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[シアトル 26日 ロイター] 1975年にパソコン革命の到来を察知してハーバード大を中退してマイクロソフト(MSFT.O: 株価, 企業情報, レポート)を創業、全ての家庭の全ての机にコンピューターがあるというビジョンを追求してから30年。
ビル・ゲイツ氏は27日、世界最大のソフトウエア会社となった同社の経営から52歳で引退する。
今後は、自身の莫大な富をもとに築いた慈善団体「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団」の活動に専念する。
今でこそ、長者番付では米著名投資家ウォーレン・バフェット氏とメキシコの実業家カルロス・スリム氏に抜かれているゲイツ氏だが、大きな富には大きな責任が伴うと語っている。
ボーイッシュな顔つきに白髪の増えた髪が不似合いにも見える。ライフワークのソフトウエア開発を後にし、今後は新しいワクチンの開発や発展途上国でのマイクロファイナンスのプロジェクトなどに全エネルギーを注ぐ。
マイクロソフトの大株主として、引き続き特別なテクノロジープロジェクトには参加する。同社株式の8.7%に当たる持ち株の時価総額は約230億ドル(約2兆4610億円)。
ゲイツ氏が初めてコンピューターのプログラミングをしたのは13歳のとき。シアトルの学校で、クラスの時間割システムを編み出した。経験を重ねるに連れ、ソフトウエアが、人々の仕事や遊び、コミュニケーションを変える可能性を秘めていることを認識した。1995年の自著「The Road Ahead」では、「19歳のとき、将来が見え、その自分が見たものにキャリアの基礎を置いた。その直感は当たっていた」と記している。
ゲイツ氏は、ハードウエアよりソフトウエアが重要になるというパソコン革命を早い段階で見抜いた。学生時代からの友人ポール・アレン氏と共に会社を設立、マイクロコンピューター向けのソフトウエアを提供する、という使命から、社名をマイクロソフトと名付けた。
<恵まれた生い立ち>
ゲイツ氏は1955年10月28日、シアトルの高名な家庭に3人の子どもの2人目として生まれた。父親のウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・ジュニア氏は同市で最も有力な法律事務所のパートナー、母親のメアリーさんはワシントン大の理事で、慈善事業のための資金調達活動に熱心だった。
初めてコンピューターに触れたのは、十代のときに通った学校。その時代にASR―33テレタイプを使ってコンピューター言語のBASICでプログラミングを始めた。2学年上のアレン氏と会ったのもこの学校で、コンピューターへの情熱を分かち合った。
ハーバード大での2年間では、ほとんどの時間をプログラミングと夜通しのポーカーに費やし、キットの形で400ドルした無骨なデスクトップ・コンピューター「アルテア」向けのソフトウエアを開発するため、大学を中退した。
数学とシニカルなユーモア好きという共通点のあるデトロイト出身のクラスメイト、現在のマイクロソフト最高経営責任者(CEO)であるスティーブ・バルマー氏にもハーバード時代に出会った。ゲイツ氏はバルマー氏に、ビジネススクールをやめてマイクロソフトに加わるよう説得した。
アレン氏とニューメキシコ州アルバカーキに移り住み、マイクロソフトを設立。飛躍の契機は、1980年にIBM(IBM.N: 株価, 企業情報, レポート)の新しいパソコン向けに、後に「MS―DOS」として知られるようになる基本ソフト(OS)を作る契約に署名したことだった。IBMの重大なミスは、マイクロソフトに同OSを他社にもライセンス供与できるようにしたこと。マイクロソフトのソフトウエアに依存した「IBMと互換性のある」コンピューターという業界が生まれた。
マイクロソフトは1986年に株式公開。翌年には、31歳のゲイツ氏は自力で財を成した最も若い億万長者となった。同社の着実な成長を見届けながら、時には出された提案を「今まで聞いたことがないほど愚か」とはねつけるなど、容赦ないビジネスマン、経営者として知られるようになった。業界を支配する存在となった同社は、反トラスト法の訴訟問題でも目立つ存在となったが、最終的には米検察当局と和解している。
調査会社ディレクションズ・オブ・マイクロソフトのリサーチディレクター、ロブ・ヘルム氏は、ゲイツ氏について「良かれ悪しかれ、ジョン・D・ロックフェラーのように歴史上の偉大なビジネスマンの1人として現役を引退することになる」と指摘。「必ずしも幅広く賞賛される人物とはならないだろうが、米国経済の一部分を代表することになった営みを作り出した人物だ」と述べた。
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