ウェブカレdreamブログ

乙女ゲーム「ウェブカレ」をモチーフにした二次創作小説です。

綾川 司

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旅立ちのとき 最終回

卒業式が終わり、ガランとした国語準備室に、一人入る。
 
いつもは、放課後、国語準備室に押しかけてくる生徒たちのせいで、自分の仕事が後回しになってしまうのを面倒に思うことも正直あったが、こうやって誰もいない国語準備室に一人佇んでいると、それはそれで、ふとたとえようのない寂寥感に襲われる。
 
教師は、こうやって毎年、生徒たちを見送る。
どんなに親身になっても、どれだけ愛情を持って接しても、それは長くても3年しか続かない。
自分がそこに身を置いている間は感じないけれど、長い人生の中では3年という月日など、本当にあっと言う間の出来事で、泣いたことも笑ったことも、卒業してしまえばそれはすべて過去のものとなる。
これから輝かしい未来に向かって羽ばたいていく彼らにとって、わたしはもうすでに過去の人。
 
でも、それでいいんだ。
 
それがわかっているからこそ、あとで、その過去を彼らが笑って思い出せるように、できる限り楽しく有意義な学園生活を送らせてやること・・・それが教師の仕事なのだから。
 
 
窓際に佇み、ぼんやりと暮れゆく空を眺めていると、その窓に徐々に自分の顔が映り始める。
背後の蛍光灯の光がだんだん強さを増し、その下の書棚や机の輪郭がはっきりしてくる。
そろそろカーテンを閉めようと、一歩窓際に寄ったそのとき、窓に映る国語準備室の扉がそっと開いた。
 
「おやおや、まだいたのですか。生徒はもう全員、帰ったものだとばかり思っていましたが?」
 
わたしがそう言うと、彼女は少し拗ねたように口を尖らせながらこう言った。
 
「もう生徒じゃありません。」
 
 
卒業式が終わったあと、この場所を訪れた生徒たちの輪の中に彼女はいた。
他のみんなと同じように、一緒に記念写真を撮り、
 
「お世話になりました。」
 
そういう、教師と生徒としての礼儀正しい言葉を残して、彼女は出て行ったはずだった。
 
 
「生徒を卒業したわたしを、一番先に先生に見せたかった。」
 
そう言う彼女は、すでにもう制服を脱ぎ去り、白いレースのワンピースを着て、ほんのり春色のメイクを施していた。
その姿は、さっきまでのあどけない少女の姿ではなく、もうすでに立派な一人の女性の姿だった。
彼女は、そっとわたしの方に近寄ると、机の上に山積みになった書類にチラッと目を落とした。
そして、それを1枚取り上げると、嬉しそうに微笑みながら、こう言った。
 
「先生、今年はこれ、配るんですね。」
 
 
初めて彼女の担任になった2年前、職員会議でこの書類を手渡された。
 
それは、奨学金制度の利用申し込み用紙。
 
近年、両親の離婚によるシングルマザーの増加や、父親のリストラに伴い、学校を続けられなくなる生徒が増えているということで、卒業生や父兄からの寄付で、その年から「白薔薇基金」なるものが設立された。
この申し込み用紙をホームルームで配り、概要を生徒たちに説明するように、とのことだった。
 
その瞬間、わたしの心の中で何かがはじけ、怒りで手が震えた。
なぜなら、「奨学金」・・・それは、わたしが絶対に受けまいと、意地になって避けてきたものだったから。
 
 
大学に入った年に、両親を事故で亡くした。
当時、まだ若くて突っ張っていたわたしは、誰の助けも慰めもいらないと、気にかけてくれたり、援助を申し出てくれる親戚の大人たちを、頑なに拒否した。
「親を失くしたかわいそうな兄弟」と、哀れみの目で見られることが嫌で、誰かに助けを乞うことイコール「敗北」だと、勝手に解釈していた。
それなら、生活保護や奨学金を受けたら・・・と、親切にもいろんな申込書を持って来てくれる人たちもいたが、そんな顔も見えないどこかの「あしながおじさん」の助けを借りるなんて、もっと許せなかった。
 
結局は、なんだかんだ言っても、多少は親戚の援助を受けることになったものの、「親がいないからこんな生活しかできない」と、人に思われたくなくて、絶対に家は手放さないと突っぱね、竜士にも他の子供が持っているものは何でも同じように買い与え、公的援助は絶対に受けず、あくまでも「人並みな生活」にこだわり続けた。
 
きっと、そのときのわたしは、そうでもしなければ、自分が二度と立ち直れないくらいに打ちのめされてしまうことがわかっていたのだと思う。
一度でも人に頼り、涙を見せてしまったら、際限なく弱い自分をさらけ出してしまいそうで、それが怖かった。
 
「奨学金」は、わたしにとって、弱さ、敗北の象徴だった。
それだけは絶対に受けまいと、それだけを思ってその目に見えぬ敵と戦ってきたのに、今になって、それを自分の生徒に勧めろと?
 
わたしは、国語準備室に戻ると、その用紙をビリビリに破り捨てた。
 
誰に何と言われようと、自分のクラスでそんなものを配るつもりはなかった。
わたしは、その書類を抱え、夜遅くこっそりと焼却炉に向かった。
焼却される前に誰かに見つかってしまわないように、焼却炉の片隅で、1枚1枚自分の手でライターに火をつけた。
そのときだった・・・そんなわたしの姿を彼女に見つかったのは。
 
彼女はわたしの側に近寄ると、地面の上の書類に目をやった。
わたしは慌ててそれを拾い集め、後ろ手で隠しながら、
 
「こっ・・・これは、昔の古い書類です。シュレッダーは他の先生が使っていて、空いていなかったので、ここで・・・。」
 
と、まるで子供のような勢いで弁解した。
すると、彼女はじっとわたしの目を見上げると、そっとわたしの手からその書類を取り上げ、その1枚にライターの火をつけた。
そして、わたしに向かってにっこり微笑むと、こう言った。
 
「誰かに見つからないうちに、全部燃やしてしまいましょう。」
 
オレンジ色に揺れる炎が、ゆらゆらと彼女の瞳の中で踊り、その瞬間、その炎がわたしにとっての未来の光となった。
 
 
「ええ・・・人に甘えること、頼ることは、必ずしも弱さではありません。自分が辛いときや苦しいときに、それを素直に人に伝えること、助けてほしいと声を上げること・・・それは、人間が生きていくための強さです。君に出会って、そのことに気付いたんですよ。そして、それを教えていくのも教師の仕事なんじゃないかと思うんです。」
 
わたしがそう言うと、彼女は満足そうに何度もゆっくりと頷いた。
そして、少し顔を赤らめ、そっと目を伏せると、小さな声でこう呟いた。
 
「じゃぁ・・・わたしも、甘えていいですか?」
「ええ、何なりと。」
 
すると、彼女はパッと顔を上げると、さっきまでの大人っぽい表情とは打って変わって、子供のような無邪気な表情を見せながらこう言った。
 
「先生と、手をつなぎたい!」
「ふふふ・・・手だけでいいのですか?二人がつながる部分なら他にもあると思いますけど?」
 
わたしは意地悪くそう言うと、彼女の腕を引き寄せた。
彼女の細い体がわたしの胸の中に倒れ、その拍子に彼女の長い髪の毛から甘いシトラスの香りが広がる。
彼女は、わたしの胸の中に顔を埋めたままでこう言った。
 
「子供の頃、よくお父さんとお母さんと3人で手をつないで、公園に行ったの。楽しくて・・・何も不安なことなんてなくて・・・幸せだった。でも、お母さんが入院するようになって、そのうち、お父さんもあまり家に帰ってこなくなって・・・誰と手をつなぐこともなくなって・・・。今はもう、人の手のぬくもりすら思い出せない・・・。」
 
それを聞いた瞬間、わたしは思い切り彼女を抱きしめた。
 
辛さも苦しみもすべて一人で抱え込んできたわたしたちが、今ここでこうやって一つになろうとしている。
辛いときに誰かの手を求める強さを知ったわたしたちは、やっと今、それぞれの過去から卒業できるような気がした。
 
これからは、一人じゃない。
二人で一つの夢を見るために、今がその旅立ちのとき。
 
 
 
 
 
 
 
 

ミス白薔薇 第57話

とてつもなく長い時間に感じていた卒業までの月日も、今から思えばあっという間だったような気がする。
学校に行くことも、未来も、大人になることも、すべてが無意味に思えて、壇上から聞こえてくる校長先生の話を、右から左に聞き流しながら、何百人という新入生たちの集う体育館の中で、たった一人ぼっちだったあの頃のわたし。
入学式が行われたのと同じこの場所で、今、わたしは卒業パーティーに出席している。
 
来週行われる卒業式。
 
そこからわたしの未来は始まる。
今まで、ずっとわたしにとって「未来」は怖いものだった。
「未来」を考えるということは、お母さんの死、孤独、絶望、捨てられる恐怖・・・そういったことを、考えるということとイコールだったから。
 
でも、今、卒業の向こう側にある「未来」を考えるわたしに、もう恐怖はない。
なぜなら、その「未来」を一緒に生きていく人がすぐ側にいるから・・・。
 
 
「おやおや、これは困りましたね。こういうのは、ちゃんと卒業生の中から選ばなくては・・・。」
「だって、先生よりもふさわしい人なんて、いないんだもの。しょうがないでしょ。」
「そうそう。これはれっきとした投票の結果なんだから、文句は受け付けません!」
 
わたしは、女子生徒たちに取り囲まれながら談笑する先生の姿を、少し離れたところから見ていた。
 
白薔薇学園の卒業パーティーで行われる、学園一の美男美女を決めるミス白薔薇、ミスター白薔薇の投票で、今年のミスター白薔薇に先生が選ばれた。
本来は、卒業生の中から選ぶものなので、その結果は男子生徒たちからはかなりのブーイングだったが、女子生徒たちのパワーに圧倒されて、結局、ゴリ押しされた。
 
ミス白薔薇は、当然のごとく、間山さん。
体育館をグルリと見回し、彼女の姿を探す。
いや、探さなくても、人目を引く彼女の華やかさは、これだけたくさんの人がいる中でも、すぐにわかる。
大勢の人だかりの中で、ひときわ輝く栗色の長い巻き毛、そこから突き出た陶器のような白い肌、いつも潤んでいるような大きな瞳。
彼女の卒業後のメジャーデビューが決まったということで、今のうちに少しでも彼女と近づいておきたいミーハー集団に囲まれて、彼女の周りには大きな人垣ができていた。
 
そんな彼女の横顔を見ながら、改めて人を愛することの不思議さを思う。
愛というものは、その人の容姿が美しいとか、人格が素晴らしいとか、必ずしもそういう優れた部分に宿るものではない。
その人の愚かさや、罪や、後悔や、醜く汚れた部分・・・そして、出会ったときの状況や、そのときのお互いが抱えている問題、それまでの歴史、そういった様々な小さな要因が少しずつ積み重なって、愛となる。
それは、本当に何十万分の一ともいえるほどの奇跡的な確率で、本人の人間性や、美しさといったものとはかけ離れたところにあるような気がする。
 
わたしは、たまたまその奇跡の歯車がかみ合っただけだ。
決して、彼女よりも女性として優れているとか、選ばれた者だとか、そういうことではない。
その歯車が彼女の目の前でかみ合う可能性だって、十分にあったわけだから。
わたしは、決して恋の勝者なんかでは、ない。
 
 
「先生、もうすぐダンスが始まりますよ!」
 
そう言って、誰かが先生を体育館の中央に連れ出す。
それと同時に、他の誰かが間山さんの元に駆け寄り、彼女の腕を引っ張って先生の目の前に突き出した。
 
ミス白薔薇と、ミスター白薔薇に選ばれた者は、卒業パーティーで1曲ダンスを踊ることになっている。
学園内に彼らの特定の恋人がいる場合は、その相手と、いない場合は二人がパートナーとして踊ることになっている。
間山さんの恋人は、噂を聞くたびに相手が違うので、誰が本当の恋人なのかはよくわからないけれど、噂ではいつも白薔薇学園の人ではない。
そして、先生に関しては、「学園内に恋人がいるはずがない」との前提で、二人が踊ることが当然だと、みんな思っているのだろう。
みんな普段は、先生と親しくする女子生徒の存在を毛嫌いするくせに、間山さんだけは別のようだ。
それはきっと、先生と間山さんという組み合わせが、芸能人カップルを見ているような現実味のなさを感じさせるから。
生徒と恋に落ちるはずなどない「教師」という、手の届かない存在である先生と、これからスター街道を歩いていく間山さん。
どちらも自分の生活とはまるでかけ離れた世界にいる人たちで、嫉妬や比較の対象にならない。
 
先生の前に連れ出された間山さんが、頬を染めてそっと俯く。
そんな彼女が、わたしには「スター」ではなく、「ただの女の子」に見えて、それが更に彼女を美しく見せた。
彼女は頬を紅潮させたまま、そっと顔を上げ、先生の目をじっと見つめると、思いがけない言葉を口にした。
 
「先生のダンスの相手は、わたしじゃなくて、篠田さんがいいと思います。」
 
一瞬、心臓が止まるかと思った。
 
「え・・・?なんで?」
「え?誰って?・・・篠田さん?」
 
みんなの不思議そうなざわめきが、意識の中で遠くなっていき、周りの者と顔を見合わせながら、一斉にこちらに視線が集まってくるのを感じつつ、わたしはその場に立っているのがやっとだった。
 
「だって・・・。」
 
と、間山さんがみんなの方に向き直る。
 
・・・わたしと先生の関係をバラされる・・・?
 
もしここで、みんなにわたしたちの関係がバレてしまったら、一巻の終わり。
たとえ、卒業式を来週に控えているとはいえ、在学中に生徒と関係を持ったことがバレて、そのまま何事もなかったかのように卒業式を迎えられるわけがない。
 
どうしよう・・・どうしたらいい・・・?
 
間山さんの次の言葉に思わず耳を塞ぎたくなる。
わたしはぎゅっとこぶしを握り締め、固く目を閉じた。
間山さんの、鈴が転がるような透き通った声が、垂れたわたしの頭上をそよそよと吹き渡る。
 
「だって・・・、みんな、綾川先生のこと好きだとか、憧れてるとか、口では言うけど、学級委員や教科担当の仕事を積極的に引き受けて、先生を助けてきた人っている?結局、なんだかんだ言ったって、そういう面倒な仕事は誰もやりたがらないじゃない。篠田さんは、そんな面倒な学級委員っていう仕事を2年も引き受けて、先生を助けてきたの。最後に、先生と踊る資格があるのは・・・篠田さんだよ。」
 
そう言うと、彼女は悔しいほど美しい完璧な微笑みで、ツカツカとわたしの目の前に歩いてくると、わたしの手をそっと取って、先生の前に立った。
 
「ね?みんな、いいでしょ?」
 
さっきまでざわついてた人の輪が急にしんとなった。
彼女のカリスマ的な物言いは、人に有無を言わせないパワーのようなものがある。
最初は、納得できないという顔をしていた人たちも、彼女のその断固とした口調に圧倒され、だんだん「間山さんがそう言うのなら・・・」という雰囲気に変わってきて、最終的には誰も反対する者はいなくなった。
 
間山さんが、わたしの手を握っているのと反対の手で、先生の手を引き寄せる。
先生は、フッと軽く笑うと、差し出されたわたしのその手の上に自分の手をそっと重ねながら、こう言った。
 
「では、学級委員、最後の仕事をお願いします。」
 
 
音楽が鳴り始めるとともに、先生がわたしの背中にそっと手を当てる。
 
みんなの前でこんな風に堂々と、先生と見つめ合うことができるなんて、絶対にありえないと思ってた。
たとえ、それがどんな理由で、どんな状況であったとしても・・・。
これで、わたしたちが犯したタブーが消え去るわけでも、みんなに祝福されるわけでもないことは、十分わかっている。
それでも、先生の目を見ず、隠れるようにして卒業していくのではなく、最後にこうやって、みんなの前でちゃんと先生の目を見て、学級委員として堂々と卒業していくことができたことで、わたしと先生の心に、はっきりとしたけじめのようなものがついたことだけは、間違いなかった。
 
 
卒業パーティーが終わり、荷物を取りにロッカーに向かうと、ちょうどロッカーの中から荷物を取り出している間山さんに会った。
彼女は、横目でチラッとわたしを見ると、まるで見ず知らずの人に会ったように、まったく知らん顔をしてそのまま荷物を取り出し、わたしの横を無言で通り過ぎた。
彼女の長い巻き毛がわたしの鼻をかすめ、彼女が切る風に合わせて、甘いバラの香りが漂う。
 
「ま・・・間山さん!」
 
慌てて、わたしが呼び止めると、足早に過ぎ去ろうとしていた足が一瞬止まり、彼女の顔がこちらに少し傾いた。
 
「あ・・・あの・・・さっきは、ありがとう。」
 
わたしがそう言うと、彼女は一瞬止めた足をまた前に進めながら、わたしの方を見向きもせずにこう言った。
 
「恋敵に、感謝なんてされたくない。」
 
そして、そのまま数歩歩いて、ロッカールームの出口に辿りついた。
そのまま出て行ってしまうのかと思い、追いかけようと足を一歩踏み出したそのとき、彼女は突然、何かを思い出したようにクルリとわたしの方を振り向いた。
そして、わたしの顔を食い入るように見つめると、こちらが思わず視線をそらしてしまうような強い目をして、こう言った。
 
「見てて。わたしは、絶対に音楽で世界の頂点に立つ。わたしの歌で、世界を変えてみせるから。そして、そのときには・・・必ず世界で一番いい男を手に入れる。」
 
そう言うと、彼女は唇の端をぎゅっと上に上げてニヤリと微笑むと、わたしに背を向け、ロッカールームを出て行った。
 
そのときの彼女の顔は、テレビや雑誌で見るどんな芸能人よりも完璧な、「スター」の顔だった。
彼女の残したバラの香りが、まだロッカールームに立ち込めていた。
ミス白薔薇・・・彼女にふさわしいネーミング。
そう・・・あなたは本当に、完璧なまでにミス白薔薇。
 
 
うん・・・ずっと見てるよ。
あなたが世界の頂点に立つところを・・・あなたの歌によって変わっていく世界を・・・。
そして、あなたが選ぶ世界一の男を。
 
あなたが好きになった人を、わたしも好きになった。
それだけで、なんだかわたしの選択は正しかったと思えるの。
恋敵があなたで・・・本当に、よかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

隠された女心 第56話

陽が傾き、薄暗い帳の下り始めた校舎の中を、国語準備室に向かって歩く。
今週いっぱい、ずっと白薔薇学園の合格発表の準備で職員室に缶詰状態になっていて、自分自身の仕事をする時間がなかった。
4月からの授業の準備もあるし、卒業していく生徒たちの資料の整理もある。
できることはできる間にやっておかなくては・・・。
 
職員室を出て、渡り廊下を通り抜け、別棟にある国語準備室に向かって歩いていたそのとき、静まり返った校舎にかすかに響く透き通った歌声が聞こえた。
普段なら、生徒たちの声や雑音にかき消されて聞こえない程度の音だったが、静かな校舎の中でそれはよく響いた。
今日は、白薔薇学園の合格発表があったため、1日中部活動は禁止されている。
生徒は誰もいないはずなのに・・・。
そう思いながら、わたしはその音の方向に足を進めた。
 
だんだん近づいてくる音を手繰り寄せながら辿りついた場所は、軽音部の部室。
窓からそっと中を覗いてみると、こちらに背を向けギターを鳴らす一人の少女の姿があった。
 
間山志帆・・・。
 
竜士の友人であり、その類まれな歌声とカリスマ的なオーラを持つ彼女は、白薔薇学園軽音部のスター的存在だ。
一度も彼女の担任になったことはないが、流行をきちんと押さえながらも、自分の魅力を最大限に発揮するメイクとファッションセンス、そしてもともと彼女が持っている華やかな雰囲気は、一度見たら忘れない。
きっとその個性は天性のもので、社会に出たときには必ずそれが彼女にとって有利に働くはずなのだが、学校というところはそれを認めない。
わたしも「学校側の人間」として、何度も彼女に注意を促してきたが、それをものともしない生意気な勝気さも、内心、小気味良かった。
 
「卒業パーティーのステージでやる曲の練習ですか?」
 
そう声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いてこちらを振り返った。
 
「君がギターを弾くとは思いもしませんでした。」
 
すると彼女は、いつもの生意気な表情とは打って変わって、ごく普通の高校生のようなしおらしい表情でそっと俯きながらこう呟いた。
 
「専門じゃないから下手だけど・・・。歌のテンポとかキーを確認したいときだけ。」
「頑張ってください・・・と、言いたいところですが、今日は部活動は禁止です。他の先生に見つからないうちに、早く帰りなさい。」
 
そう言って、彼女に背を向け、部室を出ようとしたとき、背後で椅子が倒れる派手な音がした。
振り向くと、夕闇の中に立ち尽くす彼女が、じっとわたしの目を見つめていた。
彼女の後ろの窓から、グランドに灯り始めた夜光灯の光が差す。
 
「先生・・・。わたし、ずっと先生に言いたかったことがあるの。先生、わたし・・・。」
 
そのとき、彼女が手にしていたギターがわたしの目に留まった。
 
「あっ・・・これは!」
 
思わず彼女の言葉を遮ってしまった。
わたしは、彼女の側に駆け寄ると、彼女が持っていたギターを手に取った。
それは、わたしが昔持っていたギターとまったく同じメーカー、型式のものだった。
 
「少し、弾かせてもらってもいいですか?」
 
すると、彼女は大きな目を一層大きくしてわたしの顔を覗き込んだ。
 
「え?・・・先生、ギター弾くんですか?」
「ふふ・・・。もともと、竜士が音楽を始めたのだって、わたしの影響です。本人は絶対に認めませんけどね。」
 
 
わたしがちょうど竜士や彼女と同じ高校生の頃。
スポーツ、バイク、車など、思春期の少年が一度は必ず興味を持つものの一つ、音楽。
わたしも例に漏れず、当時流行っていたロックバンドに夢中になり、バイト代を貯めてギターを買った。
竜士ほど真剣にやっていたわけではないし、一過性の熱病のようなものに過ぎなかったが、それでもやはり、このギターを見ると遠い青春時代が蘇る。
 
ギターを構え、当時好きだった曲を弾いてみた。
もうギターを弾かなくなって10年以上も経つけれど、今でもコード進行は指が覚えていた。
それでも、やはりさびついた指は思い通りには動かず、たどたどしいイントロが進む。
確か、60年代か70年代の古い洋楽のバラードで、当然彼女が知っているはずはないと思っていたので、彼女が歌い始めたときには驚いて、一瞬手を止めてしまった。
でも、彼女はわたしを見てそっと微笑むと、そのまま続けて・・・というような仕草をした。
なんとか1曲弾き終えて、ギターを彼女に返しながら、こんなにも弾けなくなってしまうものかと自分自身に苦笑した。
 
「やはり全然ダメですねぇ。頭の中では覚えているのに、指がついていかない。」
 
そう言って笑うと、彼女はまるで独り言のようにこうポツリと呟いた。
 
「先生・・・今、幸せなんですね。」
 
あまりにも何の脈絡もなくそう言われたので、驚いて彼女を見返すと、彼女は顔いっぱいに笑顔を広げてこう言った。
 
「楽器は弾き手の心を映し出す鏡です。上手いとか下手とか、そんなことは関係ない。」
「それで・・・今のわたしの心が幸せだと?」
 
すると、彼女は大きく何度も頭を縦に振りながら、わたしに向かって微笑んだ。
 
「はい。」
 
なんだか、卒業を前に浮かれている自分の心を見透かされたような気がして、恥ずかしくなったわたしは慌てて話題を変えた。
 
「・・・あ、そういえば、さっき何か言いかけていませんでしたか?すみません、ギターに気を取られて話を遮ってしまって。」
 
すると、彼女はフフッと軽く笑いながらそっと俯いた。
その笑顔が、なぜか少し寂しそうに見えた。
 
「もう・・・いいの。」
 
暗がりの中で、彼女の伏せた睫毛が小さく震えていた。
 
 
軽音部の部室を出て、国語準備室に向かう。
すぐに戻るつもりで、鍵を開けっ放しにしてきたのに、思いがけないところで寄り道をしてしまった。
校外秘の資料もたくさんあるのに、こんな不用心ではいけないじゃないか・・・と、自分を叱咤しながら、暗闇の国語準備室の電気をつけようと、壁際のスイッチに手をやった瞬間・・・。
 
「う・・・うわっ!」
 
ひんやりと冷たく柔らかいものがぎゅっとわたしのその手を掴んだ。
そして、わたしの叫び声と同時に甲高い笑い声が部屋中に響き渡る。
 
・・・彼女だ・・・。
 
「まったく・・・大人をからかうもんじゃありません。」
 
そう言いながら、電気をつけると、彼女は口に手をあて、クスクスと笑いながらシンクの方に向かってお湯を沸かし始めた。
 
「ずっと待ってたのにどこにもいないんだもん。鍵も開けっ放しで、どこに行ってたんですか?」
「職員室で仕事をしていて、すぐに戻るつもりだったんですけどね。軽音部の部室でたまたま間山さんと会って、つい話し込んでしまったんですよ。」
「えっ・・・間山さん?」
 
彼女の表情がサッと変わった。
そして、コーヒーサーバーをじっと見つめ、わたしに背を向けるようにしながらこう言った。
 
「それで・・・どんな話をしたんですか?」
「どんなって・・・別に普通の世間話ですよ。音楽の話とか。」
 
彼女は何も言わなかった。
そして、なぜかイライラした手つきでコーヒーサーバーにお湯を注ぐ。
 
・・・何が気に入らないんだろう?
 
彼女が何かに対して苛立っているのはわかるのだが、その理由がさっぱりわからない。
もしかして、ホワイトデーのプレゼントを先に渡さなかったから・・・?
 
「冷蔵庫を開けてみてください、お姫様。それでどうか機嫌を直していただけませんか?」
 
おどけた調子でわたしがそう言うと、彼女は頬を膨らませながらフンと顔を横に向けた。
 
「ケーキでしょ?さっき見ました。女の子がみんな甘いもので機嫌が直ると思ったら大間違いです!」
 
何が原因かはわからないが、そうやって子供のように拗ねる彼女がなぜかとても可愛く思えて、場所も考えず思わず彼女を強く抱きしめてしまいそうになった。
 
子供の頃からいつも一人ぼっちだった彼女。
甘えることも、拗ねることも、わがままを言うことも許されず、常に自分の中に感情を押し込めているうちに、いつの間にか大人びたクールな表情しかできなくなってしまっていた。
それが、自分の心の弱さを見せたくなくて、常に「クールな大人」を装っていた自分と重なった。
そんな二人が少しずつ心を通い合わせる中で、「クール」という鎧でまとっていた自分の本当の心を徐々に溶かしていくことができるようになった。
今の彼女の、この子供っぽい振る舞いを見ながら、やっとここまで辿りついた・・・という気持ちで、胸がいっぱいになった。
 
「先生は・・・女心に鈍感すぎます!」
 
その言葉に、つい大笑いしてしまった。
この年になって、10代の少女に女心を説かれるとは思ってもみなかった。
 
どれだけ年を重ねても、どれだけたくさんの女性と経験しても、男にとって「女心」は永遠の謎なのですよ。
それでも、何とかそれを理解したい、喜ばせたい、とあれこれ考えて、ああだこうだと策を練る、そんな男心に気付いてはもらえないでしょうか?
 
「まぁ、そう言わずに。」
 
わたしはクスクスと笑いながら、冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
小さな皿に移し変え、彼女の目の前に置く。
 
「是非、感想を聞きたいのですよ。食べてみてください。」
「見てわかりませんか?わたし、今、両手ふさがってるんです!」
 
そう言って、彼女が口を尖らせたままカップにコーヒーを注ぐ。
その態度がおかしくて、更に笑いがこみ上げる。
 
「では、食べさせてあげましょう。はい、あーんして。」
「なっ・・・せ・・・先生っ!」
 
わたしがフォークを彼女の口元に運ぶと、彼女は顔を真っ赤にして怒る様子を見せたが、すぐに少しためらったように周りをキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認すると、素早くわたしの手から小鳥のようにケーキを一口ついばんだ。
 
「どうですか?」
「お・・・おいしい・・・。」
 
そう言って、彼女の口元に笑みが戻りかけたが、彼女は慌ててそれを引っ込めると、わざとしかめっ面をしてコーヒーカップの方に向き直った。
 
「お・・・おいしいけど・・・そんなことで、ご機嫌取ろうったって、そうはいきません!」
「ふふ・・・おいしいのならよかった。」
 
そう言って、わたしはシンクのふちに寄りかかりながら、彼女の膨れた頬に手をかけ、無理やり自分の方に顔を向けた。
 
「実は、このお店はウェディングケーキの注文も受け付けているらしくてね。しかも、デザインや材料などを、こちらが指定して文字通り世界に一つしかないウェディングケーキを作ってくれるそうなんですよ。注文するにしても、まずは味の確認が先ですからね。君から味についての太鼓判が出たのなら、あとは日にちを決めて注文するだけですが・・・どうしますか?」
 
少し意地悪いと思ったが、彼女に決定権を委ねてみた。
すると、彼女は少しためらいがちにそっと目を伏せると、顔を赤らめたまま小さな声でこう呟いた。
 
「12月25日がいい・・・。先生にこれをもらった日と同じ日に・・・。」
 
そして、制服のブラウスの中に隠れていた細い銀のチェーンを引っ張り出した。
その先には、ダイアモンドの透き通った白い光。
クリスマスにわたしが彼女に送った「永遠の愛」。
 
ずっと、先が見えないと思っていた。
先の見えない真っ暗なトンネルの中を、彼女と二人、手を取り合うこともできず、ただお互いの心の中だけを信じて歩いてきた道。
でも、その道の先にこうやって少しずつ明かりが見える。
ただ闇雲に「いつか」を待っていた日々は終わり、その「いつか」は具体的な日にちとなってわたしたちの目の前にある。
そのことが、ただ無性に嬉しかった。
 
<先生・・・今、幸せなんですね>
 
と、誰かが言った言葉を思い出す。
でも、誰が言ったのかはもうすでに思い出せなかった。
その裏に隠された女心など知る由もなく、わたしはただ目の前にある幸せに酔っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

風の向こう側 第55話

最近、毎日同じ夢を見る。
 
壁も、天井も、床もすべてが真っ白で、家具やその他のものが一切ない・・・つまり白以外に何も見えない部屋にわたしはいる。
そして、どこかから・・・というよりは、わたしの耳の中・・・もしくは頭の中に直接声が飛び込んでくる。
 
<君はわたしに隠しごとをしていますね。嘘をつく子はお仕置きです。>
 
その声は、お父さんの声のようでもあり・・・先生の声のようでもあり・・・そして、神の声のようでもあった。
怖くなったわたしは、その部屋の中にたった一つだけあるドアを開けようと、ドアノブに手をかける。
そして、それを思い切り引いた瞬間・・・
 
わたしに向かって襲いかかる、何百匹という蛇・・・蛇・・・蛇・・・。
 
蛇の波に足を取られてその場に倒れるわたしの体を、ヌメヌメと蛇は這い回る。
わたしの体を舐めつくし、長く冷たいうろこを巻きつけ、割れた舌先がチロチロとわたしの顔に近づいてくる。
 
怖くて目が開けられない。
叫び声を上げようと思っても声が出ない。
 
そして、いよいよ毒牙をむき出しにした蛇がわたしの首に噛みつこうとしたその瞬間、渾身の力を込めてカッと目を見開いたわたしの目の前にあるのは、あの男の歪んだ微笑。
 
・・・そこで、いつも目が覚める。
 
 
先生にすべてを打ち明ければ楽になれる・・・?
いや、そんな問題ではなかった。
 
打ち明けること・・・それは、先生との永遠の別れを意味する。
 
もし、先生が真実を知ったとしたら・・・。
 
きっと、あの男を憎むだろう。
憎んで・・・憎んで・・・あの男が先生をずっと憎んできたのと同じように、先生もまた憎み続けて・・・。
そうやって憎しみの連鎖が断ち切れないまま、わたしたちの関係を続けていっても、先生は永遠に過去にとらわれ続ける。
わたしが先生の傍にいる限り、先生は一生あの男の幻影と、自分の過去の過ちに悩まされ続ける。
二人で悪夢から逃げようと、どんなに遠くへ逃げたって、逃れられない過去への憎しみにいつか二人とも疲れ果て、相手を責める日がやってくる。
 
わたしたちの未来を守るためには・・・どんなことがあっても、絶対に言えない。
 
 
「よ。」
 
まだ少し冷たい風が吹きつける学校の屋上。
先生に余計な勘ぐりをさせないために、毎日学校に来てはいるけれど、正直、先生の顔を見るのが辛いときがある。
そんなときにやってくるこの場所・・・。
 
「何だよ、シケた顔して。あ、マリッジブルーってやつ?」
 
振り向くと、その声の主が赤い髪を揺らしながら、逆光の中で目を細めて笑う。
その笑顔が、先生・・・あなたにとてもよく似ている。
わたしは、そんな彼の冗談を無視して、手で彼を追い払う仕草をしながらこう言った。
 
「シッシッ!早くアッチ行ってよ。わたしと一緒にいるとこ誰かに見られて、また写真なんか撮られたりするのはゴメンだからね。」
 
すると、彼はポケットに手を突っ込みながら大声で笑って、フェンスにもたれかかり、胸ポケットからタバコを取り出した。
 
「確かにそうだな。お前は、俺の浮気相手だからな。ま、もう誰もそんなこと覚えてやしないだろうけどさ。」
 
鼻に刺すようなタバコ独特の苦い香りが、煙とともにゆらゆらと空気中に散らばっていく。
・・・先生と同じ匂い。
 
彼は、しばらく黙ったまま、ただわたしの隣でタバコを吸い続けた。
そして、最後の煙をふぅーっと深く吐き終わると、それを足元でもみ消しながら独り言のようにこう呟いた。
 
「・・・うまくいってんだろ?・・・男と。」
 
あえて、先生の名前を出さないのは、彼の優しさ。
その優しさに甘えて、つい涙ぐんでしまいそうになるのを、慌てて瞳の奥に閉じ込める。
わたしは、それを見破られまいと、わざと自虐的に笑うとこう言った。
 
「わたしさ・・・恋愛する資格なんてないの。」
「資格?」
「恋愛って、相手に対して誠実であること、どんなことでも相手を信じて何もかも包み隠さずに話せる関係・・・って、それって基本じゃない?でも、わたしには・・・隠してることがある。」
 
そう・・・わたしは、真実を隠して、嘘で塗り固めた虚構の上に幸せを築こうとしているの・・・と、そこまではやはり、言えなかった。
 
彼は、屋上のフェンス越しに遠くを見つめたまま、ただ無言だった。
時折、強い風が吹いて、彼の赤い髪の毛を揺らす。
彼はしばらくその風の中に体を浸していたけれど、、突然、思い出したようにわたしの方を振り向き、少し目を伏せるとそっと笑った。
はにかむように目を伏せるその仕草も・・・先生によく似ている。
 
「俺さ・・・、みんなの前で、お前と寝たって言ったじゃん?あれは嘘なんだって・・・なんで俺があんな嘘をつかなきゃならなかったのかって・・・そういうことを、何一つ、アイツに説明してやってないんだよ。」
 
・・・え?・・・どういうこと?
 
じゃあ・・・リコは一体、あのときのことをどんな風に理解しているの?
あれ以来、わたしはリコとも竜士くんとも一言も話していなかったけれど、二人の様子を見ている限り、ちゃんと仲直りしているようだったし、わたしはてっきり、彼はリコにだけは真実を話しているものなのだとばかり思っていた。
 
「え?じゃあ、もしかして、リコはまだわたしと竜士くんとのことを疑ってるの?」
「さぁ、どうだろうなぁ・・・。あの件について、アイツがどんな風に理解して、自分の中で納得したのか、実は俺にもよくわかんねーんだよ。ただ・・・アイツは俺に真実を問い詰めることは、しなかったんだよな・・・。」
 
そう言って、彼は地面に落とした吸殻を見つめたまま、何かを思い出したようにフフッと軽く笑った。
きっと、彼女のことを思い出して笑っている・・・誰もがすぐに気がつくほどに愛情いっぱいのその笑顔が、なんだか憎たらしいほどに幸せそうに見えた。
 
「結局、俺たちは肝心なことには何も触れないまま、真実をうやむやにして、相手に嘘をついたまま付き合ってる。そういう意味では、俺もアイツも恋愛する資格なんてねーよな。でもさ、一番真実を知りたいはずのアイツが、何も聞かずにただ黙って俺の嘘を受け入れてくれたのを見て、なんか、恋愛には真実よりも大切なことがあるんじゃねーかって気がしたんだよ。」
 
俺の都合のいい解釈かもしれないけどな・・・そう言って笑う彼の顔が、今この屋上に吹いている初春の風のようにさわやかで、久しぶりにわたしの心にも暖かい風が吹いた。
 
 
そぉーっと国語準備室のドアを開け、中の様子を伺ってみる。
先生はいつもの通り、窓際の大きな机の前に座って、何かの資料を読んでいるようだった。
それでもいつもと何か雰囲気が違うのは・・・
 
・・・国語準備室の中を流れる空気。
 
いつもは、優しい中にも「仕事中」という、ちょっとした緊張感と厳しさの漂うこの部屋に、今日はその気配がまったく感じられなかった。
まるで、休日に先生の自宅を訪ねているような、不思議な感覚。
自主登校中で、生徒の数が少ないからだろうか・・・。
それとも、昨日わたしが活けた花のせい・・・?
 
「あ!先生!」
 
わたしがたしなめるような声を出すと、先生はこちらを向いて、少し照れくさそうに笑った。
 
「おやおや、見つかってしまいましたね。」
「教師が、仕事中にこんなもの見てていいんですか?」
 
そう言って、わたしが先生の手から取り上げたのは、車の情報誌。
今日の国語準備室が妙になごやかなのは、きっとこれのせい。
 
「先生って、車好きなんですね。」
 
そう言いながら、花瓶の水を入れ替えようと手を伸ばしたとき、その雑誌をパラパラとめくっていた先生がこう言った。
 
「ええ、車を買い替えようと思いましてね。もうすぐ家族も増えることですし。」
「・・・え?」
「家族でキャンプや旅行に行けるような、ファミリーカーにしようと思っているんですよ。今のスポーツカーにチャイルドシートをつけるわけにはいきませんからね。」
 
そう言って、先生が一人でクスクス笑う。
 
「大体、車種は決めたんですが、色を迷ってるんですよねぇ。定番で考えれば白なんですが、家族で海や山に行って汚れても目立たないものを・・・と考えると・・・。」
「で・・・でも・・・。」
「あまり車高の高いものだと、今のガレージに入らないし・・・。いっそのこと、ガレージも改装しましょうかね?」
「せ・・・先生!」
 
まるでランドセルを選ぶ子供のような先生の楽しげな口調が、かえって心配になり、つい先生の言葉の中に割って入ってしまった。
 
「でも先生・・・今の車は大切な人からのプレゼントなんじゃ・・・。」
 
わたしが少し口ごもりながらそう言うと、先生はそんなわたしの言葉を遮るように、はっきりとした強い口調でこう言った。
 
「過去は、捨てることにしたんです。」
 
そして、先生は椅子に座ったまま目の前のわたしの顔を見上げて微笑んだ。
その微笑が、さっきの幸せそうな竜士くんの笑顔とびっくりするくらいまったく同じだった。
 
そのとき、気付いた。
先生は・・・幸せなんだ・・・。
 
そのことに、今、改めて気がついた。
先生は、幸せなんだ・・・。
 
何故かふと、ずっと前、まだわたしの一方的な片想いだった頃に、何気なく先生が言った一言を思い出す。
 
<わたしがもう少し遅く生まれていれば、放課後、君と一緒に帰ったり、一緒に風の向こう側を見たりすることができたかもしれない>
 
そのときは、「風の向こう側」の意味がよくわからなかった。
「風の向こう側」に一体、何があるのか、それを見るためには何をしなければいけないのか・・・。
 
でも、今やっとわかった。
 
「風の向こう側」にあるのは、未来。
そして、それを見るためには、過去を捨てなければならないということ。
 
未来という風の向こう側・・・そう、それがきっと真実よりも大切なことなんだ。
大切なのは、「真実」という過去を掘り起こすことではなく、これから訪れる新しい未来。
その未来を守るためならば、わたしはどんな嘘だって貫き通す。
 
先生・・・わたしは、もう迷わないよ。
わたしも、あなたと一緒に過去を捨てるの。
あなたに「真実」は、死ぬまで告げない。
あなたには、風の向こう側だけを見ていてほしい。
そこには、わたしたちの待ち望んだ明るく優しい光が、わたしたちを待っているから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

夢のアルバム 第54話

あの日以来、彼女に特に変わった様子はなかった。
彼女は、あの夜のことなどまるで忘れたかのように、いつもとまったく同じ様子で登校していたし、わたしに対する態度も至って普通だった。
思春期独特の微妙な心の動きなのか、それとも女性特有の気まぐれゆえの突発的な行動なのか、心の片隅で気にはなりつつも、次々に進路が決まっていく生徒たちの記録の整理や、4月からの新入生の受け入れに忙殺され、あの夜のことは、少しずつ記憶の中で風化していった。
 
仕事が忙しかったから・・・というのは、嘘ではないが、実を言えば、わたしは単に物事を簡単に考えすぎていた。
彼女の卒業まで残すところ1ヶ月となり、これまでずっと心に重くのしかかっていた、世間に対する後ろめたさや、お互いの抱える心の闇、過去の傷などが、すべて解き放たれていくような開放感に酔い、今までのように暗闇の中で彼女の心を見つめようとする目を失っていた。
波打ち際で崩れそうになる砂の城を、何度も修復しながらここまで築いてきたわたしたちに、もう何も問題など、ないように思えた。
そのときのわたしは、まるで遠足を待ちわびる無邪気な子供のように、ただこれから訪れるであろう春の陽射しに胸を膨らませ、彼女の笑顔の裏側に隠された苦悩に気付くことすらできなかった。
 
 
「先生、最近、楽しそうですね。」
 
そう言って、車の助手席に座った彼女がクスッと笑う。
 
「今日はバレンタインデーですから。」
 
そう言って、彼女を抱き寄せようとしたわたしの腕を、彼女が驚いたように振り払った。
 
「だ・・・ダメです。まだ学校の敷地内ですよ。もし、誰かに見られたら・・・。」
 
わたしはクスクスと笑いながら、キーを差込み、車を発進させた。
車を走らせながら、いくら静まり返った職員用の駐車場とはいえ、学校の敷地内でこんな行動に出てしまう自分の子供っぽさがおかしくて仕方なかった。
まるで、朝を待てなくて、前日に遠足のおやつを食べてしまう子供。
そして、そのことを恥ずかしいと思うことすらできないほど、わたしは未来の明るい光をただ無条件に信じ込んでいた。
 
 
彼女と心を通わせてきたこの3年間の間で、わたしは心の膿をすべて出し切ることができた。
両親が亡くなって以来、誰にも開かなかった心の扉が少しずつ開かれ、その中に押し込めてきたどす黒い想いが1滴1滴流れ出し、それが彼女の膿と混じり合い、お互いの体の外に排出されていくのを感じた。
 
彼女には、何も隠すことなどなかった。
そう・・・なぜなら、これから人生という長い道のりを、嬉しいことも、楽しいことも、気がかりなことも、不安なことも、すべてを彼女と一緒に分け合って歩いていくのだから・・・。
 
「彼がね・・・捕まったんですよ、警察に。」
 
これが、最近のわたしの唯一の気がかりなことだった。
え?という表情で、彼女がわたしの方に顔を向ける。
 
「体育祭の日、法被を取りに行った工場で会った人がいたでしょう?彼が、警察に捕まったんですよ。ドラッグの違法取引でね。」
 
一瞬、彼女の顔が強張ったように見えたが、前を向いて運転しているわたしには、彼女の表情の奥深くに潜む感情までは読み取れなかった。
横目で彼女がもたれている助手席のシートを見やると、膝の上の彼女の指が小刻みに震えているのが見えた。
 
「寒いですか?」
 
わたしがそう聞くと、彼女は、
 
「あ・・・少し・・・。」
 
そう言って、唇の端を無理に上げたような不自然な笑顔を浮かべ、その手をそっと自分の太ももとシートの間に滑らせた。
わたしは、エアコンに手を伸ばし、車内の温度を上げた。
 
「彼の拘留先が決まったら、面会に行ってこようと思うんです。今更、許してもらえるとは思いませんが、彼をこんな風にしてしまったのはわたしが・・・。」
 
そこまで言ったとき、彼女の悲鳴に近い叫び声が、わたしの言葉を遮った。
 
「やめてください!」
 
わたしは、驚いて急ブレーキをかけ、車を路肩に寄せた。
車を停めて、改めて彼女の顔を覗き込むと、彼女はまるで屠殺される前の動物のような怯えた目で、唇を震わせていた。
 
「一体、どうしたんですか?」
 
そう言って、彼女の肩をつかんでこちらに体ごと向けさせたが、彼女はわたしに見られないように、顔だけを横に向けた。
その彼女の横顔が、車のサイドミラーに映る。
その顔がとても痛々しくて、わたしは自分のしたことを悔やんだ。
つい、彼女には何でも言えるとばかりに、自分の過去の傷をさらけ出すような人物の話をしてしまったけれど、やはりそれを真正面から受け止めるには、彼女はまだ若すぎる。
体育祭のときに話したことも、本当は彼女にとってはショックだったのかもしれない。
 
わたしは、そっと彼女の手を握り、こう呟いた。
 
「すみません・・・度が過ぎましたね。」
 
すると、彼女はハッと我に返ったように、何度かまばたきを繰り返し、それからうっすらと微笑んだ。
 
「あ・・・いえ・・・何でもありません。ただ・・・先生には、もう過去のことは忘れてほしいんです。これからは、わたしとの新しい未来だけを見ていてほしい。あの人に関わり続ける限り、先生は一生過去から逃れられない・・・そんな気がするんです。・・・お願いです。わたしのために、あの人のことも、過去もすべて捨ててください。」
 
その声があまりにも強く、有無を言わせない響きだったので、わたしは何も言えず、ただ無言で俯く彼女を見つめていた。
彼女は、しばらく俯いたまま、唇をかみ締めていたけれど、突然何かを思い出したように、後部座席に体を乗り出し、そこに置いていたカバンの中をゴソゴソとかき回した。
そして、赤いリボンのかかった正方形の包みをわたしに差し出して、微笑んだ。
そのときの笑顔は、さっきまでの不自然な笑顔とは打って変わって、いつもとまったく同じ明るい笑顔だった。
 
奇妙な違和感を感じながらも、いつもの彼女の笑顔に促されて、わたしはそろそろとその包みを開けた。
 
それは、1冊のアルバム。
 
「甘いものの嫌いな先生のために、チョコレートはなしにしました。それに、どうせたくさんもらってるだろうし。」
 
そう言って、わざと拗ねた顔で唇を尖らせる彼女の顔を見て、さっきまでの違和感が自然に解けていくのを感じる。
そして、そんな違和感は最初からなかったのだと・・・すべてわたしの勘違いなのだと思い込もうとした。
現に、彼女は今、何事もなかったようにわたしの目の前で笑っているじゃないか・・・。
そう・・・何も問題などない。
 
そう自分に言い聞かせながら、1ページ目をめくる。
すると、そこには大きなハートの中にいるわたしと彼女のイラストがこちらを向いて笑っていた。
それはよくデパートやショッピングモールの片隅で、家族やカップルを相手に描く似顔絵のように、特徴を大きく誇張したマンガ絵で、一目で彼女とわたしだとわかるくらいに似ていた。
 
「へぇ・・・。君にこんな才能があるとは、思ってもみませんでした。」
「ふふ・・・似てるでしょ?ちゃんと、先生のホクロも鎖骨も、指示棒も描いてます。」
「おや、これは少し大袈裟ですね。ここまで胸元の開いた服を着た覚えはありませんよ。」
 
その言葉に、彼女が10代の少女特有の甲高い声でケラケラと笑った。
そう・・・これがいつもの彼女なんだ。
あと1ヶ月も経てば、その声を毎日傍で聞いていられるのだから。
 
その声につられてわたしも一緒になって笑いながら、2ページ目をめくる。
すると、そこには色鉛筆できれいに書かれた「WEDDING」というタイトルの下に、ウェディングドレスを着た彼女と、それをエスコートするわたしのイラストがあった。
タキシードを着ながらも、やはり指示棒を持つ自分の絵に、思わず大笑いしてしまった。
 
そして、3ページ目。
そこには「HONEYMOON」というタイトル。
イラストは、椰子の木の生い茂る浜辺を歩くわたしたちの姿。
色違いのアロハシャツを着ているところを見ると、場所はハワイなのか?
 
4ページ目。
「PREGNANT」という文字。
マタニティドレスを着て、大きなお腹をした彼女が耳まで裂けそうな大きな笑顔で笑っている。
そのお腹に耳を当てる、わたしの姿。
 
5ページ目。
「BIRTHDAY」。
小さな赤ちゃんを抱いた彼女。
そして、その彼女の肩を抱くわたし。
 
彼女のこれからの夢がすべて詰まったアルバム。
 
その夢を叶えたいと願う彼女の想いが、そこから痛いほどに伝わってきて、わたしは思わず彼女を強く抱きしめた。
彼女の肩が少し震えていたような気がしたけれど、きっとそれは喜びの震えなのだと、自分勝手に解釈した。
 
彼女の長い髪の毛の中に鼻を埋めながら、わたしは、ここまで二人が築いてきた小さな砂の城を思う。
いつ崩れてもおかしくなかった、波打ち際の砂の城。
何度も何度も、波にさらわれそうになりながら必死に彼女が守ってきたこの城を、絶対に壊したくはない。
 
彼女のこのイラスト通りに、二人のアルバムを本物の写真で飾っていこう・・・。
もう、誰にも邪魔はさせない。
春はもう、すぐそこまで来ているのだから。
 
その春を守るために、どれだけ彼女が苦しんだのか・・・その心の内を、このときたった一瞬でも、気付いてやることができたなら、 二人の運命はまた違ったものになっていたのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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