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「先生、先生の知り合いで腕のいい皮膚科の先生を紹介してもらえませんか?」
ウチに来ている若い看護師から、相談を受けた。
よくよく話を聞いてみると、ずっと昔から、自分の目の下にある泣き黒子がコンプレックスで、どうしてもそれを取りたいのだ、と言う。
それほど大きいわけではないし、俺は逆にその黒子は彼女のチャームポイントだと思うのだが、本人は気に入らないらしい。
「イボになっているようなものならともかく、これくらいなら取る必要はないんじゃないか?君の個性として、それはそれでいいと思う。」
そう言うと、彼女は頬をふくらませながら、恨めしそうな目で俺を睨んだ。
「先生みたいな人には、コンプレックスのある人間の気持ちなんてわからないんです!育ちも良くて、有名大学の医学部にストレートで合格して、その上、見た目までカッコ良くて、人生は不公平です!」
そう言って、いーっと歯をむき出してみせる彼女の、歯に衣着せぬ素直さに思わず爆笑してしまった。
人には誰しもコンプレックスがある。
それは、若い頃・・・特に思春期の頃には、それを考えるだけで他に何も手につかなくなるほど心の中で大きな場所を占める。
もっとも、俺の思春期は、コンプレックスそのものよりも、それをどうやって隠すかということに心を砕いていたから、周りの人間はきっと、彼女と同じように俺のことを何のコンプレックスもない完璧な人間だと思っていたに違いない。
でも、そんな俺にも誰にも言えないコンプレックスがあった。
それは・・・緊張すると手に汗をかくということ。
今から思えば気にするほどのことではないし、緊張が何らかの形で体に表れる現象は多かれ少なかれ誰にでもある普通のことなのだが、子供の頃は、何が「普通」で 何が「異常」なのか自分で判断がつかない。
それでも、まだ小学生の頃はそれほど気にしていたわけではなく、体育で鉄棒をやるときに汗で手が滑ってやりにくい、大事なテストのときに鉛筆が滑るのが気になる・・・と、その程度のことだった。
ある日、そのことを何気なく父親に尋ねてみたことがあった。
自分のことだと言うのは恥ずかしいので、「友達にこんなヤツがいる」と、世間話のついでのように話してみた。
「普段は全然大丈夫なのに、苦手な体育の授業や、大事な試験や、そういうときに限って手に汗をかくんだって。」
すると、父親は新聞に目をやったまま、俺の方を見もしないでこう言った。
「大人になれば、精神的なことが原因ではないれっきとした多汗症という病気もあるが、お前くらいの年齢ならまだそこまで判断はできないな。思春期はただでさえ精神的に不安定になりやすい時期だし、緊張や不安などの精神的なものが原因だろう。」
「緊張や不安・・・?」
すると、父親はまるで自分自身に相槌を打つように深く頷いた。
「誰にだって、多少の緊張や不安はある。でも、それを自分自身の成長に変えられるか、お前の友達のように、それに負けてしまって体の異変という形で表れるか、それは本人次第なんだ。緊張や不安に打ち勝つことのできる強い人間になれば、汗だってかかなくなるさ。」
「じゃあ・・・俺の友達は、弱い人間だってことなの・・・?」
「まぁ、そういうことだな。」
それを聞いて以来、俺の症状は以前にも増してひどくなった。
中学、高校へと進むにつれて、汗の量は増えていき、試験中にテスト用紙が濡れて破れてしまうほどになった。
そして、いつしか勉強やスポーツで緊張する局面だけでなく、気持ちが高ぶったとき・・・たとえば、生徒会の会議で自分の思いを熱く語るとき・・・医療現場をテーマにした映画や本を読んで感動したとき・・・父親から自分の夢や理想を頭ごなしに否定されたとき・・・そんなときにも汗をかくようになり、自分は異常なのではないか?・・・そんな思いに囚われて、それは後ろ暗いコンプレックスになっていった。
それでも、そんなことは人に言わなければ誰にも気付かれない。
顔に汗をかけば隠すことは難しいが、手ならハンカチさえ握っていれば何とかなる。
コンプレックスというのは、人と比べるからコンプレックスになるんだ。
自分だけの秘密にして、誰にも知られないでいれば、それはいつしかコンプレックスではなくなる・・・。
そう思っていたのに・・・困ったことが起きた。
それは突然、嵐のようにやってきた。
できるだけ面倒なことは避け、人との付き合いもほどほどに、ただ医者になることだけを目指して黙々と勉強をしてきた俺の静かな世界が突如、崩れた。
それは、俺の今までの価値観も、常識も、何もかもをなぎ倒し、ひっくり返し、ぶんぶんと腕を振り回しながら、俺をその渦の中に引きずり込んだ。
その嵐は、まぎれもなく・・・彼女だった。
彼女に恋をし、はっきりした告白こそなかっったが、一応恋人らしい形になって、初めて自分のコンプレックスが浮き彫りになった。
彼女に触れたい、もっと彼女を近くに感じたいと願うのに、近づくどころか彼女を目の前にするだけで手に汗をかいてしまう。
何かの拍子でそれに気付かれるんじゃないか・・・と、思えば思うほど気になって、ますます汗の量が増える。
しかも、不思議なことに、前まではまったく気にならなかった男友達との会話。
高校生の男同士の会話なんて、彼女とどこまでいったとか、お互いの性の知識をひけらかす下世話なものがほとんどだ。
以前は、くだらないと右から左へ聞き流していたそんな会話が気になって仕方ない。
会話に加わりはしなかったが、どこからともなく聞こえてくるそんな会話を耳にするたびに、いつも手にびっしょりと汗をかいた。
そんなある冬の日。
彼女が寒そうに手をこすりながら俺の横を歩いている。
それでもその手を取ることすらできず、ただ俺は両手をコートのポケットに中に突っ込み、隣を歩く寒そうな彼女をただ横目でチラチラと見ることしかできなかった。
時折肩が触れ合うだけで、手がじんじんと熱を帯び、コートの中の手が汗ばんでくるのを感じる。
「手袋を貸そうか・・・?」
何も言わないでいるもの気まずくて、俺がそう言った瞬間。
なんと、彼女がするりと俺のポケットの中に自分の手を突っ込んできた。
反射的に、手を引っ込めようとするが、狭いポケットの中で他に行き場所はない。
真冬だというのに、手だけではなく額にも汗がにじみ出てくるのを感じた。
彼女の冷たい手が、俺の手をぎゅっと握る。
そのとき、不思議な感触がした。
・・・それは・・・。
俺に触れた彼女の手もまた汗でじっとりと濡れていたから。
不思議に思って、彼女の横顔を見つめると、彼女は少しはにかんだように顔を赤らめながら、ポツリと一言こう言った。
「・・・緊張したら、誰だって手に汗をかくの。」
「・・・緊張?」
俺が聞き返すと、彼女は少しムッとした表情で俺を睨みつけながら、俺の顔をじっと見つめて、口を尖らせた。
「好きな人と初めて手をつなぐんだよ?それで緊張しない人なんて、この世にいるの?」
その日を境に、俺の手の汗は徐々に引いていった。
緊張は、心の弱さなんかじゃない。
自分にとって本当に大切なものだから・・・何に代えても守りたい大事な愛しいものを前に、緊張しない人間などいない。
大事な試験で緊張するのも、生徒会演説で手に汗握るのも、それはすべて俺が、それらを大切に思っていて、それまでの努力や、こうありたいと思う自分の理想のようなものにいつも真摯に向き合っていたいと願う心の現われなのだと・・・彼女に教えてもらったような気がする。
「よかった・・・薫くんでも、やっぱり緊張するんだね。」
そう言ったときの彼女の笑顔が、あまりにも愛しくて、克服しなければならない・・・とずっと強迫観念さえ抱いていたコンプレックス、それすらもも愛しいと思えた瞬間だった。
「君もいつか、自分のコンプレックスを愛しいと思えるようになるさ。」
喉の奥で笑いながらそう言うと、彼女は不機嫌極まりない様子で、ナース帽を被りなおすと、
「意味がわかりません!」
そう言って、午後の診療の準備にかかり始めた。
診察室の壁に貼ってある、ホワイトボードの検査予定表を見ながら、俺はそっと立ち上がる。
どんなに場数を踏んでも、患者と向き合うときは必ず一種の緊張が走る。
でも、検査室に向かう俺の手の平に、もうあの頃のような汗はない。
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