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本書は「東京新聞」史といえるもので、その沿革について以下のように書かれている。
「もともと東京新聞は大東亜戦争中の1942年、東條英機内閣の強制により都(みやこ)新聞(本邦初の夕刊紙として1884年に仮名垣魯文が創刊した今日(こんにち)新聞の後身、主筆に黒岩涙香ら)と国民新聞(1890年に徳富蘇峰が創刊)が合併、1964年までは千代田区内幸町2丁目10番地の社屋で発行していた。この跡地(今は2丁目2番地1号)に日本プレスセンタービルが建っている。今日新聞は5年後に都新聞と改題して朝刊紙に。記者に長谷川伸や平山蘆江らがおり、中山介山『大菩薩峠』なとを連載。国民新聞は社長兼主筆蘇峰の弟蘆花の『不如帰』などを連載した。(中略)
1967年9月までは社団法人東京新聞社が発行したが、以後は中日新聞東京本社(港区港南4-6-49)に移り、2006年には旧本社に隣接の東京中日スポーツ(千代田区内幸町2-1-4)へ。「発行元が変わろうと紙名は同じなんだし」とおっしゃるか。(中略) ともかく社団法人時代に入社した者は、中日新聞に吸収される以前のものを「旧・東京新聞」と呼び、現行の中日新聞発行のものと明確に区別、かつて社団法人に在籍したものの有志で組織するグループも東京新聞旧友会と名づけ、中日新聞とは無縁の存在である。
以下重要なことが書かれている。
「旧から現在までを通算すれば、東京新聞は2017年に半世紀になったが、縮刷版も社史もなくて、それどころか、内幸町の旧社屋が敗戦直前に戦災をこうむったため、1945年5〜6月の約1ヵ月分は欠落のまま。現在の発行元である中日新聞東京本社はもちろんのこと、都内の大型図書館にもない。当然ながら、縮刷版代わりマイクロフィルムも、前記は抜けている。」(1行列買の旧・東京新聞)
ボクは昨年1月から購読紙を東京から朝日に代えた。東京は首都圏を中心とするローカル紙で最近は発行部数の減少も著しい。おそらく朝日の10分の1以下である。いくら東京新聞旧友会と名付けようとも中日新聞の応援なしにやっていけないことだけは事実である。ボクが東京新聞を読み始めた頃と比べると読者サービスも格段に落ちた。
長谷川卓也著
進駐軍がいた頃−東京新聞記者として
彩流社
初版2018年12月15日
定価 1、700円+税(アナログ版)
「今なぜ進駐軍なのか」、それには個人的理由がある。実はボクの父(1997年没、享年77歳)は昭和21年南方より復員後英会話学校で英語を学び米軍調達庁に就職したからだ。そして、ボクが中学1年頃、大手製鉄会社に転職した。米軍調達庁では検査官=Inspectorとして米軍に卸す物資の検査をしていた。もともと技術畑の出身ではないが、その時の経験が買われて製鉄会社に採用されたのだろう。本書が目に留まった理由である。
進駐軍の思い出といえば、旧グランドハイツでの野球大会や丸の内界隈の進駐軍の事務所に連れていかれ、外人に英語で話しかけられたことである。
戦後まもないころで日本は物資不足だった。そんな中で我が家は軍人から物資の援助を受け、ずいぶん助けられたようだ。粉ミルクの援助も受けたと聞いた。食料難の時代にボクが173センチの身長があるのは供与された粉ミルクのおかげだろうか。家にはナイフやフォークは事欠かなかったし、コーヒーを沸かすパーコレーターまであった。父は髭剃り後にオールド・スパイスを使っていた。近年懐かしくてネットで買ってみた。ガラス瓶がプラスチック容器に変わったものの乳白色の容器に赤い文字は変わらない。その名の通りスパイシーな香りがする。またボクは長いこと払い下げられたおもちゃで遊んだものだ。鉄製の頑丈なトラックのおもちゃだった。
おぼろげに記憶しているのだが、旧グランドハイツでの野球大会で大きなチーズの塊りの乗った食パンが出てきた。子どもにはとても食べられるものではなかったが、得体の知れないチーズの味だけは奇妙に覚えている。こうした物資の違いを見ても
日本がアメリカに戦争で勝てるわけがなかった。
読書中=天后空
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今でも居るんですけど。しかも沖縄には大量に。
事故起こしてもこの国に裁判権がないままなんです。
首都の空も大方占領され続けています。
2018/12/13(木) 午後 7:48 [ 櫻(N) ]
> 櫻(N)さん
1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約によって日本は占領を解かれ主権を回復したはずなのですが、事実上今も米軍の支配下にありますね。コメントありがとうございます。
2018/12/14(金) 午前 11:11 [ 天 后空 ]