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春とはいえ、人気のない校舎はまだまだ薄ら寒く、ひんやりと張り詰めた廊下をわたしは国語準備室に向かって歩く。
廊下を歩きながら、窓の外に目をやると、まだ名残惜しそうに校門前で写真を撮り合い、最後の別れを惜しむ生徒たちの姿が見える。
卒業式のいつもの風景・・・。
警備員に追い立てられるように、彼らが一歩足を校門の外に踏み出した瞬間、急に彼らが大人に見えて、わたしは嬉しさ混じりの驚きとともに、一抹の寂しさを感じる。
国語準備室で、式服のネクタイを外す。
そして、家から持ってきた、少しゆったりめの部屋着に着替える。
なぜなら、卒業式の日は、わたしは毎年、あらかじめ警備室に連絡を入れ、この日だけは特別に国語準備室で夜を明かすことに決めているのだ。
特にその日中にやらなければならない仕事があるわけではない。
それでも、どうしてもこの日だけは、ここを離れるわけにはいかないのだ。
なぜなら・・・今にも、あの扉を開けて、彼女が入ってきそうな気がするから。
20年前と同じように・・・卒業式後の静まり返った校舎の中を、「生徒」を卒業したばかりの彼女が、踊るような足取りで、わたしの胸の中に飛び込んでくるような気がするから・・・。
20年前の今日、ここで、わたしは初めて「生徒」を卒業した彼女を、この腕で抱きしめた。
そのときのわたしたちは、確かにしっかりと目に見えない糸のようなもので結ばれていて、これから始まる明るい未来を掴もうと、ただまっすぐに両手を空に向かって伸ばしていた。
そう・・・明るい未来は、確かにあった。
卒業式の翌日から、わたしたちは毎日のように、今までの空白を埋めるかのように夢中でただ純粋に恋をした。
それは、普通にどこかで待ち合わせをして、映画に行ったり、食事をしたり、ただ街をブラブラと歩いたり、そんな他愛のないごく当たり前のカップルの日常だったけれど、わたしたちにとっては、その1分1秒が、何ものにも変えられない、貴重で大切なものだった。
ただ、こうやって「普通のデート」をするようになって、初めて気がついたことがある。
それは・・・彼女は、遅刻の常習犯だということだ。
そんなに大幅に遅れるわけではないが、彼女は待ち合わせの時間にいつも10分か15分ほど遅れてやって来る。
一方、わたしは誰と待ち合わせをするときでも、必ず10分か15分前には着くようにしているので、わたしにとってはトータルで約20分から30分は待っているということになる。
わたしがタバコをくゆらせながら待っていると、いつも彼女はバタバタと息を切らせて走ってきて、
「先生、ごめんなさい。今日こそ、間に合うと思ったのに・・・。」
と、言いながら肩で大きく息をする。
その様子がおかしくて、わたしはいつも、
「いいえ。君が遅れた分、君のことを考える時間ができたわけですからね。幸せな時間をありがとうございます、お姫様。」
そう言って、おどけてみせた。
そのときの、少しバツの悪そうな、はにかんだ彼女の笑顔を見るのが好きだった。
そんな生活が約1ヶ月続き、夏前にはお父さんに正式に挨拶に行きましょう、と話していた矢先、突然、彼女が、
「アメリカに行く。」
と、言い出した。
何でも、父親の勧めるアメリカには行かないと言い張る彼女に手を焼いた父親が、今の仕事を辞めて自分もアメリカに移住するという強硬手段に出たと言う。
自分のためにそこまで決心してくれた父親の意向を無下にするわけにはいかないと言う。
彼女と暮らすつもりで、キッチンや浴室などのリフォームまで始めていたわたしは、当然、反対したが、彼女の決心は固かった。
「1−2年アメリカで暮らせば、父も納得すると思います。20歳になればもう結婚に親の同意はいらないんだし、それまでなんとか父の機嫌を取っておけば、その後の話もスムーズにいきますから。」
何度も話し合いを重ねた結果、ではとりあえず1年・・・長くても2年という約束で、わたしは彼女をアメリカに送り出した。
住む家を探すために、彼女より一足先に父親はアメリカに発ち、日本の家ももう借り手が決まったため、住むところのなくなった彼女は、出発前の約1週間を、わたしの家で過ごした。
ちょうどゴールデンウィークで仕事も休みだったため、わたしたちはその1週間を片時も離れずに過ごした。
毎朝、目覚めたときには隣に彼女がいて、一緒に食事を作り、家の周りを散歩し、一緒に買い物に出かけ、時にはベッドの中で朝まで語り明かし・・・そして、愛し合った。
その1週間は、わたしの人生の中で最も素晴らしい1週間だった。
空港での別れは辛いから、見送りには来ないでほしいと言う彼女に従い、わたしたちは家の玄関先で別れた。
最後の朝、大きなスーツケースを手に、じっとわたしの目を見つめながら、彼女はポロポロと大粒の涙を流してこう言った。
「今度会うときには、必ずわたしをお嫁さんにしてくださいね。」
今から思えば、彼女はこのときもうすでに、「今度会うとき」がもう永遠に来ないということを知っていたのだと思う。
・・・その日以来、彼女からの連絡はぷっつりと途絶えた・・・。
しばらくはホテル暮らしなので、住む家が決まったら住所と電話番号を連絡する・・・という彼女の言葉を信じて、わたしは彼女のアメリカでの連絡先を一切聞いていなかった。
唯一知っていた、PCのメールアドレスにメールを送っても、送信されずに返ってきてしまう。
竜士に頼んで、彼女の高校時代の親しい友人に連絡を取ってもらったが、彼女の連絡先を知る者は誰一人いなかった。
家に行ってみても、表札はもう他の人の名前になっていたし、彼女の父親の会社に電話をしても、退職した社員の行方まではわからないと言われた。
常識的に考えれば、若い彼女にとって、初めて行った海外は思いのほか楽しくて、日本に置いてきた恋のことなど忘れてしまった・・・そう考えるのが妥当だと思う。
でも、わたしには、どうしてもそうは思えなかった。
そう思いたくない・・・と、自分の心が拒否反応を起こしているだけなのだと自分自身を納得させようとも思ってみたが、絶対に、何かが違う・・・という、確信のようなものがわたしにはあった。
心にモヤモヤした気持ちを抱えながら、日々はノロノロと過ぎていき、それでもなぜか、わたしには「彼女と別れた」という意識はまるでなかった。
それどころか、今までよりもより強く二人の結びつきを感じるようになった。
姿も見えない・・・声も聞けない・・・ましてや触れることもできない・・・それなのに、彼女の気配のようなもの・・・いや、目に見えない彼女の想いのようなものが、視覚や聴覚という媒体を通さずにそのまま直接心の中に入ってくるような、不思議な感覚だった。
そして、その感覚を更に裏付けることとなったのは、彼女と音信不通になってから半年以上も経った、クリスマスの日・・・。
この日は、彼女が指定した「二人の約束の日」だった。
本来ならば、人生の中で最も素晴らしい門出となるはずだった日。
その日、たまたま車を修理に出していたわたしは、夜遅くに学校を出たあと、駅から家までの道を一人で歩いていた。
雪のちらつく、とても寒い日だった。
傘をさし、うっすらと雪の積もったアスファルトを一歩一歩踏みしめながら、坂道を登り、家の門が見え始めたそのとき、そこに1人の髪の長い女性が立っているのが見えた。
後姿なので、顔はよくわからない。
一体、誰だろう?・・・生徒の誰かだろうか・・・?
そう思い、急いで坂道を駆け上がり、声をかけようとしたその瞬間、その女性がくるりとこちらを振り返った。
・・・それは・・・まぎれもなく、「彼女」だった・・・。
彼女は、わたしをじっと見つめ、そっと微笑むと、あまりの驚きで声も出せずに立ち尽くすわたしに向かって、ゆっくりと手を差し出した。
わたしは、何と言っていいのかわからず・・・いや、多分、言葉が見つかったとしても、声が出なかったと思う・・・震える自分の指先をそっとその手に向かって伸ばした。
二人の手がゆっくりとお互いに向かって伸び、そして、あと数センチで手が届く・・・というところで、突然、彼女は空から舞い落ちる白い粉雪と共に、濃紺の空に向かって消えてしまった。
こんな話をすれば、誰もが、いい年をして少年のような夢を見ているバカな男だと笑うだろう。
でも、これはわたしにとっては、現実よりも確かな現実だった。
彼女の心は、確かに今でもわたしに向かって生きている。
二人の愛は決して消えてはいなかったのだ。
彼女は、今でもどこかでずっとわたしを見守り続けてくれている。
そのとき、わたしは決心した。
たとえこの先、一生彼女と会うことができないとしても、わたしは永遠に彼女を待ち続ける・・・と。
そうやって、彼女を待ち続けて、早いものでもう20年が経った。
たった一人の女性を待ち続け、婚期を逃した独身男を、人は哀れだと思うかもしれない。
でも、それは違う。
彼女を待ち続けたこの20年間は、わたしにとってこの上もなく幸せな日々だった。
たとえ姿は見えなくても、わたしは彼女の気配をいつもすぐそこに感じていたし、声は聞こえなくても、わたしが悩み、立ち止まるときには、そっと耳元で答えをくれた。
そうやって、わたしはこの20年間、ずっと彼女と共に生きてきたのだ。
わたしと彼女が、実際に見つめ合い、触れ合い、愛を囁くことができたのは、彼女が卒業してから日本を発つまでの、約2ヶ月。
長い人生の中では、それは流れ星の光よりももっと短い、一瞬のきらめきなのだろう。
それでも、その一瞬のきらめきが、長い人生を永遠に照らす光となることもある。
こうやって、卒業式の日に国語準備室の椅子に座っていると、あの扉を開けて、今にも彼女がやって来るような気がする。
<先生・・・先生・・・>
風のようにわたしを呼ぶ彼女の声が聞こえる。
カチャリとドアノブの開く音がして、シトラスの香りと共に、彼女が髪をなびかせながらわたしに向かって微笑む。
そして、わたしはその笑顔に向かって、きっとこう言う。
「君が遅れた分、君のことを考える時間ができました。幸せな時間をありがとう。」
・・・と。
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お久しぶりです(*^_^*)
この二人はうまくいくと思ってたんですが。。。
こうなってしまうとは・・・。
なんか、他に言い様がありません。
2011/5/26(木) 午前 0:18 [ かな♪ ]
かなさん
あら、うまくいくと思ってました?www
わたしは、一番うまくいかないタイプの二人だと最初から思ってましたねぇ。www
でも、先生も幸せなので大丈夫ですよ。
恋の結末は、結婚することだけがハッピーエンドではありませんからね。
まぁ、詳細はあゆみ編で。www
2011/5/26(木) 午後 7:20 [ 紫 ]