ウェブカレdreamブログ

乙女ゲーム「ウェブカレ」をモチーフにした二次創作小説です。

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愛しいコンプレックス

「先生、先生の知り合いで腕のいい皮膚科の先生を紹介してもらえませんか?」
 
ウチに来ている若い看護師から、相談を受けた。
よくよく話を聞いてみると、ずっと昔から、自分の目の下にある泣き黒子がコンプレックスで、どうしてもそれを取りたいのだ、と言う。
それほど大きいわけではないし、俺は逆にその黒子は彼女のチャームポイントだと思うのだが、本人は気に入らないらしい。
 
「イボになっているようなものならともかく、これくらいなら取る必要はないんじゃないか?君の個性として、それはそれでいいと思う。」
 
そう言うと、彼女は頬をふくらませながら、恨めしそうな目で俺を睨んだ。
 
「先生みたいな人には、コンプレックスのある人間の気持ちなんてわからないんです!育ちも良くて、有名大学の医学部にストレートで合格して、その上、見た目までカッコ良くて、人生は不公平です!」
 
そう言って、いーっと歯をむき出してみせる彼女の、歯に衣着せぬ素直さに思わず爆笑してしまった。
 
 
人には誰しもコンプレックスがある。
それは、若い頃・・・特に思春期の頃には、それを考えるだけで他に何も手につかなくなるほど心の中で大きな場所を占める。
もっとも、俺の思春期は、コンプレックスそのものよりも、それをどうやって隠すかということに心を砕いていたから、周りの人間はきっと、彼女と同じように俺のことを何のコンプレックスもない完璧な人間だと思っていたに違いない。
でも、そんな俺にも誰にも言えないコンプレックスがあった。
 
それは・・・緊張すると手に汗をかくということ。
 
今から思えば気にするほどのことではないし、緊張が何らかの形で体に表れる現象は多かれ少なかれ誰にでもある普通のことなのだが、子供の頃は、何が「普通」で 何が「異常」なのか自分で判断がつかない。
それでも、まだ小学生の頃はそれほど気にしていたわけではなく、体育で鉄棒をやるときに汗で手が滑ってやりにくい、大事なテストのときに鉛筆が滑るのが気になる・・・と、その程度のことだった。
 
ある日、そのことを何気なく父親に尋ねてみたことがあった。
自分のことだと言うのは恥ずかしいので、「友達にこんなヤツがいる」と、世間話のついでのように話してみた。
 
「普段は全然大丈夫なのに、苦手な体育の授業や、大事な試験や、そういうときに限って手に汗をかくんだって。」
 
すると、父親は新聞に目をやったまま、俺の方を見もしないでこう言った。
 
「大人になれば、精神的なことが原因ではないれっきとした多汗症という病気もあるが、お前くらいの年齢ならまだそこまで判断はできないな。思春期はただでさえ精神的に不安定になりやすい時期だし、緊張や不安などの精神的なものが原因だろう。」
「緊張や不安・・・?」
 
すると、父親はまるで自分自身に相槌を打つように深く頷いた。
 
「誰にだって、多少の緊張や不安はある。でも、それを自分自身の成長に変えられるか、お前の友達のように、それに負けてしまって体の異変という形で表れるか、それは本人次第なんだ。緊張や不安に打ち勝つことのできる強い人間になれば、汗だってかかなくなるさ。」
「じゃあ・・・俺の友達は、弱い人間だってことなの・・・?」
「まぁ、そういうことだな。」
 
それを聞いて以来、俺の症状は以前にも増してひどくなった。
 
 
中学、高校へと進むにつれて、汗の量は増えていき、試験中にテスト用紙が濡れて破れてしまうほどになった。
そして、いつしか勉強やスポーツで緊張する局面だけでなく、気持ちが高ぶったとき・・・たとえば、生徒会の会議で自分の思いを熱く語るとき・・・医療現場をテーマにした映画や本を読んで感動したとき・・・父親から自分の夢や理想を頭ごなしに否定されたとき・・・そんなときにも汗をかくようになり、自分は異常なのではないか?・・・そんな思いに囚われて、それは後ろ暗いコンプレックスになっていった。
 
 
それでも、そんなことは人に言わなければ誰にも気付かれない。
顔に汗をかけば隠すことは難しいが、手ならハンカチさえ握っていれば何とかなる。
コンプレックスというのは、人と比べるからコンプレックスになるんだ。
自分だけの秘密にして、誰にも知られないでいれば、それはいつしかコンプレックスではなくなる・・・。
そう思っていたのに・・・困ったことが起きた。
 
それは突然、嵐のようにやってきた。
できるだけ面倒なことは避け、人との付き合いもほどほどに、ただ医者になることだけを目指して黙々と勉強をしてきた俺の静かな世界が突如、崩れた。
それは、俺の今までの価値観も、常識も、何もかもをなぎ倒し、ひっくり返し、ぶんぶんと腕を振り回しながら、俺をその渦の中に引きずり込んだ。
 
その嵐は、まぎれもなく・・・彼女だった。
 
彼女に恋をし、はっきりした告白こそなかっったが、一応恋人らしい形になって、初めて自分のコンプレックスが浮き彫りになった。
彼女に触れたい、もっと彼女を近くに感じたいと願うのに、近づくどころか彼女を目の前にするだけで手に汗をかいてしまう。
何かの拍子でそれに気付かれるんじゃないか・・・と、思えば思うほど気になって、ますます汗の量が増える。
しかも、不思議なことに、前まではまったく気にならなかった男友達との会話。
高校生の男同士の会話なんて、彼女とどこまでいったとか、お互いの性の知識をひけらかす下世話なものがほとんどだ。
以前は、くだらないと右から左へ聞き流していたそんな会話が気になって仕方ない。
会話に加わりはしなかったが、どこからともなく聞こえてくるそんな会話を耳にするたびに、いつも手にびっしょりと汗をかいた。
 
そんなある冬の日。
彼女が寒そうに手をこすりながら俺の横を歩いている。
それでもその手を取ることすらできず、ただ俺は両手をコートのポケットに中に突っ込み、隣を歩く寒そうな彼女をただ横目でチラチラと見ることしかできなかった。
時折肩が触れ合うだけで、手がじんじんと熱を帯び、コートの中の手が汗ばんでくるのを感じる。
 
 「手袋を貸そうか・・・?」
 
何も言わないでいるもの気まずくて、俺がそう言った瞬間。
なんと、彼女がするりと俺のポケットの中に自分の手を突っ込んできた。
反射的に、手を引っ込めようとするが、狭いポケットの中で他に行き場所はない。
真冬だというのに、手だけではなく額にも汗がにじみ出てくるのを感じた。
彼女の冷たい手が、俺の手をぎゅっと握る。
そのとき、不思議な感触がした。
 
・・・それは・・・。
 
俺に触れた彼女の手もまた汗でじっとりと濡れていたから。
不思議に思って、彼女の横顔を見つめると、彼女は少しはにかんだように顔を赤らめながら、ポツリと一言こう言った。
 
「・・・緊張したら、誰だって手に汗をかくの。」
「・・・緊張?」
 
俺が聞き返すと、彼女は少しムッとした表情で俺を睨みつけながら、俺の顔をじっと見つめて、口を尖らせた。
 
「好きな人と初めて手をつなぐんだよ?それで緊張しない人なんて、この世にいるの?」
 
 
その日を境に、俺の手の汗は徐々に引いていった。
 
緊張は、心の弱さなんかじゃない。
自分にとって本当に大切なものだから・・・何に代えても守りたい大事な愛しいものを前に、緊張しない人間などいない。
大事な試験で緊張するのも、生徒会演説で手に汗握るのも、それはすべて俺が、それらを大切に思っていて、それまでの努力や、こうありたいと思う自分の理想のようなものにいつも真摯に向き合っていたいと願う心の現われなのだと・・・彼女に教えてもらったような気がする。
 
「よかった・・・薫くんでも、やっぱり緊張するんだね。」
 
そう言ったときの彼女の笑顔が、あまりにも愛しくて、克服しなければならない・・・とずっと強迫観念さえ抱いていたコンプレックス、それすらもも愛しいと思えた瞬間だった。
 
 
「君もいつか、自分のコンプレックスを愛しいと思えるようになるさ。」
 
喉の奥で笑いながらそう言うと、彼女は不機嫌極まりない様子で、ナース帽を被りなおすと、
 
「意味がわかりません!」
 
そう言って、午後の診療の準備にかかり始めた。
 
診察室の壁に貼ってある、ホワイトボードの検査予定表を見ながら、俺はそっと立ち上がる。
どんなに場数を踏んでも、患者と向き合うときは必ず一種の緊張が走る。
でも、検査室に向かう俺の手の平に、もうあの頃のような汗はない。
 
 
 
 

目覚め

目覚めなければよかったのに・・・。
 
あの頃、朝目覚めるたびにいつもそう思っていた。
前の日にどんなに飲んで騒いでも、正体不明になるまで酔いつぶれても、必ず朝はやってくる。
どんよりと灰色に煙った憂鬱な朝が・・・。
 
 
あの日もそうだった。
高速道路の脇にある古ぼけたホテルの一室で激しい頭痛に起こされた。
 
口の中にまだ残る苦い液体。
自分の体の隅々に絡みついた甘い香水の匂いが吐き気を催す。
白いシーツを汚すルージュの染み。
その上を無造作に覆う栗色の巻き毛。
 
それが誰で、どういう経緯で今自分がここにいるのか、そんなことはどうでもよかった。
ただ、自分がここにいるという事実そのものが、ただわたしを苛立たせた。
 
シャワーを浴び、ひげを剃り、体の中のアルコールをすべて流して、洗面所の鏡を覗き込む。
そこには、すでに酔いどれのダメ人間と化した自分の姿は消えていて、高校教師の仮面を被り、エリート面をしたもう一人の自分が立っていた。
人気教師ともてはやされ、比較的金にも時間にも余裕があって、洗練されたデキる男を気取った鏡の中の自分は、それでもまったく幸せそうではなくて、これから始まる長く憂鬱な1日を思い、大きくため息をついた。
 
・・・目覚めなければよかったのに・・・。
 
わたしはまだベッドの上で眠っている女性の財布の中から、数枚の1万円札を抜き取り、その場を後にした。
 
 
「先生、大変です!」
 
何とか月初めの全体朝礼の時間に間に合ったと、胸を撫で下ろしながら車を降りると、それを見ていた女子生徒数人が慌てて駆け寄ってきた。
彼女たちに急かされるまま、グランドに出ると、整列した生徒たちの真ん中に小さな輪ができていた。
 
「もうすぐ朝礼が始まるので、整列していたら突然、篠田さんが倒れて。」
 
見ると、ぐったりとした彼女がグランドに小さくうずくまっていた。
 
やれやれ・・・女子生徒は手がかかる。
クラブ活動の顧問も、進路指導も、面倒な仕事は極力避けてきたけれど、担任を受け持っている限り、こういうことだけは逃れられない。
今は昔と違って、生徒にちょっと何かあってもPTAで吊るし上げられる時代。
ただの軽い貧血か熱中症だろうとは思うが、ここで万全を期しておかないとあとで何を言われるかわからない。
 
「さぁ、あとは先生に任せて。みんなは早く列に戻りなさい。もうすぐ朝礼が始まりますよ。」
 
わたしは彼女を抱きかかえると、みんなが列に戻ったのを見届けてから彼女を保健室に運んだ。
 
 
「ここは・・・?」
 
しばらくして目覚めた彼女が、保健室のベッドの上で身を起こそうとする。
 
「軽い貧血だったようですね。あとでわたしの車で家まで送って行きますから、もう少しここで休んでいなさい。」
 
そう言って、わたしが彼女をもう一度ベッドの中に戻そうとすると、彼女はそれに抗うように掛け布団を大きく跳ね除けた。
 
「大丈夫です。一人で帰れます。」
「何を言ってるんですか。また電車の中で倒れたりすると大変です。それにちゃんとご家族の方にも状況を説明しないと心配されるでしょう。」
 
すると、彼女は口をキッと真一文字に結んで下を向くと、両手でシーツをぎゅっと握った。
そして、掠れた声でポツリと一言こう呟いた。
 
「誰も・・・心配なんてしないもの。」
 
その声には、ひとかけらの希望もなく、まるで死を待つ老婆のような完全に何かを諦めきった哀しい冷たさがあった。
それはどこかで聞いたことのある声だった。
穏やかなのに、なぜか心の底を凍りつかせるような感情のない冷たい声。
確かに聞いたはずなのに、どうしても思い出せない。
一体どこで聞いたのか・・・?
 
彼女の長く滝のように流れる髪の毛の間からほんの少しだけ白い顔が覗いている。
その顔がゆっくりとこちらを振り向き、生気のないグレーの瞳がじっとわたしを捕らえる。
色を失った唇が小さく開き、伏せたまつげが悲しみの影を作る。
そして、次に彼女が放った一言。
その一言を聞いた瞬間、わたしはあの悲しく冷たい声をどこで聞いたのか、はっきりと思い出すことができた。
 
「目覚めなければよかったのに・・・。」
 
そう・・・彼女の声は・・・わたし自身の声だったのだ。
 
 
過去を否定し、現実から目を背け、未来に唾を吐いて生きてきたわたしたちは、相手の中にお互いの姿を見ることで、初めて長い眠りから目が覚めた。
覚醒した目で見た現実は、もちろん美しいものばかりではなかったけれど、わたしはもう目覚めなければよかった・・・とは思わない。
目覚めたからこそ見えた現実、未来が今ここにある。
 
 
「ここは・・・?」
 
保健室のベッドの上でキョロキョロする女子生徒。
彼女はあの冷たく悲しい声をしたあのときの君ではなくて。
 
「軽い貧血だったようですね。あとでわたしの車で家まで送って行きますから、もう少しここで休んでいなさい。」
 
あのときと同じセリフを言うと、彼女の血の気のない顔にみるみる健康的な赤みが差した。
 
「やったー!じゃあ、今日の放課後の補習も当然免除でしょ?」
「こらこら。朝礼で倒れて喜ぶなんて不謹慎ですよ。今日の補習は仕方ないとしても、明日は君だけの特別な補習を用意していますから、どうぞお楽しみに。」
「あっ・・・先生。あたし、またなんか気分が悪くなってきた・・・。」
「そんな仮病は通用しませんよ。さぁ、もう起き上がれるなら家まで送って行きましょう。」
「どうせ送ってもらうなら、竹田先生の方がよかったな。」
 
と、新任のイケメン体育教師の名前を出されて、自分も年を取ったものだと苦笑した。
 
「まぁ、中年フェチの子たちの間ではまだまだ綾川人気は衰えてないから、気にしないで。」
「中年で悪かったですね。」
 
そんな他愛ない生徒との会話に、小さな幸せを感じることができるのも、きっと君と過ごしたあの日々があったから。
 
世に名を残すような大きな仕事を成し遂げたわけでもなく、人から敬われるような素晴らしい人間になれたわけでもないけれど・・・。
それでも、毎日、澄んだ空の下を歩き、陽だまりの中で本を読み、真摯な気持ちで教壇に立ち、生徒と一緒に笑い、悩み、怒り・・・こんなありふれた生活がとても愛しく思える。
 
 
君もこの空の下のどこかで同じように思っているだろうか・・・。
目覚めてよかった・・・と。
 
 
 

ロックンロールの真実

久しぶりに電車に乗ってみたくなった。
 
重いギターを担いで、汗をかきながら駅の階段を上り、ギリギリで駆け込んだ電車の中の冷房にフッと生き返ったような気持ちになる・・・遠い昔に置き去りにしてきたそんな感情を、なぜかもう一度味わってみたくなった。
 
時計を見ると、まだ昼前。
夕方から始まるレコーディングまでには十分すぎるほどの時間がある。
俺はギターを担ぐと、下駄箱の上のキーホルダーに車の鍵を置いた。
 
 
いつもの癖で、エレベーターの地下駐車場のB1を思わず押しそうになる。
その手を引っ込め、1Fのボタンを押し直す。
外に出ると、ジリジリと照りつける夏の日差しが俺の目を直撃し、そのあまりの眩しさに一瞬足がすくんだ。
駆け出しの頃は、地域の祭りやデパートの屋上でのイベントで、野外で演奏することも多かったけど、今では野外ステージといえば年に一度のロックフェスくらいで、移動は常に車、仕事は密閉されたスタジオの中。
太陽の光を浴びることなんて滅多になくて、真夏のこのギラギラとした感覚を忘れていた。
 
肩に食い込むギターの重さを感じつつ、ふと前を見ると、アスファルトの向こうにゆらめく陽炎の中に、遠い昔の俺を見る。
焦げ付くような炎天下の中も、枯葉舞い散る木枯らしの中も、毎日この重いギターを担いで、実家から駅までのあの長い坂道を歩いた。
あの頃の俺はまだ何者でもないただの学生で、金も車も何も持っていなかったけど、ポケットの中には入りきらないほどの大きな夢と、こぼれるほどのアイツの愛情があった。
ただそれだけで・・・よかった。
 
 
昼間の平日といえど、都会の街は常に慌ただしくて、駅にはたくさんの人が飛ぶように行きかっている。
志帆と一緒だと目立つから、とてもこんな場所には来られないけど、自分一人だけだと気が楽だ。
俺は滅多にメディアにも出ないし、サポートギタリストとして有名アーチストのバックで演奏することはあっても、一般の人間はバックバンドの人間にいちいち注目しないから、街中で声をかけられることはまずない。
声をかけられたとしても、大抵はミュージシャンを夢見るギター小僧だったり、自称音楽評論家のようなマニアックな連中ばかりで、ファンにもみくちゃにされるアイドル系アーチストとはまったく立場が違う。
まぁ、今となっては気楽でいいけど、昔、バンドでデビューすることを夢見ていた頃は、週刊誌に追いかけられるような生活に憧れたこともあったな・・・などと思いながら、一人笑みを漏らしたそのとき・・・後ろから声がした。
 
「すみません。」
 
振り返ると、そこにはギターを担いだ金髪の少年と、黒人とのハーフと思われるドレッドヘアの少年が立っていた。
 
「ギタリストの・・・綾川竜士さんですよね?」
 
俺が頷くと、金髪のギター少年の顔がパッと輝いた。
 
「俺、超ファンなんです!サインください!何か書くもの・・・ほら、お前、何か持ってねーの?」
 
そう言って、隣のドレッドヘアの少年をツツく。
ツツかれたドレッドヘアが慌ててカバンの中に手を突っ込んだ拍子に、そのカバンが地面に落ちて、中のものが転がり落ち、1冊のエロ本がちょうどきわどい写真のページを表に広がったのを見て、思わず笑ってしまった。
二人は気まずそうに苦笑いしながら、散らばったものをかき集め、その中から1冊の手帳を取り出して俺に差し出した。
 
「まぁ、普段なら今はプライベートだから・・・って断るとこだけど、これだけ笑わせてくれちゃ、断るわけにいかねーよな。」
 
そう言って、手帳にペンを走らせる。
プロになってから何度か変えた自分のサイン。
サインと日付と、あとは頼まれれば誰々さんへ・・・という宛名も書く。
その他にもう一つ、俺が絶対サインの中に書く文字があるんだ。
それは、サインそのものが何度変わっても、決して変わることのない、大切な文字。
 
 
アイツが初めて俺のライブを見に来たのは、高校1年生のとき。
 
その頃、俺たちはまだ付き合ってなくて、正直、アイツをライブに誘うのにはためらいがあった。
俺にとって、音楽は華やかで輝かしい世界である夢のような側面を持ちつつも、実際は真面目に勉強して汗水流して働くという真面目な社会生活からドロップアウトした、ただの社会性に欠けた人間が多く集う世界だということも重々承知していた。
売れれば夢、売れなければただの社会のはみ出し者・・・この世界にはそのどちらかしかない。
グレーなんてものは存在しなくて、黒か白のどちらかしかない世界。
その頃の俺は、自分がそのどちらになるのかまったくわからない状況で、一歩間違えればいつでも負け組みになる要素はあった。
そんな俺にとって、アイツは天使。
天使に、華やかな世界の裏に隠されたそういう黒い部分を見せたくはなかった。
 
そんなときに、ビッグアーチストを多数輩出している一流ライブハウスへの出演が決まった。
今まで俺たちがやってきたような、タバコの煙と酒の匂いの充満する狭苦しいクラブじゃなくて、本当に音楽を楽しむためだけに集う人々のための小さなコンサートホール。
これなら、アイツに黒い部分を見せずに、純粋に芸術としての音楽を見せることができるかもしれない。
そう思った俺は、意を決してアイツを誘ったんだ・・・俺のライブ見に来いよ・・・って。
 
不思議だな・・・あのときの不思議な感覚は今でもはっきりと覚えている。
客席は暗くて、ステージの上からはほとんど何も見えないのに、アイツのいる場所だけはまるでスポットライトに照らされたようにはっきりと見えたんだよ。
あのときのアイツの表情も、こんなところに制服なんかで来やがって何やってんだ?って思ったこととか、アイツが手にしていたグラスの中のオレンジジュースの色も・・・今でもはっきりと瞼の裏に浮かぶ。
そして、そのとき、俺は確信したんだ。
アイツが傍にいてさえくれれば、俺は必ず夢を掴める。
アイツは俺の夢を叶える天使・・・俺は今、恋をしてるんだ・・・って。
 
そのライブの後、使ったピックを記念にアイツにやった。
一流ライブハウスに出演できた記念に・・・って、アイツには言ったけど、本当はアイツに対する自分の気持ちに気付いた記念だった。
 
ピックを渡したとき、アイツがきょとんとした表情をしたので、急に恥ずかしくなって、
 
「サインでもしてやろうか?俺が有名になったらプレミアがつくぜ。」
 
って、わざと茶化してそう言った。
てっきり、何バカなこと言ってんの、って大笑いされると思ったのに、アイツはにっこりと微笑んで、カバンからペンを取り出すと、俺にそれを渡した。
そして、キラキラとした真っ直ぐな目でじっと俺を見上げながら、
 
「わたしが綾川竜士のファン第1号になる。」
 
って、そう言ったんだ。
その言葉に胸がグッと詰まって、ガラにもなく何だか泣きそうになって、慌ててペンを取ったものの、当然サインなんかあるわけがない。
そのときふと思い浮かんだ文字・・・。
 
<R&R>
 
それを、ピックの裏側にサインとして書いた。
 
「Rock and Roll・・・ロックンロールだね。」
 
そう言って、アイツは笑ったけど、実は違う。
本当は・・・俺とアイツの名前の頭文字。
 
<竜士&リコ>
 
これが、サインに込めた俺の本当の想い。
 
 
手帳にサインを書き終え、最後にいつも通り「R&R」の文字を書き入れ、金髪ギターの少年に渡す。
彼はそれをまじまじと見つめると、いかにも若者らしい口調で、
 
「Rock and Roll・・・そうっすよね!やっぱ、ロック最高っすよね!」
 
と、興奮気味にまくしたて、パタンと手帳を閉じた。
そのとき、手帳の表面に見えた文字。
 
<白薔薇学園 生徒手帳>
 
ああ・・・こうやって、人の想いは受け継がれていくのかもしれないな・・・。
高校生だったあの頃の俺が、ただひたすらに憧れ続けた音楽の世界。
その世界の中に、今、自分の足で立つようになって、ようやく見えてきたものがある。
 
アイツとの出会い、恋、友情、未来への夢や希望、挫折と後悔・・・そして、それらをすべて見てきたあの白薔薇学園。
あそこでの生活のどれ一つが欠けてもきっと今の俺はいなかった。
だから、俺はこれからもずっと書き続けるんだ。
今日までの俺を支え続けてきてくれたもの・・・Rock and Rollと、あの頃の俺たちの恋に感謝の気持ちを込めて。
 
<R&R>と。
 
 
 
 

手のぬくもり

付き合っていた間には気付かなかったことなのだけど、彼のことを思い出すとき、なぜか必ず思い浮かべる体の一部がある。
 
それは手・・・。
 
激しく美しいメロディーを奏でる、力強くしなやかな指。
わたしを抱き寄せるときの、手の力。
重ねられた手のぬくもり。
 
長い時が流れ、彼の顔や声は心の中の思い出という引き出しの中にしまわれ、たまにその引き出しを開けても、その引き出しの中の自分と、それを見ている自分との間に大きな距離があるのだけど、彼の手に関してだけはその距離がない。
あのぬくもりも、強さも、指の関節の一つ一つに至るまで・・・そのすべてが、まるで今すぐそこにあるかのように、はっきりとわたしに語りかけてくる。
 
 
彼の手はいつも温かかった。
どんな真冬でも温かくて、冷水を触ったあとでも、氷を掴んだあとでも、ちょっと手を擦り合わせれば、またすぐに温かくなる。
その逆で、わたしの手はいつも冷たい。
真夏でも、少しクーラーの効いた部屋にいるとすぐに手足が冷たくなって、冬は手袋をしていても、いつもあかぎれとしもやけで大変だった。
 
 
本命大学の受験の日。
 
手がかじかんでうまく鉛筆を握れないのが心配で、わたしはコートの両ポケットに使い捨てカイロを入れて、それを握り締めながら、受験会場に向かった。
雪のちらつく寒い日で、会場に向かう人の波からはただ吐く息の白い煙だけが立ち上り、みんなただ黙々と下を向いて歩いていて、まるでぜんまい仕掛けのロボットたちの行進のようだった。
大手予備校の職員の人たちの応援や、まだ受験すらしていないのにすでにサークルの勧誘のビラを配る在校生たちの姿だけが、その中で妙に浮いていて、なんだかホッとするようなムッとするような変な気持ちになりながら校門をくぐろうとしたそのとき、不意に後ろから腕を掴まれた。
 
わたしの腕を掴んだその手の強さは、今でもわたしの体に決して消えない刻印となって残っている。
校門に向かう人たちにぶつかりそうになりながら、その波を横切り、無駄に空いた校門脇の駐車場スペースでふと目を上げると、そこには竜士が立っていた。
彼は何も言わずに、コートのポケットからわたしの両手をそっと取り出すと、自分の大きな手でそれをぎゅっと包み込んだ。
カイロなんかじゃ絶対に得られない、体の芯まで暖まる彼のいつもの手のぬくもりがわたしの手の先から全身を駆け巡り、それだけで体全体がポカポカと暖まって、寒さで強張っていたわたしの手の指の1本1本が踊るように動き始めたのを今でもよく覚えている。
 
 
高校3年生の大晦日の日。
 
その日は、このコンテストで優勝できれば、メジャーデビューが約束されているという、竜士にとっては運命を分けると言っていいほど重要なバンドコンテストの日だった。
 
でも、結果は惨敗。
 
どんなに言葉を尽くしても、彼の悔しさや落胆や、これからの不安を思うと、それに寄り添うようなことは何一つ言ってあげられないような気がして、わたしは何も言えず、ただ黙って彼の隣にいた。
わたしが変に明るく振舞っても、逆に彼は落ち込むかもしれないし、かといってわたしまでが落ち込んでいても気を使わせる。
無邪気に初詣に行こう、なんてことも言えなくて、わたしたちは吹きすさぶ冷たい風にさらされた、誰もいない河原のベンチで、まるで捨て猫のように二人でじっと身を寄せ合っていた。
彼は、気持ちを紛らわせようとしているのか、脈絡もない同じような話を何度も何度も繰り返し、一人で大声で笑ったかと思えば、次の瞬間、ふと我に返ったようにため息をつく。
寒くて、体は凍り、強い風が吹くたびに耳がちぎれるくらいに痛かった。
それでも、彼の気持ちを思うと、「帰ろう」なんて、言えなかった。
このまま体が凍って死んでしまっても、それでもいいから、今日はとことんまで彼に付き合う・・・そう思っていた。
 
そうやって、何時間もの長い夜をそのままその場所で過ごし、ようやく東の空が白みかけてきたそのとき、彼が突然わたしに向かってこう言った。
 
「手、貸してくれよ。たまにはお前が温めてくれよ。」
「え?無理だよ。わたしの手、いつも冷たいもん。絶対、竜士の方が温かいって。」
 
そう言って、首を振ったけど、彼は
 
「いいから。」
 
そう言うと、無理矢理コートのポケットの中からわたしの両手を取り出して、いつもと同じようにぎゅっと握った。
案の定、彼の手の方がずっと温かくて、氷のようだったわたしの手が逆に溶かされていくのを感じた。
それなのに、彼はまるで雪山で冷えた体で温泉に入ったときのような、幸せそうな顔をして、そっと目を閉じると、わたしの手を強く握ったまま、
 
「お前の手、あったけーな・・・。」
 
そう一言、呟いた。
 
そのとき、思った。
 
人の手を温かいと感じるのは、きっとその人が自分に対して持っている愛情のようなものが皮膚を通じて流れ出てくるから。
愛しさや、優しさや、相手に持つ、穏やかでそれでいて時に激しい愛情のうねりが、熱い血となって相手の体に注ぎ込む・・・なんだか、そんなことを思った。
わたしが、いつも竜士の手を温かいと感じていられるのは、きっと竜士の中の温かい愛情が絶え間なくわたしに降り注いでいるからなんだ・・・。
今まで、ずっと自分に自信がなくて、竜士と付き合うようになってからでも、常に彼の気持ちに不安を感じていたわたしが、初めて本当の意味で彼の愛情を確信した瞬間だった。
そして、わたしがいつも彼の手を温かいと感じるのと同じように、彼もまたわたしの手を温かいと感じてくれたこと・・・そのことが、とても嬉しかった。
 
「お前の手、あったけーな・・・。」
 
その言葉とほぼ同時に遠くの山並みから覗いた、その年初めての朝の光を、わたしは絶対、一生忘れない。
 
 
どんなときでも、温かかったあの手を温かく感じなくなったのは、いつ頃からだろうか。
いや、温かく感じなくなったのではなく、そう感じるのが怖くて、手を繋がなくなった・・・と言った方が正しいかもしれない。
冷たくなった彼の手に触れるのが怖くて、そうなる前に自ら手を離してしまおう・・・心のどこかでそう思っていたような気がする。
 
あの朝、彼の裏切りを目の前にして、わたしを追いかける彼を振り切って夢中で逃げ出したのも、冷たい彼の手に触れるのが怖かったから。
今まで二人で温めてきたすべてのものが、一瞬にして冷たい化石になってしまうのが嫌で・・・今までだって、何度も危機はあって、そのたびに二人で手を繋ぎ直して温めあってきた思い出は、もうこれ以上どんなことをしても温め直すことはできない・・・そのことを確信した。
 
彼の手から逃げるように、走って、走って、すべての思い出を振り切って、自分の体の中から彼のぬくもりすべてを追い出してしまおうとしたそのとき・・・後ろから、彼に腕を掴まれた。
 
その瞬間、思ってもいなかった彼の手の感触に、わたしは愕然とした。
 
どうして・・・?
どうして、まだ温かいの・・・? 
 
 
あのとき、もしも二人がもっと大人で、お互いをもっと大きな愛で包み込むことができたなら・・・。
もし・・・もし・・・。
 
そうやって、人はたくさんの「もし」の中で生きている。
でも、あの最後の瞬間まで、わたしが彼の手を温かいと感じていられたこと、そしてそれから何十年経った今でも、彼の手を思い出すとき、その温かさをまるで手に取るように感じることができること・・・。
それは、大して人に自慢できるものもなく、ごく平凡な人生を送ってきたわたしが、これだけは誰にも負けないと胸を張って人に誇れる最高の愛。
その愛があったからこそ、わたしは今、目の前にいる人の手を温かいと感じることができるのだと思う。
 
彼の心の中のわたしの手もきっと、あの寒い大晦日の夜と同じように温かいものだと信じたい。
いや・・・きっと、そうに違いない。
これは自惚れや思い込みなんかじゃなくて、わたしが今はっきりと感じる確信。
どんなに時が経とうとも、どんなに離れた場所にいようとも、わたしたちは思い出という、魂の深い部分で繋がっている。
 
わたしは今日も、心の中の深い部分であなたを想いながら、目の前の人と手を繋いで生きていくよ。
そんなわたしを、遠くで見守っていてくれるあなたの永遠のぬくもりを感じながら。
 
 
 
 
 
 

扉を開けて

何度かトライしてやっと繋がったインターネットに、ホッと胸を撫で下ろす。
 
電気も水もない小さな村で暮らしているわたしが、隔週で訪れる、都心にあるNPO法人。
都心といえど、そこでもやっぱりインフラはまだまだ整備されてはおらず、インターネットに繋がる時間もほんのわずかなのだけど、それでもやはり、時折こうやって世界のニュースを見たり、日本の友達と繋がっていることを実感できるのは、わたしにとって日常の中の小さな贅沢であり、楽しみでもある。
 
メールの受信箱には、仕事関係以外にも、懐かしい名前が何件か入っていて、それを見るだけで思わず顔がほころぶ。
その中で、心待ちにしていた名前を見つけ、急いでそれをクリックする。
 
 
看護師としてアフリカに派遣されて、半年。
助産師の資格も持っているわたしは、ここでたくさんの新しい命を取り上げ、家族と共に喜びの涙を流し、時にはなす術もなく命を落とす子供たちを前に自分の無力さを感じ、それでも自分のできる限りのことを模索しながら充実した日々を送っている。
 
ここでは、圧倒的に医師の数が足りない。
わたしはあくまでも看護師で、医師に代わるような判断や医療行為は当然できない立場なのだけど、この掘立小屋に近い診療所を訪れる人たちには、その違いがわからない。
何とか病気を診てもらいたいと、たくさんの患者が毎日何時間もかけてやってくる。
時には医師の帰宅した深夜だったり、休診日だったりして、わたししかいないときがある。
それでも、そんな患者たちを無下に帰すことが忍びなくて、自分にできる限りのアドバイスをしてあげたいと思うようになった。
もちろん、医療行為はできないので、食事に関するアドバイスや応急処置を教える程度のことしかできないのだけど、それでもやはり医学書には載っていない、医師の経験でしか判断できないようなこともある。
そういうことに出くわしたとき、わたしはそれがたとえどんなに些細なことであっても、必ずメモをして、2週間に1度街を訪れたときに、まとめてメールで相談することにしている。
 
かつてわたしが恋をして、その恋が消えた今でも、深い尊敬と信頼の心を寄せているあの人に・・・。
 
 
彼からのメールを開けると、そこにはいつものように、わたしの質問に対する返答が丁寧に書き込まれていた。
特定の症状に対して疑いのある病気、その対処法、予防、こちらでも手に入りそうな薬の名前や、応急処置など、それは詳細に書かれてあって、わたしはそれを日記代わりにつけている看護日誌に書き留める。
この日誌も、早いものでもう5冊目になった。
 
メールの最後に、簡単な彼の近況報告と、共通の友達の話が書かれてあって、懐かしい気持ちでそれを読み終え、メールを閉じようとしたとき、一番最後に追記として書かれてあった言葉に目が留まった。
それを読んで、思わず遠い昔に心がタイムスリップした。
 
<扉の向こうに何があるかを考えてから扉を開けること・・・それを教えることも、君の役目だぞ。>
 
 
「ねぇ、薫くん、わたしが大学卒業したら、一緒に暮らそうよ。」
 
わたしよりもまだ2年大学生活の残っている彼にそう言ったのは、わたしの大学卒業の約半年前だった。
 
「そんなこと、できるわけないだろう。俺にはまだ2年も大学生活が残っているんだ。親に学費を出してもらっておいて、彼女と同棲するから家を出るなんて、そんなこと言えるわけがない。」
「2年くらいなら、バイトすれば学費くらいは何とかなるんじゃない?わたしだって働き始めるわけだし。」
「5年生、6年生となれば、病院での実習も多くなるし、国家試験の勉強で、ただでさえバイトどころじゃないんだ。学費を払ってその上、生活もなんて、そんなこと無理に決まってる。」
 
その頃のわたしは、母の再婚が決まり、早く家を出たくて焦っていた。
母の再婚相手はいい人だけど、やはり知らないおじさんを「お父さん」と呼び、一緒に暮らすことだけはどうしても嫌だった。
看護師の寮に入るという手もあったけど、寮は規則が厳しいし、先輩後輩の関係が家の中まで続いて面倒だという話を先輩から聞いていたので、できるだけ避けたかった。
一人暮らしも考えたけど、まず先立つものがない。
引越し費用や、アパートの保証金、新しい家具・・・母の再婚相手に言えば、出してくれるだろうけど、借りを作りたくはない。
一人暮らしをするためのまとまったお金を貯金するには、最低でも1年は実家を出られない。
 
そんなときに、ふと思いついたこと・・・。
一人暮らしは無理でも、もし誰かと一緒に住むのなら・・・?
引越し費用も折半にして、家具もお互いが持っているものを持ち寄り、足りないものだけを買い足すのなら、あと半年頑張ってバイトすれば、何とかなるんじゃないだろうか・・・。
それが、わたしが彼と一緒に暮らしたい最大の理由だった。
 
「それに、結婚するわけでもないのに一緒に暮らすなんて、親が賛成するわけがないだろう?」
「じゃあ、結婚しようよ!」
「なっ・・・、そんなこと、簡単に決められるものじゃない!」
「簡単に決めてるわけじゃないじゃない。だって、わたしたち何年付き合ってると思ってるの?お互いを知るには、十分すぎる長さだと思うけど?」
「お互いをよく知ってるとか知らないとか、そういう問題じゃないんだ。君は結婚と簡単に言うけど、結婚後の生活を考えてみたことがあるのか?毎月の生活にいくらかかるのか、お互いの仕事はどうするのか、子供は欲しいのか、欲しいならいつ頃作る予定なのか・・・。」
「あーあーあー!もう!薫くんと話してると、息が詰まるよ!世の中、そんなに何もかも計画通りにいくわけないでしょ!やってみなきゃわからないことだって、あるじゃん!」
 
その頃のわたしは、「計画」などという言葉とは無縁の世界で生きていて、自分の欲求をどうすれば今すぐ満たせるか・・・と、そんな風にしか物事を考えていなかった。
そんなわたしには、彼の言う「計画」がなんだか、臆病者の言い訳に聞こえて、「親に何も言えないお坊ちゃん」に苛立ちを感じ始めていた。
 
「学生結婚するには、きちんとした計画と、それなりの覚悟が必要なんだ。ただの勢いや、その場の盛り上がりなんかじゃなくて、ちゃんとした人生設計があることを示さないと、誰にも賛成なんてしてもらえない。どうせデキ婚だろうと思われるのがオチだよ。」
「じゃあ、子供作ろうよ!それならみんな仕方ないって納得するでしょ。」
「ばっ・・・バカなことを言うんじゃない!」
 
そのとき、彼が言った言葉。
 
「扉を開けるときは、扉の向こうに何があるかを考えてから開けなきゃいけないんだよ。君がやろうとしていることは、扉の向こうで火事が起こっているのに、それを確かめもせずに扉を全開にして自ら火の中に入っていくようなものだ。」
 
 
あのときには心に響かなかった彼の言葉・・・。
でも、あれから何年も経った今、遠い異国の地でその言葉を聞いて、なんだか初めてその言葉の意味を理解したような気がした。
 
扉の向こうに何があるかを考えるという教育を受ける機会のないまま、明日の生活も見えない中、10代で妊娠、出産という扉を開けていく、この国の人たちの貧しさの連鎖を目の当たりにするとき、彼のあのときの言葉が胸に迫る。
 
<それを教えることも、君の役目だぞ。>
 
あの頃の甘酸っぱい恋心は消えても、今も彼が遠くからわたしの行く道を見守ってくれている・・・なんだか、そんな気がする。
心を大きなふるいにかけて、愛とか恋とか友情とか・・・そういった心の澱をすべて流し去ったあとに残った絆。
それが、きっと今のわたしと彼の関係。
 
あの頃の二人に・・・そして、今の二人に誇れるように、わたしはあの頃二人で見た夢を必ずここで叶えてみせる。
 
さぁ、わたしの次の扉は、すぐ目の前にある。
 
 
 
 

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