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スパイスティー
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「それは僕に対する挑戦ですか?」 節操の無い敏明の事だ。つい、そういう風な含みかと考えてしまう。 「そういう意味じゃなかったんだけど。それも楽しそうだ」 幸喜の返事を聞いて、敏明は心底楽しそうに言葉を返した。 「バレンタインデーは約束しているそうじゃないか」 付き合っている人がいれば当たり前の約束だったが、幸喜には、それが順一が敏明に言ったことのように聞こえた。 実際そう聞こえるように言ったのだろう。 事実を歪めた事を伝えたり、言いたく無い事は隠しておくのだが、敏明は根も葉もない嘘を言う人間ではない。どこかで順一と合い話しをしたのだろう。そこで何が話されたのかは判らないけれど。 順一は毎日昼間には顔を見せてくれる。 でもそれだけだった。頻繁にかかっていた電話は無くなった。確かに夜に電話をもらったら、会いたくなって部屋に尋ねてしまいそうだけど。 無い事は寂しかった。そんな風に感じるのは自分だけなのだろうかと思う日も多かった。 そう思うのなら自分からかければいいのだが、幸喜はしばらく会えないと言った口でどう電話をかければいいのか判らなくなっていた。 順一に愛されていた自信はある。少なくともこの前までは。でも今はどうだろう。正直、以前と同じくらい愛されているのかと問われれば自信はない。 いつも近くに感じていた、順一の心を遠く感じていた。 「それが、何か」 「もし順一君からキャンセルされたら君はどうする?」 「何を言っているんですか?」 「変わらない気持ちは無い・・・この前私も言っただろう?順一君もそう言っていたよ。つい・・・そう昨日だったかな。意外な言葉だから憶えている」 敏明はニヤリと笑って幸喜を見た。 「今夜、会う予定なんだ」 「まさか・・・」 順一と敏明が仲良く寄り添う姿が目の前を過ぎり、幸喜は息を飲んだ。敏明は幸喜の表情を満足そうに見つめた。 「夜の十一時に商店街の外れの道路。以前・・・ほら君と待ち合わせただろう。そこで待ち合わせているんだ。まさか良い返事をくれるとは思っていなかったから。楽しみだよ」 夜中に時間を割いて会う。それが何を意味しているのか、幸喜は判らない訳ではない。 だけど、約束だけで、それが順一が浮気や心変わりをしているという事になるのだろうか。 敏明の思わせぶりな態度に踊らされている感じもする。 それでも、疑う事の無いと思った世界に、疑念という名の一点の染みが出来たのも確かだった。 * * 敏明が幸喜の告げた約束の時間の少し前。 午後十時五十分。 幸喜は居ても立ってもいられず、遠くの方から待ち合わせ場所を見ていた。 前方には順一の姿があった。 建物の影からジッと見守る。 順一の顔の表情は遠い上に暗くて見えなかった。 ただ輪郭から本人だと判るだけだ。 順一の事を疑うのも嫌だった。 そもそも幸喜を含めて全員は大学の先輩後輩でもあるのだから、どこで知り合いと繋がっていてもおかしくはないのだ。 もしかしたら簡単な伝言や荷物の受け渡しの可能性もないとは言えない。 来ないなら良いし。何をしているのか遠くで見ているだけで良いはず。 確認するだけで、疑っている訳じゃないんだ。 幸喜は観察しながら、自分自身に言い訳する。 もし車に乗り込み立ち去ったら。 敏明の誘いに乗ったという事なのだろうか・・・想像が暴走しそうになる。 その思いを必死で押え、幸喜は声を潜めて観察し続けた。 午後十一時。 時間ピッタリに見知った敏明の車が道路脇に横付けされる。 順一は車に近づくと助手席に滑りこんだ。 そのまま車は夜の闇に消えていった。 あっけないほどあっさりと幸喜の前から順一は消えた。何のやり取りもなく、逡巡もなさそうだった。 どうしよう・・・敏明の言っていた事は本当なのかも知れない。幸喜の心の染みが広がる。 車の消えた闇を睨んでも車が戻ってくる様子はない。 その場でしばらく立ち尽くした後、幸喜はこのままでは仕方ないと自宅の方へ歩き始めた。 心変わりや浮気と決まった訳ではないし・・・と自分自身を慰める。 だが、はっきりした事が判らないのなら、していないとも言えないのだ。 順一の携帯電話の番号は知っている。 今かければ普通だったら出てくれるだろう。隠す事がなければ理由を話してくれるに違いない。 だけど、出来なかった。 電話での話しが本当の事であるとは限らないのだ。 過去、敏明と付き合った時に幾つも隠し事をされていた事を知っていたから。 都合の悪い事は言わない可能性がある。 その経験が身に染みているから。 電話に真実を求めるのは間違っていると思っていた。 このまま自宅に帰っても疑念が心を覆い尽くして眠れそうにはない。 家には帰りたくなかった。 幸喜の足は自然と順一のアパートへ向かっていた。 到着して、部屋が暗い事に判っていた事なのに、ガッカリする。 ずっと部屋の前で立っていた。 合鍵は渡されている、入った事も何度もある。 だけど今日は部屋の中で待つ気分にはならなかった。 一時間、二時間・・・三時間待って、体の芯まで冷え切ってしまっていた。 このまま此処で朝を迎える訳にはいかない。数時間後には店の開店準備もしなければならない。 もう帰ろう。 そして明日。 店に来た時にさりげなく聞いてみるんだ。 順一だったら僕に嘘は言わない。 暗示を繰り返し繰り返しかけて、それを信じられるようになった頃、幸喜は自宅へ戻った。 自宅に戻り冷え切った体をお風呂で温めてベッドに入る。 信じている・・・心の中で言葉を何度も繰り返した。 幸喜は朝まで眠る事は出来なかった。 * * 二月十三日。 その日、順一は店に現れなかった。 仕事が忙しいのかも知れなかった。 でも昨日の今日だ。忙しいだけが原因とも思えない。 幸喜は我慢できなくなって、順一に電話をかけた。 突然の電話に順一は驚いていたが、電話口の声は嬉しそうだった。その事に安心する。 声に勇気づけられるように幸喜は口を開いた。 「昨日は何処に行ってたの?」 「えっ・・・と。家に居ましたけど」 嘘をつかれた。 その事実に幸喜は大きなショックを受けた。目の前が真っ暗になる。 「夜、順一の部屋に行ったんだ」 「何時頃ですか?」 幸喜が何気なく言うと、順一の声が焦ったものになる。 「十一時。呼び鈴を鳴らしたけど、真っ暗で出て来なかったから。もしかして、寝てた?」 「そ・・・そうなんですよ・・・電話をかけてくれたら良かったのに」 「でも呼び鈴で起きないくらいだったら熟睡していたんでしょ」 「そうですよね。そうなんですよ。どうしたんですか。幸喜さんから来るなんて。バレンタインまで来ないと思ってたのに」 だから、来ない間は何をしてもバレないと思ったのだろうか。 順一は一体何を隠している?僕に知られたくない事?幸喜はそんな風に考えてしまった。 「ちょっと相談だったんだけど。もう解決したから良いんだ」 軽く幸喜はそう言って、もうひとつ聞きたい事を口に出した。 「順一・・・最近、敏明さんと会った?」 「・・・・・・」 受話器の先で順一が絶句する。 黙っているという事はそれが事実でかつ、言いたくない内容を含んでいるという事だ。 それが幸喜を裏切っているとは限らない。 だが、幸喜に言いたくない事実がそこに含まれている事は確かなのだ。 沈黙が痛かった。 胸が締め付けられるように苦しくなる。 幸喜は胸を押さえる。 指先まで痛みが走る。 これ以上、順一と話をするのは辛かった。 少し前までは会話は甘く蜜を含んでいたのに、今は針でも仕込まれているみたいだ。 一言しゃべるごとに心が針で突かれているみたいに痛くなる。 もう耐えられない・・・幸喜は何とか声を絞り出した。 「言いたくないんだったら・・・良いんだ」 「幸喜さん!」 それ以上何も聞きたくなくて、幸喜は受話器を置いた。 裏切られたとは断定出来ない。 でも嘘をつかれた事と敏明と会いその事実を隠そうとしていた事は確かだった。 間を置かずに電話が鳴る。 順一かも知れなかった。 しばらく電話は鳴り。 そして切れた。 意思とは関係なく、涙が溢れて止まらなくなる。 幸喜はその場に崩れるように座りこむと、嗚咽を漏らした。 夜中まで泣いて泣き尽くすと、心にポッカリと穴が開いた気がした。 ふと、明日がバレンタインデーである事を思い出す。 順一用のチョコレートの材料はもうとっくに揃えてある。 敏明は明日も順一と約束をしている事を仄めかしていた。 だけど、順一は電話口でバレンタインまで会えないと思っていたと口にした。 という事はバレンタインは会ってくれるつもりだったのだろうか。 優先されているのは僕の方? ほんの少し気持ちが明るくなる。 バレンタイン前に約束があったとして、それが浮気とか心変わりの確証にはならない筈。 何よりその言葉は全て敏明の口によるものなのだ。 順一が嘘をついた事は確かだが、それが幸喜を裏切ったとは言えないだろう。 敏明との間に何があるのか判らない。 プラスとマイナスの狭間で揺れる。 でも一人で悩んでいるだけじゃ解決しない。 幸喜はプラスに考えを変えようとした。 明日のバレンタイン。 二人で楽しみにしたあの時の約束を思い出す。 夜、純一にあげるために、とびきり美味しいチョコを作ろう。 心が決まるとキッチンに行き準備を始めた。 順一の口からハッキリ聞くまで、答えは出さないようにしようと思った。 つづく
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悪いのは順一のせいではない、自制できずに何処までも求めてしまう自分のせいだ。 |
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迷い逡巡するもうひとつの自分とは裏腹に体は素直だ。 |
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午後の仕事、幸喜は意識して、ゆっくりのペースにした。 |




