体何度こんな事を言えば良いのか。何故こんな運命を辿らなければ成らないのか。こう言いながら他の人に目を遣れば、もっと不幸のどん底に在りながら信仰を持ち、しっかりと神様にしがみ付き、信仰に縋り付き、俺などが足元に及ばない程の立派な信仰を大事にする人、そのような偉人が居た事も知っている。つくづく、俺の不信仰、信仰の弱さ、真摯な態度で神様に向き合えない事、その弱さ、曖昧さ、調子の好い加減、それらを思い知らされる上、それでも今の気持ちに従い、必ず神様が救って下さる、それでも救って下さる、そのように強く願うほか無い事を知る。自分がどれほど神様に依って恵まれて居るかを知っている。その上でこのように言うのである。
神様にまた祈る。願わくば、俺が心から教会へ行く事に喜びを持ち、そこで隣人と愛し合える事に喜びを持ち、それらを最大の人としての喜びとする上で、周りの隣人達と同じように天国へ近付く事が出来るように。

『ペヌエルの記』より

何度でも言う。作品を書く上で人の理解など求めてはいけない。求めるのは、その人が罪に溺れ、神様の恵みに一途に繋がる信仰から、どうしても逃れてしまいそうになる時、なんとか天国の明るみに自分を引き戻そうとするその縋り付きである。いわゆる感動という事になろうが、心の動き、理屈ではない喜びへの走り、そういったものを信仰の側面(源)から助長できる内容だけを求めるのである。
その為の情報を告白し、一人でも良いので、その人が信仰の道を見付け出し、その後は自分と神様との間だけで信仰を強めて行ける人生を歩む事が出来れば、それで俺の作品の本望に成る。

『ペヌエルの記』より

俺の仕事について、誰も解ってくれない。聞いてもくれない。自分の事を話し始めると、相手は決まって欠伸をし、自分の主張を挟める場所が無いと判れば、その時点で相手との会話の舞台に幕引きし、その儘さっさと返るのである。この繰り返しで、今まで来て居る。
これは他人であろうが親であろうが、親友であろうが知人であろうが、皆同じである。確かに親はその内でも親身になって話を聞いてくれる機会を多く持とうが、それでも「互いの理解」と言う所においては、やはり理解し尽す迄には壁がある。
だから俺はもう、「自分について解ってくれ」と人に頼まないのである。人に期待する事をせず、やはり唯、神様にその理解を求める事しか出来ないのである。
理解して下さるかどうか、それを認めて下さるかどうか、癒して下さるかどうか、許容して下さるかどうか、それは人である以上分からないが、それでも、その一つの願いに縋るしか無い。人と人とは幸福にあり、孤独にあり、不幸にもある。

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