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人はこの自然に生きていて、一体誰から、何から、「自分」を教わるのだろう。


人は人について説明し尽せない。この点に一つ、人生を生きる上で、信仰に生きる上で、神様に選ばれて生きる事の理由があるのだ。


人にはこの疑問が初めから具わっている。

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人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人を偏(かたよ)り見ることをなさらないのである。(エペソ人への手紙六章六節から九節)

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イギリスとアメリカ

もし、イギリスとアメリカとのどちらかに行って作品を書くとするなら、昔はイギリスだったが、今はアメリカと思う。アメリカの方が自由に作品を書ける気がして、イギリスは何だか型に嵌った気がする。勿論、どちらの文学においても奥深さがあり面白さがあり、それなりに見るべきも点もあり、自分が作品を書く上では良い刺激を与えられる事には変わりがない。けれども、イギリスの伝統はどうも深過ぎる。作品を書く上では、アメリカ特有の自由な表現が面白く、又、作品をそれ程しんどくない内に書けるというのが尚更好いのだ。評価する者も、何となく緩い視点を以て自由に評価をし、凝り固まった思想に生き抜く派閥争いに評価が負ける事は無い。それによって、アメリカの自由な人間の評価というものが絶えず呼吸をしている気もする。今や日本では、このイギリスとアメリカの文学観が両方ある気がして、どちらかと言えば、半ば窮屈な思いをしている。けれども、仕事をする上では有難く、いろいろなジャンルがあるからこそ俺の作品も掲載されている。この点については深く感謝をし、このままずっと書き続けたいと願うものである。それでも、日本にはやはりイギリスの枠がどうしてもあるような気がして、作品の命がそれ以上、伸び悩んでいる事実があるような気もする。
やはり作品は、一人で書いて一人で評価をし、唯、自然に向けて書くのが一番と心得る。これは書く際の姿勢を思う上での言である。固より作品は人の評価を気にするものになく、唯どうしても心から湧き上がって来る自分を記録する為に成すものだ。

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無題

逡巡して逝く二相(にそう)の窓から傀儡(どうぐ)が跳び発(た)つ行為を追い抜き、萎びた男女(だんじょ)は年嵩問わずに悶絶して活き、俗世(このよ)の隈(わい)から岐路に就け得る波動の神秘(ふしぎ)へその身を遣った。小母の孤独がやきもきしながら自身を訴え、小さく覗かす黄泉の寝言に俺の目耳を併せて据え置き、若い大樹へ寄り添う姿形(かたち)で姿態(すがた)を呈さず姿勢(しせい)を設けて、明日(あす)の益まで現行(いま)に頬張る無欲の神秘(しんぴ)に自体(すべて)を費やす。寡黙(しずか)な神秘(ふしぎ)に孤島を想わす条理が働き、二度に亘(わた)れる既視(いしき)の海馬は二語(にご)に尽せる嗣業を手招き、旧い黄泉路(よみじ)の孤独の縁(ふもと)へぽつんと置かれた劣等(おとり)は淋しく、旧い口文(ふみ)にて足踏(ちゅうちょ)を顕す現人(ひと)の憐れを上手に解(と)いた。無謀の晴嵐(あらし)が俺を目掛けて猛進して居り、生来目にした〝嘆きの対象(オブジェ)〟は知識を排して創作して居り、俺の孤独が〝死なぬように〟と無根の幻想(ゆめ)など与(さず)けてくれた。俗世(このよ)の果てから極小(かよわ)く昇れる人間(ひと)を突き刺す無用の陽光(ひかり)は、涼しい貌(かお)して無駄を配する右翼にも似た熱尾(ねつび)を下さり、持って生れた二履(にば)きの自然(あるじ)に俺の孤独を任せて居ながら〝活きる為に…〟と苦労を要する二重(ふたえ)の隔離を俺へと遣った。無言の空間(すきま)に無音が這い出し、俺の孤独が寝屋を求めて闊歩をするには矮小(ちいさ)な盛りが陽(よう)を曇らす活歩(かつほ)の手術(すべ)など必要とも成り、眩んだ両眼(まなこ)に故意を収(しゅう)する記憶の賛歌が褒美を識(し)った。眩む両眼(まなこ)に試算の乗ずる憤怒が身悶え、暗(やみ)の益(えき)にて労苦に徹する不義の主輩(やから)が撤収して活き、乳白(しろ)い躰に文字が入(り)り出す大海(うみ)の光沢(ひかり)は残光(ひかり)を射止めて、嗣業(こと)の初めを円らに目にする俺の人陰(かげ)には、純白差(しろさ)に驚愕(おどろ)く無理の呼笛(あいず)が木霊し翻(かえ)る。生歴(きおく)の明朗(あかり)にぽつんと敷かれた両眼(りょうめ)が見開き、微(かす)かな季節風(かぜ)さえ暗夜(あんや)

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風の匂いや感覚はなぜか変わらない。十年の風が吹いたら、町はどのように変わっているだろうか。人はどのように変わっているだろうか。太陽の光や川の流れ、空の色、自然というものは人間が変わっても変わらない。自然はずっとそのままだ。とても暖かく、包容力が凄いものである。そこに、まるで神様の恵みを見るのである。ずっと変わらないもの。不動のもの。不変のもの。
人間が作るものは壊れ、掘った井戸は枯れるが、神様が創るものは壊れず、神様が用意された井戸は枯れない。その変わらないものに、恐らく人は誰でも安心を見て、包容されたいと願うのだろう。相手が自然であり、神様だからだ。人をそれでも愛して下さる神様だからだ。人の心は変わるが、神様は変わらない。だから人は皆、その変わらない神様の恵みを受けるために信仰に縋り付き、神様に喜ばれる人間になるべきである。先ず、俺がそのようにして生きていきたい。
今日、罪を犯さないと誓った心は、その夜にはまるで別物のようになっている。心が変わらなくても、言動がそのように変わっている。朝令暮改。朝に決めた事もその夜には守れない。それほどの人間だ。こんな人間でさえ、神様は愛して下さると言う。どうしても救われたいと信じ、願うのである。人の気持ちや在り方は大きく変わり、頼ろうにも頼れない時がある。縋り付きたくても、その縋り付きたいと思った人の形や心の形は、跡形もなく消えている事がある。
だから、ずっと変わられない神様に全てを委ねたい。信仰に歩んでいきたい。天に帰るまで、この地上で、神様に喜ばれる人間として生きていきたい。

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