裏切りの旋律

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「ミケーレ。お前、大丈夫だったのか?」
 クレメンテは相手が喋る前に、ずっと聞きたかった言葉を発した。
「僕は大丈夫ですよ。兄さんの方こそ大丈夫ですか」
 柔らかいけれど緊張を含んだ声。
 何を緊張しているのかは判らなかった。
 だが、別れた状況を考えて、自分から連絡は取れないと思っていたから、声を聞けただけでも嬉しかった。
「ああ、大丈夫だ」
「良かった」
 クレメンテが答えると、通話口の向こう側でホッとした気配がした。
「明日、先日の仕事の代金が振り込まれます。確認して下さい」
「判った」
「用件はそれだけです…」
 すぐにでも電話の切られそうな気配に、クレメンテは慌てる。まだ話足りない。
 それは、ミケーレもそう思っているはずだと思う。
 何故なら。電話をかけてくる内容が、どうでも良い事だからだ。
 自分の安否を気遣い、話をしたくて、かけてきたと思ってもいいだろう。
 その想像は自分の自惚れじゃないはずだ。でも断定も出来ない。
 あの事件の後、一緒に逃げる準備をしていたとフレデリコは話していたが、クレメンテが直接真意を聞いた訳ではない。
 本当にはミケーレが何を考えているのか、クレメンテには判らなかった。
 それにそれを推測するには、あまりにも今のミケーレの事をクレメンテは知らな過ぎていた。
 自分の思いに確信は持てなかったが、クレメンテは今何か言わなければ、電話と一緒にミケーレとの絆も切れてしまいそうだと思った。
「待ってくれ。オレからも話がある」
「何ですか?」
 素っ気無い声でミケーレは返答した。
 だけど、声には明るさがにじみ出ていた。その反応に気をよくする。
 自分の気持ちを奮い立たせて、クレメンテは言葉を続けた。
「ミケーレ。お前さ。この前、また会って話そうって言ってただろう。だから…今度は、いつ会えるのかと思って」
 少しの沈黙の後、ミケーレが話し始めた。
「あんな事があった後に、そういう風に言われるとは思っていませんでした。兄さんは僕の事を何とも思わないのですか?兄さんは仲間を失った。僕のせいで」
…やっぱり。ミケーレはオレの事を心配して、声を聞きたくて電話をかけたのか。
 ミケーレの言葉を聞いて、クレメンテは自分の考えが正しかったのを確信した。
…もしかしたら。オレが一緒に逃げなかった事を、あの事でミケーレを嫌いになった結果だと思ったのかも知れないな。
 昔と同じような思いをミケーレに対して抱く事は出来ない。
 変わってしまっている部分を目の当たりにしたから。
 でも変わらない思いもある…クレメンテは、それを伝えたくて口を開いた。
「正直…今はお前の事を心から信じる事は出来ない。お前のせいで大切な仲間を失った。その事を仕方無かったと、納得する事も出来ない。お前に対する憤りはある。だけど、兄弟だって事実も無かった事には出来ないんだ。そうだろう?」
「兄さん…」
「オレはお前と会って話をしたい。お前の話も聞きたいんだ」
「僕は兄さんが怒るような事をいっぱいしてきた。そんな話しは聞きたくないでしょう?」
「そん時は、お前の事、ぶっ飛ばすから良いさ。性根を叩きなおしてやる。覚悟しておけ」
 クレメンテはそう言って快活に笑った。
 すると通話口から、つられて笑うミケーレの声が聞こえた。
 闘争の中で生活する者に、争いを直ちに中止しろとは言えない。
 武器を離して丸腰になれとは。
 武器を失った途端に、攻撃され殺される事が判っているから。
「兄さんは…やっぱり、僕の兄さんだ。難しいとは思うけど、会えるよう努力します。その時には覚悟しますよ。では、また連絡します」
 微笑んだ声のまま、ミケーレの電話は切れた。
 ミケーレの気持ちが確信できて、クレメンテの胸は温かくなった。
 もしあの日、クレメンテがミケーレと一緒に逃げていたら、ミケーレは今いる暗い世界から逃げる事が出来たかも知れない。
 本当に一緒に暮らしたいと望んでいてくれたんだ。
 話してみて、彼の気持ちを実感した。
 それなのに、一緒に逃げる機会を止めたのはクレメンテ本人だ。
 クレメンテはその事に対して、悪かったと思う。心の中でミケーレに謝った。
…でも、逃げるのならば、みんな一緒がいいんだ。誰かを残し、誰かを犠牲にするのは、嫌なんだ。
 フレデリコもミケーレも、みんな一緒に今の生活から抜け出す事は、きっと出来る。
 方法はあるはず。
 そう信じている。
 音楽がクレメンテの中で流れ始めた。
 母の歌う、愛の歌の旋律。
…みんなで、あの歌を歌える日が来る。
…その夢をこの手に掴む。
 クレメンテは心の中で決意した。
「クレメンテ。出来たぞ」
 神父がパスタを乗せたトレイを抱えて居間に入ってきた。
 明るい太陽の光の差し込む居間。
「いただきます」
 何の変哲もない普通の食事をしながら、クレメンテは胸に満ちる希望を実感していた。





----------------------------------------- おわり 

「遠くから。ずっと、見ていた。ずっと、憧れていた。大切な事を決して忘れず、自分自身で切り拓いていく。お前自身に。その生き方に」
 言いながらフレデリコは愛しげにクレメンテの頬を撫でる。
「すぐに私の手を離れてしまうと判っていたから。ほんの僅かの時間でも手に入れたかった」
 熱い瞳で見つめられ、クレメンテの体が熱を帯びる。
 その熱で胸を刺した棘は融解され、心も解かしていく。
 フレデリコはクレメンテの頬から両手を離すと、堅く握って膝の上に置いた。
「だからつい、手が出てしまった。悪い冗談だと思って忘れてくれ」
 自嘲的な笑い顔をフレデリコは浮かべた。
 不器用な彼の愛の告白。
 愛されていると感じていたのは思い過ごしではなかった。
 クレメンテの心が喜びで震える。
…オレもあんたの事を愛している。
 自分自身の思いもクレメンテは認めた。
 そんなクレメンテの心など知らないはずのフレデリコは言葉を続けた。
「お前達の平和が私の望みだ。今夜ならば、どうにか手を回す事が出来る。ミケーレと一緒に国外に出るんだ。残った家族と、兄弟二人で平和生活するのが、お前の望みだった筈だ」
「どうやって国外に出るんだ」
「それは心配ない。神父に指示してある」
「このまま逃げる訳にはいかない。こんな中途半端じゃ。これから、あんたはどうするんだ」
「お前は良いんだよ。私の方こそ逃げる訳には行かない。色々とやる事がある」
「一体。何をやるんだか。あんたをココに残しておいたら。俺の仲間に何するか判らないな」
 クレメンテの問い詰めるような視線を、フレデリコは表情を変えずに沈黙で受け流した。
 瞳は覚悟を決めた人間の色を帯びていた。
 それは肯定を意味している。
 クレメンテの細かい個人データを知る仲間が無事では済まないであろう事は判った。
 国外に逃げた後、クレメンテが存在していた痕跡を消し、追ってがかからないようにするだろう事は充分に想像出来た。
 そして、その為に今まで生きてきた事も。
 間違った方法ではあるが、愛してくれていた事は充分に判った。
 だけど。だから。
 クレメンテはフレデリコの行動を阻止しなければならない。大切な仲間に危害が加えられる事は、何としても止めなくてはならない。
 フレデリコにとって、クレメンテの仲間の命はクレメンテよりも軽いものなのだろう。
 そして己の命すら。
 クレメンテにとっては、その全てが大切なものなのに。
 かけがえの無いものなのに。
 思いを伝えたくてクレメンテは口を開く。
「オレには出来ないんだよ。あんたを残して行くなんて。そうだろう?」
 クレメンテは屈んで床に膝をつくと、フレデリコの手に自分の手を重ねた。
 握った指をゆっくりと開く。
 しようとしているのか判らないのか、フレデリコは不思議そうな瞳で見つめた。
 クレメンテはその瞳に柔らかく微笑みかけると、開いた手に視線を落とす。
「お父さん。お母さん。ミケーレ。オレ。そして叔父さん。五人でひとつの家族だ」
 フレデリコの指にひとつづつ触りながら、懐かしい記憶の中の言葉を繰り返した。
「クレメンテ」
「あんた、オレにそう言ったよな。今じゃ父さんと母さんは天国に居るから。この地上ではオレ達三人が家族なんだ。家族は平和に一緒に暮らすものなんだろう?」
「だが…」
「そうするんだよ。そうじゃなきゃ嫌だ。オレはあんたと一緒に居たい」
 クレメンテの言葉が終るか終らないかのうちに、フレデリコは腕を広げて、その胸にクレメンテを抱き締めた。
「私と一緒に居たいのか?」
 クレメンテの耳元に届いた声は震えている。
 少し湿った声。涙ぐんでいるのかもしれない。
 初めて聞く彼のそんな声を聞いただけで、クレメンテの胸に熱いものがこみ上げてくる。
 それと同時に、勢いで告白をしてしまった。
 自分の行動に気がつき、恥ずかしくなる。
 全身が羞恥で真っ赤になった。慌てて言い足す。
「も…もちろん、ミケーレも一緒に…だ。あんただったら、出来る筈だろう」
「大変な事を。いとも簡単に言ってくれる」
「でも、出来ない事はないよな」
「そうだな。やってみるか」
 抱き締られる腕の強さを感じながら、クレメンテはフレデリコの背中に腕を回した。


  *   *


「ジェラルド神父!」
 教会に神父は居なかった。
 だから裏にある神父の玄関を開けるとクレメンテは声をかけた。
 鍵がかかっていないのは中に居る証拠だ。
「どうした?クレメンテ。入って来なさい」
 奧の方から声が返って来る。方向から考えると台所だ。
 お昼にはちょうど良い時間だったから、昼食を取ろうとしていたのか。そうクレメンテは考えた。
 台所に入ると、神父は鍋に湯を湧かしている最中だった。
 クレメンテは神父の前で持っていた袋を掲げると、台の上に置いた。
「市場でもらったから、お裾分けに来た」
 中にはシチリアオレンジが詰め込まれている。
 一人で食べるには多すぎるから、人の行き来のある教会へ持ってきたのだった。
「ありがとう。食後に食べるとするよ。昼食の予定だが…お前も食べていくだろう?」
 台の上には手打ちのパスタが茹でられるのを待っている。
 神父に食事に誘われて、クレメンテは自分が空腹な事に気がついた。
 仕事が忙しくて、全く気がつかなかった。
「やった。食べるよ。モチロン」
「では、居間で待っていなさい。すぐに準備するから」
「判った」
 ウキウキとしながら台所を出ようとすると、神父から声をかけられた。
「ああ。そう言えば。伝言がある」
「何?」
「今夜、来るそうだ」
 主語は言わなかったが、誰の事を言っているのか判る。フレデリコだ。
 クレメンテが街に帰ってきて、そろそろ二週間になる。
 仲間達はルーカの死を嘆きながら、クレメンテが戻ってきてくれた事を素直に喜んだ。
 彼らは、マフィアの仕事を請け負うなど無謀な事だと思い、クレメンテの事を心配していた。
 ルーカがクレメンテを助けに行くと言って出て言った時にも、猛烈に反対したそうだ。
 二人とも帰って来なかったらどうしよう。もし帰ってきても、二人とも冷たくなっていたら…不安でいっぱいだったのだ。
 だから、仲間にはこんな無茶はもうしないでくれと、そう懇願された。
 今回の一件でクレメンテは裏の社会では注目される事になってしまったので、これからは仕事では裏に回り、ルーカのやっていた連絡係をするようになった。
 細かい事は語れなかったが、自分のせいでルーカを死なせてしまった事をルーカの家族に説明しにも行った。
 産後間もないルーカの母は、クレメンテを詰り責めた。
 取り乱す彼女の錯乱ぶりはクレメンテも心配するほどで、ルーカの母が彼の事をどんなに愛していたのか目の当たりにした。 
 何も言い返す事は出来なかった。
 ただ、彼女の言葉を受け止める事しか出来なかった。
 彼女が疲れ切って退室した後、ルーカの父はクレメンテに優しい言葉をかけた。
 マフィアと渡り合おうとした二人の勇気を褒めた上で、ルーカの死を無駄にせずルーカの分まで懸命に生きて行く事を、クレメンテに約束させた。
 そして、フレデリコは時間を作ってクレメンテに逢いに来る。
 深夜。闇に乗じて。
 逢引の場所は、神父の家の隠し部屋だ。
 話したい事は沢山あった。離れている間の寂しかったけれど、フレデリコから「寂しかったか?」と尋ねられた時には、クレメンテは素っ気無く「別に」と返答してしまった。
 でも一度くちづけを交わしてしまったら、もう訳が判らなくなった。
 ただ求め与え合う事に夢中になってしまった。
 明け方「そろそろ帰り仕度をしなければ」と呟いたフレデリコに、クレメンテは「もう?」と返してしまった。
 余裕のある笑顔を返し「時間を作って直ぐに逢いに来るから、寂しがらないでくれ」と言われた時には、自分がベタ惚れだと言われているようで、シャクに触った。
 でもフレデリコの明るい表情に見惚れてしまったから、何も言い返せなかった。
…今夜、また逢える。
 そう思っただけで、クレメンテの体が熱を帯びる。彼を求める気持ちが暴走を始めそうだ。
「どうした?」
 立ち止まった彼を不信に思ったのか、神父が声をかけた。
 体が変化を起こしかけ、クレメンテはそんな自分が恥かしくて真っ赤になった。
「な…何でも無い」
 そう言うと、クレメンテは足早に居間に移動した。
 神父が見ため通りの人物ではない事を知ってしまったら、自分達の関係も実は筒ぬけなのではないかと疑ってしまう。そう考えると更に恥ずかしさが増した。
 居間に入ると、携帯から電子音がした。
 仲間からの連絡かと思い、クレメンテは手に取って通話ボタンを押そうとした。
 画面を見て指が止まる。画面に写し出されたのは、ミケーレの番号だった。




----------------------------------------- つづく

 まるで何も無かったかのように、ミケーレは涼しい表情をしていた。
 それがクレメンテには信じられなかった。
 フレデリコの側近達がようやく駆けつけてきた。
 周囲の状況を見て、顔をしかめる。小さな声で囁き合う。
 フレデリコは手短に説明すると、指示を出した。
 クレメンテの耳にも聞こえる声だったが、言葉は素通りした。何考えられなかった。
 呆然として座り込んだままのクレメンテの腕をフレデリコは掴み引き上げた。
 ルーカに触れた場所は血がベッタリとついている。
 フレデリコは自分の上着を脱ぐとクレメンテを覆うようにかけた。
「ここから、出るぞ」
「でも…」
「お前の仲間は、もう死んでいる。彼はお前を守りたかったんだ。騙されたとは言え、その気持ちだけは真実だ。彼の気持ちを無駄にするな」
「……判った」
 クレメンテの足は震えて足が進まない。
 感情に左右されない義足のお陰で何とか立っていられるが、うまく歩けない。
 そんなクレメンテを見かねて、フレデリコは抱えられるように支え、無理矢理歩かせる。 
 その場を後にした。
 フレデリコは裏口に待たせていた車にクレメンテと乗り込んだ。
 車は細く曲がりくねった道を迷う事なく進む。いつしか外は見慣れた風景になっていた。
 しばらくして、車はクレメンテの拠点になっている教会の裏の神父の住居前で止まる。
 家に入ると神父は待っていた様子で口を開いた。
「お久しぶりです」
「そうだな」
 神父の挨拶にフレデリコは相槌を打つ。神父はフレデリコの顔とクレメンテの姿を見て、全てを悟った顔をした。厳しい顔を更に歪め、苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「失敗したのですね」
「残念ながら」
 神父とフレデリコが知り合いだとは知らなかったが、クレメンテはもう驚かなかった。
 車が見慣れた風景に入ったところで、もしかしたらそうかも知れないと思っていた。
 自分だけ知らない事が、裏ではずっと行われ続けていたのではないかと、推理できたからだ。
「彼はロッソ家で、当主の長男の部下だったんだ」
 フレデリコはそうクレメンテに告げた。
 クレメンテもロッソ家の長男の事は知っている。
 大層評判の良い男で、貧困街の人にも人気があったようだ。昔むかしに突然に失踪したのだが。
 彼が失踪した頃はビアンコ家との抗争が激化している時期だったらしい。
 だから、彼はビアンコ家の誰かに消されたのではないかという、もっぱらの噂だった。
 だが、死体は上がっていなかったから、その話は噂の域を出ないものだった。
 仕える相手がいなくなり、フレデリコの元に来たのか。そう、クレメンテは考えた。
 クレメンテは血液で汚れた服を脱ぎ、浴室で洗い流した。
 そして、神父はクレメンテも知らない隠し部屋へと二人を案内した。
 何かをフレデリコに耳打ちすると、神父はその部屋を出ていった。
 ベッドと机と椅子が置かれただけの、殺風景な部屋。
 フレデリコは椅子に疲れたように座ると、両手を膝の上で組み合わせ、項垂れた。
 クレメンテはフレデリコの隣で立ちつくす。
 懺悔でもはじめそうな雰囲気。悲壮な陰りを帯びるフレデリコを見て、クレメンテは胸騒ぎを覚えた。
 フレデリコはしばらく沈黙していたが、やがて話はじめた。
「今回の計画は私の発案だ。何も知らせずに、お前を国外に逃がしたかった。ミケーレはそれに乗ってくれたんだ。妨害がある事は予想していたが…まさかあんな邪魔が入るとは思わなかった。ミケーレを憎まないでくれ。あの場では仕方なかったんだ。彼は秘密に近づき過ぎていた」
「あんた達は…オレに一体何を隠しているんだ」
「ここまできたら。もう隠し通す訳にはいかないな」
 フレデリコは大きくため息をついた。瞳には深い哀しみが注がれている。
「ビアンコ家の当主は年を取っている。彼は自分の血を受け継いだ子供を、次の当主にしたいと思っているんだ。何人もいた息子や娘は内紛で命を落とした。それで愛人の子供でもと考えた。愛人は失踪し、行方知れずだった。だから、もう一度捜索をはじめた。…それが事の始まりだ」
「始まり?」
「ビアンコ家の当主マルチェロ・ビアンコ氏はお前の実の父親だ。ビアンコ家は、お前の消息をずっと探し続けている」
「は?父親?何をいきなり言い出すんだ。ふざけているのか」
 突然思いもよらない事を言われる。
 クレメンテはすぐには信じる事が出来なかった。
 だが、フレデリコはクレメンテを厳しい瞳のまま見つめ返した。その瞳に嘘はない。
 痛いほど真剣な眼差しで見つめられる。
「本当…なのか」
「ミケーレは当主の弟の元に居る。過去、手違いで部下が家族を襲った。その生き残りの子供を引き取ったんだ」
 襲った家族とはクレメンテの家族の事なのか。
 そう考えると、ミケーレの置かれた状況の難しさは想像出来る。
「それで、あんたは一体何者なんだ?」
「私は元々ビアンコ家の人間だ。お前の母親…ラウラの護衛と監視をしていた。私と同じ孤児だったラウラは、ビアンコ氏に見いだされ、庇護を受け、歌姫として花開いた」
「母さんが、マフィアの愛人だったなんて」
 清く正しかった母親。
 その姿がクレメンテの中でガラガラと崩れる。何を信じればいいのか判らなくなる。
「そんな顔をするんじゃない。彼女の本当の姿はお前も知っているだろう。彼女はヴィオレッタのような…スミレのような、誠実にひたむきに愛する人だった。愛人だった時にも、彼女自身は妻の貞淑を守っていた。エドアルドに会った後すらも」
「エドアルド…父さん?」
「ああ。彼はロッソ家の長男だ。誰よりも優秀で跡取りになる事を嘱望されていた。彼らはあの歌劇場で出会い、恋に落ちた」
 フレデリコは過去を思い出し遠い視線をしたまま、小さく微笑んだ。
「端から見ていても微笑ましいほどの純粋な思いを重ねていた。恋の激情に身を任せる事は無かった。二人は自分達が自分だけの世界で生きている訳では無い事を充分に理解していたから。恋に身を投じたら、周囲を不幸に巻き込む事を知っていたんだ」
「でも、母さん達は全てを捨てて駆け落ちした。何故?どうしてなんだ?」
「きっかけはラウラの妊娠だ」
「それは…オレ?」
「そうだよ。ラウラは自分の子供を危険に晒したくなかったんだ。ビアンコ家の内紛はすでに始まっていた。彼女の望みは子供と平凡で平和に生活する事だった。彼女は一人で街を離れ、ひっそりとお前を生み育てるつもりだった」
「だけど、二人は駆け落ちした」
「まぁな。ラウラの妊娠が判った時、エドアルド自身にも変化があった。彼は自分が病に犯され、残された命が短い事を知った。だからエドアルドは自分の残りの命を、彼女の望みを叶える事に使ったんだ」
 いつも優しく微笑んでいた父の姿がクレメンテの脳裏に蘇る。
「父さんは、そんな事一言も言わなかった。何も言わずにただオレの事を愛してくれていた。オレは宿敵の子供なのに…」
「関係なかったんじゃないのか。彼にとって、お前は愛するラウラの子供だったんだ。遺伝上の父親は関係ない。純粋にお前の事を愛していたよ」
「あんたは何故…オレ達と一緒にいたんだ」
「彼女の監視は私の仕事だった。逃げるのを見逃したら、ただでは済まない。だからエドアルドと逃げる時に誘ってくれた。彼女は私の身を案じてくれたんだ」
「本当は三人で逃げたんだ」
「そうなるな」
 次々に出て来る真実にクレメンテは困惑した。頭が飽和しそうだ。
 でもずっと疑問に思っていた事が明らかになってくる。
 みんなが自分の事を守っていてくれた事が判って嬉しい半面、自分が情けなくなる。
 ずっと一人で苦しんでいたと思っていた。
 一人で苦労して生きてきたと思っていた。
 だけど、そうじゃない。一番安全な場所で生活していたのは本当は自分だったのだ。
「私は彼女と出会って、同じ夢を見た。争いの無い世界で、愛し合う家族と平和に生活する夢。そして、その夢に私を加えてくれた」
「それなら、どうしてあんたは家を出て行ったんだ」
「ビアンコ家で動きがあったからだ。平和な生活を壊されたく無かった。私は慌てて街へ戻り、それを阻止しようとしたが…長く現場を離れているとダメだな。平和ボケして。彼女の盾にもなれなかった。悔やんでも悔やみきれない」
 真摯な声でフレデリコは語った。
「どうして、ロッソ家に?」
「エドアルドは極近い身内には事情を話してあったんだ。家族はエドアルドの残りの命が短いならば…と、その行為を許した。でも体面を保つ事は必要だったから、表向きは何も知らない振りをしていたのだ。怪我を負った私を助けてくれたのはロッソ家の当主だ。今でもエドアルドの最期を身取った者として珍重してくれている」
 誰もが自分の決められた道を外れ、でも誰もが自分自身であり続けようとした。
 愛する人を守るために最善を尽くしたのだ。
 ようやく判った。理解できた。
 そして、表面上は裏切ったかに見えるフレデリコ。彼も父や母と同じだった。
 奏でていたのは裏切りの旋律ではなかった。
 愛の旋律だった。
 愛する人の為に、愛の歌を歌い続けていたのだ。
…もしかして。それは。
 思いついたらクレメンテは聞かずにはいられなかった。
「母さんを愛していた?」
「ああ。愛していたよ」
 即答されて胸が痛む。死んだ母への嫉妬の棘がクレメンテを苛んだ。
 だけど確かめずにはいられない。彼の真意が知りたかった。
「オレは…もしかして母さんの代わりだった?」
 真剣なクレメンテの目を見て、フレデリコはクスリと笑った。
「違う。彼女は私にとって、姉のようなものだった。血は繋がっていないけれど、心の中ではそうだった」
「じゃあ。何故?」
…ひょっとして。まさか。
 期待してはいけないと思いながらも、期待せずにはいられない。
 問い正すクレメンテの声は緊張で掠れた。
「どうして、俺を抱いたんだ」
「魔が差したとでも言えばいいのかな。ラウラにはスマナイと思っている」
 フレデリコは目を細め優しく笑う。
 クレメンテの頬を、そっと両手で包んだ。




----------------------------------------- つづく

 上演時間になり、幕は上がった。
 『ラ・トラヴィアータ』はデュマ・フィスの作品『椿姫』を元にヴェルディが発表したオペラだ。 
 パリの裏社交界で華やかな生活をしていた高級娼婦ヴィオレッタは、南仏からパリに出て来た純朴な青年アルフレードと恋に落ちる。
 真実の愛を知り、人生の歓びを知った二人。
 ヴィオレッタは贅沢な生活を捨て愛だけを持って、一緒に暮らすようになる。
 だが、アルフレードの父に身分違いの恋はアルフレードの為にならないと諭され、ヴィオレッタは身を引く。元の生活に戻ったヴィオレッタだが、その後彼女は病に倒れた。
 死の床についた時、真実を知ったアルフレードがヴィオレッタの元に駆けつけ、ヴィオレッタはアルフレードの腕の中で愛を確認しながら亡くなる。
 題名のラ・トラヴィアータとは『道を外れた女』の意味だ。娼婦の道を外れ、真実の愛のために生きた。それを示している。
 一幕目はヴィオレッタとアルフレードが運命の恋に落ちる部分だ。
 絢爛な舞台に目は奪われ、素晴らしい歌声に胸が震えた。


 幕が降り、一幕目が終了した。
 次の幕が上がるまで、しばらく時間がある。
 身を乗り出すようにして見ていた自分自身に、クレメンテはふと気がついた。
 姿勢をさりげなく戻す。
 チラリと隣を盗み見るとフレデリコも感嘆の表情を浮かべ、満足気にため息をついていた。
「素晴らしい歌声だ。ただ…」
「ただ?」
「ラウラに比べたら、まだまだだな」
「ラウラ…母さん?」
「そうだ。ああ、あの素晴らしい歌声をお前にも聞かせてあげたかった。彼女に相応しい。その才能を存分に発揮出来る…この場所での彼女の姿を、見せてあげたかったな」
「あんたは何を言っているんだ?」
 クレメンテは彼の語る姿を想像できなかった。
 質素な服を来て、貧しい生活だったけどいつも笑顔で家事をしていた母。常に楽しそうに歌を口ずさんでいた。
 確かにオペラの歌をよく歌っていたけれど。
 そんな母親の姿は知らない
 自分の知る母の姿に、まるでそぐわない姿。
 こんな豪華な場所でそれに相応しい格好をし、堂々と歌い上げていたなど考えられなかった。
「ラウラは稀代のソプラノ歌手だったのだよ。ロッシーニ、ドゼッティ、ベッリーニを歌い上げ、伝説の歌姫マリア・カラスの再来と誉れ高かった」
 遠い瞳をしてフレデリコは嬉しそうに語る。
 見知らぬ誰かの事を言われているようだ。
 返す言葉はない。ざわざわと胸がざわめく。
 自分の知っている過去が崩れていく予感。
 真実だと思っていた事が実は虚像なのではないかという、確信にも似た直感が胸の中で囁く。
…全てはここから始まったのか。
 何故だか、クレメンテはそう感じた。
 不信と不安を浮かべるクレメンテにフレデリコは耳打ちした。
「そろそろ外に出る時間だ。廊下でミケーレと会う事になっている」
「何だって?」
 一幕目の間はフレデリコの側近は用事があるとかで、二人の傍にはいなかった。
 それがこれに関係あったのだろうか。
 クレメンテの知らないところで何かが動いている。そしてその形が今日にでも分かるだろう。
 確信めいた予感。
「偶然を装って会う事になっている。対応は私がするから、お前は何も喋らずに黙っているんだ」
 そう言い捨てるとフレデリコは椅子から立ち上がり、先に廊下に出た。
「一体、何を考えているんだ」
 訳は判らなかったが、クレメンテは慌ててその後を追い駆けた。
 廊下に出るか出ないうちにフレデリコの制止の声が届いた。
「出て来るな!」
 そう言われても状況が判らなければ声に従うべきか判らない。
 クレメンテは声を無視して廊下に出た。
 少し先の場所にココにいるはずのない人の姿を確認する。
 浅黒く体格の良い、頼りになる人物。
 間違えるはずの無い仲間。
「……ルーカ?」
 クレメンテは目の前の姿が信じられず呼びかけた。
「クレメンテ!そいつから離れろ」
 声に呼応してルーカは鋭く言い放った。
 手の中には銃が握られていた。
 向けられた銃口はフレデリコを狙っている。
 輪郭は丸みを帯び、リボルバーである事が瞬時に判った。
「何をするんだ?」
「コイツが悪いんだろう。全部。お前の不幸の根源はコイツだ。俺は知っているんだ」
「違う。そうじゃないんだ」
 言いながら、咄嗟に前に出た。フレデリコを守るようにクレメンテは手を広げ銃の方向を塞ぐ。
 その動作を見てルーカは驚愕の表情を露わにした。
「どうしてコイツを庇うんだ。コイツはお前が不幸になった根源なんじゃないのか?」
「それは…」
 クレメンテが言い澱んだ時。
 ルーカの後方のドアが開き、ボックス席から数人の男性が現れた。
 その中にミケーレがいる。
 ミケーレは視線を何気なくクレメンテの方向に向けた。
 一瞬でも見れば緊迫した状態であることが見て取れる筈だ。
 だが、ミケーレは驚いた様子もなく涼しい顔のままだった。まるで、全て判っているかのように。
…まさか。ミケーレが…
 疑念がクレメンテの中で渦巻く。
 クレメンテがミケーレを強い視線で見つめる。
 ミケーレはその視線を受け、口の端を上げた鮮やかな笑顔を浮かべた。
「これは、僕じゃないですよ」
 柔らかく落ち着いた声が周囲に響く。
 日常会話でもするかのような穏やかな声。
 動じない様子にクレメンテの疑念は益々膨らんでいく。
 ミケーレが言葉を発すると、その存在に気がついたルーカは斜め後ろに一瞬視線を移した。
「お前…まさか…」
 ルーカの瞳が驚愕で見開かされる。ワナワナと手が震えた。
「俺の事を騙したな」
 低く怒声を発してルーカは銃口を移動する。
 ミケーレに向けた。
 引き金に指をかけようとした途端、脇に控えていた男性の一人が素早く動いた。
 複数の銃声が上がる。
 狭い廊下に響き渡った。
 大音響の中。
 崩れ落ちるようにルーカは倒れた。

「ルーカ!」
 クレメンテは叫んで、ルーカへ駆け寄った。
 倒れた彼をそっと抱き、膝の上に乗せる。
 濡れた感触。
 手を見ると真っ赤に染まっていた。
 ルーカの体の数ヶ所から血が吹き出るように流れている。
 打たれた場所は全て急所から僅かに逸れた場所だった。
 即死させない場所を一瞬で狙い打ち抜いたのだ。
 だが、動く事は出来ないし、助けることもできない。
 出血多量で命の炎が消えるのも、もう間もなくだろう。
 どうすればダメージが大きいのか判って撃ったに違いない。
 恐ろしいほどの的中率だった。
 クレメンテは自分の上着を脱ぎ一番大きな傷に当てる。
 上着は血液を吸い、見る見るうちに重くなり上の方まで血液が染みてくる。
 止血が間に合わない。このままでは死んでしまう。
 クレメンテは助けを乞うように後方のフレデリコに視線を向ける。
 だが、フレデリコは静かな瞳を返し、首を横に振った。
「ヘタ打っちまった」
 ルーカが呟くように言った。
「しゃべるな。オレが何とかするから」
 ルーカは自分の胸元を手で触る。手は血で染まった。
 その手を見て、ルーカは諦めたような苦笑いをした。
「もう、駄目だ。自分でも判るさ」
「オレのせいで…」
「そうじゃないさ」
 自分を責める言葉を発したクレメンテにルーカは首を横に振った。
「お前は俺の弟みたいなもんなんだ。だから、熱くなり過ぎた。悪ぃな」
 ルーカは力無く微笑んだ。
「お前に会えて良かったよ。あんなゴミ溜めのような街で、オレ達みたいな下の人間が上の連中相手に仕事が出来た。それだけで…」
 ルーカの声は徐々に力を失い…クレメンテの腕の中で息絶えた。
 骸と化した仲間を目の前にしてクレメンテは動けないでいた。
 信じられなかった。目の前で仲間を失った事実に。
 そして、それを行ったのが自分の弟の仲間だという事。もしかしたら、ミケーレが事の首謀者かも知れない事。
「ミケーレ。お前か」
 クレメンテは低く呟く。
 その言葉をミケーレは無視した。
 感情の浮かばない冷たい瞳でクレメンテ達を見つめると、側近に視線を移した。
 眉間にしわを寄せ、表面だけ困った顔をする。
「これでは、折角のお膳立てが台無しだ。全く、年を取るとセッカチになるんだから…おじい様は僕の苦労を何だと思ってらっしゃるんだか。人知れず準備していた、その意味を判らなかったのだろうか。どう思う?」
「心中お察し致します」
「身を危険に晒して、得るものなしか」
 ミケーレは肩を竦める。
「おじい様には…好意は有り難く頂戴しました。ですから、それによって起こった損害は不問に致します。ですが、この貸しはいずれ頂きに参ります…と。そう、お伝えして」
「は」
 ミケーレの言葉を聞いて取り巻きの一人が短く返事をした。足早にその場を立ち去る。
「クレメンテ。今日は忙しいから、話は次の機会に」
「ミケーレ」
「またね」
 にこやかに笑って、ミケーレは立ち去った。




----------------------------------------- つづく

 次に意識が浮上した時、フレデリコはベッドから出てソファーで難しい顔をして書類を読んでいた。
 クレメンテが起きたのを察すると、視線を向ける。
 何かを言いそうな気配を察して、クレメンテは先を越されまいと口を開いた。
「満足したか」
 さっきも思う存分翻弄されたが、今度は諦めがついた。
 今日の負けは負けだ。
 だけど、いつか勝ってやる。そう思う事にした。
 でも負けっぱなしでは気分が悪いから、クレメンテは強がってそう言ってみる。
 やらせてやったと、状況を反転させるような言葉をかけた。
「まぁまぁだな」
 そんなクレメンテの事などお見通しのようでフレデリコは余裕の笑顔を浮かべた。
「フン!」
 動じない様子に腹が立つ。
 クレメンテはゴロリと寝返りを打った。
 柔らかいマットレスの感触は気持ち良く、その感触を味わいながら一回転する。
 フレデリコの寝ていた場所に来ると、枕越し頭の下に硬い物の感触を感じた。
 不思議に思って枕に手を入れる。
 指先に金属の硬い感触。引き出すと、それは一丁の自動拳銃だった。
『平和の作り手』という、ふざけた名前を持つ銃を作った、世界的に有名な会社のものだ。
 これを作った者は一体どんな平和を夢見ていたというのだろうか。
 クレメンテは疑問に思う。
「あんた、そんなもの使っているんだ」
「道具は慣れていて、使いやすいものが良いからな。装弾数の少なさは、バックアップの銃で補うさ」
 銃を持っている事を責めるつもりでクレメンテは言ったのだが、フレデリコはそうは思わなかったようだ。
 古くからある銃を使っている事を揶揄されたと思ったようで、広く使われている弾の数の多い銃を使わない理由を語った。
 銃は弾数の多い銃が非常時の明暗を分ける。
 銃撃戦になった時、弾込めの作業の時間すら惜しいのだ。
「お前も持っておいた方が良い。私のバックアップ用だが、取り合えずコレを使いなさい」
 フレデリコはクレメンテにリボルバーの銃を差し出した。古くからある拳銃で、構造は単純。
 弾丸を収めるマガジンが回転式でトラブルの起きにくい銃だ。
 扱いやすいという事だけは情報として知っている。
 仲間で持っている者もいるが、クレメンテは手にした事は無かった。
 実は目にするのも嫌だ。
 母を殺害し、右足先を奪った銃。
 自分の身を護る為だとしても、手にする気にはならない。
「こんな物、要るか」
 クレメンテは目の前に出されたリボルバーの銃を突っ返した。
「私に接触し一緒に行動するせいで、お前にも危険が降りかかってくるだろう。お守り代わりだ」
「俺は銃なんて使った事ないぜ。素人に使えるもんか」
「リボルバーなら、構造上、動作不良も起こしにくいし、使い方など直ぐに覚える。問題はちゃんと撃てるようになるかだが…私が練習をつけてば何とかなるだろう」
「こんなもの、お守りに何かなるもんか。これが必要な状況ってのは、もう後が無いって事なんだ。その時には俺は…もう終りさ」
「お前のシリングショットよりも頼りになると思うが…」
 あくまで拒否し続けるクレメンテを説得しようと思ったのか、フレデリコはクレメンテが常に持ち歩き使っているゴム鉄砲の事を指摘した。
 強力なゴムの力で、金属の弾を飛ばす。
 銃と比べて飛距離は短い。
 両手を使用しなければならず一発ずつ発射する事を考えると、効率的ではない。
 だが、クレメンテが住み仕事をしている、曲がりくねり迷路のようになった裏路地では、逃亡の際に役に立つことも多かった。
「俺のは、単に気を逸らす為だけのものだから良いんだよ。逃げ道を作る為の道具なんだから。逃げ道さえ確保出来れば、逃げ切る自信はある」
「だが、それも通用するのは、お前の庭だけだ。外の世界では通用しないぞ」
「俺はあんたとは違う。あんたの仲間になったつもりは無いね」
…仲間は他にいる。この仕事を終らせて、戻ってやる。
 堅く決意してそうクレメンテが言うと、フレデリコは肩をすくめ説得を諦めた表情をした。
「じゃあ。私と一緒に居る間は、私の傍から離れない事だな。私が守ってやるから」


*    *


 それからフレデリコはクレメンテを恋人として扱うようになった。
 何処に行くにも一緒だ。
 クレメンテの護衛には側近の一人がつき、重要な会議では控え室で待っている。
 人目のある所では丁寧に扱われ、夜は優しく抱きしめられた。
 熱い時間を過ごす度にクレメンテはフレデリコに気持ちが傾いて行く。
 熱が過ぎ去ったその後には、辛辣で冷たい素の顔を覗かせるのだが、傾いていく気持ちを止める事が出来ない。
 憎しみも怒りも胸の中には確かに存在するのに、同じ胸の中で温かい情熱の炎が灯る。
 本人からは否定されたけれど。
 家族を裏切り不幸にした、フレデリコの身勝手な行動にも何か理由があるのではないか。
 そう、クレメンテは本気で考え始めた。
 

「何をそんなに真剣に見ているんだ」
 室内のソファーで寝転び、オペラのチケットを見ていたクレメンテは後ろから声をかけられた。
 慌てて隠そうとしたが、間に合わず見られてしまう。
「何だ。オペラのチケットか」
 からかいを含んだフレデリコの声。
 柄に合わないと言われると身構えながら、クレメンテは返事を返した。
「悪いか」
「その日は、ロッソ家のボックス席で鑑賞する予定だった」
「えっ」
 意外な言葉を聞いて、クレメンテは驚いた。
 一瞬何を言っているのか判らなかったが、すぐにその内容を理解する。
 それはクレメンテを驚かせ喜ばせるに足るものだった。
 ボックス席は歌劇場にある個室の客席だ。
 舞台を見るのに最適な場所に位置し、料金もそれに見合った高額なもの。
 クレメンテにとっては一般席でさえやっとなのだから、夢また夢の場所だった。
「一緒に行くか?」
「……いいのか?」
「遠慮するなんて、お前らしくないな」
 フレデリコの揶揄する言葉も今のクレメンテを不機嫌にする事は出来ない。
 だが、はたと重要な事に気がつく。
 歌劇場では、席に相応しい格好をしなければならない。
 席によっては入口すら違うのだ。
「でも、オレ。ボックスで鑑賞出来るような服なんか持っていない」
「用意させよう」
 即答するフレデリコに頼もしさを感じた。
 フレデリコにとっては何でもない事かも知れない。
 だけどクレメンテにとっては違う。
 嬉しい気持ちのまま口を開いた。
「あの」
「何だ?」
「ありがとう」
 クレメンテが感謝の言葉を口にすると、フレデリコは憮然とした表情をした。
「大した事はしてない」
 どこか気まずそうな顔。
 らしくない表情。
 頬が不自然に赤くなっていた。
 照れ隠しだと、すぐに判った。
 可愛いところもあるんだ。クレメンテはフレデリコのいつもと違う面を見て、胸の中が温かくなるのを感じた。



 三日おきにルーカに連絡を入れた後、フレデリコの情報をミケーレに報告する。
 クレメンテの心はいつになく穏やかで満ち足りていた。
 歪な形ではあるが、みんなと繋がっている。
 長くは続かない平穏だと判っていたけれど。
 クレメンテにとって、この時間はかけがえのない時間になっていた。
 自分はフレデリコを裏切っているんだと理解していたけれど、深くは考える事は出来なかった。
 


    *    *


 そして、クレメンテの誕生日がやってきた。
 公演は古い歴史のある歌劇場で行われる。
 床は大理石で敷き詰められ、ホールは広く、柱や壁には荘厳で華麗な彫刻が施されていた。
 ロビーは着飾った紳士や淑女で溢れている。
 正面玄関から入った事のないクレメンテは興味深々の表情を張り付かせたまま、劇場内を歩いた。
 ロビーからボックス専用の廊下を通り、個室であるボックス席に入る。
 豪奢な細工が施された柔らかそうなクッションの椅子が二つ並んでいた。
 その一つの上には、小さなスミレの花束。
 フレデリコはその花束を何気なく持ち上げると、クレメンテに渡す。
「お前にだ」
 花束にはクレメンテの名前が書かれたカードがつけられていたが、メッセージは無かった。
 遠い過去の思い出がクレメンテの中で蘇る。
…今日はオレの誕生日だ。もしかして憶えていてくれた?
「これは、あんたが?」
「私では無いよ」
「じゃあ誰が…」
「さぁ、誰だろうな」
 弾んだ心のままクレメンテは尋ねたが、フレデリコの答えはあっさりしたものだった。
 その返事にクレメンテはがっかりする。
…こんなヤツに期待したところで仕方無いのに。一体何を期待しているんだろう、オレは。
 不可解な気持ち。
 それが何故なのか。
 クレメンテは考えようとして止める。
 考えない方がいい気がした。考えれば心の迷路に囚われそうだった。





----------------------------------------- つづく

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