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その後、俺は少しずつ・・・ほんの少しずつだけど、何とか立ち直っていった。
立ち直った・・・というよりは、飲まずにはいられない・・・とにかく正気でいるのが辛い・・・そんな行き場のない気持ちを自分なりに処理する方法を少しずつ覚えていった・・・という方が正しいかもしれない。
俺は、今まで自分の感情をすべてアイツに対してぶつけていた。
嬉しいときも、楽しいときも、悲しいときも、辛いときも・・・自分に起こった出来事をすべてアイツに話すわけじゃないけど、嬉しいときは俺はやたら饒舌で、テレビの話や音楽の話や、どうでもいいくだらない冗談を何時間もひっきりなしにアイツに向かって喋り続け、嫌なことがあったときはただ理由も言わず、アイツに八つ当たりした。
そんな風に、自分の勝手な都合で自分の感情のすべてをアイツに向かってぶちまけて、結局はそれがアイツの心を追い詰めることになってしまったんだろうけど、俺にとってはアイツは「自分の感情のすべてを受け止めてくれる安全基地」だった。
その安全基地がなくなってしまった今、俺はどうすればいいのか途方に暮れた。
そんな行き場のない気持ちを処理する方法・・・それは、ギターを弾くことだった。
ある日、何かの拍子に、「アイツがいないなら、ギターをアイツだと思えばいいんじゃね?」と、ふと思ったんだ。昔、アイツに口を挟む隙も与えないくらいに一方的に喋り、笑い、怒り、自分の感情を吐き出し続けたように・・・俺はギターに向かって自分のすべてを語りかけた。
すると、まるで溜まっていた膿が吹き出すかのように、感情の塊が一気にギターに向かって溢れ出た。
もちろん、それはくすぶっていた俺の感情の塊のようなもので、とても人に聴かせられるようなものじゃなかったけど、それでも自分の心が少しずつ落ち着いていくのを肌で感じた。
バンドも解散し、ステージに上がる予定もないのに、まるで音楽を始めたばかりの中学生に戻ったかのように、俺は日に何時間もギターに向かった。
何時間もギターを弾いていると、ふと、今まで自分が得意げに弾いてきたやり方で本当にいいのかな?という疑問が突如湧いてきて、ずっと実家の押入れの奥にしまいっぱなしだった初心者用のギターの教則本を引っ張り出してきて、一から始めてみたりした。
そこに書いてあるのは基本中の基本のようなことばかりだったけど、今、改めて読むと、なんだか目から鱗が落ちるようなことがぎっしり詰まっていて、俺は夢中になってギターをかき鳴らした。
それでも、やっぱり寝る前とか、誰もいないキッチンを見たときとか、アイツと一緒に選んだキャラクターものの皿で一人食事をするときは、胸がチクチクと痛んだけど、ギターを弾いている間だけはそれを忘れることができた。
そうやって、ギターに自分の想いをぶつけていくうちに、いつしか忘れかけていた「ステージに立ちたい」という気持ちが、ムクムクと湧き上がってきた。
その頃、ホテルのラウンジを初めとして、レストランや結婚式などのイベントでギターを弾く仕事も増えてきてはいたけど、何かのBGMとして音楽を聴くのではなく、純粋に音楽を聴くためだけに集まった人たちの前で、ギターを弾きたい・・・そう思うようになった。
ライブハウスのあの熱気・・・。
ステージに上がる前の緊張感・・・。
鳴り止まぬ歓声・・・タバコで煙るスポットライト・・・。
そんな、体中の血がフツフツと沸き立つようなあの興奮をもう一度味わいたい。
でも、自分のバンドを失った今、ライブハウスのステージに立つ機会はもうほとんどといっていいほどなかった。
どこか自分の音楽を表現できる場所はないだろうか・・・。
ずっと、そう考えあぐねて行き着いた先・・・それは、やっぱり間山しかいなかった。
間山に縁を切られてから、もう1年以上が経っていた。
今更連絡しても、相手にされないかもしれないな・・・と思っていたけど、意外にも間山の態度は昔とまったく同じで、まるで先週会ったばかりの友達同士のような感覚に戻れた。
俺が間山に連絡をしたのは、もちろん音楽の仕事に関する情報が欲しかったからだけど、昔のよしみとか、友達としての義理とか、そういうしがらみを利用したくはなかった。
俺は彼女のアーチストとしての才能を認めているから、だからこそ、俺のこともアーチストとして認めてほしかった。
俺が彼女に持って行ったのは、1枚のCD。
それは、彼女が今までに出した曲を、すべて俺がアレンジしたもの。
事務所や所属レーベルの方針もあるのかもしれないけど、彼女はデビュー以来ずっと、若い女の子にウケそうなポップス系の歌ばかりを歌っていて、それが俺にはどうもしっくりこなかった。
彼女の声質や特徴を考えたら、もっとパンチの効いたロックなんかをガンガン歌ってもいいと思うのに、どういうわけかアイドルとアーチストの中間のような位置づけで、どこを目指しているのかイマイチよくわからないところがあった。
俺なら、ここでサビが終わったあと、ロック調のギターソロを入れる・・・とか、ここのソロは絶対、キーボードじゃなくてブルースハープの方がカッコいい・・・とか、彼女の曲に関しては今までずっと思うところがたくさんあったから、それをすべて俺なりに編曲した。
俺の目の前で、間山がヘッドフォンに手を当てながら、俺のアレンジした曲をじっと聴いている。
彼女がこれをどういう風に思うか、それで自分の運命が決まるような気がして、なんだかオーディションを受けているような気分になった。
ヘッドフォンを耳に当てたまま、ずっと無表情で一点をじっと見つめていた間山が、そっとヘッドフォンを外す。
そして、伏せていた目をゆっくりと上げ、俺の目をじっと見つめると、高校生のときとまったく変わらぬ大きな笑顔で、一言、
「いいね。」
と、言った。
その後、間山がそのCDをプロデューサーに聴かせてくれたところ、結構気に入ってくれて、次のライブツアーを俺の編曲でやりたいと言ってくれた。
ライブツアーといっても、地方の小さなライブハウスを数件回るというもので、それほど大きな仕事ではなかったけど、ステージに立てるというだけで、今の俺にはありがたかった。
音合わせに呼ばれて、スタジオの中に入った瞬間、思わず足がすくんだ。
なぜなら、そこには俺が昔から憧れていたミュージシャンたちが勢ぞろいしていたから・・・。
ドラムも、ベースもキーボードも・・・全員、自分のバンドを持たないスタジオミュージシャンやバックバンドのメンバーなので、世間的にはあまり知られてはいないけど、俺たち音楽をやっている者たちの中では、神と崇められているような卓越した技術を持った人たち・・・。
こんな人たちの中で自分が通用するのだろうか・・・と、一瞬、たじろいだけど、この中で、誰よりも間山と長くやってきたのは俺。
彼女の癖も、長所も短所もすべてわかってる。
俺は、バックの演奏の良し悪しは、演者がボーカルに対してどれだけ惚れているかで決まると思ってる。
「惚れる」というのは、いわゆる男女の愛情という意味ではなくて、「こいつにどうしてもこの歌を歌わせたい」、「俺がこいつに最高の歌を歌わせてやる」という、ボーカルとの絆のようなもので、それは同性の間でも成り立つ。
だからこそ、隼人が脱退したあと、何度新しい募集をしてもしっくりいかず、それが俺たちのバンドの解散のきっかけとなったわけだけど、それくらいバックとボーカルの信頼関係は重要で、バックはボーカルの歌唱力はもちろん、表現力、感性、音楽のセンス・・・そういったすべてのものに対して惚れていないと、いい演奏はできない。
その点に関しては、俺は絶対的な自信があった。
ライブのときは、客の反応で自分の演奏を評価することができる。
でも、こんな風にスタジオでやる場合は、何を判断基準にしていいかわからなかった。
この音でいいのか、このテンポでいいのか、自分で編曲したにも関わらず、迷う。
でも、ギターソロを弾きながら、チラッと間山を見たとき、彼女が満足げな顔で、誰に向けてでもなく一人で小さくガッツポーズをしたのが見えた。
それで、迷いが一気にふっきれた。
いくつか細かい修正をして、音合わせが終わり、ギターを片付けているとき、プロデューサーに呼び止められた。
「綾川くんは、ジャズもできるのかな?」
「えっ?ジャズですか?」
「今度、ジャズシンガーの子がデビューするんだけど、レコーディングからライブまでできるギタリストを探してるんだよ。」
正直言って、俺はジャズなんて、バーやレストランで流れてたら聴く程度で、今まで一度もちゃんと聴いたことがない。
レコーディングからライブまで一貫した仕事ができるのは魅力だけど、聴いたこともないものをやるわけにはいかねーよな・・・。
そう思って、断ろうと口を開きかけたとき、少し離れたところで他のメンバーと話をしていた間山がサッと駆け寄ってきて、俺の目の前に立ちふさがった。
「竜士は、今はロックやってますけど、元々はジャズ出身なんです。高校の頃は、ずっとジャズ1本で、白薔薇のウェス・モンゴメリと呼ばれてたんですよ。」
「なっ・・・ちょっ・・・ちょっと待てよ・・・。」
「ジャズは竜士の庭みたいなもんですから、何でも大丈夫です。」
そう言うと、まるでテレビショッピングのアナウンサーのようにわざとらしい笑顔を作り、「ね?」という風に、少し体を傾けて俺の方を見た。
俺の制止を振り切って、しゃあしゃあとそんな嘘をつく間山に呆れて、俺はため息をつくしかなかった。
じゃあ、また今度連絡するよ・・・そう言って立ち去っていくプロデューサーの背中を見送りながら、俺は改めて間山の方に向き直った。
「お前さぁ・・・なんで、あんな嘘つくんだよ?俺がジャズなんか聴いたこともないってことくらい、知ってるだろ?」
「聴いたことないなら、今から聴けばいいじゃん。あ、今日、帰りにCDショップ寄って、いっぱい借りていけば?」
「そういう問題じゃなくてさ。」
「あれ?自信ないの?」
意地悪い笑みを浮かべて、間山が俺の目を覗き込む。
間山はいつもそうなんだけど、何かを自分で決めると、それがたとえ相手があることであっても、誰にも有無を言わせない妙な威圧感がある。
俺も、なぜかその威圧感に圧倒されて、結局何も反論できなかった。
すると、間山は俺が了承したと受け取ったのか、「よし」と言わんばかりに自分自身に頷くと、近くのテーブルに置いてあったカバンをひょいと持ち上げた。
「ま、せいぜい頑張ってね。白薔薇のウェス・モンゴメリの名前を汚さないように。」
そう言って、俺の肩をポンと叩くと、高らかに笑いながらドアの方に向かって行った。
そして、ドアに手をかけた瞬間、長い髪をフッと揺らしてこちらを振り返った。
髪が風を切った瞬間、周りがサッとバラの香りに染まる。
「竜士・・・何か一つ突き抜けたね。今日の竜士の音なら、きっとロックでもジャズでも、何でもできる。」
そう言うと、彼女は唇の端をニッと上げて、バラの大輪のような笑顔を残し、するりとドアの向こうに消えて行った。
アイツがいなくなって、俺には誰一人、味方がいなくなってしまったような気がしてた・・・。
でも、目を凝らしてよく見ると、俺の味方でいてくれる人はたくさんいたんだな。
今まで俺が気付かなかっただけで、きっとたくさんの人が俺を支えてくれている。
アイツは俺が辛いとき、苦しいときは、ただ側にいて一緒に泣いてくれた。
嬉しいときは一緒に笑い、迷うときは一緒に迷い、そうやって俺の感情に寄り添うことで俺を支えてくれた。
でも、間山を見て思った。
苦しさに溺れていくダメな俺を叱り、迷う俺を笑い飛ばすそんな彼女の厳しさも、それもまた俺を支えてくれる一つの方法なのだと・・・。
うん・・・今日の帰りに、CDショップに寄って、大量のジャズのCDを借りよう。
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卒業後―竜士 第二部
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結局、俺は「SHIHO」と「志帆」の両方から縁を切られた形になり、どこにも行く場所がなくなった。
ほぼ籍を置いただけになっていた大学も辞め、ずっと長年一緒に活動してきたバンドも正式に解散、バンドでデビューするという夢は完全に断たれ、俺は何もかもを失った。
そんな八方塞の状態でも、アイツさえいれば・・・アイツが側にいてさえくれれば、何とか頑張れたかもしれない。
でも、そのアイツもいない今、夢も音楽ももうどうでもよかった。
前にも増して酒に溺れるようになり、正常に頭が働いている時間の方が少なくなった。
毎日、記憶がなくなるまで酒を飲んで、トイレの中で倒れたまま朝を迎える・・・なんてこともしょっちゅうだった。
飲んでは吐き、吐いてはまた飲むことを繰り返し、そんな風に体を痛めつけることで、心の痛みを忘れようとした。
吐けばとりあえずすっきりして、一瞬、心の中まですっきりしたような気分になる。
朦朧とする意識の中で、楽しく美しい思い出だけが頭の中を駆け巡り、死後の世界ってこんな感じなのかな?なんて、思ったりする。
普段は恥ずかしがってモジモジするアイツが、酒を飲むと大胆になるのが好きだった。
ベッドの中で、俺が焦らすと、アイツは目を潤ませながら切ない声で
「竜士・・・もっと・・・。」
と、言った。
「もっと・・・何?」
と、俺が意地悪く聞くと、アイツは俺の背中にぎゅっと腕を巻きつけながら、
「もっと・・・愛して・・・。」
そう言って、真珠のような涙を一筋、頬に光らせた。
その涙のきらめきが、月明かりに照らされた波のように、遠くなっていく意識の中で何度も何度も浮かび上がる。
どうして、もっと愛してやれなかったんだろう・・・?
どうして、悲しみの涙ではなく、あのときのような美しい喜びの涙をもっともっと流させてやれなかったんだろう・・・?
引いてはまた押し寄せる波のように、苦い後悔ばかりがあとからあとから俺の胸に満ちてくる。
アイツの髪の毛の1本1本、指先、足の爪、臍の横にある小さなほくろ・・・もう忘れかけていたそんな小さなアイツの欠片が壊れた映写機のように何度も何度も目の前に映し出されては消えていく。
そのたびに眩しいフラッシュのような光がチラつき、頭が割れるように痛くなって、必死に目の前にあった何かにしがみついた途端に、俺は意識を失った。
誰かが俺をズルズルと引っ張っているのがわかる。
目を開けようと思っても開かなくて、今までどこかに押し込められていたのか、ガチガチに固まっていた四肢がようやく解放されて伸びをする。
それでも、体に力は入らなくて、俺はただそのまま何者かに引きずられながら、体の下を這う冷たい感触だけを感じていた。
やっとどこか広いところに放り出されて、やっと自分の下にある冷たいものがフローリングの床であることに気がついた。
ゆっくりと目を開ける。
わずか数ミリ目を開けたところで、あまりの眩しさに思わずまた目を閉じる。
それでも、もう一度何とかゆっくりと目を開けると・・・そこには、俺の顔を覗き込んでいる見慣れた顔。
「最近、ちっとも実家に帰ってこないし、電話をしても出ない。心配になって来てみてら、トイレの中で倒れてるんですからね。本当に困ったものです。」
そう言うと、兄貴は大袈裟にため息をついて、キッチンテーブルの上に置いたスーパーの袋から何かを取り出しながら、まだ床に倒れたままの俺に一瞥を投げかける。
「君ももう子供じゃないんですからね。ちゃんと自分で自分のコントロールができるようになってもらわないと困ります。」
兄貴は冷静な口調でそう言ってから、流し台の上でネギを刻み始めた。
アイツがいた頃を思い出させるような、軽快な包丁の音と、少し青くさいネギの匂い・・・。
「自分をコントロールできない人間は、社会の中で生きる資格はありませんよ。大人になるということは、社会の構成員の一員になるということなんですからね。」
教員の指導要綱をそのまま読み上げたようなお決まりの説教に、反吐が出るほどムカついた。
「コントロールって・・・何だよ?」
すぐにでも大声で怒鳴り散らしたい気持ちをぐっと抑えて、俺はわざと低い声でそう聞き返した。
すると、兄貴は包丁を動かす手を止めて、昔、教壇で見ていたのとまったく同じ涼しい顔を俺の方に向けた。
その顔が、俺を更に苛立たせる。
「自制心のことです。世の中の人間がみんな感情の赴くままに生きていては、社会は成り立ちません。自分の感情を抑えて、自分のやるべきことをきちんとこなしていくこと・・・それが社会で生きるということです。」
「だったら、そんな社会、こっちからお断りだよ!」
そう怒鳴って、床の上に起き上がった瞬間、頭に激しい痛みが走った。
「君がどう思おうと、生きている限りはどこかの社会に属さなければいけないんです。それは、たとえ日本を離れたって同じです。」
「だったら、生きることもお断りだよ!苦しいときも悲しいときも、自制心とやらで自分を抑えて、毎日つまんねー仕事して、つまんねー人生送って、つまんねー死に方するんだよ!なんでそんなことのために生きてなきゃならねーんだよ!兄貴は生きてて、何かいいことあったのかよ?早くに親に死なれて、しないでもいい苦労背負わされて、やっと自由になれたと思ったら、女には逃げられて、それでも生きてて何か意味があんのかよ!」
「意味があろうとなかろうと、人間は死ぬまでは生きなければならないんです。」
「何のためか意味もわからないことのために、こんなに苦しんで、辛い思いして?冗談じゃねーよ!俺はそんなの耐えられない!そんなの、耐えられないよ!」
怒鳴りながら、何故か涙が出そうになった。
俺が兄貴に対してムカつくのは、説教をされたからじゃない。
兄貴なら・・・俺のこの苦しい気持ちをわかってくれるんじゃないかって思ってたからなんだ・・・。
10代で親を亡くして、幼い俺を抱えて、たった一人で頑張ってきた兄貴・・・。
自暴自棄になったり、周りの人間を恨んだり、自分の運命を呪ったこともあると思う。
周りの人間を誰も信じないような、野犬のように尖った目をしていた頃もあった。
でも、そんな兄貴の目が優しくなったのは、彼女に出会ってから。
兄貴の口からはっきりと聞いたことはないけど、兄貴にとって彼女がどういう存在なのかは、弟の俺にはわかる。
アイツが俺にとっての天使だったように・・・いや、兄貴にとって彼女はそれ以上の存在だったんじゃないかと思う。
そんな彼女を失った兄貴だからこそ、俺のこの苦しい気持ちをわかってくれるんじゃないかって・・・そう思ってたんだ・・・。
それなのに、あんなお決まりの説教で俺のこの苦しみが片付けられてしまう、そのことが悔しくてたまらなかった。
すると、兄貴はそっと部屋に入ってくると、俺の目の前にしゃがみ、俺と目線を合わせた。
そして、俺が子供の頃、転んだり、親に怒られて泣いたときによくしてくれたみたいに、俺の頭をポンポンと軽く叩きながら俺の目をじっと覗き込んで微笑んだ。
それは、俺が大人になってから見た兄貴の笑顔の中で、一番優しい笑顔だった。
「そうですよね。君の言う通りです。生きることは、苦しいですよね。辛いですよね。でも、だから音楽があるんじゃないんですか?」
え・・・?音楽・・・?
思ってもいない言葉だった・・・。
高校時代、音楽に明け暮れて学校をサボってばかりの俺に、いつも渋い顔をしていた兄貴・・・。
その兄貴が俺に対して「音楽」を肯定的な意味で使うのは・・・初めてだったから。
「生きることが苦しいからこそ、辛いからこそ、人は音楽や、文学や、美術といったものに救いを見出すんじゃないですか?たった一つのメロディーが、たった一行の文章が、人を救うことだってあるんです。そんな素晴らしい音楽というものに携わっている君は、それだけで十分、生きる意味がありますよ。」
そして、俺の髪の毛をクシャッと軽くかき回すと、またキッチンに立った。
なぜか、急に涙が溢れてきて、俺はそれを見られないようにまだフラつく頭のまま、床を這ってベッドに入った。
「眠い。もう寝る。」
そう言って、布団を頭からかぶる。
涙はあとからあとから流れてくるのに、それはなぜか悲しい涙ではなかった。
苦しい思いも、辛い思いも、まだ全然消えはしないけど、俺と同じような思いをしながら、こうやって布団にくるまっている人がこの空の下のどこかにいるのかな・・・そう思うと、俺ももうちょっと頑張ってみようかなって思う。
そして、俺のギターを聴いて救われる人がこの世に1人でもいるのなら、俺のこの苦しみもムダじゃないのかもな・・・って、そう思った。
「あとで、味噌汁飲んでくださいね。味噌は二日酔いに効きますから。」
兄貴がそう言って、部屋を出て行く音が聞こえる。
あのやんちゃだった兄貴が、国語教師なんかになって、和歌や短歌に傾倒した理由が少しわかったような気がした。
たった一つのメロディー、たった一つの文章が、人を救うことがある・・・。
うん・・・そうかもしれないな・・・。
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アイツと別れてから、一体どれくらいの月日が流れたんだろう・・・。
アイツと一緒に過ごした日々は、もう遠い昔のことのような気もするし、つい昨日のことのような気もする。
いずれにしても、俺はあの日以来、自分の中で何かが止まってしまって、心も体も何もかもがまだ動けずにいた。
あの日以来、アイツには一度も連絡を取っていない・・・と、言いたいところだけど、別れて約半年近く経った頃、一度だけアイツに電話をしたことがある。
夜中にベロベロに酔っ払って、右を向いても左を向いてもアイツの顔ばかりが目に浮かんで、恋しくて、苦しくて、声だけでも聞きたくて、どうにも我慢ができなかった。
電話番号が変わっていたり、着信拒否にされている可能性もあったけど、意外にもアイツはすぐに出てくれた。
お前の声を聞きたかった・・・とは、やはり言えなくて、「友達にかけようとしたら、間違ってお前にかけてしまった」・・・と、嘘をついた。
何を話したかはあまりよく覚えていない。
とにかく、アイツに電話を切られるのが怖くて、沈黙にならないようにただひっきりなしに喋り続けたことだけを覚えている。
アイツは怒るわけでもなく、嫌がるわけでもなく、昔と同じように、ただ静かに相槌を打ちながら、酔っ払って支離滅裂な俺の話を何も言わずに聞いてくれた。
そうやって、多分10分くらい話をしていたと思う。
ふと、電話の向こうで、アイツを呼ぶ男の声がした。
「・・・男か?・・・。」
そんなこと聞く権利は、俺にはもうないってことは十分承知だったけど、やっぱり聞かずにはいられなかった。
すると、アイツは昔と同じ、優しい穏やかな声で、子供をなだめるように一言、こう言った。
「ううん・・・。わたしは、一人だよ。」
アイツのついた最後の優しい嘘。
その優しさに触れることができただけで、もう、十分だった。
・・・その日、俺はアイツの電話番号を消した・・・。
アイツのいない世界は、行き着く先の見えない砂漠みたいだった。
360度どこを見回しても無味乾燥な砂漠の他に何も見えず、方角すらもわからず、俺はどこに進むこともできずただその場に立ち尽くすしかなかった。
音楽も夢も、もうどうでもいいことのように思えて、その頃やっていたホテルやレストランでの生演奏のバイトと、時折知り合いのインディーズバンドに頼まれてイベントなどのステージに立つこと以外、ギターにも触らなくなった。
毎晩、酒に溺れて、記憶がなくなるまで飲み続けた。
自分が生きているのか死んでいるのかすら、もうどうでもよくて、酒を飲んでいる間だけ自分が生きていることを実感した。
女には、正直、不自由しなかった。
バイト先や音楽関係で、いくらでも知り合うきっかけはあったし、酒の席では常に何かしらの需要と供給が成り立つ。
感情も理性も何もかもが飛んで、動物的な欲求だけが残るような飲み方をしたあとで女を抱けば、その間だけは何となく好きになったような気になる。
でも、朝起きると必ず自分に対する嫌悪感と空虚感が俺を襲った。
毎日がそんなことの繰り返しで、いつからか、もう昼間起きているときでも、夢と現実との区別がつかなくなってしまっていた。
そんな俺を見かねたのか、間山が仕事をくれた。
それは、大学の学園祭のステージでSHIHOのサポートギタリストとして演奏することだった。
学園祭は、下手にレコード店やデパートなどで営業するよりも宣伝効果が大きいので、たとえギャラが少なくても仕事を受ける事務所が多い。
でも、そこで有名なプロのバックバンドをつけると赤字になるので、俺たちみたいなセミプロ級のミュージシャンに仕事が回ってくるってわけだ。
どうせ大したギャラはもらえないし、金がかけられないから音楽器材や設備だって間に合わせのものになる。
それでも、クラブやライブハウスなら、必ず音楽関係者が見に来てるから、あまり下手な演奏はできないし、一緒に出演するバンドの顔をつぶさないようにしなきゃっていう一種の緊張みたいなものがあるけど、学園祭なんて、見に来るのはどうせ音楽のことなんてまったくわからない素人集団だろ?
そんなステージに立ったからって、何か得になることがあるとも思えなかったけど、断る理由もなかったし、適当に弾いていくらかでももらえるんなら、まぁいいんじゃね?って、それくらいの軽い気持ちで引き受けた。
会場は、大学のグランドで、なんだか白薔薇学園の文化祭を思い出した。
もちろん、大学と高校じゃ、規模も集客人数も全然違うけど、遠くに見える校舎、グランドの脇に立ち並ぶ屋台、どこかから聞こえる校内放送・・・そういったものが、遠い記憶を呼び覚ます。
そういえば、高校の文化祭のステージでも、間山の後ろでギターを弾いた。
そのとき、一緒に出演していた他のバンドが、
「今日は俺の彼女の誕生日なので、次の曲は彼女のために歌います!」
みたいなことをMCで言ってて、バカじゃねーの?・・・って思ってた。
でも、アイツがそれにいたく感動して、「あの人の彼女が羨ましい。わたしもあんなことやってもらいたい。」って、何度も言うから、
「俺がプロのミュージシャンになったらやってやる。」
って、言ったんだ。
あんなくだらないこと、プロになったら余計できないし、元々やる気なんてサラサラなかったけど、今から思えば、高校時代のあの遊びの延長のようなライブでなら、1回くらいやってやればよかったかな・・・なんて思う。
そこまでじゃなくても、二人で部屋にいるときなんかに、一度でいいからアイツのためだけにギターを弾いてやればよかった・・・。
あの頃は、女のためにギターを弾くなんて超ダセーと思ってたし、俺の音楽はそんな狭い世界で満足するようなものじゃない、俺は世界に向かってギターを弾くんだ・・・なんて、根拠のない自信に満ち溢れていた。
本当は、いつでも、どんなときでも、アイツが聴いてくれるから・・・アイツが見ててくれるから・・・だからギターを弾き続けてきたのに、あの頃はそれに気付かなかったんだよな。
ライブは大盛況の中、最終日を迎えた。
練習もまったくしなかったし、ライブ当日の朝まで飲んで、フラフラになりながらの演奏だったけど、素人の大学生の目をごまかすくらいのパフォーマンスはできる。
ステージが終わったあと、学園祭を企画した大学の自治会の学生たちから、サインや写真を頼まれ、キャーキャー騒がれて、素人の目をごまかすのなんて、本当にチョロいなってそう思った。
自分のバンドでデビューしない限り、プロっていったって、どうせこんなものなんだろうな。
今だって、ホテルやレストランで演奏して金もらって、一応セミプロみたいな形にはなってるけど、あれだってよく考えたら、正直、誰も真剣に聴いちゃいない。
ホテルのスカイラウンジなんて、はっきり言って、客はカップルだらけで、どうせ男が女を口説くために来てるだけで、俺の演奏を聴きに来てるヤツなんて、誰一人いない。
そう考えたら、俺は何を目指してここまでやってきたのかわからなくなって、音楽をやっていること自体、なんだかバカバカしくなった。
ステージが終わって楽屋に戻ると、間山が大きな鏡に向かって化粧を落としていた。
彼女は、鏡越しに俺をチラッと見ると、そのまま化粧を落としながら、
「お疲れ様。」
と、言った。
俺も、ギターを置いて、近くのソファに腰掛ける。
テーブルの上には差し入れの食べ物や花なんかがたくさん置いてあって、俺はその中からコーラのペットボトルを取ってフタを開けた。
お菓子とかジュースばかりじゃなくて、ビールくらい置いとけよ・・・。
コーラを飲んで、顔を上げると鏡の中の間山と目が合った。
すると、間山はまったく表情を変えないまま、鏡越しの俺にこう言った。
「竜士、もう今日限りでSHIHOには関わらないでくれる?」
それは別に、怒っているわけでもなく、不機嫌な感じでもなく、ただ淡々とニュースを読み上げるアナウンサーのような口調だったから、俺は一瞬、聞き間違いかと思って、思わず聞き直してしまった。
「え?何て?」
「SHIHOに関わるのは、もう今日で終わりにしてほしいの。」
コットンに化粧水を含ませ、それをパタパタとはたきつけながら間山がそう言う。
まるで、天気の話でもしているようなまったく感情のないあっさりとした言い方だった。
「はぁ?いきなり、何言ってんだよ。みんな超盛り上がってたじゃねーか。プロデューサーだって、今度また何か機会があれば一緒に仕事しようって言ってたし・・・。」
「竜士が個人的にプロデューサーと仕事することには、何も言わないよ。でも、SHIHOにはもう関わってほしくないの。」
「な・・・なんだよ、それ!そこまで言うならちゃんと理由を言えよ。俺、別に今日何も間違えてないし、大きな失敗した覚えだってないぜ。」
すると、間山はクルリと俺の方を振り返ったかと思うと、今まで見たことのないようなキッとした目で俺を見つめながらこう言った。
「そんなこと、竜士が一番よくわかってるはずでしょ!」
それは、こっちがもう何も言えなくなってしまうくらいに有無を言わさない圧倒的な力強さで、俺は思わず下を向いた。
「ステージは、わたしの戦場なの!ステージの大きさとか、設備とか、ギャラとかそんなこと関係ない。どんなステージでも、いつ死んでもいいくらいの気持ちで戦ってるの!そんな自分の命を懸けた場所で、本気で戦う気のない人と一緒に、心中はできない!」
・・・見破られてた・・・。
誰にも気付かれてないつもりでいたけど、間山にだけは俺の手抜きを見破られていた・・・。
言い返す言葉がなかった・・・。
自分の音楽に対する甘さ・・・いや、生き方に対するすべてを否定されたようで、もう何も言えなかった。
アイツと一緒に、ただひたすらに夢を見て、純粋に音楽と向き合っていたあの頃・・・。
音楽のことなんか全然わからないアイツに、夢中になって朝まで音楽論を語り続け、二人で、夢の中で世界中をギターを片手に旅して回った。
誰も聴いていなくても、誰も見ていなくても、アイツが聴いてくれたから・・・アイツが見ていてくれたから・・・それだけで、俺は音楽を続けることができた。
アイツのいない今、俺はどうしたらいい?
愛を失い、夢を失い、そして今、長年一緒に同じ夢を見てきた同志の信頼も失った。
俺はこれから・・・どうしたら、いい・・・?
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