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「あれ?お前、1人?」
待ち合わせ場所に、駿が1人で現れたのが意外で、俺は思わず声を上げた。
今日は、久しぶりに駿と飲みに行く約束をしていた。
駿とは、同じ大学だけど学部が違うし、俺はほとんど大学には通ってなくて、今年はほぼ間違いなく留年決定。
大学内で偶然会うことはまずなくて、今度飲みに行こうとは大分前から言ってたのに、なかなか機会がなくて、今日やっとお互いの都合がついた。
俺は、男同士の付き合いの中に彼女を入れるのはあまり好きじゃないから、よっぽどのことがない限り、アイツを連れて行ったりはしないんだけど、駿はどんな集まりにでも必ずと言っていいほど彼女を連れてくる。
だから、今日もてっきり彼女と一緒だとばかり思ってた。
「綾乃ちゃん、今、大学の交換留学で、イギリスに行ってるんだよ。」
「ふーん。」
「ふーんじゃないよ!最初は1ヶ月って言ってたくせに、いざ行ったら、せっかくイギリスまで来たんだから、もう1ヶ月かけてヨーロッパを旅行してから帰るとか言い出してさ!」
何だか浮かない顔をしてると思ったら、これが原因だったのか。
居酒屋の席に着くなり、すごい勢いで愚痴をこぼされた。
「まぁ、いいじゃん。お前も2ヶ月好きなことすれば。」
「僕も最初はそう思ってたんだよ。彼女って、いたらいたで面倒なときあるじゃん?男友達と遊んだりして、最初の2週間くらいは楽しかった。でも、なんかだんだん寂しくなってきちゃってさ・・・。」
「2週間くらいで、何情けねーこと言ってんだよ。俺なんて、2−3週間くらい会わなくたって全然平気だよ。」
すると、駿はジョッキを傾けながら、目を細めて俺を見ながらこう言った。
「それは、竜士が自分が会おうって気にさえなれば、いつでも会えるって心のどこかで思ってるからだよ。会おうと思えば会えるけど、会わないっていうのと、物理的に絶対会えないのとは、意味が違うんだよ。」
確かに、俺がアイツと会えないのは、すべて俺が原因で、俺が都合をつけさえすればいつでも会える。
いや、あえて都合をつけなくても、たまにフッと時間の空いたときや、急に会いたくなったとき・・・俺が呼べば、アイツが必ず来るってことがわかってるから・・・だから平気なのかな?
だとしたら・・・アイツにとってはどうなんだろう?
アイツにとっては、俺は「会おうと思えば会える」存在じゃなくて、物理的にとても遠くにいる存在なのかもしれないな・・・。
「でもさ、竜士がリコちゃんとこんなに長く続くとは思わなかった。リコちゃんの努力の賜物だよねぇ。」
と、駿がつきだしの小鉢をツツきながら、からかうような口調でそう言う。
「なんでアイツだけが努力してるんだよ。俺だってしてるよ。」
すると、駿はわざと大きく目を見開いて、俺の顔を覗き込むようにしながら
「え?何を?」
と、言った。
「そりゃ、お前・・・。」
そう言って、具体的な例をいくつか挙げようとしたとき。
・・・何も思いつかなかった。・・・
俺は、アイツのことはちゃんと考えてるから。
ちゃんと大切にしてるから。
ずっと、そんな風に思ってた。
でも、いざ改めて、俺がアイツのためにどんな努力をしてるのかと考えたとき、人に言えるほどのことは、正直言って、何もなかった。
もしかして、俺は二人の関係を保つ努力を、ずっとアイツに押し付けっぱなしで、ここまで来てしまったのかな・・・?
「そんな風にいつまでも俺様でいると、ある日突然フラれちゃったりするんだからね。気をつけなよ。」
「アイツに限ってそんなことはねーよ。俺に対する不満とかも、別に何も言わねーし。」
すると、駿はブルブルと頭を横に振って、やたら胸を張って教師みたいな口調でこう言った。
「女の子が不満を口に出すときは、もう手遅れなんだよ。」
こいつ、何でこんなに上から目線なわけ?
今の彼女に告白するときだって、どんな風に、どういうシチュエーションで、どう言えばいいのか、全部俺がアドバイスしてやったんじゃねーか。
何で、俺がこいつに恋愛の指導を受けなきゃならないんだ?
「ほら、僕、高校のとき少しの間、綾乃ちゃんと別れてたとき、あっただろ?あれだって、ホント突然なんだよ。それまで全然そんな素振りすらなかったのに、ある日突然、別れようって言われて、今までの不満を全部ブチまけられて、しかも僕が他の女の子と会ってたことまで全部知っててさ。女の子って、マジで怖いんだから!」
「それは、お前が鈍感で、相手の態度の変化に気付かなかっただけなんじゃねーの?」
「違う、違う!綾乃ちゃんは、それまで色々サイン出してた、とか言うけど、そんなの、全然見えないんだから。女の子の出すサインは、男には絶対見えないサインだから!」
店を出て、駅に向かって歩いているとき、駿が、この近くにおいしいケーキ屋があるから行きたいと言い出した。
そこは24時間営業のケーキ屋で、しかもどこかから運んでくるのではなく、すべてその店の手作りなので、24時間いつでも作りたてのケーキが食べられるということで有名らしい。
「綾乃ちゃんのプレゼントにしようと思ってさ。」
「え?彼女、イギリスなんじゃねーの?」
「うん、だから帰ってきたときに渡せるように、クッキーとか日持ちのいいモノをさ。」
駿の話によれば、駿は、彼女が帰ってきたときに渡せるように、毎日何か1つ、彼女のためのプレゼントを買うという。
それは、スーパーで見つけた新商品のお菓子や、変わった形のメモ帳とか、ちょっとしたアクセサリーとか、金額は小さなものでもいいから、とにかくその日自分が見つけたものの中で、面白いと思ったものや、きれいなもの、おいしいものを、何か1つ彼女のために買うらしい。
「竜士もリコちゃんに買いなよ。」
「えっ・・・お・・・俺はいいよ・・・。」
と、言ったものの、ビンの中に入ったいろんな種類のクッキーを1枚1枚、駿が選んでトレイに乗せていくのを見ていると、なんだか自分も買いたくなって、店を出るときには、自分もピンクのリボンでラッピングされたクッキーの袋を手にしていた。
その袋を見ながら、大切な誰かのために何かを選ぶことの楽しさを久しぶりに思い出して、最終電車の人ごみの中で、1人、ニヤニヤしてしまった。
アイツと付き合い始めた頃、俺たちはまだ高校生で、今より全然金なんかなかったのに、その中で少しでもアイツを喜ばせたくて、あれでもない、これでもないと考える、その時間が楽しかった。
その楽しさを、俺はもう長いこと忘れていたような気がする。
ふと、携帯を見ると、駿と飲んでいた間に、アイツから何回か電話がかかっていたようだった。
でも、今からかけ直すにはもう時間が遅い。
明日の朝電話して、授業が終わったらウチに来いって言おう。
クッキーを渡したら、アイツはどんな顔をするかな?
最近、曇りがちのアイツの顔に、また昔のようにかすみ草のような笑顔が戻るかな?
そんなことを考えながら、アパートの階段を上がり、自分の家のドアの前を見たとき、思わずぎょっとして一瞬後ずさりしてしまった。
そこには、何か荷物のような、動物のような物体がまんじりともせず、ドアの真正面に鎮座していた。
自分が酔ってるのかと思い、目をこすってもう一度よくそれを見つめると、それは・・・。
「リコ!お前、こんなとこで何やってるんだよ!」
慌てて駆け寄り、ドアにぐったりともたれかかったまましゃがみ込むアイツの腕を取ると、その手は異常に熱く、力なくダラリと俺の腕を滑って地面に落ちた。
体を支えて、何とか立ち上がらせ、上を向かせると、顔が真っ赤で目の焦点がまったく定まっていない。
首は壊れた人形のようにダランと垂れ下がり、半開きになった唇からは、ほんのりアルコールの匂いがした。
そういえば・・・今日は、ゼミの飲み会に行くと言っていた。
「何で中に入って待たないんだよ!こんなに泥酔したままこんなとこで転がって、もし何かあったらどうするつもりなんだよ!」
それでも、アイツは聞こえているのかいないのか、力のない体を俺に預けたまま、ただ無言だった。
アイツの体を支えたまま、ドアノブに鍵を差込み、まるで大きな荷物を抱えるように、アイツを中に押し込む。
「ほら、早く靴脱いで・・・。」
そう言って、アイツの足元にしゃがみ込み、靴を脱がせようとしたとき、かすれた小さな呟きが聞こえた。
「ねぇ、竜士・・・。」
「ん?」
あまりにも小さな声だったので、立ち上がってアイツの口元に耳を寄せると、アイツは小さなうめき声を出した。
「・・・帰ろうよ・・・。」
どうせ酔っ払いの言うことなんて支離滅裂で、何か夢でも見ているんだろうと思いながらも、とりあえず
「え?どこに?」
と、聞いた。
すると、アイツはぐったりと頭を俺の胸に押し付けながら、くぐもった声でこう言った。
「・・・図書室・・・。」
「は?何、言ってんの?」
かなり重症に酔っ払ってる・・・。
とりあえず靴を脱がせ、アイツを家の中に一歩入れると、アイツはさっきよりも少しはっきりした声でこう言った。
「白薔薇学園の・・・図書室に・・・帰ろう・・・。」
・・・え?・・・何だよ・・・それ。
水でも飲ませようと、アイツから少し体を離して、玄関脇のキッチンに歩こうとしたそのとき、アイツがそれを阻むように、俺のシャツの裾をぎゅっと握り締めた。
そして、俺の顔をじっと見上げ、ボロボロと涙をこぼしながら、殺される前の動物のような悲壮な声でこう叫んだ。
「竜士と一緒に・・・白薔薇学園の図書室に、帰りたい!・・・あの頃の二人に・・・帰りたい!」
そう言ったかと思うと、俺の胸の中で声を上げて泣き崩れた。
胸の中でヒステリックに泣き叫ぶアイツを目の前にして、俺はどうしてやることもできなかった。
アイツを安心させてやれるような約束も、誓いの言葉も何ひとつ言えないまま、ただ、アイツの体を抱きしめて、アイツが落ち着くまで背中をさすってやることくらいしか、今の俺にはできなかった。
クッキーの入った小さな紙袋がポトリと床に落ちる音が聞こえる。
もう、こんなクッキーくらいじゃ、アイツの笑顔を取り戻すことはできないのかもしれない。
アイツの涙が俺のTシャツの胸に、悲しみの地図を描く。
それでも、これがアイツの最後のSOSのサインだってことに、そのときの俺はまだ気付いてやれなかったんだ。
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卒業後―竜士 第一部
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大学の講義が終わり、校門に向かって中庭の芝生を横切る。
ウチの大学の中庭には年中、青々とした芝生が敷き詰められていて、その中央には大きな白亜の図書館がある。
ギリシア神殿風の建物で、天気のいい日なんかは、太陽の光をさんさんと浴びたその神殿が、遠くまで続く芝生の緑とマッチして、実に美しい。
その芝生で寝転んだり、お弁当を食べたりするカップルを見ながら、竜士と同じ大学だったらよかったな・・・と、ふと、考えても仕方のないことを考えてしまった。
「リコちゃん。」
校門を出たところで、誰かに呼び止められて、後ろを振り向くと、そこに立っていたのは同じゼミのタクミくんだった。
「今、帰り?僕も帰るところだから、送って行くよ。」
大学では、タクミくんと過ごす時間が多くなった。
別に意図しているわけではないのだけど、研究発表の班が同じで、放課後図書館で一緒に調べものをする時間が増えたことと、たまたま取っている専門講義が同じものが多かったことなど、偶然が重なった。
授業が一緒になったときなどは、そのまま一緒に学食でランチをしたり、わたしの家がちょうど彼の帰り道の途中にあるので、彼が車で学校に来ているときは送ってもらうことも多くなった。
彼に誘われて、今まであまり参加しなかったゼミの飲み会や、バーベキューなどのイベントに参加したりもするようになって、友達も増えた。
わたしは今まで、男友達がいたことがないので、彼氏以外の男性との距離の取り方はよくわからないのだけど、彼は明るく気さくで、一緒にいて楽しかった。
彼は、この大学に小学部から通っていて、就職もお父さんの経営する会社を継ぐことに決まっている。
本格的な受験も経験したことがなく、就職活動をする必要もない彼には、いわゆる競争社会からかけ離れて生きてきた人間独特の大らかさがある。
夢や野心など持たなくても、自分の希望するものは常に目の前にあり、そのことに満足してこれまでの人生を幸せに生きてきた・・・そういうタイプの男の子だ。
「リコちゃん、今日、顔色悪いけど、大丈夫?」
そう言って、彼が運転席からわたしの顔を覗き込む。
確かに、昨日から少し風邪気味で、今日も朝から熱っぽかった。
市販の風邪薬を飲んだし、じきに治るだろうと思っていたのに、昼頃からどんどん体調が悪くなってきて、頭がボーッとして、夏だというのに震えが止まらない。
「えっ!これ、多分かなり熱高いよ。帰りにお茶でも誘おうかと思ってたけど、今日は真っ直ぐ家まで送るよ。」
わたしの額に手をやった彼が、驚いたようにそう言って、わたしの家の方角にカーブを切る。
「あ・・・でも、今日は約束があるから、一つ手前の駅前で降ろしてくれる?」
「え?断った方がいいんじゃない?これじゃ、無理だよ。」
「うん・・・でも、もう約束してるから。」
そう・・・今日は、久しぶりの竜士とのデート。
竜士とは、厳密に言うと、丸っきり会えないというわけではない。
彼の昼間のバイトが終わり、わたしも授業が早く終わる日は、彼の夜のバイトが始まるまでの数時間を彼のアパートで過ごす。
でも、彼は大概疲れていて、わたしが隣にいても部屋に転がって寝ているか、バンドのメンバーと電話で話し込み、何やら難しい顔をしてため息をついていることが多い。
竜士がソノ気のときは、二人でベッドに入ることもあるけど、コトが終わるとその余韻に浸る暇もなく、バタバタとシャワーを浴びて夜のバイトに行ってしまう。
もっといろんな話をしたり、甘えたりしたくても、なんだか話しかけることすらできないような雰囲気が漂っていて、外でデートしようなんて、とてもじゃないけど言い出せない。
でも、今日は久しぶりに竜士がデートに誘ってくれた。
駅前のフレンチレストランで友達がバイトを始めたから、一緒に行こうってそう言ってくれた。
最近、どこにも連れてってやれなくてごめんな・・・って。
その友達にお前を会わせるのは初めてだから、俺が自慢できるようにちゃんとお洒落して来いよ・・・って。
そう言ってくれた。
雰囲気のいいフレンチレストランでゆっくりおいしいワインを飲みながら、今まで話せなかったいろんなことを話そう。
ゼミで仲良くなった友達のこととか、バイト先の風変わりな店長のこととか、最近始めた英会話スクールのこととか・・・どれも他愛のない話ばかりだけど、そんな話の一つ一つを竜士と一緒に笑い合いたい。
竜士は、友達にわたしのことをどんな風に紹介してくれるのかな?
ちゃんと自慢してくれるかな?
「可愛い彼女だね」って言ってもらえるように、ちゃんとお洒落しなくちゃ。
だから、絶対キャンセルなんかするわけにはいかないの。
「そんなに、どうしても今日じゃなきゃダメな約束なの?」
その質問に、わたしは小さく首を縦に振る。
「もしかして・・・彼氏?」
彼には、高校時代から付き合っている彼氏がいることは話してあるけど、どういう人だとか、何をしている人だとか、そういう詳しい話はしたことがない。
「それなら、別に断っても問題ないじゃん。彼氏なら、またいつでも会えるだろ?」
「彼は忙しい人だから、いつでもってわけにいかないの。わたしの方が合わせなきゃ、今度いつ会えるかわからないし・・・。」
「いくら忙しくたって、常に彼女の方が合わせなきゃいけないなんて、おかしいよ。僕なら、何があっても彼女を最優先する。」
「べっ・・・別に、彼に合わせるように強制されてるわけじゃないの。ただ、彼は一人暮らしで、学費はお兄さんに出してもらってるけど、生活費やお小遣いは全部自分のバイト代でまかなってるからそれだけでも大変だし、今は将来の夢に向かって頑張ってるときだから、わたしもできるだけ協力しようかなって・・・ただそれだけ。」
竜士がわたしを振り回しているように思われたくなくて、わたしは慌てて弁解した。
すると、彼はじっと前を見据えたまま軽くため息をつくと、諦めたように、駅の方向にカーブを切った。
車の中は、そのままなんだか少し気まずい沈黙に包まれた。
その沈黙を破ったのは、彼の何気ない一言だった。
「事情はよくわからないけどさ・・・。無理して付き合うのは、良くないと思うよ。」
誰でもよく言う、ごく一般的な言葉なのに、なぜか無性に腹が立った。
無理するな・・・って?
無理せずそのままの自分で・・・とか、自然体で・・・なんて、世間ではよく言うけど、そんな風にお互い何の無理もなく付き合えるカップルなんて、この世に何組いるの?
会いたいときに会えて、思っていることをすべて言い合えて、相手への遠慮とか不安とか、そういうものが一切なくて・・・そんなこと、今のわたしたちにはできないから・・・だから、無理しなきゃいけないんじゃない。
どんなに彼のことを信じていても、どれだけ楽しかった思い出を思い返してみても、好きになればなるほど、彼の本当の心が気になって、不安で、彼の悩みや苦しみが自分のこと以上に重くのしかかって、無理をしないと、彼の前で笑うことすらもうできない。
「カノジョ」なんていう位置は、吹けば飛ぶほどに軽くて、言葉のつながりなんて細いものだとわかっていても、たとえそれが蜘蛛の糸ほどの細さだとしてもそれを求める自分の心が苦しくて、無理をせずにはいられない。
そんな気持ちが・・・あなたにわかる?
「無理しなきゃいけないの!わたしたちのこと、何も知らないくせに、勝手なこと言わないで!」
思った以上に強い口調になってしまって、自分自身の言葉と声に、思わず身震いした。
心臓の奥がトクトクと音を立て、自分の指が小刻みに震える。
人に対してこんな風に怒鳴ったことなんて、今までに一度もなかったから、そんな自分にただ動揺した。
わたし・・・何を動揺しているの?
自分が心の中で薄々感じていたことをズバリと言い当てられたから・・・?
・・・違う・・・違う。
わたしが竜士との付き合いに無理しているなんて・・・そして、それを良くないことだと思っているなんて・・・そんなことは、絶対に、ない。
そのとき、カバンの奥で何かがプルプルと震えていることに気がついた。
急いで、小刻みに震えながら小さなランプを点滅させるその物体を引っ張り出すと、それは1通の着信メールを知らせるものだった。
<ごめん。今日、バイトが入った。また電話する。>
横を通り過ぎていく車窓の景色が、一気に色を失った・・・。
「・・・ごめん・・・。やっぱり、家まで送ってもらって・・・いいかな?」
絵文字も何もない、たった1行だけの殺風景なメールの画面を開けたまま、小さな声でそう呟いた瞬間、涙がどっと溢れた。
そして、そのとき気がついた。
今まで、辛いのは、竜士とあまり会えないからだって・・・ずっとそう思ってた。
・・・でも、違う。
辛いのは、会えないからじゃなくて、彼の心が見えないからなんだって・・・今、このとき気付いた。
夢を追いかける彼の目が、わたしを通り越した、どこか遠くを見ているようで・・・彼の夢見る将来にわたしの姿がないようで・・・それが怖くて苦しくてたまらなかった。
でも、それを認めることが怖くて、「苦しいのは会えないせい」と、物理的な距離のせいにしようとしてた。
今の時期を過ぎて、もっと会えるようになれば・・・一緒に暮らせるようになれば・・・、こんな苦しい思いからは解放されるって、ずっとそう思ってた。
でも、違う・・・。
距離があるのは、物理的にではなくて、二人の心なんだ・・・。
この1行だけのメールの中にたった二文字「好き」という言葉があれば、今日会えなくても構わなかった。
電話で一言、「好きだよ」って言ってくれたら、昨日会えなかったことも、一昨日会えなかったことも、すべて忘れる。
久しぶりに会えたそのときに、優しくぎゅっと抱きしめてくれたら、それだけで、明日も会えなくても構わない。
彼に一生愛されるなら、たとえこの先、一生会えないとしても・・・それでも構わなかった。
でも、そんなわたしの気持ちが・・・どんなに熱があっても、どんなに苦しくても、這ってでも会いに行こうとしていた自分の気持ちが、彼にとってはたった1行のメールで終わらせてしまえることなんだ・・・そう思うことが、たまらなく辛かった。
「リコちゃん・・・。」
前を向いたまま、すすり泣くわたしに声をかけるタクミくんの声はとても優しくて、出会った頃の竜士の声を思い出させる。
「僕と付き合わない?僕なら、君をこんな風に悲しませない。」
・・・意味がよくわからなかった。
「え?・・・どうして・・・?」
わたしは、今まで男の子に告白というものをされたことがないからよくわからないけど、もしこれが一般的にいう「告白」というものなのだとしたら、きっとわたしのこの質問は、とても間抜けでとんちんかんなものだったに違いない。
戸惑いを隠しきれないわたしを横目でチラッと見た彼は、ゆっくりと路肩に車を止め、そしてわたしの方に向き直り、太陽のような笑顔で、一言こう言った。
「君のことが好きだから。」
ずっとずっと欲しかった言葉・・・。
竜士の口からその言葉が聞きたくて、彼の話すどんな一言も聞き逃すまいと、まばたきをすることすらできなかった。
彼からのメールに、いつも「好き」の二文字を探し、一人で眠る寂しい夜には、彼が「好きだよ」と言ってくれた遠い昔の図書室や、先生の足音にビクビクしながら過ごした彼の部屋、汗の混じった制服の香り・・・そんなことばかりを何度も何度も思い返しながら、自分で自分の肩を抱きしめた。
それほどまでに恋焦がれたその言葉を、今、竜士ではない他の男の人に言われて、わたしはただうろたえた。
ねぇ、竜士・・・もう一度だけでいい。
あなたからその言葉を聞きたいよ・・・。
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いつものように、食事が終わり、アイツが食器を洗うためにキッチンに立つ。
勢い良く流れる水音を聞きながら、アイツの後姿に目をやる。
見慣れているはずのアイツの背中が、なんだかひと回り小さくなったような気がして、愛しさと罪悪感で胸がいっぱいになる。
ここ最近、どこにも連れて行ってやってなくて、飯を食うのも、いつもこの狭いアパートの中。
それでも俺が作ってやれば、アイツが喜ぶことはわかってるけど、最近は会う時間も俺の昼のバイトが終わって夜のバイトが始まるまでの数時間だから、疲れてキッチンに立つ気力も起きない。
いつもアイツが自分で作るか、ピザの宅配ばかりで、片付けだって手伝ってやろうと思いつつも、アイツが何も文句を言わずに全部やってくれることに、ただ甘えてる。
1日中一緒にいることなんて滅多にないから、たとえ数時間でも会ってるときだけは優しくしてやろうって思うのに、アイツの笑顔を見れば見るほど、なかなかそれに応えてやれない自分にムカついて、つい八つ当たりしてしまう。
アイツを好きな気持ちは、昔と全然変わってないのに、どうして高校生のときみたいにうまくいかないんだろう・・・。
「手伝うよ。」
そう言って、俺はシンクに向かうアイツの横に立って、布巾を取った。
すると、アイツは不思議そうに俺を見上げ、でも嬉しそうにニヤニヤしながら、からかうような口調でこう言った。
「あれ?どうしたの?今日は優しいじゃん。なんか、怪しいなぁ・・・。」
「お前が気付いてないだけで、俺はいつも優しいんだよ。」
そう言って、アイツの額をツツくと、アイツは子供みたいにケラケラと声を上げて笑った。
こんなに明るいアイツの表情を見るのは、久しぶりだった。
水しぶきと共に飛び散る洗剤の泡に映るアイツの笑顔を見ながら、何があってもこの笑顔だけは守りたいって、そう思った。
「今度・・・飯、食いに行くか?ほら、駅前に結構手頃なフレンチの店、あっただろ?友達があそこでバイト始めたんだよ。ワインのサービス券もらったからさ。」
すると、アイツは目を輝かせて、晴れ渡った秋空のような笑顔いっぱいに、
「えっ!本当?」
と、甲高い声で叫ぶと、泡だらけの両手をぎゅっと俺の首に巻きつけた。
レストランに飯食いに行くのなんて・・・恋人同士なら当たり前のことなのにな。
そんな当たり前のことで、こんなに喜ぶアイツを見ていると、自分がいかに今までアイツに何もしてやってこなかったかがわかる。
・・・ごめんな・・・。
拭いた皿をテーブルの上に置くために、置いてあったアイツのカバンを移動させようとしたとき。
大きく口の開いたカバンの中から、就職情報誌が見えた。
もうそんな時期なんだな・・・。
秋になれば就職セミナーや企業説明会なんかも始まるし、それまでにみんないろんな企業を調べて、希望職種を絞ってゆく。
「お前、就職どうすんの?」
何気ない俺のその一言に、アイツは少しためらいがちに皿を洗う手を止める。
そして、そっと水道の蛇口を閉めると、俺の方に向き直り、にっこりと微笑んで、こう言った。
「わたし・・・就職は、しない。」
「は?就職しないで、何すんの?」
「バイトする。」
「はぁ・・・?お前、何言ってんの?今は不況だっていっても、お前の大学なら就職にはまず困らないんだ。せっかく一生懸命頑張って勉強して、一流大学に入ったのに、バイトって・・・。」
すると、アイツはテーブルの上に重ねた皿を戸棚に戻しながら、少し拗ねたような口調でこう言った。
「だって・・・就職なんかしたら、今よりもっと竜士と会えなくなっちゃうんだよ?」
そして、唇の端をニッと上げて俺を見上げる。
「サービス業じゃない限り、普通の会社は土日が休みでしょ?でも、竜士のバイトは土日の方が忙しいし、プロのミュージシャンになったとしても、ああいう仕事は土日とか関係ないし、ライブは大抵夜でしょ?平日の夜と土日しか休みのない会社だと、竜士と全然会えなくなっちゃう。」
当然でしょ・・・と言わんばかりに笑うアイツを見て、それを素直な気持ちで受け止められない俺の心が、体の奥で小さく痛む。
「いや、俺がどうとかじゃなくて・・・。自分自身の将来を考えろよ。お前だって何かやりたいことくらい、あるだろ?」
するとアイツは、少しためらったように目を伏せ、何かを言いかけてやめる・・・という仕草を何度か繰り返したあと、ふと何かが吹っ切れたように、パッと顔を上げると、俺の目をじっと見つめながらこう言った。
「わたし・・・、大学卒業したら、竜士と一緒に暮らしたい!」
・・・一瞬、よく意味がわからなかった。
いや、アイツの気持ちはよくわかるし、大学を卒業したら一緒に住もうっていうのは、高校時代からの俺たちの夢でもあった。
でも、大学生活も2年生・・・3年生と進むにつれて、それはあくまでも「夢」で、それが現実となるにはあまりにもたくさんの障害があるってことを認識せざるを得なくなって、それはアイツも理解していることだと思ってた。
すると、アイツはそんな俺の気持ちを見抜いたかのように、急にハッと我に返った顔をして、パタパタと両手を横に振りながらこう言った。
「い・・いや、誤解しないで。別に、結婚を急かしてるわけじゃないの。結婚は、竜士の夢が叶ってから、ずっと後でいいし、わたしもバイトして、家賃も光熱費も半分払う。ただ・・・、わたしもここで一緒に暮らしたいの。」
「そんなの、親に何て言うんだよ?」
「えっ・・・それは・・・。」
「定職にも就いてない男と、結婚するわけでもなく、ただ一緒に暮らすなんて、親が納得するわけねーだろ。」
そう言うと、さすがにアイツも少し不安げな表情を見せた。
でも、次の瞬間、何かを思いついたように、顔を明るくしてこう言った。
「で・・・でも、ちゃんと会って竜士の人柄を知れば、ウチの親も納得すると思う。ほら、高校のとき、一度ウチに来てくれたこと、あったでしょ?あのときだって、別に悪い印象じゃなかったみたいだし・・・あ・・・まぁ、竜士の髪の色とかいろいろ聞かれたけど、あれは音楽やってるからわざとあんな風にしてるだけで、普段は真面目でいい人なんだって言ったら納得してくれた。あ、そうだ、今度、お父さんもいるときに一度ウチにご飯でも食べに来たら・・・。」
「そんなこと、できるわけねーだろ!」
世間知らずのアイツの無邪気な発想に、思わずイラついて、声を上げてしまった。
確かに、高校時代、アイツが早退したときに、抜けた授業のノートや課題を持って、アイツの家に行ったことがある。
でも、そのときと今とじゃ、状況が違うんだよ・・・。
高校生のときなら、「彼氏」っていっても、親も、「仲のいい男友達」程度にしか思わないだろうし、綾川先生の弟だってことで、安心してももらえた。
でも、この年になってもまだ同じ男と付き合ってるとなると、親だって、「卒業後はもしかしたら・・・?」って思うかもしれないし、それにこの時期に親に会ったりしたら、絶対、就職はどうするつもりなのか、とか、そういう話になるに決まってる。
そんなときに、「プロのミュージシャン目指してフリーターになります」なんて、言えるわけがない。
「・・・どうして?竜士は目的もなくただフリーターになるわけじゃなくて、ちゃんとした夢があって、それに向かって頑張ってるんだから・・・。」
「俺やお前がどんなにきれい事を並べたって、大人から見たら、俺は仕事もしないでフラフラ遊んでるただのフリーターなんだよ!金目当てで、女をたぶらかして一緒に住もうとしてるって思われて当然なんだ。それが社会ってもんなんだよ!それに、大体、お前だって、俺がそうはならないって言いきれるのかよ?最初はそのつもりがなくても、結果的にそんな風になってる男は俺の周りには山ほどいるんだよ!」
アイツに対して怒ってるんじゃない。
アイツの夢を何一つ叶えてやれない自分自身のふがいなさが腹立たしくて、情けなくて、気持ちのやり場がなかった。
そんな俺に対して、何の疑いもなく、俺自身を・・・そして俺の将来を、夢を・・・ただ真っ直ぐに信じ続けるアイツの目があまりにも眩しくて、俺はその目を直視することができなかったんだ。
「まだ俺と付き合ってるなんて、親が知ったら・・・心配させるだけだよ。親には、俺とはもう別れたって言っとけ。」
不思議なものを見るような目つきで、アイツがじっと俺の目の中を覗き込む。
俺の心の中を必死に探ろうとするような、俺の目の中のどこかに救いを見出そうとするような・・・そんな、追い詰められた目だった。
「そんなに・・・嫌なの?」
そう言った瞬間、アイツの瞳から大きな涙の粒がポロポロと零れ落ちた。
「嫌とか好きとかそう言う問題じゃなくて・・・。」
「じゃあ、何?」
「・・・俺とお前は・・・住む世界が違いすぎる・・・。」
必死に泣くのを我慢していたアイツの顔がみるみるうちに崩れ、搾り出すような声が俺の耳に突き刺さる。
両手で顔を覆いながら、肩を震わせるアイツの姿に胸が詰まって、俺は何も言うことができなかった。
「わたしは・・・竜士の世界に入っていくことはできないの?こんなに好きでも・・・それでもダメなの?」
その言葉を聞いて、俺はこらえきれなくなって、アイツを思い切り抱きしめた。
俺の胸の中で、子供のように声を上げて泣きながら、アイツはいつまでも泣き止まなかった。
今までは、俺が抱きしめてやればいつもすぐに泣き止んでいたのに、この日は、ずっと泣き止まなかった。
もしかして・・・もう、俺はアイツの涙を拭ってやることはできないのかな?
アイツの笑顔を守ってやれるのは・・・もう俺じゃないのかな?
ふと、そんなことを考えて、なんだかどうしようもなく怖くなった。
まるで、崖っぷちを目隠しで歩いているような、言いようのない底知れぬ恐怖だった。
そんな恐怖を振り払うように、俺はただひたすら小さなアイツの体を強く強く抱きしめた。
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店に入ると、名前も何も言ってないのに、そのまますぐに奥の個室に通された。
何でわかるんだろう?
ギター、持ってるからかな?
のれんで区切られた個室の中に入ると、待ち合わせの相手はもうすでに来ていて、俺を見上げると、大きなサングラスとマスクを取って、ニッと微笑んだ。
「何だよ、芸能人ぶりやがって。」
からかうように俺がそう言うと、彼女は、まったく芸能人らしくない、昔とまったく同じように大きな口を開けてゲラゲラと笑った。
間山とは、高校を卒業して、彼女がソロシンガーの「SHIHO」としてデビューしてからも、たまにお互いのライブを見に行ったり、それほどしょっちゅうではないけど、時間が合えば、飯を食ったりする。
席に着いて、メニューを見ながら注文していると、真正面からそのメニューをひったくられた。
「なんで勝手に注文するの?わたしだって、食べたいものあるんだから。こういうときは普通、先に女性にメニューを見せるものでしょ。」
ああ・・・お前が女だってこと忘れてたよ・・・と、心の中で呟きながら、メニューを取られて手持ち無沙汰になったので、タバコの箱を取り出す。
すると、また間山に嫌な顔をされた。
「喉が命のシンガーの前で、タバコなんか吸う?吸うにしても、普通は先に吸っていいかどうか聞くよね?」
はぁ・・・やりにくい・・・。
つい、アイツと一緒にいるときと同じ調子でやっちまったけど、間山の言うことは正論なんだよな。
もしかしたら・・・本当はアイツも間山と同じように思ってるのかな?
しばらく飲みながら、近況報告を兼ねた他愛のない話をしていた。
そして、ふと会話が途切れたとき、間山がテーブルに身を乗り出すようにして、一つ咳払いをした。
「・・・で、ちょっと真面目な話なんだけど。」
そして、周りに声が響かないかを確認するように、少し辺りを伺う。
「もしよかったら・・・SHIHOのバックバンド、やる気ない?今、ギタリストを探してて、オーディションするみたいなんだけど、竜士さえよければ、プロデューサーにいい人がいるからって言ってみようと思ってるの。」
あまりに突然の話で、思わず返事に詰まり、俺はジョッキに残っていたビールを一気に飲み干した。
確かに、それは俺みたいなギタリストにとっては願ってもない話だった。
バックバンドは注目される立場ではないけど、そこで認められて、後にバンドでデビューする人たちも多いし、有名プロデューサーの目に留まる可能性もある。
「今・・・バンド、揉めてるんでしょ?」
少し言いにくそうに、彼女が目を伏せる。
俺が高校のときから一緒にバンド活動をやってきたメンバーのうち、大学生は俺とボーカルの隼人だけで、あとは全員フリーター。
俺と隼人が大学を卒業するまでには、絶対メジャーデビューするって、それだけを目標にずっと同じメンバーで頑張ってきた。
でも、ここに来て、急に隼人がバンドを抜けると言い出した。
やはり3年生になって、一斉に周りの雰囲気が就職活動に染まり始めて、改めて自分の人生をじっくり考えたんだと思う。
何度もメンバー全員で話し合ったけど、やっぱり、無理に引き止めてあいつの人生を狂わせるようなことはできなかった。
ボーカルが変わると、バンドの雰囲気がガラリと変わる。
代わりのメンバーを見つけるといっても、誰でもいいってわけにもいかなくて、人に紹介してもらったりしながら募集はしてるけど、はっきり言って、なかなか思うように進まないというのが現状だ。
いくらバンドでデビューしたくても、そのバンド自身の存続が危うい状態だということを考えると、間山の話はいいチャンスだともいえる。
でも・・・でもな・・・。
高校時代からずっと一緒に同じ夢を見て頑張ってきたメンバーを裏切って、自分だけチャンスを掴もうとするなんて、やっぱり俺にはできないよ。
「ありがたい話だけど・・・でも・・・やっぱ、やめとくよ。やっぱ、最後までバンドでデビューするっていう夢に賭けてみたいし、それに俺、今、バイト3つかけもちしてるだろ?なかなか時間の都合もつかないし、かといってすぐに辞めるわけにもいかないしさ。」
すると、間山は大皿の上のサラダを取り分けながら、軽く頷いた。
「まぁ、そうだね・・・。SHIHOのバックバンドやったからって、いきなりすべてのバイト辞めて食べていけるほど、もらえないだろうしね。でもさ、なんでそんなにバイトやってるの?一人暮らしでお金かかるのはわかるけど、そんなに詰め込んでちゃ、急なイベントやライブの仕事が入ったとき、受けれないじゃん。」
「うん・・・俺、今、車買おうと思って、金貯めてるんだよね。」
「車?」
「うん・・・。大学生になったら、車で旅行しようって・・・。高校のときからアイツと約束してるんだよ。」
高校を卒業してからもう2年以上も経つのに、まだ果たせていないアイツとの約束。
高校時代、駿と会長カップルが春休みにスノボ旅行に行くというのを聞いて、アイツも行きたがった。
でも、そのときちょうど俺のライブの日程と重なっていて、行けなかったんだよな。
だから、俺は言ったんだ。
高校を卒業したら、俺が車を買うから、車で一緒に旅行しようって。
大学の夏休みは長いから、1ヶ月くらいかけて、二人で日本を一周しようって。
「そっかー。それを知ってるから、彼女も竜士がバイトばかりしてても、何も文句言わないんだね。」
「いやいや、アイツには俺が車買うなんて、一言も言ってねーよ。」
「え?なんで言わないの?」
「まぁ・・・サプライズってやつ?俺、普段、あんまりそういうことしないから。」
車だけじゃない・・・。
大学生になったら一緒に海外旅行をしようっていう約束も、クリスマスには夜景の見える5ツ星ホテルに泊まろうっていう計画も、必ずメジャーデビューするっていう誓いも・・・俺は、まだ何一つ叶えてやってないんだよ・・・。
「へぇ・・・、竜士がそんなことするとは思わなかった。でも、サプライズで突然車で迎えに来てくれたりしたら、やっぱり彼女としては嬉しいよね。今までの不満も、ケンカしたこともすべてなかったことにできちゃうくらい嬉しいよ。」
うん・・・そうだといいな。
ここ最近、なかなか会ってやれなくて、たまに会っても、俺はバンドのことで頭がいっぱいで、優しい言葉の一つもかけてやれなかった。
アイツは何も言わないけど、アイツを悲しませてることは俺自身が一番よくわかってる。
車を買ったからって、それがすべてチャラになるわけじゃないけど、俺が、二人の約束を果たすために、少しずつでも前に進もうとしてるってことをわかってもらえたら・・・それだけでいいよ。
そんな話をしたせいか、店を出て間山と別れたあと、急にアイツに会いたくなった。
時計を見ると、まだそれほど遅い時間じゃない。
少しだけでもいい・・・アイツの顔が見たい・・・。
俺は携帯を取り上げた。
「ああ、リコ?なぁ、今からウチ、来ねぇ?今日は夜のバイトも休んだし、明日も・・・。」
すると、電話の向こう側からザーザーという雑音と共に、途切れ途切れのアイツの声が聞こえてきた。
「え?竜士?何?え?聞こえなーい。」
そう言ったかと思うと、電話はいきなりプツリと切れた。
アイツ、一体どこにいるんだろう?
もう一度かけようとした瞬間、手に持っていた電話が音を立てた。
「ああ、竜士、ごめんね。電波が切れちゃったみたい。」
「お前、どこにいるんだよ?」
「ああ、今ね、車の中。帰りがけに、同じゼミの人と会って、今日は車で来てるから送ってあげるよって言われて。さっきはちょうどトンネルの中に入るところだったから、電波切れちゃった。」
「同じゼミの人って・・・男か?」
「う・・・うん・・・でも、それは・・・。」
「こんな時間まで授業あんのかよ?」
「いや、授業はもっと早く終わったんだけど、送ってもらうついでにお茶でもしようってことになって。ほら、この前、一緒に雑誌見たでしょ?あれに載ってたお店。国道沿いの道を海側に少し行ったところに新しくできたカフェ。」
それを聞いた瞬間、頭にカッと血がのぼった。
この前、アイツと一緒に見た雑誌に載ってたカフェ。
海の傍にできた、地中海リゾート風のお洒落なカフェで、店内は吹き抜けになっていて、テラス席からは水平線に沈む夕陽の絶景を見ることができる。
ケーキの種類も豊富で、デコレーションとして飾ってある色とりどりのフルーツの中から好きなものを取って、それをその場で生ジュースにしてくれるという。
行ってみたいけど、車じゃないと行きにくい場所で、俺が車を買ったら一緒に行こうなって、そう話してた店。
車を買ったら、納車の日に真っ先にそこに連れて行ってやろうと思ってた。
それを、先に他の男と一緒に行ってるって・・・どういうことだよ・・・。
「竜士、今日はもう遅いから無理だけど、でも明日なら・・・。」
「もういいよ。勝手にしろ!」
アイツの言葉を遮るようにそう怒鳴って、一方的に電話を切ったあと、後味の悪い苦い液体で胸がいっぱいになった。
こんなことで怒るのは理不尽だって、よくわかってる。
自分だって、さっきまで女友達と会ってたじゃねーか・・・。
それなのに、アイツには男友達を作るなって・・・俺が車を買うまで、誰の車にも乗らず、行きたいところにも行かず、ただじっと待ってろって・・・俺は、アイツにそんなことを強要するつもりなのか・・・?
わかってる・・・わかってるんだよ・・・。
でも・・・でも・・・。
肩で大きくため息をつく。
アイツの笑顔が頭の中に浮かんでは消える。
口の中の苦い何かを無理やり飲み込んで、街を見上げたとき、その見慣れた街がなんだか歪んで見えた。
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大学生活も、あっという間に3年生になって、専門のゼミが始まった。
ゼミは、週に1度しかないけど、高校でいうクラスのようなもので、人間関係が希薄になりがちな大学生活の中で、唯一、深い交流をする授業だといえる。
これから、このメンバーで2年間、共に共同研究やゼミ合宿をやっていくことになるため、その中でいい人間関係を築くことは、勉強そのものと同じくらいに大切なことなのだ。
今日も、ゼミが終わったあと、早速、みんな教室の真ん中に集まって、飲み会の計画を立てていた。
「お先に」と言って、その輪の横を通り抜けようとしたとき、輪の中から1人の男の子が飛び出てきた。
「リコちゃん。」
ゼミはまだ始まったばかりで、「リコちゃん」と呼ばれるほど親しくはないのだけど、彼は、ゼミの女の子を全員「ちゃん」付けで呼ぶ。
「どうしたの?青井くん。」
すると、彼は白い歯をニッとむき出しにして、爽やかに笑った。
「何だよ、他人行儀だなぁ。僕のことも、タクミくんって呼んでよ。」
その爽やかな笑顔と、人懐っこい話し方が、なんだか相葉くんに似ている、と思った。
「今日の飲み会、来ないの?」
「あ・・・ごめんね。今日は、ちょっと用事があって。」
「もしかして、彼氏?」
何でも気にせずズケズケと聞いてくる、その開けっ広げなところも、相葉くんに似ている。
「う・・・うん・・・。そんな感じかな。」
そう言ってお茶を濁すと、彼はわざと声のトーンを上げて、
「へぇー、そうなんだ。リコちゃんみたいな可愛い子と付き合える男って、どんな男なんだろう?羨ましいなぁ。」
そう言って、笑った。
こんな風に、咄嗟に女の子の喜びそうなことを照れもせずに言える彼は、きっと女の子に慣れている人なんだろうな・・・そう思った。
校門を出て、待ち合わせ場所に急ぐ。
今日は、久しぶりに竜士とデート。
竜士と外で会うのなんて、もう何ヶ月ぶりだろう。
最近は、お互いの時間が合わなくて、ゆっくり過ごせる時間もない上に、たまに会うときはいつも竜士のアパートでダラダラするだけ。
竜士はここ最近、音楽活動の方があまりうまくいってなくて、会ってもいつもイライラしていて、 そんな状態で狭い部屋の中に二人でいても気詰まりだし、気晴らしにどこかに行こうと誘っても、「金がない」「めんどくさい」としか言わない。
でも、そんな竜士が、今日は映画に行こうと言ってくれた。
何日も前から嬉しくて、2人分の前売りチケットを買って、着ていく服も何度も迷って、まるで初めてのデートのときみたいに胸が高鳴った。
昔みたいに、駅前で待ち合わせして、ドキドキしながら竜士を待って・・・一緒に映画を見て・・・そのあとは、新しくできたパスタのおいしいお店で晩ご飯を食べよう。
お酒も少し飲んで・・・今日は、夜のバイトを休んでくれてるはずだから、そのあとは一緒に彼のアパートに帰って・・・って、そう思ってた。
でも・・・いくら待っても竜士は来ない。
電話をしても、呼び出し音は鳴るのに、出ない。
事故にでも遭ったんじゃないか、とか、何か連絡ができない事情でもできたのかと思うと心配で、その場を立ち去るわけにもいかず、あと10分だけ・・・5分だけ・・・というのを何度も繰り返し、結局、1時間以上待ってしまった。
竜士・・・一体、どこにいるの?
見慣れたアパートの鉄製のドアの前で、チャイムを押す。
家にいるかどうかはわからなかったけど、とりあえず、あのまま待ち合わせ場所で待っていても仕方ないので、彼のアパートまで来てみた。
アパートの鍵はもらっているけど、わたしは、彼があらかじめ「中に入って待っててくれ」と言うとき以外は、勝手に入らないようにしている。
・・・誰も出てこない。
もう一度チャイムを押す。
それでも、人の気配はしない。
どうしよう・・・?
メモでも書いて、ポストに入れておこうか・・・?
もう一度チャイムを鳴らす。
そのとき、ドアの向こうで、かすかに人の足音がした。
「なんだ・・・お前かよ。」
開いたドアの向こうに見えたのは、まだ半分目を閉じた竜士の顔。
髪の毛はボサボサで、ジーンズを履いているところを見ると、帰宅してそのままパジャマにも着替えず寝てしまったものと思われる。
「竜士・・・。今日は、映画に行くって・・・。」
すると、竜士は奥の部屋の床に置いてあったクッションに座りながら、大きなあくびをした。
「ああ、そうだったな。悪りぃー。今、起きたばっかでさ。バンドのメンバーとの打ち合わせが長引いちまって、帰ってきたの、今日の昼前なんだよ。」
「前売り券、買ったんだよ・・・。」
「また今度行けばいいじゃん。今日使わなきゃいけないわけじゃねーんだろ?」
「今から準備して行けば、まだ最終の回に間に合うかも・・・。」
「ごめん。今日、夜はバイトなんだよ。どうしても人が足りないから頼むって言われてさ。」
そう言って、タバコに火を点ける竜士を見ながら、なんだか泣きそうになった。
映画くらい、大したことじゃないのはわかってる。
またいつでも行けるじゃない。
それなのに・・・どうしてこんな気持ちになるの?
カーテンを閉め切った部屋の中はどんよりしていて、ガラステーブルの上の灰皿には吸殻が山積みになっている。
その横に転がっている空のペットボトルやコンビニ弁当の空き箱を片付けながら、わたしはわざと明るい声を出す。
「バンドの新しいメンバー候補の人、どうだった?昨日、会ったんでしょ?」
竜士が高校時代から続けてきたバンドのメンバーのうちの1人が、バンドを抜けるとかで、新しいメンバーを探さなきゃいけなくて、それで最近忙しいっていうのは、少し前から聞いてた。
「うーん・・・。人に紹介されて、会ってはみたけど、なんか・・・イマイチ、ピンと来ねーんだよな・・・。」
「え?なんで?期待してたレベルじゃないってこと?」
「いや・・・上手いのは上手いんだよ。」
「じゃぁ・・・どうして?」
「うーん・・・。」
「悩みがあるなら、何でも言って。」
すると、竜士はタバコの煙を吐き出しながら、チラッと横目でわたしを見ると、少し苛立ちを含ませた声でこう言った。
「お前に言ったって・・・どうせ、わかんねーだろ?」
その言葉に、さっき必死で隠した涙がまた顔を出しそうになる。
バンドがうまくいかなくて、一番辛い思いをしてるのは竜士なの。
夢に続く扉はなかなか開かなくて、焦って、苛立って、思いだけが空回りして・・・。
そんな竜士の気持ちがわかるから・・・。
だから、わたしが泣いたりなんかしちゃいけない。
文句なんて言っちゃいけない。
「わたし・・・帰る。」
このまま竜士と一緒にいると、自分の気持ちをすべて彼にぶつけてしまいそうで、わたしはそう言って、カバンを持って立ち上がった。
座っている竜士に背中を向けたその瞬間、その手を素早く竜士が掴んだ。
「まぁ、もう少しくらい、いいじゃん。せっかく来たんだからさ。」
そして、その腕をぐっと引き寄せ、そのままわたしをベッドの上に押し倒した。
倒れたはずみで軋んだベッドの音が、なぜかいつもとは違うような気がした。
「だ・・・ダメだってば。もうすぐ、バイト行くんでしょ?」
「1回ヤルくらいの時間はあるよ。」
そう言って、竜士はわたしの唇を塞ぐ。
キスが・・・苦い。
そんな風に思ったのは、初めてだった。
わたしが知っている竜士のキスは、もっと甘くて、温かくて、優しくて・・・。
竜士の唇がわたしの首筋から胸元へとゆっくり這っていく。
その唇が、なんだか、まったく知らない人の唇のような気がした。
わたしの上にのしかかるこの体の重みも・・・皮膚から伝わるこの肌の温度も・・・まったく知らない人のものだった。
わたしの知っている竜士の体は・・・こんなんじゃない。
こんな風に、自分の苛立ちと欲求を吐き出すだけの体は・・・わたしの知っている竜士の体じゃない。
「や・・・やめてよ!」
竜士が、自分のジーンズのベルトに手をかけようと、体を浮かせた瞬間、わたしはその体を思い切り突き飛ばした。
涙が滝のように吹き出すのを感じた。
「わたしは・・・こんなこと、しに来たんじゃない!」
すると、竜士はベッドの端に腰掛け、大きなため息をつき、自分の膝に両肘をついてイライラしたように手で髪の毛をクシャクシャとかき回した。
「じゃぁ・・・、何しに来たんだよ?」
え?・・・今、何て聞いた?
何しにって・・・?
何しに来たのかって・・・?
そんなこと・・・言わなきゃわからない?
好きだから・・・会いたいから来たに決まってるじゃない。
そんなことすら、もう言わなきゃわからない?
その瞬間、わたしは部屋を飛び出した。
追いかけてきてくれる気配もないまま、わたしは駅までの道を泣きながら走った。
涙が次から次へと溢れて止まらなかった。
駅まで来て、もしかしたら・・・という期待を持って、後ろを振り返ってみる。
でも・・・そこにはやはり竜士の姿はなかった。
わたしは、駅の階段の手すりにつかまって、人目も気にせず、声を上げて泣いた。
頬を伝う涙の粒が、お気に入りのスカートに滑り落ち、小さな染みを作る。
このスカートは、去年、竜士と一緒に買いに行ったもの。
この色が似合うよって、竜士が選んでくれたんだよね?
竜士・・・覚えてる・・・?
そのとき、カバンの奥の方で、携帯が鳴った。
竜士・・・竜士・・・。
竜士だよね?
わたしは、狂ったようにカバンの中をかき回し、慌ててその音を拾い上げる。
そしてディスプレイを見てみると・・・。
それは、同じゼミのタクミくんだった・・・。
竜士・・・。
どうして、あなたじゃないの?
わたしは、電話に出ることもできず、ただその場にしゃがみこんで泣き続けた。
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