|
エドワードの後ろから忍び寄るのは自殺行為だ。
彼は訓練のみならず、軍人と行動を供にして実戦経験もある。人を明確な意思を持って殺した事はないものの、傷を負わせた事は数限りない。感情のコントロールが出来ないから、戦闘員としては優れているとは言えないが。
だが、日常において何か起こっても対処出来る自負がエドワードにはあった。
特に俊敏さと感の良さだけは野生の獣並みであるという自信がある。
磨きぬいた五感がいち早く察知するのだ。
それは、手と足を片方づつ無くして、ハンデがあるからなのかも知れない。無くした腕と足の代わりにつけた義肢を存分に使えるように。
欠けた部分を補うように、神経が誰よりも早く情報をエドワードに伝える。
その事実は自分のみならず、エドワードをよく知る者には周知の事実だった。
なのに…と、エドワードは眉間に皺を寄せて思った。
視線は本につけたまま。
視線をほんの少し動かすだけで、視界の隅に男の断片を認識する。
ゆっくりと近づいて来る。
背後に立ち近づいて来るこの男は、何を考えているのだろうと思う。
嗅ぎ慣れた絶妙な配合でブレンドされた香油の香りが鼻腔を擽る。
繊細で大胆、伝統的でいて斬新な香り。一度嗅いだら忘れられない。
腐臭すら芳しき芳醇な香りに変性させるその芳香。
男の持つ体臭と混ざり合ったこの世にたったひとつしかない香りをエドワードが間違える筈はない。
あからさまにとは言えないが、エドワード位の手練れならば気づく程度に、気配を消し足音も微妙に消している。
男の能力であれば、香りを消し去る事は出来なくとも、その気配も足音も断つ事が出来る筈なのだ。
だから中途半端な行動にエドワードの心は苛立った。
これでは正面から近づいても同じではないか、そう思う。
下手に隠している素振りを見せるから反応をどうするべきか、躊躇ってしまう。
だが、そう考えるエドワードの頭の中にはひとつの可能性を弾き出していた。
正面から来られたら、ぶっ飛ばすような事…それで男は背後から忍び寄って来るのか?
可能性を反芻して赤面する。
――自意識過剰も甚だしい。
――自分がされたいだけなんじゃないのか?
香りに包まれ酔いしれ…
――ダメだ!
脳裏に浮かんだ事柄をエドワードは即座に否定した。
エドワードは頭の中で考えながらも、それを僅かでも表に出さないよう、背後に気づいていないように行動を続ける。
視界の隅の男を意識しながら本を読む。何があってもすぐ行動に移せるように。
変な事したらただではおかないと、決意を新たにする。
古い本の、月日が経ち薄茶けた紙の中から、頭の中にある事象に相応する記録を探そうとした。
見つからない。
本を閉じる。
大きな本棚に本を戻す。
横にある本を引き出そうと手を伸ばした。
途端。
背後からの腕にエドワードは絡め取られた。
バランスを崩して、背中から男にぶつかる。
「何だ!」
身を捩り男の腕の中で暴れる。だが腕の力は思ったよりも強くエドワードは逃れられない。必死で動こうとすると吼えるように怒鳴った。
「…だから!何するんだ。オヤジ」
抜群の破壊力を持つ拳を封じられ、エドワードはもがいた。
バタバタと暴れるエドワードを抱きすくめると頭に柔らかい感触が落ちる。
くちづけの感触にエドワードは焦った。
「愛する息子を腕に抱くのに理由がいるのか?」
純粋に尋ねられて、エドワードは言葉に詰まった。
男の行動理由はエドワードが弾き出した予想通り。当たっていたからだ。
「このままジッとして。少しの間でいいから」
男の呟きがエドワードの胸に落ちた。
握った拳を納め、体から力を抜くと、背中が男の体に密着する。
腕がエドワードの体を捕らえて強く抱きしめた。
香りが強くなる。
――堕ちていく…
意識も思考も煙の中にあるようで、定まらない。全てこの香りが悪いのだ。香りに含まれた記憶がエドワードの心も体もがんじがらめにしていく。
男の香りに包まれて、エドワードは自らが香りに囚われ侵食されていくような気がした。
了 20070314
|