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「床は書類と薬品とガラスの破片が散乱していた。お前達はガラスで切った切り傷はあったが、薬品を浴びた様子は無かった。肌にかかると毒性の強いものもあったから、今にして思うと運が良かったんだと思うよ」
ホーエンハイムは遠い目をしながら、薄く微笑んだ。そして直ぐに厳しい表情に戻る。
「お前は頭や腕を怪我していて。アルフォンスは腕に幾つも傷を作っていた。お前の頭の傷が一番大きかったんだが、お前は自分の傷には気がつかずにアルフォンスの腕の傷口を必死で押さえてた『アル・・アル・・』と言いながら。ガラスの破片の入った傷だったから、破片を出さずに押さえるのは逆効果で、アルフォンスは痛みに混乱して泣いてばかりだし。本当にどうしたらいいのか困ってしまったよ」
目前に蘇る、血の記憶。ホーエンハイムの話を聞いて、エドワードの脳裏の中で理解できなかった記憶が説明される。
幼い頃のエドワードが感じていた恐怖は暗闇から幽霊が出ないかと怖がる子供に近い。理解出来なかったからこそ怖くて封印してしまったのだろう。
「どう言ってもお前はアルフォンスから離れなかったし、出血は続いていて・・焦った俺は、つい、お前を怒鳴ってしまった。お前はビックリして目を見開いたまま声も出せずにその場に固まっていた」
ホーエンハイムは大きなため息をついた。
その様が深刻そうで、エドワードはつい笑いを漏らしてしまう。
ホーエンハイムにとっては辛い事故だったのだろう。
だけど、エドワードにとっては過ぎ去った自分の成長の歴史のように思えた。
軽い気持ちで行った事が自分では取り返しのつかない事になった。経験をして後悔した思いが残っている。
その後の自分は多分きっと前よりも成長しただろう。
「あの日以来、俺もトリシャも書斎には入らないように前より気をつけるようになった・・最もお前自身も怖がって近寄らなくなってけど。アルが行こうとすると止めていたし。あの事故の後はしばらく俺に近づくのすら怯えた様子があった。だから、よっぽど応えたのだと思う」
「そうなんだ」
幼いエドワードは慕っていた優しい父親の豹変に驚いたのだろう。だが、それは仕方無い事だ。
・・・なんだ。そんな事か。
自分が思った事が正しかったとエドワードは思った。
蓋を開けてみれば大したことは無いだろうという予想通りだ。
大きな事故ではあっても、過ぎ去ってしまえば思い出のひとつになってしまう類のものだった。
自分の事ながら、思い出に変わるだけの事柄は気楽に聞ける。
ホッとしてエドワードは紅茶を一口飲む。
緊張していたせいか、口の中はカラカラに乾いていて、流し込まれた紅茶はさっきよりも格別美味しく感じた。
「俺自身もまた子供を失うんじゃないかと思って怖かったんだな。冷静になれなくて、幼いお前に手加減せずに怒鳴りつけたんだから。今回は俺の不注意でもあったし。後悔で胸はいっぱいだった。応急処置をしながら、内心は動転していた。医者を呼ぶことも思いつかないくらい・・そうするうちにトリシャが帰ってきて、医者を呼んでくれた。治療中、俺が不安で押し潰されそうな顔をしていたのが判ったのかな。強い声でお前達は大丈夫だって俺を励ましてくれた・・責める言葉は一言も発しなかったよ」
ホーエンハイムは寂しい笑顔でエドワードに微笑みかけた。
「その時、俺はダメだな・・と痛感したよ」
哀しい表情をして笑うホーエンハイムの後悔を滲ませた声に何か他の意味が含む。
エドワードはその声を聞いて、何か引っかかった。
思いついた言葉をエドワードは口にした。
「母さんひとりでも大丈夫だと思った?」
ホーエンハイムはエドワードから視線を逸らして俯いた。
二人の間を沈黙が過ぎる。
ホーエンハイムの口から言葉は発せられない。
黙秘するホーエンハイムを見てエドワードは「あぁ、やっぱり」と思う。沈黙は肯定を意味しているのだろう。
「あのさ・・・母さんが強かったのって、オヤジ・・あんたが一緒にいたからだって思わなかった?オレの知っている母さんは、あんたの出て行った後の母さんは強くて優しくて元気そうにしていたけど、いつも何処かしら寂しそうだった。常にオレ達じゃない違う何処かを見ていた。言いたか無いけど・・母さんはあんたをずっとずーっと待っていたんだ。オヤジの出て行く前の母さんは、オレ憶えていないけど。オヤジの出て行った後の母さんは強かったんじゃない。強がっていただけだって、今では判っているんだ・・・本当は・・さ。あんたも帰って来たかったんじゃないのか?」
俯いたホーエンハイムの顔は見えず、表情は判らない。
少ししてホーエンハイムの重い口が、ようやく開いた。
「・・今さら・・だ・・」
苦し気な声がホーエンハイムの口から絞り出される。
・・・後悔している。母さんの傍を離れた事を。オレ達を置いていった事を。
そう実感出来る事がエドワードには嬉しかった。
だが、それと同時に苦しい思いをしているホーエンハイムを見るのは辛いとエドワードは思った。
たまらなくなって、椅子から立ち上がるとホーエンハイムの傍に駆け寄った。
エドワードは慰める言葉をかけようとして、何を言っていいのか迷う。
「あのさ・・あんまり放っておかれたから、オレ達の事どうでもいいんじゃないかって思って。忘れていたんじゃないかって思って。ムカついて。オレはあんたの事考えないようにしてたけど・・・」
ついて出た言葉は到底慰めると思えない言葉だった。エドワードは不器用な自分を自覚しつつ、深呼吸をした。
冷静に言葉を選ぶ。
「オレ達も母さんと一緒にずっと待っていたんだと思うよ・・・今、こうして、あんたと一緒にいて、あんたの事判って良かったと思ってる」
「・・エドワード」
ホーエンハイムはエドワードの名前を呼ぶと抱きしめた。強い力で。
抱きしめるホーエンハイムの腕を苦しく思いながら、でもその力の強さは愛情の深さにも思えて・・エドワードは抗う事なくホーエンハイムの抱擁を受け入れる。抱擁は縋っているようにも見えた。ホーエンハイムの表面には見えない脆さを垣間見た気がして、そんなホーエンハイムの姿をエドワードは嬉しく愛しいと思ってしまった。守ってもらうばかりじゃなくて、自分に返せる何かを返したい。
だけど、抱き返すのは気恥ずかしかった。
直立不動の状態でエドワードは照れて真っ赤な顔をする。柄には無い事をした自覚がジワジワとエドワードを包む。
この状況をどうしたらいいのか判らなくて・・
「もう・・しょうが無いなぁ」
エドワードは困惑した表情をして、頭を掻きながら呟いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 了 (200050929〜30作成)
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