スパイスティー

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 二月十四日。
 午後三時。幸茶亭の電話が鳴った。
 幸喜が取ると電話の相手は敏明だった。
「何か用ですか?」
 幸喜の声が固くなる。
「嫌そうな声だな。忙しいのに電話をかけているんだ。感謝して欲しいくらいだね」
「それは、ありがとうございます」
 慇懃にお礼を言う。
 本当はそのまま電話を切りたかったが、敏明は用事なくかけてくる相手ではない。苛々としながら次の言葉を待った。
「今日は夜の九時に待ち合わせているんだ。この前の場所でね。君も知りたいと思ってね」
 主語がなくても誰の事だか判る。
「そんな事・・・」
「誰を選ぶと思う」
 弄ばれている。
 その事に苛立ちは深まるばかりだった。
 誰を選ぶって決まっている。
 こんな意地の悪い奴の方じゃない。
 幸喜はそう思ったが、選ぶ本人の気持ちが見えないから、核心は持てなかった。
 自分自身の我儘は充分に思い知った、それを理由にされたら納得するしかない事も。
 


 午後九時少し前。
 順一から今日も幸喜に連絡は無かった。
 幸喜は幸茶亭を早めに閉めると、二日前に敏明と順一の待ち合わせていた場所へと向かった。
 少し前の時間にも関わらず、敏明の車はそこに止まっていた。
 運転席の窓から敏明は顔を出していた。順一は小さな紙袋を持って車の前に立ち、敏明と話をしている。
 順一は少し笑って照れた表情をしていた。
 幸喜の中で嫉妬か怒りか判らない炎が燃えた。
 我慢出来なくなって駆け寄る。
 順一が幸喜に気がつき、不思議そうな顔をした。
「あれ。幸喜さん?」
「どうしたんだい。幸喜。そんな怖い顔して。順一から何も聞かなかったのか?」
 敏明の言葉が感に触った。ムッとした顔をして、幸喜は敏明を睨み付けたが、敏明は涼しい顔をしたままだ。
 順一は二人の険悪なやり取りを唯々呆然とした顔で見ている。
 紙袋を持つ順一の腕に幸喜は自分の腕を回して、引き寄せる。
「順一は渡さないから」
 宣戦布告し言い放つと、敏明は面食らった顔をした後、おかしそうな表情に変化し。吹き出した。
「順一くん用のスパイスが届いたようだ・・・私からのプレゼントだから感謝しなさい」
「え?何を?」
 順一はキョトンとした表情で敏明の言葉を聞いた。
「順一に変な事言わないで下さい」
 幸喜が怒った声を出すと、敏明は大きな声で笑った。
「そう。その調子。幸喜も怖がっていないで、順一にぶつかったらいいんだ。それでダメになったら私が引き取ってあげるから」
「何を言っているんですか」
「その方が君らしい。これでも私が君を傷つけたこと反省しているんだけどな。じゃあ、後は二人で話をしなさい」
 楽しそうに笑いながら、敏明は運転席の窓を下ろして、車を走らせた。
 


 敏明の去った後、呆然としていた順一は心配そうに幸喜に声をかけた。
「幸喜さんどうしたんですか?何かあったんですか?」
 声はいつもの順一だった。
 秘密を隠しているとは思えない。
 その声を聞いて、幸喜は嫌な予感がした。
 もしかして。やっぱり・・・
「順一、敏明さんとの約束・・・良かったの?」
 思いつく言葉を順一にかける。
「約束というか、頼みごとをしていただけで・・・それも出来ればって事だったんです。この紙袋の中。見ます?」
 平静な順一の声を聞きながら、嫌な予感が的中した事に気がついた。
 敏明に、ハメられた。
 踊らされた。
 幸喜は敏明の底意地の悪さを再確認した。
 そんな幸喜の心の呟きを知らない順一は不思議そうに言葉を続けた。
「紅茶用にブレンドしたスパイスなんです。シナモンとカルダモンを中心とした数種類。スパイスは新鮮な方がいいからと言われて今日届けてくれたんですけど・・・幸喜さん。もしかして、何か勘違いしています?」
 恥ずかしくて幸喜は順一の顔がまともに見れなかった。
 俯いていると順一に手を繋がれた。
「幸喜さんの部屋に行っていいですか」
 拒否する理由はなかった。幸喜がうなずくと、順一は手を繋いだまま歩き出す。
 そのまま道を歩いて部屋に戻った。
 玄関の扉を閉めたと同時に順一は紙袋を台に置くと幸喜を抱きしめた。幸喜も順一の体に腕を回して力を込める。
「幸喜さん」
 甘く名前を囁かれて、幸喜は顔を上げた。
 順一の瞳が幸喜を見つめている。
 求められている。
 そう実感する。
 幸喜は顔をやや上に向けて、瞳を薄く閉じ、唇を緩めた。
 くちづけを待つ顔をすると、順一の唇がそっと触れる。
 何度も唇を合わせる。
 唇の端から順一の気持ちが染み込んでくる。
 もうそれで良かった。
 何も要らない。
 そう思った。
 深いくちづけでお互いを確認しあった。



「約束だったでしょ?紅茶入れさせて下さい」
 くちづけの後、順一はキッチンに立つと、ケトルを火にかけた。
 持ち帰った小さな紙袋から、材料を出し紅茶を入れる準備をした。
 封を開いただけで紅茶とスパイスの香りが漂う。
 確かに良いスパイスを使っている。
 香りだけでも判る。
 順一は幸喜にとびっきりの紅茶を贈るために敏明の力を借りたのだ。
 説明を聞くまでもなく幸喜は察した。
 敏明の口車に乗ったとは言え、信じてあげられなった事が恥ずかしい。
 狭い自分の心を感じた。
 申し訳なくて、自分が情けなくて。
 幸喜は順一に責められるのを覚悟して、正直に話す事にした。
「順一・・・敏明さんと会っていたでしょ。僕。浮気したか心変わりしたかと思ったんだ」
「え。三沢先輩と・・・有り得ないでしょう。それは」
 順一は露骨に嫌そうな顔をして、吐き捨てるように言う。
 その顔を見て、幸喜はクスッと笑った。
「あいつが幸喜さんに変な事言ったのですね。くっそー。変だと思ったんです。面倒臭そうな事嫌ってそうなのに、店で親切だったから」
「どこで会ったの?」
「百貨店の紅茶売り場ですよ。ずっと仕事が忙しくて、時間無くて。でも幸喜さんとの約束は果たしたかった。店でバッタリ会って、三沢先輩はスパイスティを何種類も持っているって言われたんです。自宅にお邪魔させてもらって、一番良い味の紅茶を分けてもらう事にしたんです。バレンタインデーの当日、幸喜さんを驚かせようと思って…電話の時に本当の事を言わず嘘をついてしまいました。それが貴方を悩ませていたなんて。スミマセン」
「僕の方こそ、ごめん。順一の事、疑ったりして。本当に…」
 幸喜は素直に謝る。謝っても謝りきれない。
 そう思って言葉を重ねようとすると、順一は幸喜の唇に指先を押し当て、言葉を遮った。
「幸喜さんが、独占欲を感じるくらい私の事好きになってくれた事。嬉しいですよ」
 そう言葉に出されると恥ずかしい。
 頬を赤くする幸喜に順一はにこやかに笑いかけた。
「三沢先輩が人の心は変わるって言ったけど。私はほかの意味で自分の心が変わったのを感じているんです」
 腕を広げると、幸喜をその腕の中に抱きしめる。
「幸喜さん。あなたが好きです。愛しています。以前は幸喜さんの事を欲しくて欲しくて仕方ないって思った事もありました。でも今はその気持ちはそんなに強くない。貴方が求めてくれるだけで、私は満たされていたんです。貴方が欲しがってくれるだけで嬉しかった。その結果、体に負担をかけてしまった事は残念でしたけど」
 順一の告白は幸喜にはくすぐったかった。でも嬉しい。
 抱きしめる腕に顔を摺り寄せる。
 真剣な順一の瞳が幸喜を見つめた。
「幸喜さんが時間と距離をおきたいと思うならそれを叶えたいって思ったんです。会えない時間は寂しかったですけど。会えない間、思いは薄れるばかりか、深くなっていったんです」
 順一は自分の頬を、幸喜の頬に摺り寄せた。
「幸喜さんが愛しい。そして幸せでいて欲しい。『幸茶亭』で生き生きとしている幸喜さんが、何よりも大切なんです。焦らないでゆっくりでいいんですよ。私達には時間があるんですから」
「ありがとう。順一」
 嬉しくて嬉しくて幸喜の瞳が潤み、雫が零れた。順一は零れる涙を拭って、微笑んだ。



 順一がスパイスティーを入れ、幸喜は準備したチョコレートを出した。
 綺麗にラッピングされた箱を開けるとチョコレートの香りの中に紅茶の香りがする。
 幸喜が作ったのは、クリームで煮出したブレンドティーを混ぜた、紅茶風味のトリュフだった。
 外側にココアの粉をまぶした丸く柔らかいチョコレート。
 チョコレートの味を味わいながら、紅茶の味も味わえるもの。
「美味しいね」
 幸喜はスパイスティーを一口飲むと満足そうなため息とともに感想を漏らした。
「幸喜さんのチョコも美味しいです」
 順一は幸喜の手作りチョコを食べて嬉しそうに笑った。
 スパイスティーは濃厚なチョコレートでも味わえる味だし、紅茶風味のトリュフは幅広いブレンドの紅茶と合わせられるが、この二つに限っては合わない。
 個性が消されてしまうのだ。
 お互いを思うあまりにすれ違った自分達みたいに。
「でも別々に食べなければ。美味しさが半減だね」
 幸喜は苦笑する。
「ひとつづつ味わえばいいんですよ」
 順一は幸喜の耳元で囁いた。
「あとで貴方もじっくり味合わせて下さい」
 熱を帯びた順一の声。
 その声でこれからの時間を想像し、幸喜は赤面した。




                終わり

「それは僕に対する挑戦ですか?」
 節操の無い敏明の事だ。つい、そういう風な含みかと考えてしまう。
「そういう意味じゃなかったんだけど。それも楽しそうだ」
 幸喜の返事を聞いて、敏明は心底楽しそうに言葉を返した。
「バレンタインデーは約束しているそうじゃないか」
 付き合っている人がいれば当たり前の約束だったが、幸喜には、それが順一が敏明に言ったことのように聞こえた。
 実際そう聞こえるように言ったのだろう。
 事実を歪めた事を伝えたり、言いたく無い事は隠しておくのだが、敏明は根も葉もない嘘を言う人間ではない。どこかで順一と合い話しをしたのだろう。そこで何が話されたのかは判らないけれど。
 順一は毎日昼間には顔を見せてくれる。
 でもそれだけだった。頻繁にかかっていた電話は無くなった。確かに夜に電話をもらったら、会いたくなって部屋に尋ねてしまいそうだけど。 
 無い事は寂しかった。そんな風に感じるのは自分だけなのだろうかと思う日も多かった。
 そう思うのなら自分からかければいいのだが、幸喜はしばらく会えないと言った口でどう電話をかければいいのか判らなくなっていた。
 順一に愛されていた自信はある。少なくともこの前までは。でも今はどうだろう。正直、以前と同じくらい愛されているのかと問われれば自信はない。
 いつも近くに感じていた、順一の心を遠く感じていた。
「それが、何か」
「もし順一君からキャンセルされたら君はどうする?」
「何を言っているんですか?」
「変わらない気持ちは無い・・・この前私も言っただろう?順一君もそう言っていたよ。つい・・・そう昨日だったかな。意外な言葉だから憶えている」
 敏明はニヤリと笑って幸喜を見た。
「今夜、会う予定なんだ」
「まさか・・・」
 順一と敏明が仲良く寄り添う姿が目の前を過ぎり、幸喜は息を飲んだ。敏明は幸喜の表情を満足そうに見つめた。
「夜の十一時に商店街の外れの道路。以前・・・ほら君と待ち合わせただろう。そこで待ち合わせているんだ。まさか良い返事をくれるとは思っていなかったから。楽しみだよ」
 夜中に時間を割いて会う。それが何を意味しているのか、幸喜は判らない訳ではない。
 だけど、約束だけで、それが順一が浮気や心変わりをしているという事になるのだろうか。
 敏明の思わせぶりな態度に踊らされている感じもする。 
 それでも、疑う事の無いと思った世界に、疑念という名の一点の染みが出来たのも確かだった。


    *     *   


 敏明が幸喜の告げた約束の時間の少し前。
 午後十時五十分。
 幸喜は居ても立ってもいられず、遠くの方から待ち合わせ場所を見ていた。
 前方には順一の姿があった。
 建物の影からジッと見守る。
 順一の顔の表情は遠い上に暗くて見えなかった。
 ただ輪郭から本人だと判るだけだ。
 順一の事を疑うのも嫌だった。
 そもそも幸喜を含めて全員は大学の先輩後輩でもあるのだから、どこで知り合いと繋がっていてもおかしくはないのだ。
 もしかしたら簡単な伝言や荷物の受け渡しの可能性もないとは言えない。
 来ないなら良いし。何をしているのか遠くで見ているだけで良いはず。
 確認するだけで、疑っている訳じゃないんだ。
 幸喜は観察しながら、自分自身に言い訳する。
 もし車に乗り込み立ち去ったら。
 敏明の誘いに乗ったという事なのだろうか・・・想像が暴走しそうになる。
 その思いを必死で押え、幸喜は声を潜めて観察し続けた。


 午後十一時。
 時間ピッタリに見知った敏明の車が道路脇に横付けされる。
 順一は車に近づくと助手席に滑りこんだ。
 そのまま車は夜の闇に消えていった。
 あっけないほどあっさりと幸喜の前から順一は消えた。何のやり取りもなく、逡巡もなさそうだった。
 どうしよう・・・敏明の言っていた事は本当なのかも知れない。幸喜の心の染みが広がる。
 車の消えた闇を睨んでも車が戻ってくる様子はない。
 その場でしばらく立ち尽くした後、幸喜はこのままでは仕方ないと自宅の方へ歩き始めた。
 心変わりや浮気と決まった訳ではないし・・・と自分自身を慰める。
 だが、はっきりした事が判らないのなら、していないとも言えないのだ。
 順一の携帯電話の番号は知っている。
 今かければ普通だったら出てくれるだろう。隠す事がなければ理由を話してくれるに違いない。
 だけど、出来なかった。
 電話での話しが本当の事であるとは限らないのだ。
 過去、敏明と付き合った時に幾つも隠し事をされていた事を知っていたから。
 都合の悪い事は言わない可能性がある。
 その経験が身に染みているから。
 電話に真実を求めるのは間違っていると思っていた。


 このまま自宅に帰っても疑念が心を覆い尽くして眠れそうにはない。
 家には帰りたくなかった。
 幸喜の足は自然と順一のアパートへ向かっていた。
 到着して、部屋が暗い事に判っていた事なのに、ガッカリする。
 ずっと部屋の前で立っていた。
 合鍵は渡されている、入った事も何度もある。
 だけど今日は部屋の中で待つ気分にはならなかった。
 一時間、二時間・・・三時間待って、体の芯まで冷え切ってしまっていた。
 このまま此処で朝を迎える訳にはいかない。数時間後には店の開店準備もしなければならない。
 もう帰ろう。
 そして明日。
 店に来た時にさりげなく聞いてみるんだ。
 順一だったら僕に嘘は言わない。
 暗示を繰り返し繰り返しかけて、それを信じられるようになった頃、幸喜は自宅へ戻った。
 自宅に戻り冷え切った体をお風呂で温めてベッドに入る。
 信じている・・・心の中で言葉を何度も繰り返した。
 幸喜は朝まで眠る事は出来なかった。


    *     *   


 二月十三日。
 その日、順一は店に現れなかった。
 仕事が忙しいのかも知れなかった。
 でも昨日の今日だ。忙しいだけが原因とも思えない。
 幸喜は我慢できなくなって、順一に電話をかけた。
 突然の電話に順一は驚いていたが、電話口の声は嬉しそうだった。その事に安心する。
 声に勇気づけられるように幸喜は口を開いた。
「昨日は何処に行ってたの?」
「えっ・・・と。家に居ましたけど」
 嘘をつかれた。
 その事実に幸喜は大きなショックを受けた。目の前が真っ暗になる。
「夜、順一の部屋に行ったんだ」
「何時頃ですか?」
 幸喜が何気なく言うと、順一の声が焦ったものになる。
「十一時。呼び鈴を鳴らしたけど、真っ暗で出て来なかったから。もしかして、寝てた?」
「そ・・・そうなんですよ・・・電話をかけてくれたら良かったのに」
「でも呼び鈴で起きないくらいだったら熟睡していたんでしょ」
「そうですよね。そうなんですよ。どうしたんですか。幸喜さんから来るなんて。バレンタインまで来ないと思ってたのに」
 だから、来ない間は何をしてもバレないと思ったのだろうか。
 順一は一体何を隠している?僕に知られたくない事?幸喜はそんな風に考えてしまった。
「ちょっと相談だったんだけど。もう解決したから良いんだ」
 軽く幸喜はそう言って、もうひとつ聞きたい事を口に出した。
「順一・・・最近、敏明さんと会った?」
「・・・・・・」
 受話器の先で順一が絶句する。
 黙っているという事はそれが事実でかつ、言いたくない内容を含んでいるという事だ。
 それが幸喜を裏切っているとは限らない。
 だが、幸喜に言いたくない事実がそこに含まれている事は確かなのだ。
 沈黙が痛かった。
 胸が締め付けられるように苦しくなる。
 幸喜は胸を押さえる。
 指先まで痛みが走る。
 これ以上、順一と話をするのは辛かった。
 少し前までは会話は甘く蜜を含んでいたのに、今は針でも仕込まれているみたいだ。
 一言しゃべるごとに心が針で突かれているみたいに痛くなる。
 もう耐えられない・・・幸喜は何とか声を絞り出した。
「言いたくないんだったら・・・良いんだ」
「幸喜さん!」
 それ以上何も聞きたくなくて、幸喜は受話器を置いた。
 裏切られたとは断定出来ない。
 でも嘘をつかれた事と敏明と会いその事実を隠そうとしていた事は確かだった。
 間を置かずに電話が鳴る。
 順一かも知れなかった。
 しばらく電話は鳴り。
 そして切れた。
 意思とは関係なく、涙が溢れて止まらなくなる。
 幸喜はその場に崩れるように座りこむと、嗚咽を漏らした。

 

 夜中まで泣いて泣き尽くすと、心にポッカリと穴が開いた気がした。
 ふと、明日がバレンタインデーである事を思い出す。
 順一用のチョコレートの材料はもうとっくに揃えてある。
 敏明は明日も順一と約束をしている事を仄めかしていた。
 だけど、順一は電話口でバレンタインまで会えないと思っていたと口にした。
 という事はバレンタインは会ってくれるつもりだったのだろうか。
 優先されているのは僕の方?
 ほんの少し気持ちが明るくなる。
 バレンタイン前に約束があったとして、それが浮気とか心変わりの確証にはならない筈。
 何よりその言葉は全て敏明の口によるものなのだ。
 順一が嘘をついた事は確かだが、それが幸喜を裏切ったとは言えないだろう。
 敏明との間に何があるのか判らない。
 プラスとマイナスの狭間で揺れる。
 でも一人で悩んでいるだけじゃ解決しない。
 幸喜はプラスに考えを変えようとした。
 明日のバレンタイン。
 二人で楽しみにしたあの時の約束を思い出す。
 夜、純一にあげるために、とびきり美味しいチョコを作ろう。
 心が決まるとキッチンに行き準備を始めた。
 順一の口からハッキリ聞くまで、答えは出さないようにしようと思った。



                つづく

 悪いのは順一のせいではない、自制できずに何処までも求めてしまう自分のせいだ。
「順一のせいじゃないんだ。それに、これだけは誤解しないで欲しいけど…別れたい訳じゃない。順一の事は好きだよ。気持ちは変わらない」
「だったら…距離を置かなくても…」
 戸惑いながら順一が言うと、幸喜は力無く首を横に振った。
「今は仕事と恋愛の両立が出来ないんだ。順一のそばにいたら欲しくなる・・・今だって必死で耐えているんだ。だから少し距離を置かせて欲しい。僕が悪いんだだけど、判って欲しい」
「……少しの間」
 順一が幸喜の言葉を繰り返す。
「そう。少しの間…ごめんね。本当にごめん」
「そんなに謝らないで下さい。幸喜さんは何も悪くないんですから」
 順一の暗い表情が少し明るくなる。全てを受け止めた静かな顔で口を開いた。
「いつまでですか」
「バレンタインデーまで。それを過ぎたらまた少し店も落ち着くし。頭の整理も出来ていると思うから・・・僕の我儘だと判っている。本当にゴメン」
「謝らないで下さい」
 順一が頬に触れそうになる。
 その温度を感じたくて、感じたくなくて、幸喜が目をギュっと瞑ると、順一の手は触れないまま離れた。
「でも…」
 明るい声で順一が言葉を繋げた。
 恐る恐る目を開けると、いつもの包み込むような笑みを浮かべた順一が笑っていた。
「今まで通り客としてお店に来るのはいいですか?私は幸喜さんの顔みないと調子狂っちゃいますよ。二人っきりにならないようにしますから」
「それだったら、いいよ」
 順一に提案されて、幸喜は正直ホッとした。
 怒ってしまう可能性もあったからだ。その上、ずっと会えない日々が幸喜には想像できなかった。
 恋人として付き合う前から週に三日は通ってきていた。
 肉親のいない幸喜にとって家族に近い感覚だった。
 ずっと会えないでいたら、どうなるか判らなかった。
 自分から言い出したにも関わらず、矢も立てもたまらず自宅に押しかけ顔を見に行きそうな気もしていた。
「じゃ、バレンタインの夜は逢ってくれます?
 定休日は翌日ですから。閉店してから朝まで独占させてください」
「うん。僕も一緒に過ごしたい」
 素直な気持ちを伝えたら、順一は嬉しそうに笑った。
 幸喜は順一の手をそっと握った。
 順一も握られた手を強く握り返した。
「チョコレートに合う紅茶を研究して、バレンタインの夜、幸喜さんにプレゼントしますよ」
 幸喜の心を気持ちを順一は判ってくれる。受け止めてくれる。それが嬉しい。
「僕は紅茶に会うチョコを考えて順一にプレゼントするよ」
「楽しみにしていますよ」
 二人は手を握り合ったまま、微笑んだ。


     ※    ※


 二月に入ると『幸茶亭』は恒例のバレンタインメニューで客足を伸ばしていた。
 結局、バレンタインメニューは去年と同じになった。
 幸喜の一度崩れたペースはなかなか戻らず、戻すのに時間がかかっていたのが原因だった。
 順一と距離を置いて、すぐに寂しくてたまらなくなった。
 二人で過ごした時間を思い出して切なさに身を焦がす時もあった。
 会いたくて会いたくてたまらなくなった事も一度や二度ではない。
 逢いたくて。
 その衝動を押えるのは大変だった。
 順一と約束した手作りチョコレートを考えて試作を作る事で時間を紛らし我慢した。
 チョコレート作りの経験の少ない幸喜は試作では失敗続きで、思ったように出来なかった。
 でもその事が却って良かったみたいだった。
 プライベートの時間はチョコレート作りに夢中になっているうちに、幸喜は少しずつ自分の生活のペースを取り戻していた。
 順一は約束通り、昼間の時間に毎日来る。
 幸喜の寂しい心が慰められる時間だった。
 順一は約束を守り抜くつもりの様子で、必要以上に接近しないように気をつけながら、ほんの少し言葉を交わすだけで帰っていったのだった。


     ※    ※


 二月十二日。
 幸喜の昔の恋人、三沢敏明が久しぶりに店にやってきた。
 好んで座る窓際のテーブル席に座る。
 何年も前に破局をむかえていたが、年末から顔を出し口説くようになっていた。
 振られてもアプローチは衰えない。
 敏明は都内にイタリアンレストランを経営していて多忙な筈だが、時間を作って『幸茶亭』に来て。幸喜や順一をからかっている。
「何だか楽しい状態になっているみたいだな」
 幸喜と順一の微妙な距離感を見て、敏明は意味深に笑った。
 いつもならば、幸喜と敏明が会話していると、順一も自分にも関係のある話しだろうと割り込んで来るのだけれど、今日はチラリと見ただけで帰っていった。
 いつもと違う態度に、幸喜は淋しさを覚える。
 仕方がない事だと判っている。
 自分が言い出した事だ。
 でも、最近はこのまま順一と距離がドンドン開いていくのではないか。
 我がままな自分に呆れられて、別れを切り出されるのではないか、という心配が胸を刺すようになっていた。
 でも敏明の前では強がってみせる。
「貴方には関係ありませんよ」
「つれないな」
「いつもの事でしょ」
「華の様に美しい顔が翳りを帯びている。それもまた良いね」
「ありがとうございます」
 いつもの軽口を敏明は繰り返した。
 幸喜も真剣ではないことが判っているから、流すような対応だ。
 にっこりと接客用の笑顔で笑ってみせる。
 ランチの時間が終わり、客は敏明ひとりになっていた。
 加奈子も外出しており、店には二人きりだった。
「それで今回の喧嘩の原因はなんだったんだ」
「喧嘩なんかしていませんって」
「でも、順一くんと距離を置いているみたいじゃないか」
 幸喜は敏明が順一の事を名前で呼んだ事に気がつき、違和感を覚えた。
 敏明と順一は今までは姓で呼んでいた。
 馴れ馴れしい呼び方が、不快だった。
 思いつきなのかも知れ無いけれど。胸がざわつく。
「そうですか?」
「シラを切っても判るよ。その態度を見ていたらね。先週までとは全然違う。距離が違うしね。あんなにベタベタしていたのに」
「ベタベタなんかしてません」
 少なくともあなたの前では。幸喜は心の中で続けた。
「気持ちにブレーキをかけようとでもしたんだろう。俺のせいか?」
「あなたのせいじゃないですよ。自惚れないで下さい」
 敏明と別れて、人と触れる事に関して過敏になり苦手になったのは確かだったが、今回のは話しが別だ。
「やっぱり・・・当たりか」
 否定しているのにキッパリと敏明に言われ、幸喜はムッとする。
 幸喜が敏明と別れたのは、彼が結婚していたのを知ったからだ。
 幸喜と付き合い始めた時、敏明は既に妻帯者だった。
 ひょんな事から、その事実を知った。
 何も知らずに不倫をしていたと知り、幸喜は驚き傷ついた。
 傷は深く何年も癒えなかった。
 それを癒してくれたのが、順一だった。
「ずっと待てじゃ、順一が可愛そうだ。良いのか。そんな態度だと順一が離れて行ってしまうかも知れないよ」
「待てなんて、させていません。この前の休みはずっとベッドから出してもらえなかったし…あっ・・・」
 ノせられた!
 そう気がつくと幸喜は悔しそうな顔をして、眉をひそめた。
「成る程。強く求められて怖くなったのか。何だか可愛いな」
 順一が悪者のように言われて、幸喜はカッとなった。
 順一には非が無いのに。
 幸喜は口元を引き締めると、厳しい顔を敏明に向けた。
「決めつけないで下さい。僕が怖いのは順一じゃなくて。自分の心です」
「自分の心?」
 敏明は幸喜の言葉を繰り返しただけだったが、幸喜の心に真っ直ぐに突き刺さった。
 幸喜は敏明の前の椅子に座ると、項垂れテーブルの前で両手を握り合わせた。
「順一を捕らえて離さなくなってしまいそうで怖い。僕だけ見ていて欲しくて。二人だけで居たくて。このまま順一との恋に溺れるのが怖い」
「俺の時とは違うな」
 言われて気がつく。
 そう言えば、敏明との時にはこんな風に自分を失う事はなかった。
「あなたとはいつも同じ方向を向いていたから」
「そんな風に言われると今となっては恋愛だったのか判らなくなるな。君は私と付き合っている時に、そんな独占欲見せてはくれなかったから」
「あの時の僕は、あの時なりに貴方の事好きだったと思いますよ。でも仕事への姿勢が似ていたから、プライベートでもパートナーになれるんじゃないかって勘違いした事も確かですけどね」
「厳しいな」
「大人になったって言って下さい」
 幸喜はにっこりと隙の無い笑顔を向けた。
 常に前を自分の夢を見て、それに向かって歩いていた。
 そういう点で、二人はよく似ていた。
 だから一瞬の間でも一緒に歩いていけたのだろう。
 今でも恋人にならなければ、もっと近い親友のような存在になれたのではないかと思う事もしばしばだ。
「益々気に入った・・・君は情熱家だったね。ベッドの中では。今そんな事を思い出したよ。いつも表面上の部分しか見せてくれなかったから忘れていたけど。君は素敵だよ。やっぱり、君が欲しいな」
「人を物みたいに」
「ははは」
「本気になってくれたら、考えてもいいですけどね」
「今だって充分本気なんだけどな」
「敏明さんは本気じゃないから、そんな風に言えるんですよ」
「その素っ気無い態度。傷つくな」
 全く傷ついた表情もなく、敏明はそう言った。
 そして思いついたように付け加えた。
「何だか最近・・・順一君が可愛く見えてきたよ。あんまり放っておくと可哀想だ」
 可愛く?
 敏明から出ると思えない言葉が飛び出し幸喜は頭を傾げた。
 順一は敏明の事を、幸喜の元カレであり心を深く傷つけた張本人として敵視していた。
 仲良くなる理由が無かった。
「二人は仲が悪かったように思うんですけど」
「最近・・・君のお陰で仲良いよ」
 含みを持たせたもの言いをして、敏明は幸喜の顔を観察するように見つめた。
 何を考えているのか判らない。幸喜は思った。



                つづく

 迷い逡巡するもうひとつの自分とは裏腹に体は素直だ。
 発生した磁力に、唇を触れ合わせたい欲求に幸喜は抗う事は出来なかった。
 自分を忘れる事は本意ではない筈なのに…そう思う。
 幸喜は思った瞬間にその思いを否定した。いやそうじゃない。
 僕は自分に嘘をついている。本当は順一が欲しくて欲しくてたまらない。
 何もかも忘れてその存在を確認しかった。
 自分の全てを使って。順一を求める思いは深く底がない。
 何処までも貪欲に求めてしまいそうな自分が怖かった。
 片付けの手を休めて、カウンターから身を乗り出す。順一も反対側から身を乗り出した。
 無理な体勢。でもそれをおして近づき、お互いの唇をそっと触れた。
 何度も何度も唇を触れ合わせる。
 順一が幸喜の唇を舌先で舐めると、幸喜は薄く口元を開き自らの口腔へと誘う。
 舌を絡ませた濃厚なキスを繰り返した。
 抱き合いたいのにカウンターが邪魔で抱き合えない。
 もどかしさに焦れ、くちづけを解いて離れる。幸喜の瞳は情欲で濡れていた。
「順一・・・」
 切ない声を出し、幸喜はこの先を求めた。
「…ダメ…ですよ」
 搾り出すような声で順一が制する。
 明るい店の中。誰が入ってくるのか判らない状況でこの先は・・・流石にマズイ。
 止められる理由は痛いほど判っているはずなのに、幸喜は自制出来ない。したくなかった。
 言えない心の言葉を訴えるように熱っぽい視線で幸喜は見つめた。
「・・・順一」
 切なく名前を呼ぶと、順一は目を固く瞑り、開けた。
 素早い動作でドアへ向かい、窓のカーテンを引き、ドアの内側から鍵をかける。
 店半分。客の座る側の電気を消す。
 そのまま幸喜の腕を掴んでキッチンの奥、食器棚とストッカーの間の壁に押し付けた。
 強く抱きしめると、激しくくちづける。
 幸喜も必死でくちづけに応える。貪るような強さで、お互い求め合った。
「幸喜さん。好きです。好きで好きで堪らない」
「僕も・・・順一」
 お互いに心の内を曝け出し告白しあう。
 くちづけをしながら、強く抱き合い体を絡ませる。
 服の上から敏感な場所を擦らせ合い、体を高めていった。
「・・・ぁ・・・ふっ・・・」
 服で隔てた刺激がもどかしい。幸喜は喘ぎながら訴えた。
「もっと…ちゃんと触って」
 甘えた声で幸喜が言うと、順一は笑みを浮かべ、幸喜のズボンの前立てをくつろがせる。
 幸喜の前に跪き、中心を引き出した。芯が通って堅くなっている。
 先端に息を吹きかけると、刺激に反応するように震えた。
 順一は嫌がる様子なく、立ち上がる茎の舌先で舐め、口の中に飲み込んだ。
「ぁ・・・ん・・・っ」
 幸喜はいやいやをするように首を振る。何度もされているのに、慣れる事はない。
 気持ち良すぎる刺激に眩暈がした。強烈な劣情に自分自身すら怖くなるくらいだ。
 薄く目を閉じ、上顎を反らせて官能を追う。順一の髪の中に指先を入れ切なげまさぐる。
 すぐに頂点は訪れそうになる。
「も…順一…でる…口…離して」
 そのまま口に出してしまうのは、恥ずかしく悪い気がして腰を引こうとした。
 でも順一は両手でシッカリと腰を掴んで、動きを封じた。
 抵抗は空しく、与えられる気持ち良さのまま順一の口に欲望を吐き出した。
 順一は幸喜のズボンを整えると立ち上がる。
 幸喜を胸に抱きしめた。髪に顔をうずめる。
「気持ち良かったですか」
 包み込むような抱擁に弛緩して、幸喜は順一の体に凭れ掛かった。
「・・・・・・うん。良かった」
 余韻を味わうように目を細めると順一を見つめた。放出した事で少しは落ち着いたが、幸喜の体の奥で燃える炎は揺らめき、内側から焼いていく。 
「でも…もっと…」
「無理させたくないんです。今日はこのまま休みましょう?」
 順一の優しい言葉に幸喜は首を横に振り、いやいやをする。順一は自分の体を心配してくれているのに。それを拒否するような態度。
 こんな事を続けていたら、順一に呆れられているかも。
 我儘な自分を疎ましく思う日が来るかも知れない。
 もっと自制と節度をもたなくては。
 自分を抑制する言葉は心の中だけで空回りする。
 困らせてしまっているのは判っている。でも・・・
「お願い」
 このままでは治まらない熱。幸喜は救いを求めて順一に縋る。
 順一はしばらく幸喜を見つめ考えていたが、幸喜の視線が求めるまま、シャツのボタンに手をかけた。



 翌日。
 幸喜の体調は前日より良くなるどころか更に悪化していた。
 全身が鉛のように重かった。
 昨夜も幸喜の望むまま、深夜まで求め順一は満たしてくれた。
 心は満たされていたが、それ以上に体が辛い。
 朝、顔色の悪い幸喜を見て、順一は後悔を顔をに浮かべ、店を休みにする事を提案した。 
 幸喜はそんな自分勝手な理由で休みにする事に抵抗があって、無理して店を開けた。
 正直、体はきつかった。でも責任感だけでなんとか動く。無理して働いた。
 バイトに入った加奈子は更に体調の悪そうな幸喜を見て、呆れたような困ったような顔をする。
 大きなため息をつくと、強引に幸喜にマスクをかけさせ、必要な時以外は座っているように命じた。
 客には「マスター。風邪引いちゃったみたいだから。明日は休みます」と幸喜の代わりに公言して回る。
 座る時間が長くなると辛かった体が少し楽になる。
 座ったまま加奈子の接客を見ながら、幸喜は深く反省した。ダメダメな今の自分に失望する。
 前の恋愛でも夢中になって周囲が見えなくなった時期があったけれど、今ほどではなかった。
 病気の叔父の看病も店の事も出来ていたのに。
 順一に対する気持ちは果てがなく、貪欲に深くなっている。歯止めをかけなければどうなるか判らなく怖くなる。
 久しぶりにかかった恋の病の重さ、その重みを感じた。
 このままじゃ僕も店もダメになる。幸喜は自ら実感した。
 だったらどうしたらいい?
 順一が目の前にいれば欲しくなる。求める気持ちが抑えられない。
―――少し頭を冷やして、距離をおいた方がいいのかな。
 幸喜はスツールで小さくなりながら考えた。


 ランチタイムの終わり頃。
 順一が心配そうな表情をして『幸茶亭』に顔を出した。
 マスクをかけた幸喜を見て驚く。次の瞬間には心配そうな労わる表情に変わる。
 順一の表情を見て、幸喜は自分が言おうとしている身勝手な言葉に心が痛んだ。
 でも決めてしまったからには、言わないわけにはいなかい。
 幸喜は加奈子に声をかけて、店の留守番を頼み、順一を店の裏に誘った。
 明るい日の光の下、寒い屋外ならば甘い気持ちにブレーキがかかると思ったからだ。
 だけど壁の前に並んで立ち、順一の存在を隣に感じただけで、幸喜の体の奥がじんわりと甘く溶け始める。
「風邪ひいてしまいました?」
 耳元に顔を近づけられ心配そうに問われる、耳をくすぐる声に胸が騒いだ。
 幸喜は首を横に振った。マスクを外す。
「マスクは加奈子ちゃんのアイデア。風邪じゃないから大丈夫」
「ああ。そうでしたか」
 耳元で密やかな声が撫でる。小さな声で会話するだけなのに、体の奧に情欲の火が灯った。
 火照る体を自覚して、恥ずかしさに俯くと順一が幸喜の体を引き寄せた。
 驚いてビクッと震える。距離を置こうと思っていたのに。体から力が抜けそうになる。
 そんな風にされると溶けてしまいそうになる。混濁する意識に幸喜は抗った。
 でも、それじゃダメなんだと自分を奮い立たせ、手を突っ張って順一の手から逃れた。
 順一は幸喜の嫌がる様子を知ると、すぐに手を離して幸喜を自由にする。
 二人の間に微妙な距離が出来た。
「・・・私が無理させたんですね」
「そんな事ない。僕が悪いんだ。順一は止めてくれたのに」
 自分で嫌がったから出来た距離なのに、幸喜はその空間に寂しさを覚えた。
「やっぱり私の責任ですよ。幸喜さんを守るって決めていたのに」
 優しい言葉が心に染みる。これから言おうとした言葉が言い辛くなる。
 だけど言わないわけにはいかない。幸喜は顔を上げて、順一を真っ直ぐに見た。
 覚悟を決めて、口を開く。
「少し逢わないでいよう」
 口に出すのは辛かった。
 恋が叶ったばかり。
 今が一番楽しい時期のはずなのに、こんな選択しか出来ない自分が嫌だった。
「えっ」
 幸喜の言葉を聞いて順一は驚愕を露わにした。
 順一の視線を受け止める事が出来なくて、幸喜は視線を避け俯いて言葉を続けた。
「距離と時間を置きたいんだ」
「……私のせいですね」
 ぽつりと零れるように順一は呟いた。
 別れを切り出していると誤解しているのだろうか。
 声は重く哀しみと後悔が込められている。
 幸喜の胸が締められるように苦しくなった。



                つづく

 午後の仕事、幸喜は意識して、ゆっくりのペースにした。
 集中力に欠いている事が判っているから。
 今日ばかりは基本を思い出しながら慎重に仕事をこなしていった。
 手際はいつもよりも悪かったけれど、味を落とす事だけはしたくなかった。
 午後七時を過ぎ、数人いた常連客が帰ると加奈子はテキパキと閉店の準備を始めた。
 閉店時間は午後九時だが、この時間から来る客は常連客が2〜3人いるかどうか。
 加奈子は七時半にはアルバイトを上がる。その前に出来る事をしているのだ。
 幸喜の方は空いた時間に、明日の準備を始める。
 閉店時間には、翌日の自家製パンや焼き菓子の仕込みも出来ている場合が多い。
 加奈子の作業が終わりそうなのを見越して、幸喜はカウンターの席に温かい紅茶と焼き菓子を乗せた銀製のトレイを置いた。
 焼き菓子は朝、幸喜が焼いたガレットとマドレーヌ。
 幸喜は自分の不手際で加奈子に負担をかけた事を労おうと、いつもよりも数を多くして出した。
「お疲れさま」
 幸喜の声を聞いて、加奈子は視線を移す。幸喜の手に持つトレイを見て、顔を輝かせた。
 急いで弾むように、カウンターに座る。
「わぁ。ありがとうございます。こんなに良いんですか?」
「今日は僕の調子が悪くて、いつもより仕事してもらっちゃったから。おまけ」
「お客さん少なかったから、そんなでも無かったですけどね…せっかくですから。ありがたく頂きます」
 加奈子は嬉しそうな笑顔をして、遠慮なくトレイに手を伸ばす。
 幸茶亭でのアルバイトは昼食とお茶がつく。
 新しいメニューの試食もある。
 幸喜の事をアイドルのように思っており、食いしん坊で喫茶店のメニューのファンでもある加奈子はバイト代よりもバイト特典が目当てでバイトをしていると言ってもいいくらいだった。
 嬉しそうな顔をして食べる加奈子を見て、幸喜は微笑むとスツールを持ってきて、カウンター越し加奈子の前に腰掛けた。
「そろそろ、バレンタインのセット決めなきゃって思っているんだけど。何か良い案ある?」
 お客の半分は加奈子の通っている大学生だから、加奈子の意見を聞くことは重要だ。
 軽い食感のガレットをサクサクと齧りながら、加奈子は目をクルクルさせて考える表情をした。
「ショコラティエのバレンタイン・チョコは今年はどうなのでしょうね」
 加奈子は幸茶亭に入荷しているチョコレート専門店の名前を挙げた。
 隣町にある店で厳選された材料と繊細な味や形にはファンも多い。
「店長に聞いたら、今年は特別な事はしないらしいよ。新商品は出さないで、詰め合わせやサイズ展開のバリエーションで行くって言ってた。今回はいつもの半分の箱も出すって」
「えっ・・・そうなんですか。小さいサイズは私も予約します!今年は大きい箱と小さい箱ひとつずつ」
「彼氏に二個なの?」
「何言っているんですか。そんな事しませんよ」
「じゃあ。義理チョコ?」
「義理チョコには、そんなにお金かけませんって」
「そう…だよね」
 不思議そうに幸喜が返事をすると、加奈子は苦笑しながら口を開いた。
「私用に決まっているじゃないですか。あいつったら去年のチョコ。私にお裾分け無くて全部自分で食べちゃったんですよ。美味しいから独り占めしたんですよ」
 ひとり憤慨する加奈子をみながら、幸喜は小さくため息をつく。
 彼の独り占めは美味しかったからあげなかったんじゃなくて加奈子からもらったチョコだったからでは・・・そう幸喜は思ったが口には出さなかった。
 美味しいものに目の無い加奈子としては、美味しい物は分けて欲しいと思ったのだろう。
 長い付き合いの彼だという話だ。
 そのエピソードからも、自然体に付き合っている様子が垣間見れて微笑ましく思う。
 加奈子は紅茶を一口飲むと言葉を続けた。
「そうですね・・・年末好評だったローズティとホワイトチョコのセットと、チョコシフォンとブレンドティーのケーキセットは外せないと思うんですよね」
 加奈子はここ数年のバレンタインの人気メニューを上げた。
「どちらもここ数年の人気だからそれは外さないけど・・・今年ならではのメニューがあっても良いと思うんだよね」
 飽きさせないメニューの豊富さは幸茶亭のウリのひとつだった。
 それはこの店がそもそも趣味の延長である事にも一因する。
『幸茶亭』の入っている四階建てのこのビルは幸喜の持ちビルだ。
 二階と三階は貸事務所で、その家賃収入で少ないながらも幸喜一人で生活するには充分な収入がある。
 四階部分は幸喜の居住空間。
 このビルは幸喜の祖父の土地に両親がビルを建て、一階部分で好きな喫茶店を開いたのだ。
 元々土地のあったところに建てたから、借金は少なく幸喜が店を継いだときには完済済してあった。
 だから店の存続の為には赤字さえ出さなければいいのだった。
 幸喜自身幼い頃から『幸茶亭』のやり方を見てきたから、自分も新しい挑戦をしつつ楽しみ、お客さんを喜ばせるメニュー作りを心がけていた。
 加奈子は「そうですねぇ」と言い考え込む。
 幸喜も普段の仕事の時と同じように考えようとしたが、体の中から滲み出る疲労感を強く感じて考えが定まらない。気がつくとボンヤリとしていた。
「マスター。何だか今日はけだるい感じですね」
 加奈子は幸喜のそんな様子を見て、声を押さえ控えめに幸喜に言った。
 ハキハキと物を言う彼女のいつもとは違う様子を、幸喜は首を傾げる。
「少し疲れているかな」
 何で疲労したかは言えないが、疲労自体を隠す必要は無いので幸喜はあっさりと返答した。
 加奈子自身も夜遊びの後、疲れた顔をしてバイトに出て来ることもある。そんな気軽な感じで幸喜は言った。
 だが加奈子はその言葉を聞いて、チラリと意味深な表情で見ると、目を伏せた。
「悩殺力がアップしていますよ」
「変な事言わないでよ。加奈子ちゃん」
「ホントですって」
「マスターはみんなのアイドル何ですからね。体調の管理してもらわなくては困ります」
 意を決したように顔を上げると、少し頬を赤らめて加奈子は言う。
 そんな彼女の様子を見て、幸喜は疲労の原因も知られていたと察した。
 恥かしくなり背中に汗をかく。
 全身真っ赤になった。
 加奈子の顔を見ていられなくて幸喜は慌てて視線を逸らすと、立ち上がり片付けをはじめた。
 加奈子は後悔を顔に浮かべるも、幸喜に声をかける事なく気まずそうに菓子を食べ続けた。


 少しして、突然ドアが開かれた。
 二人の視線がドアに集中する。
 そこには幸喜の恋人、順一の姿があった。
 二人の視線に気がつくと、順一はいつもの大らかな笑顔を浮かべた。
 幸喜よりも年下だが、長身で均整の取れた体格をして穏やかな表情をしている事から、いつも年上に見られている。 
 『幸茶亭』近くの会社で仕事をしており、暇な日にはちょくちょく顔を出していた。
「こんばんは。今日は忙しくて・・・こんな時間まで休みなしですよ」
 喋りながら店に入ると、加奈子座っている場所の隣に、いつものカウンター席に座った。
「お疲れさま」
 幸喜は強張った顔を無理矢理笑顔に作り変え、順一に声をかける。幸喜の労いに順一は満面の笑みを浮かべた。
 順一の包み込むような瞳。幸喜は惹きつけられそうになる。
 二人の視線はすぐに絡みつき、見つめ合った。
 幸喜の目が夢見るような色を浮かべて順一を見つめた。
 急に二人が二人だけの世界になったのを見て、加奈子は「はぁ」と大げさにため息をついた。
「厚木さん。マスターにあんまり無理させないで下さいよね」
「え?」
 突然、釘を刺され順一はキョトンとした表情をした。それを聞いて幸喜は再び真っ赤になる。
「じゃあ。お邪魔虫は帰りまぁす」
 加奈子はおどけてそう言うと、勢い良くスツールを下りた。
 時計は七時四十五分を指していた。いつもよりも遅い時間だ。
 加奈子は自分の使った食器を洗うと、コートを着てマフラーを巻いた。
「マスター。今日はゆっくり休んで下さいね」
 含みのある笑顔を加奈子は浮かべると幸喜にそう言って店を出て行った。
 幸喜は真っ赤な顔をしたまま、俯いて片付けを始めた。
 カウンター越しに順一が手を伸ばして幸喜の頬に触れた。
 幸喜が視線を上げると、順一はゆっくりと頬を撫でた。
 順一の瞳には愛しさがあふれている。心地良さに幸喜は目を細めた。順一の大きな手に触れられた頬が熱い。
 熱は頬だけでなく、奧底からジンワリと湧いてくる。
 こんな何でもない触れあいだけでも、体の中に熱が生まれて来る。
 今、加奈子に釘を刺されたばかりなのに、欲しくなる。
「幸喜さん。本当に疲れた顔をしている。私のせい…ですよね」
 後悔する順一の声。慰撫する動きの手のひらは優しい。幸喜は視線を上げて順一を見つめた。
「順一のせいじゃないよ。僕が悪いんだ」
 幸喜が色素の薄い瞳で順一を見つめた。二人の視線が絡みついた。
 二人の間に見えない磁力が生まれていく。
 くちづけの予感。
―――このままだとまた流されてしまう・・・自分自身の欲望に。
 幸喜はそう思い、自分を諌めようとした。


                つづく

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