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扉を開けると、そこはいつもと同じ、少しカビ臭い、古い木の匂いがした。
最後にどうしても一目ここを見たくて、卒業式が終わるやいなや駆けつけた、この部屋。
校庭が見渡せる広い窓。
そこからさんさんと降り注ぐ春の陽射しに照らされて、小さな埃がフワフワと浮かんでいるのが見える。
歩くたびにミシミシと音を立てる、古い床。
色あせたカーテン。
そして、部屋の一番奥にある、生徒会長の執務机。
この執務机に、一体これまでに何人の生徒会長が座ってきたのだろう。
俺が生徒会長になったのは、1年生の秋。
本来は、3年生が引退したら、次は2年生が生徒会長になるものなので、俺のように1年生で生徒会長になるのは異例中の異例だった。
別に、「全校生徒のために何かしたい」とか、「自分の手で学校を盛り上げたい」とか、そんな素晴らしいことを考えていたわけではない。
ただ、親の言いなりになって、勉強だけの3年間を過ごすのが嫌で、とにかく何かをしてみたかった。
クラブ活動も、塾以外の習いごとも禁止されていた俺にとって、唯一親に許してもらえそうなものが生徒会だった・・・ただそれだけのこと。
最初は、それも反対された。
でも、「必ず生徒会長になる」という、俺の一言で、何とか許してもらえた。
ウチの両親は、そういう肩書きに弱い。
そこをうまく突いてやった。
だから、俺はどうしても生徒会長にならなければならなかったんだ。
両親から、少しでも自由になるために・・・。
「あ、薫くん、やっぱりここにいたんだ。」
ドアの開く音に振り向くと、彼女がチュッパチャップスをペロペロと舐めながら立っていた。
その姿に、思わず3年前の光景がフラッシュバックした。
彼女と初めて会ったとき・・・そのときも、彼女はチュッパチャップスを舐めていた。
俺が初めて生徒会室の扉を開けたとき、彼女はすでにそこにいた。
入り口の近くの席に座って、口の中で柄のついたキャンディーを転がしながら、パンフレットか何かを折る作業をしていた。
先輩に、ここに座って待つようにと言われたので、彼女の座っている長机の向かい側に座った。
すでに作業をしていたので、最初は上級生なのかと思ったが、やけに制服が新しかった。
彼女は、チラッと目を上げて俺を見たが、またすぐに机の上の作業に目を落とした。
無言で向かい合っているのも、なんだか気まずく、かといってどう話しかけたらいいのかもわからなくて、俺はただソワソワと貧乏ゆすりをしながら、わざとらしく窓の外を眺めるふりをしていた。
すると、突然彼女がすっと顔を上げ、俺の目をじっと見ると、
「これ、食べる?」
そう言って、自分の舐めていたキャンディーを俺の方に差し出した。
そのありえない行動に、俺はただどぎまぎするしかなかった。
その日以来、彼女とは毎日生徒会室で顔を合わせることになったわけだが、親しくなってからでも、彼女には常にどぎまぎさせられっぱなしだった。
俺の苦手な体育の授業の最中に、どこかから「草間くーん!頑張れー!」という大きな声が聞こえてきたかと思ったら、自習中の彼女が校舎の窓から大きく手を振っていたり、授業中にふと窓から外を見ると、遅刻してきた彼女が、校門のフェンスをよじ登っていたりした。
特に美人というわけでも、タイプだというわけでもないのに、何故か彼女の前では心拍数が異常に上がった。
それは、いつも彼女の突拍子もない行動に驚かされるからだと思っていた。
そのときの俺は、それが恋だということに、まだ気付いていなかったんだ。
恋という言葉がはっきりと輪郭を持ち、色を伴って俺の心に根付いたのは、梅雨時のある日。
たまたま彼女と二人きりになった帰り道。
生徒会室に誰かが置き忘れていった、骨の折れた小さなビニール傘が1本しかなくて、仕方なくそれで相合傘をして歩いた。
彼女と肩がぶつかるたびに、息苦しいほど頭の中が真っ白になって、どんな話をしたのかすら、さっぱり覚えていない。
「もっとこっち寄らないと、濡れちゃうよ。」
と、何度も彼女に注意されたのに、それでも近づけない俺に業を煮やした彼女が、突然、傘の外に俺を突き飛ばした。
そして、ゲラゲラと笑いながら、
「傘さしてても濡れるんなら、いっそのこと、濡れて歩こうよ。別に濡れたからって溶けるわけじゃないんだからさ。」
そう言って、傘を閉じると、道端のゴミ箱の中にそれをポンと投げ入れた。
そのときの、あじさいの花のような彼女の笑顔を見た瞬間、雨で灰色に煙った街並みが、なぜか突然俺の目の前で虹色に変わった。
それは、今まで見たことのない景色だった。
ずっと、雨に濡れてはいけない、雨の日には傘をささなければいけない・・・そう思ってた。
雨に濡れるのも、濡れないのも、自分で選択できる自由があるということに、彼女に言われて初めて気がついた。
俺がずっと欲しかったもの・・・自由。
ずっと憧れて、夢に見て、親の監視の届かないところまで逃げれば、手に入るかもしれないと思って飛び込んだ生徒会。
でも、中学時代よりほんの少し門限の時間が延びただけで、やっぱり自由は手に入れられなくて、俺の両足は見えない鎖につながれたままだった。
それを、彼女はまるで手品のようにポンと俺の目の前に差し出した。
ポタポタと滴の垂れた髪の毛の隙間から、上目遣いに俺を見上げる猫のような彼女の目を見て、なぜかふと、教科書に載っていた「自由の女神像」を思い出した。
鎖と足かせを踏みつける、自由と解放の象徴である、自由の女神。
いつも自然体で、周りの目など気にせずに、自分の感覚に従って自由奔放に生きる彼女は、まさに俺の鎖と足かせを踏みつける、自由の女神だった。
彼女の前に立つといつもドキドキして、胸が高鳴った。
あれは、彼女に驚かされていたからじゃない。
俺が望んでいたもの、恋焦がれていたものを、すべて彼女が持っていたから。
その瞬間、俺は彼女の存在そのものに、恋をした・・・。
そんな女神に恋し続けて、早3年。
それでも俺はまだまだ完全に自由になれたわけではないし、この3年の間にもいろいろあった。
でも、彼女と一緒にいる中で気付いた確かなものがある。
それは・・・
「住む世界を変えたくなったなら、ただ視点だけを変えればいい」
俺は今でも、あの両親と一緒に暮らしているし、偉大な父と代々続く草間医院は、一生俺が背負っていかなければならないものだということに変わりはない。
でも、少し視点をずらせば見えてくる自由がある。
そして、それを教えてくれたのは、君・・・。
「大学の入学式までに、まだ少し時間があるだろう。その間に、旅行にでも行かないか?」
俺がそう言うと、彼女はキャンディーを舐めたまま、窓から身を乗り出してこう言った。
「旅行って、どこに?」
「行き先なんか決めなくても、気の向いたところで電車を下りて、気に入った場所で宿を探す・・・そんな旅もいいんじゃないか?」
「へぇ・・・。薫くんがそんなこと言うと思わなかった。いつも、分単位でスケジュール決めないと不安だとか言うくせに。本当に薫くんにそんな旅行ができるのかなぁ?」
そう言って、彼女が笑う。
「大丈夫だよ。自由の女神がいるからな。」
そのとき、パリンとキャンディーを噛む音がしたと同時に、彼女がキャンディーの柄を口から引き抜いて、ゴミ箱に捨てた。
「なんだ・・・今日は、食べる?って聞かないのか?」
「あ、ごめん、食べたかった?じゃあ・・・。」
そう言うと、彼女は二つに割れたキャンディーを、小さなピンクの舌の上に置いて俺の方に差し出した。
彼女の薄紅色の唇を割って突き出た小さな舌の上に、乳白色のキャンディーが濡れて光っていた。
俺は、その舌にそっと唇を寄せて、彼女の舌ごとキャンディーを自分の舌に移し変えた。
甘く柔らかい彼女の唇が触れ、それから温かく濡れた小さな舌が俺の舌をくすぐる。
窓の外からは、早咲きの桜が風にそよいでいるのが見える。
俺たちは今日で、出会った場所を卒業していくけれど、今度は違う場所で、また違った関係を築いていければいい。
そのときには、俺ももう少し自由になっているかな・・・うん、きっとなっているはずだ。
なぜなら、俺には自由の女神がついているのだから。
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草間 薫
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体育館に響き渡る生徒たちの声。
どこかひんやりした空気の中にも、かすかにしみついた運動部員たちの汗の匂い。
体育館シューズが床を蹴るときに立てる、キュッキュッという乾いた音。
「懐かしい」という言葉を使うにはまだ早い、でもそれ以外の言葉がうまく思い当たらない、そんな春の日の風景。
今日は、卒業パーティー。
3学期はほぼ自主登校だったので、こんな風にみんなで会うのは久しぶりだ。
知り合いに出会うたびに、お互いの進路を報告しあったり、連絡先を交換しあう。
卒業パーティーはカップルで出席するもの・・・という、学園のならわしに従って、彼女と一緒に出席したものの、友人の多い彼女は、誰かが会場に入ってくるたびに駆け寄って立ち話をし、その間にも他のグループから呼ばれ、遠くにいる友人を見かけては大きく手を振り、体育館の中を走り回ってばかりで、俺と一緒にいた時間は最初のほんの数分。
彼女はいつもこうだ。
楽しいことが大好きな上に、同時に二つの物事を処理できないという単純さゆえ、俺と一緒にいても何か目の前に彼女の興味を引くものが出てくると、たちまち俺のことなど見えなくなってしまうのだ。
仕方なく、一人で体育館の壁にもたれて、しばらく中の様子を伺っていると、それなりにいろんな知り合いに会って、俺も飲み物を片手に、久しぶりに会う友人たちとお互いの進学先を報告し、喜び合ったり、慰めたりしながら、3年間の思い出話に花を咲かせる。
自分の希望通りの進路に進めた者も、そうでなかった者も、今はみんなさっぱりした顔をしている。
俺も含めて、これからのみんなの未来が明るいものであればいいな・・・そんなことを思いながら、心の片隅がチクリと痛む。
それは、俺にとっては多分、一生忘れることのできない心の傷。
普段はもうすっかり忘れたつもりでいるのに、卒業、受験、進路・・・そういった節目では必ず痛む古傷。
・・・中学時代の親友。
俺と同じように、将来は医者になることを目指していた。
でも、俺のせいで白薔薇学園の受験がフイになり、不本意にも滑り止めの高校に行くことになった彼。
その後、俺一人だけがのうのうと白薔薇学園に入学することになった罪悪感と、それでも結局はそれを受け入れてしまう自分の弱さと甘さが情けなくて、彼に顔向けできず、俺はまるで逃げるように彼との連絡を絶った。
この3年間、ずっと心のどこかで気になっていた。
でも、彼のことを聞けるような共通の友達もいなかったし、自分から連絡するほどの勇気もないまま、3年間が過ぎてしまった。
彼は、希望通りの大学に進学できただろうか・・・?
充実した高校生活を送ることができただろうか・・・?
それを確認する術のない今、俺にできることは、ただ心の中でひっそりと彼の成功を祈ることだけだった。
卒業パーティーは、新生徒会にとって初めての大きなイベントであるため、何かと問題が起きる。
今回も、午後から予定している軽音部のステージで使う音楽器材のレンタルの注文ミスがあったとかで、助けを求められた。
こういう外部との交渉も、慣れないうちは難しい。
今になって思えば、俺もいろんなミスをしてきたが、そのたびにいろんな人に助けられ、少しずつ業務に慣れていった。
卒業する立場となった今、今度は自分が助けてやる番だ。
なんとか、無事に交渉を終え、午後からのステージには間に合う段取りをつけて体育館に戻ってきたが、案の定、彼女の姿はない。
きっと、またあちこちを飛び回っているに違いない。
仕方ないので、テーブルの上に用意されていた軽食でもつまもうとテーブルに近寄ると、生徒会を手伝っていた間に、すでにほとんどの食べ物がなくなってしまっていた。
はぁ・・・。
腰から下が砕けそうになりながらも、飲み物を取って、まだ少しだけ残っていたポテトチップスの欠片やピーナッツをボリボリと齧っているうちに、クラスの男子数人が集まってきた。
しばらく、そこで他愛のない話をしていると、たまたま俺の隣にいた綾川が、肘で俺をツツきながらこう言った。
「お前さぁ・・・ああいうの見て、何とも思わねーの?」
彼の視線の先を辿ると、遠くの人ごみの中に見え隠れするほのかの姿。
男子集団の中に混じって、笑顔のピース姿で写真を撮っている。
写真を撮ったあとは、その彼らと連絡先の交換でもしているのだろう、お互いの携帯を覗き込みながら、肩を叩き合い、談笑している。
その後も、そのうちの数人と腕や肩を組んでおどけた写真を撮ったり、音楽に合わせて体をすり合わせて踊ったりと、確かに俺が見て気分の良いものではない。
彼女はいわゆる「モテる」タイプの女子生徒ではないが、明るくて社交的で、男女の区別なく誰とでもすぐに打ち解けられるので、こういう場ではいつも輪の中心になる。
彼女がいると場が盛り上がるということで、いろんな集まりに呼ばれることも多い。
それが時にはこんな風に、気がついたら集団の中で女性は彼女一人・・・というようなことになる。
「ま・・・まぁ、彼女が楽しんでいるなら、それでいいさ。」
「へぇ・・・随分、心が広いんだな。」
そう言って、綾川は少しからかうように笑った。
「優しいのもいいけど、たまにはビシッと言ってやれよ。ああいう風船みたいな女はさ、ちゃんと言わないとわかんねーんだよ。」
「・・・風船?」
「一度手を放すとどこに飛んでくかわかんねー・・・って意味でさ。」
その表現が、あまりにも彼女に当てはまっているような気がして、俺は苦笑いした。
俺だって、今まで何度か注意はしてきた。
男友達を作るなとは言わないが、恋人がいる場合は、男友達との付き合い方にも最低限のルールがある。
でも、彼女はそれを理解しているのかいないのか、俺の小言はいつも軽くかわされておしまいになる。
いや、それよりも何よりも、いつももっと強く注意するつもりでも、彼女の笑顔を見ると、何も言えなくなってしまう自分が一番問題なのはよくわかっているのだが。
「で・・・でも、ビシッとって・・・どんな風に?」
「ヤキモチやいちゃうぞー、とか言えばいいじゃん。」
反対側の隣から、相葉がそう口を挟む。
・・・俺に、そんなことが言えるわけないだろう・・・。
でも、確かにこの辺で、彼女にはちゃんと言っておくべきなのかもしれないな。
今までは、彼女がどれだけハメを外しても、すぐ近くに俺がいた。
彼女に何かあっても俺がフォローできると思っていたし、他の男たちも俺の手前、彼女に対してそう目に余るような行動は取らない。
でも、これからは別々の大学に通い、お互いの知らないところでそれぞれに新しい生活が始まる。
自分のことはちゃんと節度を持って管理できるようになってもらわなければ・・・。
俺は、意を決して大勢の男子生徒の輪の中で談笑する彼女に近づき、腕を取った。
「ちょっといいか?話があるんだ。」
すると、驚いたことに、彼女は素直に俺の後ろをついて来ながら、こう言った。
「ちょうどよかった。わたしも薫くんに話があるの。」
体育館裏を抜けて、体育倉庫の方へ向かう。
ここは、どこへも通り抜けられない行き止まりなので、体育倉庫に用事がある者以外は誰もここを通らない。
急にしんと静まり返った空気の中で、俺は彼女と向き合った。
彼女の屈託のない微笑をみて、一瞬、注意する気持ちがまたくじけそうになったが、いや、ここでくじけてはいけない・・・と、自分で自分の気持ちを奮い立たせた。
「君の話から聞こう。」
「えっ、いいよ。薫くんから言ってよ。」
「いや・・・俺の話は、あまり面白い話じゃないからな。君の方から言ってくれ。」
すると彼女は、上目遣いにニヤッと俺の方に微笑みかけると、俺の両手を手に取った。
「じゃあ、わたしから話すね。薫くんの中学時代の親友がいたでしょ?薫くんの急病に付き合ったために白薔薇学園を受験できなくて、滑り止めの高校に行った人。彼の進学先がわかったの!」
「えっ・・・ど・・・どうやって、そんな・・・。」
彼の進んだ高校は男子校で、しかも白薔薇学園の学区内とは随分離れているところだ。
俺たちの中学から白薔薇学園に進んだ者はほんの数人だし、その中の誰も彼とは親しくない。
そんな中から彼女がどうやって・・・?
すると、彼女は誇らしげに両手を腰に当て、反らせた胸を自分のこぶしでドンと叩いた。
「ふふ・・・。わたしの情報網の広さに驚いた?結構、苦労したんだから。友達の友達とかいろんなツテを使って、やっと手に入れた情報なんだからね。」
「で・・・彼の進学先は?」
俺が食いつかんばかりにそう聞くと、彼女は高らかに笑いながらパチパチと手を叩いてこう言った。
「なんと!薫くんと同じ大学、同じ学部です!」
「えっ・・・。」
「そして、ついでに彼のメールアドレスもゲットしました!」
そう言って、まるで水戸黄門が印籠を見せる時のように携帯の画面を俺の目の前に差し出しながら、大きな口を開けて笑った。
彼女の鈴のような笑い声に混じって、遠くからパーティーの喧騒が聞こえる。
そして彼女は、突然フッと真顔に戻ると、その携帯をぎゅっと俺の手に握らせながらポツリと一言、こう言った。
「連絡・・・してみなよ。」
そして、急に何かを思い出したように、手に持っていた紙袋の中をゴソゴソとかき回すと、さっきパーティー会場のテーブルに並んでいたクッキーやサンドイッチなどの軽食を取り出した。
「薫くん、さっき生徒会のお手伝いに行ってて、何も食べてないでしょ?薫くんの分、取っといた。」
そう言って、紙袋を俺の目の前でブラブラ揺らす。
そんな彼女を見た途端、俺はここが学校だということも忘れていきなり彼女を抱きしめてしまった。
俺のことなんて、見ていないと思っていた・・・。
すぐ目の前にある楽しいことに気を取られてしまう彼女には、俺など見えていないのだと・・・。
でも、そうじゃなかったんだ・・・。
君は・・・ずっと俺のことを見ていてくれたんだな。
俺をほったらかして、あちこちを飛び回っていても、遠くからちゃんと俺がどこで何をしているか、見ていてくれたんだな。
自分の希望通りの大学に進学できて喜んでいても、受験の終わった開放感に浸っていても、いつも心の中にひっかかっていた中学時代の親友のこと。
そんな俺の心のわだかまりも、君はずっと見ていてくれたんだな。
風船のように俺の手を離れ、一人ゆらゆらと高い空から、小さな俺をずっと見ていてくれたんだな。
綾川の言った「風船みたいな女」という言葉が、悪い意味ではなく、何故か褒め言葉のように思えた。
「ちょ・・・ちょっと、薫くん、何?いきなり。そうだ、薫くんの話、まだ聞いてなかったよ。」
そう言って、彼女が俺の腕からすり抜け、二人の間に距離をあける。
俺は、少し困ったような顔をする彼女をそっと引き寄せながら、耳元でこう囁いた。
「・・・キスしたかっただけだ。」
俺はそう言うと、自分の腕の中の風船にそっと唇のしるしをつける。
もうこれで、風船にヒモをつけて自分の手元に置いておこうなんて思わない。
どこまで遠くに飛んでいっても、風船にはちゃんと俺のしるしが残っているのだから。
もっともっと空高く舞い上がり、そこからこのちっぽけな俺を見守っていてくれ。
そして、空気がなくなってしぼんでしまいそうになったら、俺の元に戻ってくればいい。
俺は、いつでもたくさんの空気を用意して、君を待っているから。
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ホワイトデーのお返しに何が欲しいか、と尋ねたら、彼女は「指輪が欲しい」と言った。
彼女が欲しがるものにケチをつけるわけではないが、俺にとっては、女性に指輪をプレゼントするときというのは、婚約とか結婚とか、二人の関係がきっちりと形を成す特別なときで、ホワイトデーなんかにお菓子の包みと一緒に差し出すような簡単なものではないと思っていた。
彼女にそれを言うと、彼女は眉をひそめながら、
「今どき、そんな堅苦しいこと考える人、いないよ?だって、彼氏のいる友達、みんなもらってるもん。」
と、言った。
確かにそうなのかもしれないが、やはりどう考えても俺にとっては指輪は特別なもので、人生の中でそう何度もプレゼントする類のものではなかった。
「まぁ・・・考えておこう。」
俺は、そう言ってお茶を濁した。
今年のホワイトデーは、俺も彼女も無事、第一志望の国立大学に合格したということで、少し奮発して、夜景の見えるホテルのレストランで食事することにした。
とはいっても、堅苦しい場所ではなく、バイキング形式の気軽な店だ。
ホテルのレストランなのに、気兼ねなく子供も入れるということで、子供の頃、よく家族で食事に来た場所だった。
いつもはジーンズの多い彼女だが、ホテルのレストランと聞いて「お洒落してきた」といういでたちが、デニムのミニスカートにパーカーだったのがおかしくて、俺は彼女に気付かれないようにこっそり笑った。
これが、ウチの両親と一緒の会食じゃなくてよかったな・・・と、笑いながら、でも真剣にそう思った。
「薫くん、チョコレートファウンテンがあるよ。」
そう言って、俺に手招きする彼女の方に目をやると、彼女は次々と流れ出すチョコレートの噴水の下にコップを置いて、そこになみなみとチョコレートの液体を注ぎ、立ったままそれを飲んでいた。
「なっ・・・これは、飲むものじゃない!フォンデュにするんだ。」
俺が慌てて、彼女のコップをひったくると、彼女は素早くそれを取り返しながら、
「いいじゃん!どうやって食べようと自由でしょ!」
そう言って、さっさとそのコップを持って席に戻って行ってしまった。
食事も終わりかけた頃。
「ねぇ、今日、泊まっていかない?」
突然、彼女がそう言った。
「と・・・泊まるって・・・どこに?」
すると、彼女は窓の外を眺めながら、眼下に広がる夜景の中でもひときわネオンの華やかな繁華街の一角に目をやった。
「どこって・・・ほら、たくさんあるじゃん。」
そう言って、俺の手の上にそっと自分の手を重ねた。
久しぶりに触れる彼女の肌と、彼女の少し潤んだ瞳にぶつかって、俺の胸は今にも爆発しそうなくらいにズキズキと脈打った。
でも、そういう場所のシステムがまったくわからない俺にとっては不安でもあり、どこか背徳な気分もあった。
このまま彼女の誘惑に流れてしまいたい気持ちと、それを押し止める道徳観との狭間で迷った挙句、苦し紛れに、
「で・・・でも、今日は外泊するとは家族に言っていないし・・・。」
そう言うと、彼女は俺の目をニヤリと覗き込んでこう言った。
「そう言うだろうと思ったから、さっき薫くんがトイレに行ってる間に、薫くんのフリして、薫くんのお母さんにメール入れておきました。」
えっ・・・何だって?
慌てて携帯の送信トレイを開けてみると、俺から母親宛に一通のメール。
<今日は、友達が合格祝いをしてくれるので、友達の家に泊まる。 薫>
はぁ・・・まったく彼女には振り回される・・・。
でも、これで決心がついた。
今日はホワイトデー。
思う存分、彼女と二人きりの甘い時間を過ごそう。
レストランを出て、ホテル街に向かって歩く。
楽しそうに鼻歌を歌いながら歩く彼女とは対照的に、俺は周りの目が気になって仕方なかった。
補導されるんじゃないか、とか、知り合いに会うんじゃないか、とか、そういうことを考え始めると気が気ではなく、コートの襟を立て、人目を避けるようにしながら歩いていたそのとき・・・。
「あれ?会長?」
嫌な予感が当たった・・・。
後ろを振り向くと、そこにはいつぞやの夜と同じように、綾川の姿。
「今からデート?どこ行くの?」
ホテルに行く・・・とは、もちろん言えず、俺は口ごもりながらこう答えた。
「い・・・いや・・・もう帰るところだ。」
すると、綾川はチラッと腕時計に目をやると、俺とほのかを交互に見やりながらこう言った。
「まだ全然早いじゃん。あ、そうだ、二人とも国立、受かったんだろ?今から俺のバイト先に来ねぇ?合格祝いにビール1杯くらいならご馳走してやるぜ。」
すまないが、急ぐので・・・と言いかけたそのとき、俺の隣にいた彼女が声を上げた。
「うん!行く!」
・・・えっ・・・ホテルはどうなったんだ?
綾川に気付かれないように、彼女にそっと目配せしたが、彼女は俺の意図などまったくわからないフリをして、俺の腕に自分の腕を絡ませると、スキップをしながら綾川のあとをついて行った。
週末とあって、店内は大勢の客でひしめき合っていた。
前にも一度来たことがあるこの店は、1階にバーカウンターとテーブル席が何席かあり、座って飲めるようになっていて、部屋の奥にはビリヤード台とダーツがあって、軽く遊ぶこともできる。
部屋の中央にはらせん階段があり、地下はダンスフロアになっていて、時折バンドの演奏もやっている。
とりあえず、1階のテーブル席に着いてビールを受け取ったあと、俺は彼女にこう聞いた。
「ホテルに行くんじゃなかったのか?」
すると、彼女はあっけらかんとした調子で、こう言って笑った。
「もうちょっとあとでもいいじゃん。夜はまだまだ長いんだから。あ、それとも薫くん、そんなに早くヤリたいの?」
「なっ・・・そっ・・・そういうことじゃない!」
焦る俺を尻目に笑いながら、彼女が早速、2杯目の飲み物を取りに行く。
飲み物を片手にした彼女は、ご機嫌な様子で下から響いてくる音楽に合わせて軽く体を揺らしながら、爪先立って歩く。
そして、らせん階段の上から手すりに乗り出すようにして、下を覗きこみながらしばらくチビチビとグラスの中のものを飲んでいたが、急に思いついたように俺の方に向かってツカツカと歩いてきたかと思うと、俺の腕をつかんでこう言った。
「ねぇ、わたしたちも下に行って踊ろうよ!」
「い・・・いや・・・俺は・・・。」
「せっかくこういうとこに来て、座ってるだけなんてつまんない。」
「で・・・でも、俺はこういうのは苦手なんだ。」
「じゃあ、もういい!わたし一人で行ってくる。」
彼女はそう言うと、パタパタと走って階段を下りて行ってしまった。
すぐに戻ってくるだろうと思っていたのに、小一時間経っても彼女は戻ってこない。
さすがに心配になって、地下に下りてみた。
鼓膜が破れるんじゃないかと思うほどの大音量の音楽と、そこにすし詰め状態のままで体を揺らす人の波に圧倒され、一瞬足がすくんだ。
1秒ごとに照射の角度と色を変えるライトのせいで、すぐ目の前の人の顔さえもはっきりとわからない。
さながら、停電になったラッシュアワーの電車といったところだ。
それでも、彼女をこのまま放っておくわけにはいかない。
俺は、めまぐるしく移動するスポットライトに照らされたダンスフロアの中を一歩一歩進んで行った。
むせ返るような人の熱気と、汗と香水の匂い・・・それらをかき分けかき分け進んでいくと、奥に小さなバーカウンターがあり、そこで飲み物を受け取ろうとしている彼女の姿を見つけた。
「ほのか!大丈夫なのか?一体、何杯飲んだ?」
そう言って、俺が彼女の腕を取ると、彼女は俺を見上げて笑いながら、え?と聞き返す仕草をした。
この中じゃ、よっぽど大声で怒鳴らない限り、人の声は聞こえない。
彼女の顔を至近距離で見つめると、ライトのせいで顔色はわからなかったが、目がとろんとしていて、口元に締まりがないのが見て取れた。
俺は、そのまま彼女の腕を引っ張ると、ダンスフロアを突っ切り、階段を駆け上がった。
やっと人の声が十分に聞こえるところまで来ると、彼女は俺の手を振りほどこうとしながら、
「まだ踊りたい〜〜!」
と、駄々っ子のように地団太を踏んだ。
それでも、これ以上この場所に彼女を置いておくと、とんでもないことになると思った俺は、彼女を抱きかかえるようにしながら、何とか店を出た。
そのあと、どうやってホテルまで行き着いたのかは、自分でもよく覚えていない。
とにかく、足が痛いと言って道路の真ん中でいきなり靴を脱いで裸足になったり、おんぶしてくれるまで動かないと言って座り込んだりする、酔っ払いの彼女の世話が大変だった・・・ということだけはよく覚えている。
それでも、ちゃんと意識があって自分の足で歩けるだけ、まだ助かった。
ホテルに入るのが恥ずかしいとか、人目がどうとか、言っている場合ではなかった。
とりあえず、ホテルのベッドの上に彼女を横たえる。
「もうっ!薫くんってば、ちょうどわたしがノッてきたところでお店出ちゃうんだもん。もっと踊りたかったのに〜!」
そう言って、彼女がベッドの上で足をバタバタさせる。
呂律もちゃんと回っているし、おかしなことを言ってるわけでもない。
大変なことにならないうちに店を出ておいて、本当によかった・・・。
彼女をベッドに残して、シャワーを浴びる。
二人きりで過ごす時間が予定より短くなってしまったけど、今日は朝まで一緒に過ごせるんだ。
ホワイトデーのプレゼントはいつ渡そうか・・・。
シャワーを浴び終わったらすぐに渡そうか・・・いや、でも、シャワーから出たら、とりあえず彼女を抱きしめたい。
受験が終わるまでは・・・と、自分を律していたその箍が今にも外れそうになる。
はやる気持ちを抑えつつ、浴室から部屋に戻ってみると、彼女はベッドの上にうつ伏せになったまま寝息を立てていた。
「ほのか・・・。」
と、小声で呼んでみたが、まったく無反応だ。
彼女の肩を少し揺すってみる。
それでも微動だにしない。
今度は、少し強引に彼女の体を反転させ、仰向けにした。
うーん・・・と、くぐもった小さな声が聞こえたが、その声はまたすぐに規則正しい寝息へと変わっていった。
「仕方ないな・・・。」
俺は、そっと一人呟きながら、ベッドの脇に置いたカバンに手をやる。
どんなタイミングで渡そうかとずっと考えてきた、小さな箱。
金色に縁取られたグリーンのリボンを解き、その箱をそっと開けると、中から濃紺のベルベット素材の入れ物が顔を出す。
彼女の肌のように滑らかなそのベルベットのフタを開けると、小さなピンクの光が、キラリと小さく反射した。
ピンクトルマリンという名前の石だと、店員に教えてもらった。
俺は、その小さなリングを抜き取ると、眠っている彼女の薬指にそっとはめた。
もちろん、彼女はまったく起きる気配すらなかったけれど、ほんのり桜色になった彼女の頬と、このピンクトルマリンがとてもよく合っていて、俺は思わず見惚れてしまった。
ホワイトデーの夜は、ただ眠るだけで終わってしまいそうだけど・・・。
でも、いいんだ。
明日の朝、自分の手元に気付いたときの彼女の反応を想像するだけで、最高に幸せな気分になれるから。
今日は、彼女の体温を隣に感じながらリングをはめた彼女の手を握って眠ろう。
いつか、ピンクの石ではなく、永遠の輝きを放つ、白く透き通った石のついた指輪をプレゼントできる日が来ることを、心の中で祈りながら・・・。
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ふぅーっと大きくため息をついて、問題集を閉じ、ふと窓の外を見ると、大きなぼたん雪がハラハラと灰色の空を舞っていた。
ようやく春の兆しが見え始めたと思った矢先に、また逆戻り。
この時期の天候は、本当に気まぐれだ。
<雪だよ・・・>
と、薫くんに電話しようと携帯をカバンから取り出したところで、やっぱり思い直してもう一度カバンの中にしまった。
センター試験と私立の滑り止めの受験のときには、まだ余裕のあった薫くんも、本命の国立の入試を控え、精神的にかなり追い詰められている。
ここに来て焦りと不安が一気に出てきたようで、今は勉強そのものよりも、自分の精神力が最後まで維持できるか、そのことの方が気がかりなようだ。
もともと神経質で、楽観的に物事を考えられないタイプの彼は、すぐにストレスを自分の中に閉じ込めてしまう。
わたしが、気分転換に外へ出ようと誘っても、乗り気ではないみたいだし、電話にもあまり出てくれない。
ただ、一度だけ彼からメールが来て、そこには
<悪いが、今はそっとしておいてほしい。>
わたしが彼にしてあげられることが、唯一、「何もしないこと」だなんて・・・。
なんだか、彼の支えになるどころか、邪魔になっているような気がして、そのことが悔しい。
わたしも国立の入試は残っているけど、もともとあまりストレスを溜めるタイプではないし、走るのが好きだから、煮詰まったときは軽くジョギングして、気持ちをクールダウンさせる。
でも、スポーツ嫌いの薫くんには、それも効果がなさそうだし、このままでは、入試までに心が折れてしまうんじゃないかと、それが心配でならない。
雪が本格的に降り始める前に、家に帰ろうと、ロッカーの荷物を取りに行ったところで、綾川くんに会った。
「あれ?お前、1人?会長は?」
「うん・・・今は、ちょっとピリピリしてるからね・・・。あまり外に出たくないんだって。」
「まぁ、そうだろうな。今がストレスのピークだろうし。」
「女の子って、友達とおしゃべりしたり、買い物したりしてストレス発散できるけど、男の子ってどうやって発散するんだろう?薫くんみたいに、運動嫌いの男の子の場合、特にわかんないよ。」
すると、綾川くんはニヤリと笑ってこう言った。
「そりゃ、お前、彼女と一緒に夜の運動とか?」
「もうっ!薫くんはね、スポーツ感覚でそういうことができる人じゃないの!自分と一緒にしないでくれる?」
「でも、男はちゃんと定期的に出さないと、中で腐るんだぜ?」
「あーっ、それ、リコに言ったでしょ?リコ、本気にしてたんだからね。しばらくヤッてないけど、竜士のが腐ったらどうしようって、真剣に悩んでたよ。」
その言葉に、綾川くんが大笑いして、わたしもつられて笑った。
二人でひとしきり笑ったあと、彼はクスクスと笑いながらこう言った。
「まぁ、それは冗談だけどさ。でも、心が腐るのは本当だぜ。いや、別にヤル、ヤラないの問題じゃなくて、やっぱストレス溜まってるときは、好きな女の笑顔が見たいものなんだよ。でも、会うと、イライラしてる自分や、クヨクヨ悩んでる弱い自分を見せなきゃいけないだろ?そういう自分を見せたくないっていうのもあるんだよな。会いたいけど、会いたくないっつーかさ・・・。難しいよな。」
会いたいけど、会いたくない・・・。
薫くんもそんな風に思ってるのかな?
今の薫くんの態度を見ていると、とりあえずわたしのことなんて考える余裕がないといった感じで、とても綾川くんが言ったみたいに、わたしの笑顔を見たいと思ってくれているようには思えない。
薫くんのために、何かしてあげたいと思うのに・・・。
わたしは、一体何をしてあげればいいんだろう?
そんなことを思いつつ、夜、歯を磨きながらぼんやりと洗面所の鏡に映る自分の姿を見ていた。
鏡に向かって、ニッと笑ってみる。
<好きな女の笑顔が見たいんだよ・・・>
綾川くんのその言葉を思い出す。
角度を変えて、少し上目遣いに微笑んでみる。
この角度だと、小顔に見えて、結構いい感じ。
今度は、口を開けて豪快に笑ってみる。
これはダメだ・・・あまり笑いすぎると目がなくなっちゃう。
そうやって様々な自分の笑顔を試してみた。
これが、本当に薫くんを励ますことになるのかどうかはわからないけど・・・。
わたしは、その笑顔を写メで撮って、薫くんに送った。
文章を長く書くと、返信しなきゃいけない、と逆に気を遣わせるかもしれないので、タイトルに「笑顔のプレゼント」とだけ書いて、送った。
でも、やっぱり薫くんからは、メールも電話も何もなくて、ちゃんとその写真が届いているのかどうなのかすらわからなかった。
それでも、そのプレゼントを数日続けた。
笑顔の他に、外を散歩していてふと見かけたきれいな空や、道端の花や、わたしがきれいだと思ったもの、癒されると思ったものの写真を数枚、1日に1回だけ、寝る前に送った。
そんなある日。
深夜3時を過ぎ、そろそろ寝ようと、広げていた参考書やノートを片付けていたとき、机の上の携帯が鳴った。
え・・・?薫くん?・・・こんな時間に?
「睡眠を削るのはあまりいいことじゃない」と言って、滅多に夜更かししない薫くんが、こんな時間まで起きているなんて・・・。
なんだか嫌な予感がして、慌てて携帯を取った。
「もしもし・・・。」
その一言だけで、彼が不機嫌なのが手に取るようにわかる。
不機嫌・・・というよりは、苛立っている・・・と言った方が正しいかもしれない。
携帯を握るわたしの手に緊張が走る。
「あ・・・ああ、薫くん?こんな時間に珍しいね。どうしたの?」
わたしは、わざと声のトーンを一段上げて、明るい口調でそう言った。
すると、彼は少し間をあけてから、ボソッと
「写真・・・。」
と、呟いた。
「あっ・・・ごめん、ウザかった?いや、別に特別な意味はないの。たまたま撮ってみただけだから!」
「どうして・・・今日は送ってこない?」
「えっ?」
「毎日・・・楽しみにしてたんだ・・・。」
と、まったく楽しみではなさそうな声で、薫くんがそう言ったので、わたしは思わず笑ってしまった。
「全然、楽しみな声じゃないけど?」
わたしがからかうようにそう言うと、薫くんは少し焦ったように慌ててこう言った。
「お・・・俺は、不器用だから、一つのことに気を取られていると、なかなかすぐに感情を切り替えられないんだ!でも・・・だからといって、君を忘れたわけじゃない!」
少しの間、沈黙が流れる。
薫くんの息遣いが、電話の向こう側から聞こえてくる。
「早く・・・君に会いたい・・・。」
少し照れたように、赤い顔で俯く薫くんの顔が、頭の中にやけにリアルに浮かんだ。
そして、今すぐにでもそこに飛んで行って、彼を抱きしめたい気持ちでいっぱいになった。
「うん!受験終わったら、いっぱい会おう!」
わたしは、大きな声でそう叫んだ。
「そして、エッチもいっぱいしよう!」
思わずそう言ってしまってから、わたしは隣の部屋にいるお母さんに聞かれなかったかと、慌てて口元を手で塞いだ。
「な・・・何だ!それは・・・。そ・・・そんなことを大声で言うんじゃない!」
薫くんの裏返った声がおかしくて、わたしは大声で笑った。
「だって、男の人は出さないと腐るんでしょ?」
わたしのその言葉に、今度は薫くんが大笑いした。
やっと・・・薫くんの笑い声が聞けた。
そして、いつもの優しい薫くんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
好きな人の笑顔を見たいのは、男の人だけじゃない。
女の子だって、好きな人の笑顔が見たいの。
それが一番のプレゼント。
「ああ・・・もう、俺は半分腐ってるぞ。」
そう言って、ゲラゲラと笑い続ける薫くんの声を聞きながら、どうか、彼がこの調子で無事に試験を受けられますように・・・と、心の底から祈った。
来週の今頃は、試験も終わって、きっと二人で胸を撫で下ろしながら、笑っている。
そして、その先にはきっと咲き誇る桜の花が待っているはず。
ゴールまであと少し・・・それまで、一緒に頑張ろう。
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私立の入試の合格発表も終わり、ホッと一息ついた日曜日の朝。
国公立入試までのつかの間の休息。
今日は、両親も朝から出かけている。
ああだこうだと、誰かにうるさく言われることもなく、俺は、自分の部屋でゆっくりと紅茶を飲みながら、ベッドに転がって本を読んでいた。
彼女からも、私立の入試に合格したと連絡が来た。
お互いの合格祝いとバレンタインデーを兼ねて、明日は二人で思い切り羽を伸ばそう・・・。
そんなことを考えていた矢先、階下で大きな物音がした。
今日は、両親もいない。
いるのは、妹と弟だけなのに、一体何を騒いでいるんだろう・・・。
そう思って、階段を下り、キッチンに行ってみると、妹がキッチンテーブルの上で大きなチョコレートの塊を割っていた。
「ああ、そんな包丁の使い方をしたら、刃がすぐにボロボロになってしまう。」
そんな俺の言葉をまったく無視して、妹は包丁を振り上げる。
「バレンタインデーのチョコレートか?」
そう言いながら、俺はキッチンの椅子に腰掛け、テーブルの上に頬杖をついて、チョコレートと格闘する妹に目をやった。
すると、彼女はジロリと俺を横目で睨みつけると、
「お兄ちゃんに関係ないでしょ。」
そう言いながら、割ったチョコレートをボールの中に入れた。
「あげる相手は決まってるのか?」
俺が、なおもそう聞くと、彼女はボールの中のチョコレートを湯煎にかけながら、少しイライラした口調でこう答えた。
「相手がお兄ちゃんじゃないってことだけは確かだよ。」
そうやって突っかかること自体が、このチョコレートの目的を自白しているのと同じなのに、それに気付かない妹がおかしくて、俺は声を出さないように、口を手で押さえながら喉の奥でクスクスと笑った。
妹はしばらくそのまま無言で、ボールの中をかき回していたが、突如、はぁーっと大きなため息をつくと、俺の方を振り返ってこう言った。
「ねぇ、お兄ちゃんとほのかさんって、どうやって付き合ったの?どっちから告白したの?」
まさか自分のことを聞かれるとは思っていなかったから、咄嗟のことでどう答えていいか、うろたえた。
・・・というより、的確な答えがなかった・・・という方が正しいかもしれない。
俺と彼女とは、付き合うようになった明確なきっかけがない。
生徒会が一緒で、二人で過ごす時間が多くなり、自然に周りから恋人扱いされるようになった。
でも、だからといってお互い、どちらも「告白」らしきものをしたわけじゃない。
ただ、周りに恋人扱いされ、何となく自分たち自身の雰囲気もそうなってきた・・・というのが実際のところで、特に記念日になるような大きな出来事があったわけじゃない。
強いて言えば、1年生のときのクリスマス前の出来事がきっかけだったかもしれない。
生徒会主催のクリスマスパーティで使う小物を買いに、彼女と二人で街へ出たときのこと。
クリスマス前ということで、街はすっかりクリスマス一色に染まり、どこの店もクリスマスセールで大忙しだった。
俺がよく行くケーキ屋でも、クリスマスケーキの店頭販売をやっていて、サンタクロースの衣装を身につけた店員が、街行く人に爪楊枝に刺した小さな試食品を配っていた。
俺たちがその前を通り過ぎたとき、その店員が、俺にその試食品を渡し、それから彼女の方を向いて、
「彼女さんもどうぞ。」
と、言った。
その言葉が妙に気恥ずかしくて、二人して真っ赤になりながら顔を見合わせたことを、今でもよく覚えている。
「彼女さんって言われちゃったね・・・。」
と、彼女が呟いたので、俺は咄嗟に、
「俺はそれでも構わない。」
と、言った。
俺にとっては、それが告白のつもりだったのだが、「付き合ってほしい」と言ったわけでもなく、「好きだ」と言ったわけでもないその告白を、実際、彼女はどう思っていたのだろうか。
「俺とほのかは、特にどちらからも告白なんてしていないんだ。ただ、何となく気付いたら付き合っていた・・・という感じかな。」
俺がそう言うと、妹は俺の方に向き直り、目を大きくしながら大きな声でこう言った。
「ダメじゃん!そんなの!」
「・・・え?・・・」
「女の子は、ちゃんとした言葉が欲しいんだよ!いつからわたしのことを見てたのか、気になってたのか、本当に好きになったのはいつなのか・・・何月何日何時何分かまで、全部聞きたい!」
「そ・・・そんなこと、わかるわけないじゃないか。それに、言葉なんかなくても一緒にいれば、相手の気持ちは、態度でわかるだろう?」
「そりゃ、何となくは、あー、この人もわたしのこと好きなのかな?っていうのは、わかるよ。でも、それをちゃんと「カノジョ」っていう言葉で縛ってほしいの!その一言がないために、電話だってメールだって、用事がないとできなくて、無理に用事を考えて、会う理由を作って、チョコレートだっていきなり手作りとか、ひかれるかな・・・とか、いちいち考えなきゃならなくて・・・。」
「どうして、お前がそんなにムキになるんだ?」
俺がそう言うと、妹は急に我に返ったように、ボールの方に向き直り、わざと俺に背を向けて小さな声で口ごもった。
「べっ・・・別に、ムキになんてなってないよ・・・。」
「大きくなったらお兄ちゃんと結婚する」と、言っていた幼い頃の妹の姿をなぜかフッと思い出し、俺は口元をほころばせる。
明日の告白がうまくいくといいな・・・。
俺は、慌ててボールの中をかき回す妹の背中に、そっと小さくそう呟いた。
翌日のバレンタインデーは、彼女と一緒に映画を見に行った。
お互い、国立の入試はまだ残っているものの、滑り止めの私立にとりあえず合格したということで、今日だけは勉強のことを忘れて楽しむつもりでいた。
映画のあと立ち寄ったカフェで、今見た映画の話に花を咲かせていたとき、彼女がふとケーキの箱を差し出した。
中を開けてみると、カップケーキサイズのマフィンがいくつか入っていた。
チョコレートマフィンや、チョコチップを散らしたもの、ホワイトチョコレートでコーティングしたものや、中に生チョコを練りこんだものなど、実に様々なマフィンが、箱の中できれいに日焼けしていた。
「きれいな焼き色だな。匂いもいい。これは味も期待できるな。」
俺がそう言うと、彼女は誇らしげに胸を叩きながらこう言った。
「そう。これは、リベンジなんだからね。前、調理実習で作ったマフィン、薫くんにさんざんけなされたから。」
俺は、そのときのことを思い出して、つい声を出して笑ってしまった。
そう・・・それは俺たちが、まだ付き合う前のこと。
調理実習で作ったと言って、彼女がくれたマフィン。
チョコマフィンかと思うほど真っ黒に焦げたその物体を、俺は一口食べて吐き出した。
「そうだったな。でも・・・あのときのマフィン、実はそれほどまずくなかった。」
「えっ、嘘!だって、薫くん、一口食べてむせてたじゃん。」
「ああ・・・確かに、お世辞にもウマいとは言えなかったが、まぁ・・・あそこまでひどいリアクションをするほどじゃなかった。」
「意地悪だなぁ。普通はさ、少々まずいと思ったとしても、相手に悪いと思って我慢して食べない?それをあそこまでけなされたら、相手に気を遣うこともできないくらいの激マズだったのかと思うじゃん。わたし、相当ヘコんだんだからね!」
そう言って、彼女が笑いながらふくれっ面をする。
俺は、そんな彼女の横顔を見ながら、口元に笑みを浮かべる。
「あの場で一口しか食べなかったのは・・・本当は、残りを家に持って帰りたかったからなんだ。」
彼女がくれたマフィン。
他にも周りにたくさん人がいた中で、俺だけにくれたマフィン。
そのことが嬉しくて、その場で食べてしまうのがもったいなかった。
一口だけ齧ったマフィンを家に持って帰って、机の上に置いて何度も眺めながら彼女を想った。
もちろん、何日後かにはカビが生えて、結局は捨てたけど、好きな人からもらった初めてのモノ。
それをできるだけ長く手元に置いておきたかったんだ。
「言えなかったけど・・・その頃から、ずっと君のことが好きだった・・・。」
ずっと・・・ずっと・・・言えなかった言葉。
言いたくて、でも言えなくて、その気持ちをうやむやにごまかした形でしか、君に伝えられなかった。
2年以上も経った今、やっと言えた。
俺たちが「何となく」付き合うようになるよりも、ずっとずっと前から、俺は君のことが好きだった。
それは決して「何となく」なんかではなく、何よりもはっきりと明確な形で俺の心の中にあった。
でも、あの頃の俺はそれをきちんとした形に表す方法を知らなかったんだ。
「なんか・・・告白みたいになってる。今日は、女の子から告白する日なのに。」
そう言って、彼女が笑う。
俺は、わざとムッとした表情をしながらも、そんな彼女の笑顔を心から可愛いと思う。
「でも・・・嬉しかった。ありがとう。」
笑い終わった彼女が、そう言ってテーブルの下で俺の手を握る。
あまりにも遅すぎる告白だけど・・・。
でも、卒業前に言えてよかった。
外はまだ寒い北風が吹いているけれど、俺の心の中に、今、春一番が吹いた。
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