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愛する人が死んで、僕の前から居なくなり、この世から天国へと旅立ったと言うのに、あの人と二人で触った本棚の壁が冷たいのである。
二人で覚えたこの感触。この肌触り。二人で覚えた筈なのに、今はその片割れが天国に居る。そしてその片割れがここに居る。何だこの不思議は。なんで今僕とあの人は別れてるんだ。さっきまで一緒に居たじゃないか。
人は消えて、どこへ行くんだろうか。昔から思い続けて来た疑問にあるが、どうしてもわからない。人は説明付けたがる生き物。そうしたのは神様だろう。僕が頼んでしたわけじゃない。
しかし、この状況に感謝する。この在り方に感謝したい。だから教えて欲しい。僕の大切なあの人は、今、一体どこに居るのか。ここに在るのは、確かにあの人だが、もう喋らないし動かない。生きた屍。植物のようで、ついさっき返事をしてくれて、ぬくもりがあって、同じ人間として向き合えていたのに、それが今できないんだ。もう無いんだ。不思議じゃないか。気が狂うよりも不思議な事だ。あの人の姿が見えない。声を掛けてくれない。僕の声は届いているんだろうか。この今喋ってる僕の姿はあの人から見えているのか。それだけでも教えて欲しい。教えて。どうしても知りたい。教えられないのか。なぜだ。でも、いつか知ってやる。この気持ちを汲んで下さい。いつか教えて頂きたいのです。初めから終わりまで、唯一愛したあの人に会いたい。あの人を大切に思うからこそ、このように強く願うのです。天国に、あの人が居て、僕の帰りを待って居るように。子供と一緒に待って居るように。

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思春期の頃から十代の頃に掛けて書いた文章がある。これを今、天川文庫にワード打ち込みで収めているところだが、何を書いているのかわからない。自分の字が読めないという問題が沸き起こった。まいったものである。その時は、全身全霊を以て、その気持ち一つで一文ずつを書いていたのに、その時の記憶や環境がもう無いのである。確かに自分の内にそれらは潜んでいるのだろうが、それを上手く引き出す事が出来ないのである。これも成長と呼ぶべきであろう。

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俗人の世界は嘘ばかりである。虚構が虚構を呼んで、人が人を呼び、噂が噂を呼んで、複雑に複雑を絡め、見え透いた嘘の壁を散々仕立てて、本当がどこに在るのか分からない儘、唯、人を惑わす為の仕掛けに生きる。こんな世界だからこそ、俺は人間の世界を捨て、詰り俗世間を捨てて、神様と自分、自然と自分の間にだけ通用する文学を成したいのである。人に向けて書く文学ではなく、自然と神様とに向けて書く文学にある。そのため人からの理解を目的とせず、自分の納得、自然と神様からの評価、それだけを全てに置き換え、人としての人生、作家としての生(せい)を全うするのだ。それが、俺という作家の本望にある。

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東京で偉いと言われている人と対峙して、ひどく落胆する事も多い。見栄を張っている。自分の方があの人よりも凄い、そう言う事をまるで感覚が麻痺したように、平気で言うのだ。「こいつマジにこんな事を言っているのか」と真剣に疑う程にある。
マザーテレサの土台と、そう言う人の土台を比べて見ると、同じく偉大と言われている人同士を味わう場合、まるきり違う土台を感じる。マザーテレサの土台は天にある。こう言う人達の土台は地上にある。その差だろう。神様に認められた土台と、人間が認めた土台との違いにあり、常々言って来た「ひどく曖昧な人間」が認める土台であるからこそ、その土台も曖昧なものにしか映らない。ひどく頼りなく、せこく、せせこましく、幼稚で、儚く、詰まらない、下らないものに見えるのだ。明日消えてもおかしくない。それなのに、なぜこのような人達がこれほど長い期間をかけて人気を保っているのだろうか。それが甚だ疑問になる(目に見えるものに弱く、聞こえるものに弱いからであろう)。確かに努力はしたのだろうが、それにしても、その土台があまりにも稚拙で、儚いのである。

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君は頻りに「子供の頃」と言うが、今でも君の中には子供の頃の君が居るんだよ?

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