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日曜日の朝、マンションの入り口のインターホンが鳴る音で目が覚める。
ロックを解除し、その人がエレベーターに乗って玄関の扉を開けるまでのほんの数分の間で、何ができるわけでもないのに、なぜかじっとしていられなくて、慌てて鏡の中を覗き込む。
とりあえず、寝起きのボサボサ頭をシュシュで一括りにして、せめて眉でも描こうとアイブロウを取った瞬間、ドアが開く音がした。
「もうっ!先生はいつもいきなりなんだから。化粧する間もありゃしない。」
そう言って、わざと口を尖らせると、先生は昔と変わらぬ優しい目を細くしながら、喉の奥でクスクスと笑ってわたしの頭に軽く手を置いた。
「そんなもの必要ありません。君は、素顔の方が可愛いですよ。」
その言葉に、遠い昔の甘酸っぱい記憶が蘇る。
君は、素顔の方が可愛いですよ・・・その言葉を聞きたいがために、校則違反にも拘らず、毎日化粧をして登校した高校時代。
生徒に校則を守らせるためのリップサービスだとはわかっていても、スターであらねばならないと、化粧で素顔を塗り固め、誰にも素顔を見られまいと自分の周りに見えない壁を張り巡らせていたあの頃のわたしにとって、あの言葉は唯一の心の支えだった。
大人になって、そんなことを意識せずありのままの自分でいられる人とめぐり合い、化粧をするべきときと素顔のままでいいときとの切り替えがうまくできるようになった今でも、やっぱりその言葉を聞くと、なんだか少し胸がくすぐったい。
先生をリビングに通し、コーヒーを入れる。
高校時代、一度だけ国語準備室で先生にコーヒーをごちそうになったことがある。
担任でもなかったし、他の女の子たちみたいにキャーキャーと国語準備室に押しかけるなんて、そんなことはスタートしてのプライドが許さなかったから、いつも興味のないフリをしていたけど、本当は一度でいいから、あの部屋で先生と二人きりの時間を過ごしてみたかった。
でもなかなかきっかけがなくて、考えあぐねた末、わたしは、期末試験の古文の答案を白紙で出した。
案の定、数日後、国語準備室に呼び出された。
そのときに、先生が出してくれたコーヒー。
酸味があって、コクのあるまろやかな味。
いつもわたしが飲んでいるインスタントとはまったく違う味と、初めてまともに向かい合う憧れの人の横顔に、叱られていることすら忘れてうっとりとしていたことを、今でもよく覚えている。
竜士と付き合うようになって、訪れた彼のアパートで出されたコーヒー。
その味が、国語準備室で出されたものとまったく同じで、驚いた。
そのとき、改めて竜士と先生が兄弟なのだということを実感すると共に、人と人とのめぐり合わせの不思議さに、一人こっそり笑みを漏らした。
それ以来、わたしはコーヒーを買うときは、必ずこのブランドのものと決めている。
「先生、せっかく来てくれたのに、竜士は今日は仕事でいないんです。ツアーで地方を回っているから、帰ってくるのは来週になるかも・・・。」
すると、先生は手にしていたコーヒーカップをそっとソーサーの上に置くと、ゆっくりと首を振った。
「いえ、今日は竜士ではなくて、志帆さん、あなたに話がありましてね。竜士に言っても、わたしの言うことになど、どうせ耳を貸しませんから。」
そして、咳払いを一つすると、少しためらいがちにわたしに目を向けた。
「そろそろちゃんとケジメをつけてはどうですか?まぁ、今どき結婚前の同棲なんて珍しいことじゃないし、君たち二人がいいのなら・・・と、何も言いませんでしたけど、やっぱりこの辺でちゃんと形にしておかないと。」
先生の目が、まだ平らなわたしのお腹の上に留まる。
竜士と一緒に暮らし始めてから、早いものでもう3年。
先月、妊娠が発覚した。
どうしたものかと悩んだけれど、竜士と話し合った結果、今まで通り籍は入れないままで、出産することを決めた。
籍を入れようが入れまいが、わたしたちの関係はこれまでと変わらないし、生まれてくる子供の両親であることも変わらない。
わたしたちは、子供の親であり、恋人であり、親友であるけれど、それ以上に自分の音楽、人生においての「パートナー」であるという意識が強い。
それを「夫婦」という枠に縛り付けてしまうことに、なんだか抵抗があった。
「そして、できることなら、ちゃんと式も挙げた方がいいと思うんですよ。こういうことは一生に一度のことですし、君のご家族だって、きっとそれを望んでいらっしゃると思いますよ。」
「ウェディングドレスに憧れるなんて、そんなのもう10代で終わっちゃいました。」
すると、先生はがっくりと肩を落とし、大きなため息をつくとこう言った。
「はぁ・・・まったく・・・。一体、竜士の方はどう思ってるんでしょうねぇ。一生に一度くらい、自分の大切な人に素敵なドレスを着せて、お姫様のようにしてあげたい・・・って、普通は思うものでしょうに。」
先生の思いがけない夢見がちな発言に、失礼だとは思いつつも、つい大声で笑ってしまった。
「先生がそんなロマンチストだとは思わなかった。先生のお嫁さんになる人は幸せですね。」
「志帆さん、笑い事じゃありませんよ。式はともかく、籍だけでも入れておかないと。」
「結婚なんて、ただの紙切れです。」
「たかが紙切れ、されど紙切れですよ。くだらないと思うかもしれませんが、男というのは、そんなことで責任感が芽生えたりするものなんですよ。竜士には、あなたに対して責任があるわけですし、ちゃんと家族を持つという意識を持ってもらわないと・・・。」
「わたしは、竜士に自分の人生の責任を取ってもらおうなんて思ってません。自分の人生に対する責任は、自分で取ります。」
すると、先生はお手上げといった風に、小さく両手を挙げ、ソファの奥に沈みこんだ。
「はいはい、君が経済的にも精神的にも自立した素敵な女性だということは、よくわかりました。でもね、二人だけならそれでもいいですが、生まれてくる子供のことを考えたら、そういうわけにもいかないでしょう?女性は自分の体に子供を宿すわけですから、黙っていても親としての自覚はついてくる。でも、男はなかなかそういうわけにはいかないんですよ。何か形式として、ちゃんと自覚させるようなものがないと・・・。」
「先生・・・。」
思わず、先生の言葉を遮る。
その言葉に先生が目を上げる。
その目を見たとき、初めてわたしと先生の間に、「家族」という一体感が生まれたような気がした。
「先生・・・わたし、高校生のときに失恋して、そのときに決めたんです。もう恋愛はいらない。わたしは、音楽のためだけに生きる。恋愛では、欲しいものを手に入れられなかったけど、音楽では必ず欲しいものを手に入れてみせる・・・って。でも、もし、その夢が叶ったら・・・音楽で成功したら・・・そのときには、絶対に世界一の男を手に入れる・・・って。」
「それが・・・竜士ということですか?」
「はい。」
そう言って、わたしはゆっくりと微笑んだ。
先生はニヤリと笑うと、軽いため息をついて、コーヒーを一気に飲み干した。
そして、自分の両膝に手をつくと、おもむろに立ち上がった。
「わかりました。そこまでノロケられては、もう何も言うことはありません。形式などなくても、竜士はちゃんと家族を守っていける、責任感に溢れた素晴らしい男だということを信じましょう。」
玄関まで歩く先生の後を追いながら、わたしはふと、今までずっと自分の心に留めてきたある質問をぶつけてみたくなった。
「先生・・・。」
靴を履きながら、先生がわたしの方を振り返る。
「先生は・・・これからもずっと一人でいるつもりなんですか?」
すると先生は、靴べラをわたしに返しながら、フフッと軽く笑ってわたしの目の中をじっと覗き込んだ。
「わたしは・・・一人じゃありませんよ。姿形は見えなくても、わたしの大切な人はずっとわたしの側にいますから。・・・永遠にね。」
その言葉がなんだか、とても先生らしいと思った。
きっと、先生はこれからもずっと心の中の彼女と共に生きていくのだろう。
それは、決して過去にしがみつくという意味ではなく、先生の中で彼女はずっと生きていて、きっと二人にしかわからない方法で結びついているのだろう。
彼女をお姫様にしてあげることはできなかったかもしれないけど・・・でも、それでもこういう愛の形もあるのだと・・・なんだか素直に納得できた。
先生が、ドアノブに手をかける。
そして、何かを思い出したようにわたしの方を振り返ると、こう言った。
「それから、志帆さん。たとえ法律上は他人でも、わたしのことはこれからお義兄さんと呼んでくださいね。わたしたちは、家族なのですから。」
そのときの先生の笑顔がとても温かくて、優しくて、ずっと「家族」というものを否定してきたわたしの心の隙間がゆっくりと埋められていくのを感じた。
家族・・・この言葉をこれほど温かいと感じたことは今までなかった。
そう・・・わたしたちは家族なんだ・・・。
籍とか、法律とか、そんなことは関係ない。
わたしたちは、今、家族という新しい絆で結びついている。
でも・・・でもね・・・。
わたしは、足を一歩、外に踏み出した先生にそっと首を横に振った。
「いいえ。先生は・・・わたしにとって永遠に先生です。」
あのときわたしに初めての恋の切なさとときめきを教えてくれた先生・・・。
音楽という夢を叶えるために、男はただの踏み台、恋愛にうつつを抜かすなんて、何の才能もなく、男に守られなければ生きていけない母のような女のやること・・・そんな風に思っていたわたしが、初めて心をときめかせ、誰かを理解したい、されたいと思った人。
嫉妬も、挫折も、受け入れられない悲しみも、自分の中の醜い感情がすべて目の前にあって、自分が特別なスターなんかじゃなく、感情を持った生身の人間なのだということを教えてくれた人。
わたしは、そのことをずっと覚えていたいから。
あの恋がなければ、わたしはきっと今も、他人を一切受け入れない「勘違いスター」のまま生きていたと思う。
だから・・・わたしたちの関係が、たとえどんな風に変わろうとも、先生には永遠に先生のままでいてほしい。
先生・・・確かに竜士は世界一の男だけど、あなたもまた違う意味で世界一の男だよ。
たとえ世間からは理解されなくても、先生、あなたが心の中の彼女と共に生きていくように、わたしはどんな形にも縛られない自由な愛で目の前のパートナーと共にこれからの人生を生きていく。
それがわたしの愛の形。
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卒業後―竜士 第二部
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春になり、俺と彼女は、一緒に暮らすことを決めた。
二人で暮らせるように、少し広いマンションを借り、今日は、彼女の部屋を引き払うために引越し準備をしていた。
家具は二人で新しく買い揃えるつもりだったし、場所ももともと二人が住んでいたところから近いところに決めたので、引越しといっても車を何度か往復させるだけで事足りそうだった。
彼女の私物を段ボール箱に詰め込んでいたときに、棚の奥の方から古びた人形を見つけた。
それは、高校時代、女子生徒たちの間で流行っていたクレーンゲームの人形・・・カメウサだった。
懐かしさと共に、ふとアイツのことが頭をよぎる。
アイツと付き合う前、このカメウサをアイツに取ってやったんだ。
彼女もこのカメウサを持っていたなんて・・・知らなかったな。
「これ、もう捨てるだろ?」
俺がそう言って、その人形を取り上げると、彼女は慌てて駆け寄ってきて、その古びた人形をひったくった。
「ダメ!これは、引越し先にも持って行くの。」
「え?こんな古い人形を?」
「いいでしょ!何か、文句ある?」
いや・・・別に、文句はないけど・・・。
彼女は部屋のインテリアにはあまり興味がなくて、今までだって人形や置物を飾っているのを一度も見たことがない。
それなのに、どうしてこんな古い人形にこだわるんだろう・・・そう思いながら、横目で彼女を見ると、その人形を懐かしい目で愛おしそうに撫でる彼女の姿があった。
・・・それを見て、わかった。
きっと、この人形には、彼女の大切な誰かとの思い出があるんだ。
俺が、この人形を見てアイツを思い出すように、彼女にもこの人形を見て思い出す誰かがいる。
彼女が、俺の思い出を大切にしてくれているように、俺も彼女の思い出を大切にしてやりたい・・・そう思った。
荷物をすべてマンションの方に運び込み、ガランとした部屋の中で荷物を解いていると、いきなり玄関のドアが開いた。
「鍵も閉めないで、不用心じゃないですか。」
そう言って、入ってきたのは兄貴。
「いいんだよ。まだ、車の中に荷物が残ってて、出たり入ったりするから。」
そう答えて、ふと思った。
マンションの入り口はオートロックになっているはず。
部屋番号を押して、それから暗証番号を入れればロックが解除される・・・その手順は確かに兄貴に話したけど、暗証番号そのものを教えた記憶はないのに、なんで入ってきてるんだ?
「マンションのオートロック・・・どうやって開けたんだよ?」
すると、兄貴は涼しい顔で一言、こう答えた。
「君の暗証番号は、君が高校生の頃から知ってますから。」
その言葉を聞いて、一瞬で顔が熱くなった。
そう・・・俺は高校時代からずっと同じ暗証番号を使っていて、それは・・・アイツの誕生日なんだよな。
高校生のとき、バイト代が振り込まれる口座を作らなきゃならないとかで、その暗証番号を、当時付き合っていたアイツの誕生日にした。
それ以来、毎回暗証番号を変えるのが面倒で、クレジットカードや、ネットショッピングや、携帯など、何か暗証番号を作る際には、すべて同じ番号にしていた。
考えてみれば、暗証番号を彼女の誕生日に設定するなんて、あの頃の俺はそれだけ恋愛に夢中で、今から思えば、寝ても覚めてもアイツのことばかり考えてた。
なんだか恥ずかしいけど、それも、今となってはいい思い出だよ。
あれほどまでに夢中になれる恋愛は、人生の中でそうないってことを、大人になった今ではわかる。
一度でもあんな経験ができた俺は・・・ラッキーだったよな。
「あの頃の君は、本当に・・・」
「手伝いに来たんだろ?だったら、さっさと手伝えよ。」
これ以上、兄貴に何か言われたら、恥ずかしすぎて卒倒する。
俺は、自分の首にかけていたタオルを取って、兄貴の方に放り投げた。
3人で、ダンボールの中の荷物を解く。
もともと部屋についていたクローゼットの中に服を入れ、本は本でまとめて、あとで本棚に入れやすいように同じ場所に固めて置いておく。
兄貴が、カッターでダンボール箱のガムテープを剥がし、中身を取り出した瞬間、声を上げた。
「志帆さん、これまだ持ってたんですね。懐かしいですねぇ。」
その声に振り向くと、兄貴があのクレーンゲームの人形、カメウサを高々と掲げている。
「志帆さん、覚えていますか?高校生のとき、ゲームセンターにいた君をわたしが補導したんですよね。この人形が取れるまで帰らないとダダをこねるもので、どうしたものかと考えた挙句、一か八かで挑戦してみたら、案外簡単に取れてしまって・・・。そして、そのあと、一緒にラーメンを食べたんですよね。懐かしいですねぇ。」
え・・・?
このカメウサ・・・兄貴が彼女に取ってやったってこと・・・?
彼女の方を見ると、彼女は焦ったような表情で顔を真っ赤にしながら、兄貴に向かって両手をパタパタと振っている。
でも、兄貴はそんな彼女の様子にまったく気付かずに、その人形をひっくり返したり、引っ張ったりしながら懐かしそうに見つめている。
そうか・・・そうだったのか・・・。
彼女の大切な思い出の相手は・・・兄貴だったんだ。
そうだったんだ・・・。
なんだか、心の奥に優しい暖かい風が吹いたような気がした。
嫉妬とか、そういう嫌な感情はまったく起こらなかった。
それよりも・・・彼女の大切な思い出を兄貴が覚えてやってくれていたことが、嬉しかった。
たとえ片想いだったとしても、親との葛藤に苦しみ、常にスターであらねばならないと片肘を張っていたあの頃の彼女の心の支えになってくれたこと、そしてそれを彼女の心の中に美しい思い出として残してくれたこと・・・そのことに、心から感謝すると共に、その相手が兄貴でよかった・・・と、なんだか素直にそう思えた。
その後、兄貴が「引越しソバを食べましょう」と言うので、3人で車で近くのスーパーに買い物に行った。
そのついでに、彼女が引越しの間ペットショップに預けていたプードルのプー子を引き取りに行く。
ソバだけじゃなくて、何だかんだと余計なものまで買って、結局マンションに着いたときには、俺は両手に大きなスーパーの袋を提げていた。
駐車場からマンションまでの道は、桜並木になっていて、春風に煽られたピンク色の花弁が花吹雪となってひらひらと舞い踊っていた。
その中を3人で歩いていると、なんだかふと高校時代を思い出す。
桜の舞い散る中庭の向こうに見える古い校舎・・・。
陽だまりの図書室・・・。
遠くの空に夢を馳せた屋上・・・。
その一つ一つに3人それぞれに違った思い出がある。
そうやって、違う思い出、違う人生を違う人と共に生きてきた3人が今、こうして一緒にここにいることを思うと、改めて人生の不思議さを感じる。
きっと、一口に「あの頃」といっても、そこに思い浮かべる景色や、音楽、人との会話、ぬくもり・・・それは3人それぞれに違っていて、案外、共通するものは少ないような気がする。
でも・・・それでいいんじゃねーかな?
お互いがこれまでの過去を認め合い、それを大事にしながら未来を一緒に生きていく。
過去と未来とどちらが大切かなんて、決められない。
どちらも自分にとって、かけがえのない大切なものだから・・・兄貴にも、彼女にも、思い出は大切にしてほしいんだよ。
「お前、髪の毛に桜の花びらついてるぜ。」
俺が彼女に向かってそう言うと、彼女はブルブルと頭を振りながら、こう言った。
「取ってよ。わたし、プー子抱えてるんだから。」
「俺だって、両手ふさがってるだろ。」
そのとき、俺たち二人の前を手ぶらですいすいと歩いていく兄貴の姿が見えた。
「兄貴、取ってやれよ。」
すると兄貴は、くるりと俺たちの方を振り返ると、呆れた声でこう言った。
「何を言ってるんですか。それは、君の役目です。」
はぁ・・・。
俺は、両手の荷物を地面に下ろした。
そして、彼女の髪の毛についた桜の花びらを取ろうとした瞬間・・・。
「・・・やっぱ、やめた。」
「はぁ?何よ、それ。早く取ってよ。」
そんな彼女の声を無視して、俺は大声で笑いながら先を歩く。
なんだか・・・花びらを髪につけた彼女が、今までに見たことがないくらい、とてもきれいに見えたんだよ・・・。
こうやって、これからもずっと彼女をきれいだと思って、一緒に生きていけるといいな。
そして、アイツも・・・アイツのことをそんな風に思ってくれる誰かと一緒にいてほしい。
俺が今、こんな風に幸せを感じていられるのも、きっとアイツのおかげだと思うから。
※画像は、お友達のあゆこさんに描いていただいた絵。
間山さんの髪についた花びらを取りかけてやめる竜士。
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長い友達期間を経て、わたしと竜士は付き合うことになったわけだけど、だからといって、急に何かが変わるわけじゃない。
長年友達だったせいもあって、今更いきなり二人の間に甘い雰囲気が訪れるわけもなく、かといって、肉体関係で相手の愛を信じることができるほど、二人とももう子供ではない。
そういう表面的なこともそうだけど、わたしは今まで、本当に好きな人と付き合ったことがなく、自分にとって得になるかどうかで相手を選んでいたから、今回のように損得勘定なしで選んだ相手に対して、どのように振舞っていいかがわからない。
自分でもどうしたいのかよくわからないまま、いまひとつ、彼の心の中に踏み込めない・・・そんな気持ちを抱えたまま、ただ月日だけが流れていった。
わたしが、彼の心の中に踏み込めないもう一つの理由。
それは・・・「彼女」だった。
別に嫉妬しているわけでもないし、彼が彼女に想いを残しているかどうかを心配しているわけでもない。
ただ、何となく、わたしが彼と一緒にいるのは一時的なもので、彼女から彼を「借りて」いるのだ・・・という思いがどこかにあって、いつかわたしは彼を彼女の元に返さなければならない・・・そんな気がしていた。
それでも、わたしが彼と付き合うことを決めたのは・・・それは、たとえ一時的なものであったとしても、その短期間の間で、彼に対してわたしにしかできないことがあったから。
わたしは、男としての彼に惚れるよりも、まず先に、アーチストとしての彼に惚れていた。
ギターのテクニックや音はギタリストとして、最低限求められるものだけど、わたしはそれ以上に、彼のアレンジャー、作曲家としての才能に惚れていて、その才能をどうしても世間に認めさせたいという強い思いがあった。
この世界は才能や努力だけでは、なかなか認められない。
常に周りにアンテナを張り巡らし、たくさんいる音楽関係者の中の力関係を見抜き、巧みに自分をアピールして売り込んでいく・・・そういう要領の良さに欠ける竜士は、今まで幾度となくチャンスをムダにしてきた。
でも、わたしが側にいれば、そんなことはさせない。
彼に処世術が足りない分、わたしがそれを補ってあげられる。
彼の才能が世に認められるために・・・そのために彼がわたしを必要とするなら、側にいる。
そして、見事その夢が叶ったときは・・・そのときは・・・彼女に彼を返そう・・・そんな風に思っていた。
彼のアパートのドアを開けると、彼はこちらに背を向けて、ギターに向かっていた。
わたしがドアを閉めた音に気付くと、彼はわたしの方を振り返り、やたらウキウキした調子でこう言った。
「CMソングの作曲の仕事、決まった。歌詞はつかないし、ほんの数秒の短い曲だけど。」
それを聞いて、少し安心した。
もちろん、彼にはまだまだもっと大きい仕事をしてほしいけど、彼の才能を見ていてくれた人がいる・・・そう思うだけで、ずっと迷って言えなかったことを、今日こそは言えそうな気がした。
「何か作るよ。腹減ってるだろ?」
そう言って、竜士がキッチンに向かう。
冷蔵庫をガサゴソとかき回している彼の背中を見つめながら、ここまで来て、やっぱり心が迷う。
どうして・・・迷うんだろう?
最初からわかってたことじゃない・・・いつかは彼を返す・・・って。
彼とわたしの関係は、一時的なものなんだ・・・って。
それが、予定より少し早くなっただけのこと。
「彼女さ・・・、エジプトに行くんだって。」
「え?彼女って?」
どうして聞くの?
わかってるくせに・・・「彼女」って・・・他に誰がいるっていうの?
わたしは、そんな彼の質問を無視して、話し続ける。
「少し前、スタッフの人たちと飲みに行ったとき、その中に、偶然にも彼女と同じ大学出身の人がいて。同い年だったし、彼女のこと知ってるかな?と思って聞いてみたら、結構親しい友達だった。彼女・・・エジプトの大学に行って、しばらく日本に帰ってこないんだって。」
「え・・・?なんで?」
意味がわからないといった風に、竜士は眉をひそめてわたしの方を振り返る。
「なんでって・・・そんなこと、わたしが知るわけないでしょ。何か夢でもあるんじゃない?彼女の大学での専攻は考古学だったし。」
すると、竜士はブルブルと首を横に振ってこう言った。
「アイツは・・・そういう女じゃないんだよ。外国で夢を叶えたいとか、自分の可能性を世界で試したいとか、そんな大それたことを考えるタイプじゃない。恋愛とか、結婚とか、家庭とか、そういう小さな夢を見て、幸せだと満足するタイプなんだ。それがどうして・・・。それに、大体アイツが考古学を専攻したのだって、たまたま合格した大学の中で、あそこが一番俺の住む街に近かったから・・・。」
「そう思うなら・・・直接会って確かめてみなよ。フライト、明日の12時だって。空港に行けば、会えるんじゃない?今は、彼氏もいないみたいだし。」
竜士は言葉に詰まったように、わたしから目をそらすと、わざと蛇口を大きく捻り、バシャバシャと派手な水音を立てながら手を洗った。
「本当は、大分前から知ってたんだけど・・・今日まで言えなかった・・・ごめん。」
わたしが彼女の話を聞いたのは数ヶ月前。
ずっと竜士に言おうと思っていたのに、やっぱりどうしても言えなくて、今日になってしまった。
でも・・・最後のチャンスに間に合って・・・よかった・・・。
竜士の背中に迷いが見え隠れする。
迷う彼の姿は見たくなかった・・・だから、今日までずっと言えなかった。
彼はしばらくまな板の上の野菜を見つめていたけれど、ふと何かを決心したように顔を上げると、わたしの方を見てゆっくりと微笑んだ。
「俺は、行かないよ。」
「・・・え?どうして?行かなかったら、一生後悔するかもしれないよ?。」
すると彼は、さも当たり前といった調子で一言、こう言った。
「だって、お前がいるじゃん。」
その言葉が、わたしの心の中でくすぶっていた火種に火をつけた。
一瞬のうちに熱い血が、カッと体の中に沸きあがる。
そんな言葉は・・・聞きたくなかった・・・。
「・・・いい子ぶらないでよ!」
わたしはそう叫ぶと同時に、思わずテーブルの上に置いてあった布巾を彼に向かって投げつけた。
きょとんとした表情で、竜士がわたしを見つめる。
それが、一層わたしの心を逆なでした。
「竜士は、いつもそう!自分が悪者になって、あとで傷つくのが怖いだけなのよ!音楽だって・・・高校時代のあんなバンドじゃ、プロでは通用しないってことくらい、竜士ならわかってたはず。それなのに、いい子ぶってメンバーを裏切れないとか何とか理由をつけて、売れないバンドにいつまでもしがみついてチャンスを逃して・・・本当は一人で挑戦するのが怖かったんでしょ?メンバーを裏切って悪者になって、一人になって失敗して傷つくのが嫌だったんでしょ?そして、今度はわたしのため?冗談じゃない!本当は、彼女にまたフラれるのが怖いだけなんでしょ?わたしをフッて悪者になった上に、彼女にフラれて惨めな思いをするのが嫌なんでしょ?本当に何かを手に入れたいなら、悪者になって傷つくことくらい、覚悟しなよ!」
自分でも、何を言ってるのかわからないくらいに、一気にまくしたてた。
ここまで言うつもりはなかった・・・。
でも、もう自分の気持ちにブレーキがきかなかった。
口では強気なことを言うくせに、最後の最後で悪者になりきれない竜士は、その優しさでいつも目の前のチャンスを逃す。
音楽業界なんて、汚いところ。
人を裏切り、出し抜き、利用して、頂点を目指す。
そんな世界では、竜士の優しさは長所ではなく、「甘さ」という短所に変わる。
その甘さゆえに、いつも目の前でみすみすチャンスを逃す竜士を見て、歯がゆくて、悔しくて仕方なかった。
才能もあって、努力もしてるのに、あと一歩のところで、いつも欲しいものを誰かに奪われてしまう・・・。
人間は、そうやって負け癖がつくと、いつの間にか負けた状態を当たり前に思うようになってしまう。
わたしが側にいる限り、そんなことは、もう絶対にさせない。
彼の望むものは、わたしが手に入れてあげる。
わたしが、彼を頂点に立たせてみせる。
・・・そう思って付き合い始めたのに、今ここで彼を彼女の元に行かせなかったら、彼はまた最後の最後で欲しいものを手に入れられない負け犬になってしまう。
そんなことだけは、絶対にさせられない。
本当に彼女が欲しいなら、わたしのことなど振り向かずに、堂々と彼女の元に歩いて行けばいい。
音楽での成功が欲しいなら、わたしを利用し、踏み台にして、頂点を目指せばいい。
いい子ぶってたって、本当に欲しいものは手に入らない。
どんな汚い手を使ってでも、欲しいものを手に入れてみせる・・・男なら、それくらいの心意気を見せてみなよ。
わたしだって、ずっとそうやって生きてきたんだから。
竜士は、長い間、無言だった。
そして、おもむろにキッチンテーブルの椅子に腰掛けると、テーブルの上に頬杖をついてどこか遠くを見つめながら独り言のように呟いた。
「そうかもな・・・お前の言う通りかもしれないな。」
そして、片肘をついたまま、目だけをわたしの方に向けた。
あんなに彼をなじったのに、彼がわたしを見つめる目があまりにも穏やかで、思わずこちらが罪悪感を感じるほどだった。
「確かに・・・明日行かなかったら、俺はお前の言う通り、一生後悔するかもしれないよ。でもさ・・・もし、明日行ったとしても、俺はきっと一生後悔するんだよ。行っても行かなくても、どっちみち後悔するなら・・・俺は、一度諦めた夢を取り戻すことよりも、今、目の前にある夢の方を大切にしたい。」
彼の手がそっとわたしを引き寄せる。
「俺が本当に欲しいのは、叶わなかった過去の夢じゃなくて、今、目の前にある未来に続く夢なんだ。遠い夢ばかりを追いかけて、目の前にある幸せを逃すあの後悔を・・・俺は、もう二度としたくないんだよ。」
そう言って、わたしを見上げる彼の目が本当にきれいに澄んでいて、なんだかその奥に未来が見えた気がした。
彼をそっと抱きしめる。
彼が座っているために、彼の頭がちょうどわたしの胸のあたりにきて、わたしたちが付き合うきっかけとなったあの夜のことを思い出す。
あの夜、彼の体を抱きしめながら、彼の体の中から苦しい想いがすぅーっと流れ出て、力強い「未来」に変わっていくのを、わたしは自分のこの胸で、この腕で、確かに感じたんだ。
もし、彼が、「アイツのことはもう忘れた」「アイツよりもお前の方が好きだから」・・・そんな言葉を一言でも言ったら、即行、別れるつもりだった。
あの恋が、そんな言葉で簡単に片付けられてしまえるようなものじゃないことは・・・二人の恋を最初から最後まで見てきたわたしが一番よく知っているから・・・。
彼の心の中から過去が消えることは、決してない。
きっと、これからだって迷ったり、後悔したり、過去に逃げたくなったり、いろんな思いの中で、彼は自分の道を選び取って生きていくのだろう。
今、彼が選び取った一つの道が、「未来」であったこと・・・そして、口先だけの甘い言葉でわたしを納得させようとするのではなく、彼が、過去と未来にきちんと向き合い、その上で、未来を生きていく決心をしてくれたことを、とても嬉しく思う。
過去を忘れたり、捨てたりする必要なんかない。
きっと、彼はこれからもずっと、「過去」という名の彼女と共存しながら、未来を生きる。
その未来の中に、わたしの姿があればいい・・・そしていつか、彼の「過去」を作ってきた彼女に誇れるような、素晴らしい未来を、彼と一緒に築いていければいい・・・と、心からそう思った。
「なぁ・・・。春になったら、一緒に暮らさねぇ?」
わたしの胸に顔を押し付けたまま、くぐもった声で彼がそう言う。
その声の中に、今、「未来」が見えたような気がした。
彼の未来の中に、きっとわたしはいる。
そう思った。
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高校を卒業してから、アイツとの別れ、自暴自棄な時期、立ち直り、なんとか音楽でやっていける目処・・・いろんなことがこの数年の間にめまぐるしく起こり、結局、俺はその間をずっと友達として一緒に過ごしてきた間山と付き合うことになった。
でも、そのことは周囲にはずっと内緒にしていた。
間山とは仕事を一緒にする機会も多いから、音楽関係者だと変な気を遣わせるんじゃないか・・・という配慮もあったし、古くからの共通の友達には、今更すぎてなんだか言い出しにくかった。
でも、それよりも何よりも・・・。
「SHIHOの彼氏」として見られることが嫌だった。
もちろん、俺よりも彼女の方が有名なのは周知の事実で、格差カップルとして見られるのはごく当たり前のことなんだけど、自分という人格が無視されて、彼女の付属品のような立場に立たされるのが、どうしても自分の中で許せなかった。
くだらないかもしれないけど・・・男のプライドってやつ?
俺自身が今よりもっと輝いて、「SHIHOの彼氏」じゃなくて、「綾川竜士の彼女」として人に紹介できるようになるまでは、誰にも言わないつもりでいた。
ギターを担ぎながら、久しぶりに見慣れた坂道を登る。
今日は、兄貴に「相談がある」と言われて、わざわざ実家までやってきた。
兄貴が俺に相談があるなんて、滅多にないことだったから、何か深刻な話でもあるのかと心配して来てみたら、玄関を開けた途端に、賑やかな話し声が聞こえてきた。
リビングに入ると、白薔薇学園の制服を着た、おとなしそうな少年がソファに座って、礼儀正しくジュースを飲んでいる。
「ああ、竜士。待ってましたよ。」
その横に座る兄貴が手をヒラヒラと振って俺を招き入れる。
「竜士、こちらはウチのクラスの伊藤くん。伊藤くん、これが弟の竜士です。」
俺が、二人の向かい側のソファに腰を下ろすと、その少年が俺に向かって、軽く頭を下げる。
「・・・で?何?相談って。」
「はい、実は、今度の文化祭でウチのクラスは、ファッションショーをやることになったんですよ。で、モデルたちの衣装担当がこの伊藤くんでしてね。伊藤くんは、被服部に所属していて、どんな服でも作ってしまうプロ顔負けのデザイナーさんなんですよ。ほら、彼がデザインしたこの絵を見てください。すごいでしょう?」
そう言って、兄貴がその少年の持っていたスケッチブックを取り上げ、自慢げに俺に見せる。
まぁ・・・確かにすごいけど、それが俺と何の関係があるんだ?
「彼が何十種類もデザイン画を描いてくれたんですけどね、どれも素晴らしすぎて一つに選べないんですよ。そこで、竜士、君に選んでもらおうと思いまして。」
「は・・・はぁ?なんで、そこで俺が出てくるんだよ!」
「おや、だって、君は芸能人でしょう?ファッショントレンドの発信源といえば芸能界じゃないですか。今、どんなものが流行っているのか、どんなものが若い女の子にウケるのか、君ならわかるだろうと思いましてね。」
はぁ・・・これだから、素人は困るんだよ・・・。
芸能界と一口に言ったって、その範囲は広いんだ。
それに大体、俺はモデルでもなければアイドルでもない。
華やかなステージに立つ仕事なんて、仕事の中のほんの一部分で、大抵は狭苦しいスタジオの中で汚いカッコしてギター弾いてるんだよ。
そんな俺が、ファッションのことなんてわかるわけねーだろ。
・・・と言いかけて、手渡されたスケッチブックにふと目をやると、そこには丁寧にデッサンされた色とりどりの斬新なデザイン画がびっしりと描かれていた。
その一つ一つの服に合う、靴やバッグやアクセサリーなどの小物までが綺麗に描かれてあって、それぞれの素材や質感までがメモしてある。
こいつ・・・こんなのを、全部自分で作るのか・・・?
俺は服のことはよくわかんねーけど・・・でも、確かにこれはすげーよ。
「一般モデルの服はもう全部決まったんですが、ショーのトリを飾るミス白薔薇の服だけが、決まらなくて困ってるんです。」
その少年が、少し顔を赤らめてはにかみながらそう言う。
「いや・・・でも、服だけで選べって言われてもなぁ・・・。そのトリを飾るっていうモデルがどんな子なのかわからないと、選びようがないよ・・・。」
すると、その少年はパッと顔を輝かせて、うっとりとした目つきで語り始めた。
「・・・西園寺さんは、とても素敵な人なんです。社交クラブに入っていて、バラとお茶が趣味で、顔がきれいというだけではなくて、雰囲気も上品で、普段はあまり笑わない人なんですが、時々見せる笑顔が女神のように可愛くて・・・。」
・・・西園寺・・・?
なんか、聞いたことある名前だな・・・。
「髪の毛が長くて、いつもリボンをつけていて・・・。吸い込まれそうな目力があって、ドキドキしてしまってとてもまともに見れないんですけど、その下の泣きぼくろが・・・。」
そこまで聞いて、思い出した。
そうだ・・・その女子高生は・・・間山の親父さんの葬式の日、彼女と一緒に白薔薇学園に行ったときに、会った子だ。
みんなが彼女と写真を撮りたがる中で、一人だけ撮らなかった、あの生意気な小娘・・・。
そうだ・・・確か、あいつが西園寺だ・・・。
「えっ・・・あの生意気な小娘?」
「えっ・・・どうして知ってるんですか?」
焦ったように、その少年が俺の方に身を乗り出してくる。
その姿がおかしくて、俺は思わず大声で笑ってしまった。
「お前さ・・・もしかして、そいつに惚れてんの?」
からかうように俺がそう言うと、彼はもともと赤い顔を更に真っ赤にして、慌てて口ごもった。
「い・・・いえ・・・僕は・・・そんな・・・。」
「やめとけよ、あんな女。あんな鼻持ちならないスター気取りの女と付き合ったって、疲れるだけだぜ。ああいう女にとっちゃ、男なんてどうせ飾り物なんだからさ。確かに連れて歩くにはいいかもしれないけど、真剣に惚れる女じゃないよ。それに大体、社交クラブって何だよ?貴族の集まりか何かか?あんな高飛車な女、どこがいいんだよ。」
すると、彼は急に顔を上げると、俺に掴みかからんばかりの勢いでこう言った。
「さ・・・西園寺さんは、そんな人じゃない!」
自分のその声に驚いたのか、言った途端、急に我に返ったように身を小さくして恥ずかしそうに目を伏せた。
「西園寺さんは・・・あまり人付き合いがうまくないから、いつもそんな風に誤解されるけど、本当は繊細でとても心の優しい人なんです。」
「なんで、そんなことわかるんだよ?お前が、あんな華やかなタイプの女と友達だとも思えねーけど?」
すると、彼はモジモジと膝の上で自分の手を弄りながら、俯いたままでこう言った。
「僕に・・・「伊藤くんの作る服が好き」って、言ってくれた・・・。僕は、男のくせに裁縫が好きで、男らしいスポーツや遊びに興味がなくて、いつもみんなにからかわれてばかりだったけど・・・。西園寺さんだけが、そんな風に言ってくれた。だから、僕はそのお返しに彼女のために最高の服を作って、彼女を最高に輝かせてあげたい。最高の姿であのランウェイを歩いてほしいんです!」
ふーん・・・そういうことか・・・。
「でもさ・・・お前がいくら一生懸命、彼女のために服を作ったって、輝くのは彼女だけだぜ?よっぽど服に興味のあるヤツなら別かもしれないけど、普通はモデル見て、きれいだなって言ってそれで終わりじゃん?お前がどんなに苦労して頑張ってあの服を作ったかなんて、そこまで見るヤツはいねーよ。なんかさ、輝く彼女の影に自分が隠れてるみたいで、惨めじゃね?彼女を輝かせるんじゃなくて、自分自身が輝いて彼女を手に入れようとか、そんな風には思わねーの?」
すると、彼はきょとんとした表情で首を片側に傾けると、不思議そうな目をしてこう言った。
「輝くって・・・人に注目されるってことなんですか?」
「・・・え?・・・」
「僕は、別に人に注目されたいとは思ってないし、そりゃ、服を作るときには悩んだり、うまくいかなかったり、苦労はたくさんあるけど、それを誰かにわかってもらいたいとも思ってません。僕は・・・僕の作った服を着て、彼女が輝いてくれたら、それで僕も輝けるんです。別に彼女の影に隠れてるなんて思ってません。全然、惨めじゃないですよ。」
そう言って、にっこりと笑った。
なんだか、その笑顔を見て・・・アイツを思い出した。
俺が輝けるために、いつも影で俺を支えてくれたアイツ・・・。
俺がギターを買うために学校まで休んでバイトして、俺のためにお守りを集め続け、俺がうまくいかないときも、落ち込んでいるときもただずっと側で寄り添い続けてくれた。
アイツがいたから、俺はあのとき、あんなにも力いっぱい輝けて、今こうしてここにいる。
アイツと一緒にいたときは、俺はまだまだ輝ききれなくて、アイツを照らし返してやることはできなかったけど・・・その思いを今度は、他の誰かを輝かせることで返していければいいのかな・・・なんだか、そんな風に思った。
俺が弾くギターで彼女が歌い、輝いて、それを聴いた誰かが一人でも幸せになってくれれば・・・それはつまり、俺自身が輝いてるってことになるんじゃないのかな・・・。
「このスケッチブック、2−3日貸してくんねぇ?」
「おや、随分、真剣に選んでくれるんですね。」
兄貴が、からかうような口調でそう言う。
「うん・・・俺じゃわかんねーから、間山に選んでもらおうと思ってさ。」
「ああ!それはいい考えですね。志帆さんなら、ファッションのことにも詳しいでしょうし・・・。」
「え・・・志帆さんって・・・?」
少年が、兄貴の顔を覗き込む。
「ほら、あのSHIHOさんですよ。校長室に白薔薇学園出身の歴代の有名人の写真が貼ってあるでしょう?あの中にいるSHIHOさんです。」
すると、たちまち少年の顔が、今度は興奮で赤くなった。
「え!あのシンガーのSHIHOさんですか?」
「ええ、そうですよ。彼女は、クラスは違いましたけど、わたしの教え子なんです。竜士とは同級生で、今も時々一緒に仕事をしてますし、仲のいい友達なんですよね?」
そう言って、兄貴が俺の方を振り返る。
「いや・・・違うな。」
そう言って、俺は胸ポケットからタバコを取り出す。
くだらねープライドなんて、もういらない。
昔、アイツが俺を輝かせてくれたように・・・今度は、俺が彼女を輝かせるよ。
「SHIHOは・・・俺の彼女だよ。」
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俺と間山は、自分たちでもびっくりするくらい、曲作りにのめり込んだ。
俺が作った曲に彼女が歌詞をつけることもあったし、彼女の書いたものに俺が曲をつけることもあった。
まだ、誰にも見せることもできず、もちろんどこかで発表できるほどのものでもなかったけど、だからこそ商業的な感覚に踊らされず、自分たちの感性で、納得のいくまで話し合い、お互いの心の中にあるものを一つ一つ目に見える形として作り上げていくことができた。
俺は、その頃、順調に仕事も増えて、ようやくバイトをしないでも音楽一本でなんとか生活できるようになっていた。
でも、もちろん、彼女の方が断然忙しかったから、俺たちが会うのは約束をして・・・というよりも、彼女の都合がいいときに、突然彼女が俺のアパートに現れる・・・という会い方が多かった。
こういう仕事はスケジュールがきっちり決まっているわけではないので、彼女がウチに来るのは真夜中だったり、逆に早朝だったりと、かなり不定期だったけど、いつしか俺は、彼女が来るのを楽しみに待つようになった。
今日も、1時間ほど前に、「レコーディングが思ったよりも早く終わったから、今からそっちに行く」というメールが入り、俺は彼女の好きなチキンライスを作るために、キッチンに立っていた。
チキンライス・・・といっても、彼女は鶏肉が嫌いなので、代わりにハムを入れる。
チキンの入ってないチキンライスなんて、これはもうチキンライスじゃなくて、ハムライスなんじゃね?と思うんだけど、出来上がると、味はやっぱりチキンライスなんだよな。
なんか、そんなことを考えながらキッチンに立っていると、おかしくなって一人でゲラゲラ笑ってしまった。
誰かが来るのを楽しみに待ちながら料理を作るなんて、もう何年ぶりだろう。
ふと、アイツがいた頃のことを思い出す。
俺が一人暮らしを始めた頃、ウチにはまだ調理器具もあまりそろってなくて、フライパンでラーメン作って一緒に食ったりしたな・・・とか、「朝ごはんできたよ」ってキスで起こされる・・・っていうドラマのシーンにに憧れて、起きてるくせにわざと寝てるフリして、薄目を開けてアイツが朝食を作る後姿を見てたな・・・とか、いろんなことを思い出して、思わず口元がほころぶ。
今でも、こんな風に何かあるたびにアイツのことは思い出して、やっぱりまだ少し胸の奥が疼くけど、前みたいに胸が締め付けられるような苦しい気持ちじゃなくて、思い出すたびに心の中に優しい穏やかな風が吹き、それがそっと心の疼きを撫でてゆく。
それは決して、アイツとの思い出が色あせていくということではなく、思い出がそのときとは違う別の色に美しく塗り替えられていく・・・そんな感覚だった。
間山が来たので、一緒に食事をして、少し休憩がてらに部屋で、この前、彼女と一緒に回ったライブツアーのビデオを見ていた。
お互いの反省点や、今後の課題なんかを話しながら、ふと、昔、高校時代にやったライブのことを思い出した。
あの頃のライブは、遊びの延長のようなもので、見に来るのもほとんどが友達やファンばかりで誰にも厳しいことなんて言われないもんだから、技術もないのにカッコつけて天下を取ったような気分になって演奏してた。
答えなんてわかってるくせに、「今日の俺、どうだった?」って、何度もアイツに聞いて、「カッコよかったよ」ってお決まりの言葉を言ってもらって、有頂天になってたな。
でもさ・・・あのときのあの言葉があったから、俺は今も音楽を続けていられるんじゃないのかな・・・なんだか、そんな気がするんだ。
「ライブのときってさ、ちょっとここはイマイチだったな・・・とか、今日のこの曲は最高にうまくいった・・・とか、自分なりにあるじゃん?でもさ、アイツは音楽のことがわからないから、何を聞いても「良かった」しか、言わないんだよ。どの曲が一番良かった?って聞いても、「全部良かった」としか言わないから、質問を変えて、じゃあ、どの曲が一番カッコ良かった?って聞いても、「全部カッコよかった」って言うんだよ。でも、好みくらいはあるだろ?この曲はいいけど自分の好みじゃない、とかさ。そう思って、最後にどの曲が一番好きだった?って聞いても、「全部好き」だって。音楽のわかんねー女と付き合うとコレだから困るよな。」
そう言って俺が笑うと、間山は喉の奥でクスクスと笑いながらこう言った。
「それ、わたしがそれでいいって言ったの。」
「・・・え?・・・。」
「高校のとき、彼女に相談された。自分は音楽のことがわからないから、いつも竜士に同じような感想しか言ってあげられない。もっとどこが良かったとか、どこをどうしたらいいとか具体的なことを言ってあげたいのに、何も言ってあげられないのが辛い・・・だから、音楽のことを教えてほしいって、頼まれた。」
そして彼女は、遠い昔を懐かしむような目でどこを見るともなく遠くを見つめたあと、フッと軽く笑って俺の方を振り向いた。
「だから、わたしは言ったの。そんなことする必要ないって。たとえ毎回同じ感想になったとしても、あなたが思ったことを正直にそのまま伝えればいいって。何を聞いても彼女が「全部好き」って答えたのは・・・きっと彼女は、本当に竜士のすべてが好きだったんだよ。どこが好きとか、どうして好きとか、そんな理由や理屈なんて一切なく、彼女にとっては竜士のすべてがカッコよくて・・・すべてが好きだったんだよ。何千回でも何万回でもいい・・・それを正直にそのまま言ってあげればいいって・・・そう言ったの。」
そう言って、彼女が俺の肩に手を置いた瞬間、なぜか一瞬にして涙が溢れ出た。
自分でも何が起こったのか、よくわからなかった。
女の前で泣くのなんて・・・初めてだった。
アイツの前でも、最後まで一度も泣いたことなんてなかった。
それなのに、こらえようと思っても涙があとからあとから溢れ出て、もうどうしようもなかった。
不思議だった・・・。
悲しいわけでも、辛いわけでもない・・・。
それなのに、堰を切ったように溢れ続ける涙・・・それは、自分を守る、目に見えない何か大きな力の存在に初めて気付いたときの感動の涙・・・なんだかそんな気がした。
その大きな力が何なのか、はっきりと言葉にはできないけれど、それは愛のようでもあったし、俺を見守る心のようでもあったし、優しさのようでもあった。 ・・・「全部好き。」
そう言って、俺を見上げるアイツの笑顔が、すぐ側に見えたような気がした。
アイツのその言葉を、俺は何回聞いただろう。
俺がどこで何をしていても、仕事も金もなくて、アイツに当たってひどいことをしても、傷つけても、それでも「全部好き」と言い続けてくれたアイツ。
アイツの愛情と優しさに包まれていた思い出が、ゆっくりと俺の胸を流れて、それが優しく美しい涙となって、俺の体から溢れ出す。
それは決して悲しい涙ではなかった。
なんだか、ずっと心の中に閉じ込めていた石の塊をやっと解放できたような・・・ぎゅっと固く閉じていた筋肉をふっと解きほぐすような・・・そんな安堵にも似た、優しく穏やかな涙だった。
取り戻したいと願うような執着や後悔ではなくて、ただこれまでアイツと過ごしてきた過去への祝福、そして、俺の背中を未来に向かって押し出すためのけじめの涙だった。
随分、長い時間がかかったけど・・・これでやっと、俺はアイツという過去を無理に捨てたり、忘れたりするのではなく、自分の未来の一部として、アイツの思い出と一緒に、一生寄り添い生きていく決心がついたような気がした。
「わたしが彼女に言ったこと・・・間違ってなかったよね?」
間山は囁くようにそう言うと、腕を伸ばして、俺の肩をぎゅっと抱きしめた。
うん・・・間違ってない・・・間違ってなかったよ・・・。
「全部好き」・・・どんなに失敗したライブでも、何度コンテストに落ちても・・・いつもアイツがウザイくらいにその言葉を言ってくれたから・・・だから、今、俺はここにいる。
あのときのあの言葉があったから、俺はどんなに苦しいときでも音楽を諦めずにここまで頑張ってこれたんだ。
俺を想い続けてくれたアイツと、アイツに助言をしてくれた彼女。
俺は今、二人の愛情に包まれて生きている・・・なんだか、そんな気がした。
そのまま、彼女はそっと俺を引き寄せ、その胸に俺をしっかりと抱きしめた。
その温かさは・・・アイツと別れて以来、初めて感じた未来の温かさだった。
それは、過去の温かさとはまた違う種類の温かさで、ゆっくりと俺の冷え切った体を温めてゆく。
人は、過去だけでも未来だけでも生きられない。
過去があるから未来がある。
その過去から今まさに未来へ移行しようとしている俺の体を、彼女はいつまでも抱きしめていてくれた。
二人の体が夜の闇に溶け、彼女は、俺を抱きしめたまま、俺が眠りにつくまでずっと歌を歌ってくれた。
どんな歌だったかは覚えてないけど、まるで子守唄のように、沈み行く意識の奥の方でいつまでもいつまでもその鈴のような歌声が鳴り響いているのを感じていた。
そのままどうやって眠りに落ちたのかよく覚えていないけど、気がついたときには、俺はベッドの中にいた。
眩しい朝の光の中で、もしかして俺は夢を見ていたのだろうか・・・と、ふと考える。
もし、夢だとしたら、なんだかいい夢だった・・・。
優しい大きな力に包まれ、守られているような夢。
心配するようなことや、不安なことなんて何もなくて、子供の頃のようにただその優しい腕の中に自分のすべてを委ね、未来を夢見ていればよかったまどろみの午後・・・。
そんな遠い昔に帰ったような夢だった。
優しい温かい胸に抱かれて、髪を撫でながらずっと子守唄を歌ってくれたのは・・・あれは誰だ?
・・・ん?・・・あれは・・・誰だ?
慌ててベッドから飛び起きる。
服は昨日着ていたままで、なぜかホッとした。
何にホッとしたのかはよくわからないけど・・・とにかく・・・彼女と何もなくて・・・よかった・・・。
部屋のドアを開けると、玄関でブーツを履こうとしている間山の姿が見えた。
「じゃあ、わたし、そろそろ行くから。」
彼女は、チラッと俺の方を振り返ると、長い髪をかきあげながら、いつもとまったく同じ調子でそう言った。
その言い方があまりにもいつもと同じだったので、俺は本当に夢を見ていたんだろうか?と、一瞬思った。
「あ・・・ああ。」
そう言って、彼女を見送ろうと、玄関先まで歩いたそのとき・・・なぜか急に、
「行かせたくない」・・・。
そう思った。
彼女が、ドアノブに手をかける。
その瞬間、俺は咄嗟にその手を掴んで自分の方に引き寄せた。
彼女が、不思議そうな目で俺を見上げる。
「なぁ、間山・・・。俺と付き合わねぇ?」
一瞬、妙な沈黙ができる。
自分でも、何を言ってるのかよくわからなかった。
自分の意思とは関係ない場所で、不意に口からついて出た言葉・・・そんな感じだった。
何年も友達として一緒に過ごしてきた相手に、俺は今更何を言ってるんだ・・・?
いつものように笑い飛ばされるだろうと思ったその矢先、彼女は意外な一言を発した。
「いいよ。」
それは、まるで俺が「このCD貸してくれよ」って言ったときみたいに、あっさりとした簡単な返事だった。
あまりにも軽い返事だったので、冗談なのかと思って彼女の顔を覗き込むと、彼女はまばたき一つせず、大きな目で俺の目をじっと見つめ返した。
それは、こちらが圧倒されそうなくらいに毅然とした、強く美しい瞳だった。
「でも、一つだけ条件がある。」
そう言うと、彼女はドアを開け、片足を外に出すと、顔だけをクルリと俺の方に向けた。
外から入ってくる強い風が彼女の長い髪の毛を宙に巻き上げ、そこから強いバラの香りが漂う。
彼女の長い睫毛が風に揺れ、彼女はそっと目を伏せた。
「もし、彼女が戻ってきたら・・・隠さないですぐに言ってほしい。わたしは・・・いつでも別れてあげるから。」
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