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眼下に見えるのは台北市内
日本列島沿いの太平洋(成田に向かう機窓から)
19日から3泊4日で台湾・台北に行ってきた。4年ぶりの出国だった。過去中国旅行以外はすべてツアーだったが、今回は息子が同伴したので事前に航空券やホテルを予約した。息子は17年間中国にいたので北京語(普通話)※には不自由しない。滞在中は毎日自由行動で『地球の歩き方』を手掛かりに移動した。現在までのところ旅行書として本書の右に出るものはないのではないかと思う。長期間にわたる多様な情報が蓄積されている。
※何度か道に迷って通りかがりの人に聞いたが、息子の話しによると言葉が聞き取りにくいと言った。原因は庶民が北京語ではなく台湾語を話すかららしい。台湾では北京語、台湾語、客家語の三つに分かれているようだ。
旅客機はキャセイ・パシフィック(Cathey Pacific)=國泰航空と日航との共同運航便。成田発台北経由香港行きだった。機材はBoeing777。10年前は最新鋭機だったが、今では老朽化が目立つ。エコノミーの座席はLCC並みのギリギリの配列で、往路はかつて見たことがないような超満員だった。航空機の満員電車並みのギュウギュウ詰めは非常時に大変危険である。格安は良いが安全性を度外視した格安は頂けない。ちなみにボクの買ったチケットはLCCではなかった。
旅行径路は成田→桃園国際空港→皇家季節酒店→國父(孫文)記念館→故宮博物院という定番の観光ルートだった。移動手段はMRT(捷運)とタクシー(計程車)※だった。食事は朝食はホテル、昼食は出先、夕食はホテルから近い双連の寧夏観光夜市を利用した。台北市内には至るところに夜市がある。露店や半露店の飲食店が集まっている。くさやを焼くような強烈な臭いが周辺に漂っている。
中国と台湾との間に外見上の大差はないが、台湾人の方が静かでマナーがよいように思う。またきわめて親日的である。日本製品のテレビの宣伝広告が多く、たまたま乗ったタクシードライバーの一人は過去に池袋で働いていたと日本語で話し、車内のモニターで日本の演歌を流していた。もう一人のドライバーは都内新大久保にマンションを所有していると中国語で言った。
出発前日太平洋岸の花蓮で震度7の地震が起きた。台北市でも震度4の揺れを観測し、一時桃園国際空港が閉鎖され、MTRが全線ストップしたとの報道が流れた。出発を翌日に控え大変心配したが、当日のニュースで空港も鉄道も平常通り運行していると知り安心した。 しかし、着いた翌日から余震に見舞われた。ホテルがミシッと軋み大きく揺れた。日本と違い建物の耐震性に疑問があるので怖かった。わざわざ地震の被害に遭いに台湾に来たかと思ったほどだ。また大きい地震が来て予定通り帰国できなかったらと不安になった。台湾が地震多発国であることは熟知しており、旅行計画を立てた段階でかすかな不安があった。 なお、台湾はまぎれもない独立国家であり、中国の圧力で国際社会がそれを承認しないという構図が浮かびあがってきた。かつて一度も民主主義を経験したことのない中国はむしろ台湾に見習うべきではないのか。これはボクの夢想だが、中国と台湾が一体となって総選挙を行えば平和的に統一される。すなわち中国共産党、国民党、民進党、親民党等等が競って選挙をすればよいのである。対立政党を武力によって弾圧するのではなく、選挙によって選ぶのが民主主義のルールである。
ベトナムほどではないにしても台湾もバイクが多い。外を歩くと痰がからまる。帰国後スッカリ風邪を引いてしまい今も咳が止まらない。大気汚染のためではないかと思う。念のため医師から抗菌剤を処方された。 又露店や半露店の屋外での調理も不衛生で大気汚染につながるのではないかと思う。 台湾は狭い国土に山が多く、わずかな平地に台北、台中、台南など主要都市がある。人口も約2000万人だが、減少傾向にある。
最後に中国が大皿文化なら台湾は小皿文化といえよう。
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祭祀としての天皇 国家の起源は宗教であり、日本国の起源は神道である。これを国教化すれば国家神道となり、他宗教を弾圧する。
天皇は日本国の象徴であると同時に神職でもあるのだ。天皇制を支持するしないにかかわらずこれだけは知っておく必要がある。以下祭祀としての天皇の年間行事。在位中は皇居の一角で毎年同じ行事を繰り返すものと思われる。 宮中三殿
皇居内の賢所・皇霊殿・神殿の総称
賢所(かしこどころ)
皇祖天照大御神がまつられている。
皇霊殿
歴代天皇・皇族の御霊がまつられており、崩御・ 薨去の1年後に合祀される。
神殿
国中の神々がまつられている。
三殿に附属して構内に、神嘉殿・神楽舎・陵綺殿・幄舎等の建物がある。
祭典
大祭
天皇陛下ご自身で祭典を行われ、御告文を奏上する。
小祭
掌典長が祭典を行い、天皇陛下が礼拝される。
旬祭
毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇陛下のご礼拝がある。
掌典職
国家行政機関たる宮内庁の組織とは別の内廷の組織で、皇室の祭祀のことをつかさどっている。
掌典長の統括の下に掌典次長・掌典・内掌典などが置かれている。
主要祭儀
1月1日 四方祭
歳旦祭
1月3日 元始祭
1月4日 奏事始
1月7日 昭和天皇祭
1月30日 孝明天皇例祭
2月17日 祈念祭
春分の日 春季皇霊祭
春季神殿祭
4月3日 神武天皇祭
皇霊殿御神楽
6月16日 香淳皇后例祭
6月30日 節折
大祓
7月30日 明治天皇例祭
秋分の日 秋季皇霊祭
10月17日 神嘗祭
11月23日 新嘗祭
12月中旬 賢所御神楽
12月23日 天長祭
12月25日 大正天皇皇霊祭
節折
12月31日 大祓
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保阪正康著
平成史
平凡社新書
初版2019年3月18日
定価713円(Kindle版)
前回ブログで二人の昭和史研究家・保阪正康氏と半藤一利氏との対談『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(文春文庫)を取り上げた。今回はそれに続く保阪正康氏の著作である。
元号は天皇の在位に基づく時代区分であり、もし天皇がいなければ平成の時代は単純に西暦1989年〜2019年の間を指すに過ぎない。平成史は単純にその間の出来事を指すに過ぎない。本書は昭和との対比において語られることが多いが、昭和もまた単純に西暦1926年〜1989年の間を指すに過ぎない。もし昭和の時代がなかったなら、昭和天皇がいなかったら、日中戦争や太平洋戦争が起こらなかったかといえばそれはわからない。戦争は国際情勢の中から起きるものだから、また別の形を変えて軍部が独走したかもしれないのである。
本書は元号に基づいて書かれているからそれを否定すれば本書を論じる意味がなくなる。元号=天皇制の問題は後述するとしてとりあえず本書の記述に沿って進める。平成史とは文字通り平成の史実にほかならない。
取り合えず本書の全体像をつかむために目次を抜き出してみる。
序章 天皇の生前譲位と「災害史観」
第一章 世界史の中の「平成元年」
第二章 天皇が築いた国民との回路
第三章 政治はなぜ劣化したか
第四章 〈一九九五年〉という転換点
第五章 事件から見る時代の貌
第六章 胎動する歴史観の歪み
終章 平成の終焉から次代へ
読書の醍醐味はその中から新しいことを発見できなければ意味がない。論理的な一貫性はないかも知れないが本書を読んで学んだことをアット・ランダムに抽出してみる。
一著者は平成28年(2016年)8月8日の平成天皇の「生前譲位」を訴える国
民向けビデオメッセージを昭和20年(1945年)8月15日の昭和天皇の玉音放送に匹敵する「革命的」なものであったと位置づけている。
―著者は「災害史観」という新しい史観を提示している。「災害史観」とは、「いわば関東大震災を因として、果となった歴史的事実について深い検証はしてこなかった。実はここに誤りがあったのではなかったか。」 として、その後の社会現象に「関東大震災の後遺症がからんでいるのではないだろうか。」と述べている。そして、「災害史観」の骨格として以下の三点を挙げている。
一形あるものは壊れるという絶望感
二朝鮮人、中国人虐殺にみられる非人間性
三死へと直線的に向かう虚無感
そして、昭和に続く平成の「災害史観」として、
一平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災
そのほぼ2か月後に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件が上げられる。
いわば災害による人心の動揺が次の災害を呼び起こす結果となっている。
個人レベルに置き換えても事件・事故、家庭の不和、病いなど一つの不幸が次の不幸を呼ぶことはありうるし、決して偶然ではない。平たく言えば、災害が災害を呼び、不幸が不幸を呼ぶ。
更に、
二平成23年(2011年)3月11日に起こった東日本大震災
東日本大震災は地震・津波という天災と東電福島第一原発の爆発事故という人災との二つの面から成っていた。
一「あえて初めに語っておくことにしたいが、昭和、平成というのは元号であり、西暦のように百年を単位とする歴史観とは大きく異なっている。私はこうした元号は文章上の“句読点”のようなものではないかと思う。」(元号は“句読点”)
断っておくが、「西暦」も決して世界共通の国際基準というわけではない。西暦もまたキリスト教歴に過ぎない。元号が天皇制に基づく日本固有の暦とすれば、西暦はキリストの生誕に基づく宗教歴に過ぎない。世界にはイスラム歴もあれば仏教歴もある。
西暦が百年を単位とした通年的なものであるとすれば、確かに元号は通年を区切る“句読点”のようものだ。
一「社会主義という思想や理念の崩壊によって、人類史はいわば原始的な時代に入っていくことになった。たとえばユーゴスラヴィアは五つの民族が集まってつくった独立国家であったが、その民族的対立や宗教上の対立はすべてマルクス・レーニン主義という思想で縛りあげていた。したがって民族や宗教といった人間の地肌による対立は、思想で覆われていたのである。」(昭和天皇の死と冷戦終結)
同じ問題に直面しているのが現在の中国である。中国もまた多民族国家である。中国共産党の崩壊=中華人民共和国の崩壊という危機感を持って指導部は人権弾圧も辞さず引き締めを図っている。
―著者は講演などで歴史修正主義の人たちから「先生の考えは、自虐史観ですね。」と問われると「『私は自虐史観ではなく、自省史観の側に立っている。昭和という時代を自省や自戒で見つめ、そこから教訓を引き出し、次代につないでいくという立場だ』と答えることにしている。」(『自虐史観』という言葉)
―「青年の社会改革のエネルギーが、政治から宗教に移ったということであり、それがなぜかと問うてみれば、政治的には社会主義体制の崩壊により、政治改革を行うべきその目標がなくなってしまったとの意味になった。
オウム事件はそうした時代潮流をそのまま反映しているといってよかったのである。」(オウム事件とは何だったのか)
ボクはこの未曾有の事件を今一つつかみかねていた。「目から鱗」というか保阪氏の解釈を読んで初めてこの事件の本質が垣間見えるような気がした。ボクの持論だが、国家の起源は宗教である。どんな宗教も自分たちの理念を理想とする国家を作ろうとする。そのためには暴力的手段に訴えることも辞さない。最近『宗教はなぜ人を殺すのか』という衝撃的な本が上梓され、本ブログでも取り上げた。宗教が常に平和志向だと考えるのは誤りである。
―「この十年(平成七年〔1995年〕〜)の間、首相は村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎と続いた。村山を除いてはいずれも昭和十年代生まれである。太平洋戦争が終わったときには小学生か、それとも小学校に入る以前の年齢であった。そのことは戦後民主主義を肌で学んだ世代ということがもきた。」(戦後民主主義を肌で学んだ指導者たち)
流れが変わるのは第二次安倍政権になってからだ。あからさまに議会無視の戦後民主主義を否定するような政治姿勢へと変わった。
―平成9年(1997年)7月「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」が成立した。
「脳死判定の基準(厚生省脳死研究班が1985年にまとめた基準。杏林大学の竹内一夫教授が主任研究官だったために竹内基準といわれる)とは、6つの条件が満たされなければならないとされていた。この中には深昏睡、自発呼吸消失、瞳孔散大、脳幹反射消失などあらゆる器官の消失状態を指すとされていた。この基準はこれまでの心臓死の手前の段階であり、脳死状態といってもまだ身体にはぬくもりがあるし、遺体という感じではない。ただ脳幹反射が消失状態であるために、生への復元はほとんどゼロに近い。」(平成における死生観)
人の死には脳死と心臓死があり、脳死は心臓死の手前の段階であることを初めて知った。臓器移植にとって「脳死」は必須なのだが、人間の死に対する感情には複雑なものがある。一方で再起不能とわかっていても、身体にぬくもりがある限り死と認めたくないという感情もある。
―「(前略)戦後の死生観は一分一秒でも長く心臓を動かすという生命延長主義がその骨格となった。医療現場はまさにそのようになったのである。
それに抗するように安楽死とか尊厳死といった考え方が少しずつ平成という時代に表面化してきた。死を単に生命の延長という量で捉えるのではなく、生の実感が伴ってこその生命であり、その実感を味わうことが不可能ならば生には意味がないという、質の時代へ変化してきているというのが尊厳死などを望む人たちの考え方となったのである。」(時代に補助線を引いた西部邁の自裁)
生を量としてではなく、質としてとらえるという視点は新しい発見である。何が何でも長生きすればよいというものではない。「生活の質」が維持できなければ生きていもしょうがないという考えも成り立つ。
元全学連副委員長で東大教授、評論家で独特の語り口の西部邁氏の死については見解を留保する。
―「厚生労働省はこのひきこもり(平成の時代は子どもたちが室内に閉じこもり、内向きの遊戯に没頭するようになった。『ひきこもり』という現象が子どもたちばかりではなく一般化するようになった)について『仕事や学校に行かず、且つ家族以外の人との交流をせず、6ヶ月以上続けて自宅にひきこもっている状態、時々は買い物などで外出することもある』といった状態を指すとしている。」( “ひきこもり”という時代の病)
「ひきこもり」とは何か、ボクにも今一つわからなかったが、以下のような説明を聞いて少し理解できるようになった。
「個人と社会の基本的な関係として、個人には社会に身を置く意欲、労働にかかわる意欲、そして他者との関係に積極的意味を認める意欲があることが必要である。」(同)
「ひきこもり」とはこの意欲の全般的な減退を指すことはわかった。それでは意欲を取り戻すにはどうしたらよいかが問題解決の糸口となるだろう。
―平成に入って猟奇的殺人や「人を殺してみたかった」などというわけのわからない事件が増えた。その理由を著者は「戦後民主主義を支えてきた人命尊重とか人権尊重といった価値観や倫理観が崩れつつあるということだろう。人道主義とかヒューマニズムといった概念が空洞化を起こしているといってもいい。」(光市母子殺害事件)
「人命尊重」とか「人権尊重」とか当たり前のことが当たり前でなくなっている社会は恐ろしい。まるで戦場か野生動物の世界に生きているのも同然だからだ。
―「安倍政権の下、自国優越主義的なナショナリズムが再燃し、極端な右派が勇気づけられ、リベラルなメディアを攻撃し、ジャーナリストや研究者を脅し、そして在日コリアンを標的とするヘイトスピーチが起きている(アメリカCNNテレビ)」(日本は『右傾化』したのか)
前回作家の森村誠一氏の自伝『遠い昨日、近い昔』を取り上げた。森村氏の代表作『悪魔の飽食』は300万部の大ベストセラーになった。今旧日本軍を告発したこのような本が大ベストセラーになるだろうか。答えは“ノン”である。それに代わって『永遠のゼロ』のような戦争を美化するような本がベストセラーになっている。明らかに時代は変わっており、右傾化している。「まさにデモクラシーの後をファシズムがついてくる」(第6章 胎動する歴史観の歪み) といえるだろう。
―なぜ平成天皇は生前譲位を求めたのか?
それには二つの理由がある。
その1 大正天皇→昭和天皇、昭和天皇→平成天皇の代替わりの時にどちらの天皇も病いに伏し「天皇はいるけど、天皇は存在しない 」という矛盾した状況が現出した。
その2 「皇太子は先帝の死という悲しみとともに、践祚の儀式(剣璽渡御)を行って百二十四代の天皇に即位している。悲しみとはまったく別の形での厳格な儀式は苛酷である。これは2016年8月に平成の天皇がいみじくもビデオメッセージで明かしたように『家族』にとっては辛い出来事でもあったのである。」(新しい天皇制確立の機運)
―「平成の天皇が上皇となり、皇后が上皇后となるのは、平成の天皇と同時代を共有した者には、ともすれば『天皇』のイメージを次代に重ね合わせることが難しく、そこに『天皇の二重構造』のような形が生まれるのではないか、との懸念もある。」
(『天皇の二重構造』をいかに防ぐか)
近現代史で天皇の生前譲位は初めての経験となる。いわば前天皇と天皇とが共存するのは初めてである。そこで新旧天皇の役割分担などを巡って「二重構造」が生まれるのではないかと懸念されている。
著者は平成の政治の劣化の原因は小選挙区比例代表制の導入にあるとみている。そして、「代議士、政治家になる、というのは思想と志の二面をもっていなければならないのに、それを必要としなくなった。かわって要求されるようになった条件は、テレビなどでの知名度に頼るか、学生時代からよく勉強して名の通った大学に入り、官僚とか有名企業に入って何年か現実を学び、政治家に転向していく道である。」(政治の劣化を示す予兆)
今や明らかにテレビ出演が政治家になる近道になっている。テレビが政治家になるための登竜門になっている。国、地方合わせてテレビのアナウンサー、コメンテーター上がりの政治家が一体何人いるだろうか。
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森村誠一
遠い昨日、近い過去
角川文庫
初版2019年2月 25日
定価680円+税(文庫版)
流行に鈍感で関心の薄いボクは、森村誠一氏の証明シリーズ(『青春の証明』『野生の証明』『人間の証明』)も、『悪魔の飽食』も推理小説も読んだことはなかった。ただし『人間の証明』の映画宣伝に使われた「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」という西條八十の詩の一節と、それに続く「Mother〜」という出だしのジョー中山の歌くらいは覚えている。東京新聞(夕刊)に連載された「この道」(平成27年〔2015年〕1月5日〜同年4月18日)が最初の出会いだった。「この道」は、作家の自伝的エッセーだが、一読して興味を持った。連載紙をすべて保管してあったのだが、置き場に困り廃棄した。再び読むチャンスを与えてくれた本書の刊行に感謝している。
ボクは作家の作品を読むより自伝を読む方が好きだ。「彼がなぜ作家になったのか?」、創作の秘密を知ることができる。今年96歳で亡くなった日本文学研究者のドナルド・キーンさんの作品も一つも読んだことがない。最初に読んだのが自伝(『ドナルド・キーン自伝』中公文庫)である。同じく本書を読むきっかけとなったのは東京新聞(日曜朝刊)連載の「ドナルド•キーンの東京下町日記」(月一回のち随時掲載)だった。「なぜアメリカ人のキーンさんが日本文学に興味を持つようになったのか」、「日本国籍を取得するほど日本びいきになったのか」、「日本人以上に日本文学・文化に精通しているのか」が分かっておもしろい。
作家初の自伝といわれる本書の原作は「この道」である。もし「この道」の連載がなければ本書は生まれなかったかも知れない。
森村氏は昭和八年生まれ。生家は埼玉県熊谷市で足袋屋の老舗。新しい物好きの父の代になってキャバレーや個人タクシー会社に転業した。昭和20年の熊谷大空襲では生死を分ける焦熱地獄を体験をした。熊谷商工(現熊谷商業)卒業後、進学せずにトヨタ系の自動車部品工場に就職。自転車で小売店に部品を配達する仕事に従事する。配達先は都内にとどまらず近県にも足を伸ばした。その後一念発起して大学進学を志す。入学したのが青山学院大学だった。在学中は好きな登山に明け暮れる。大学卒業後は都市センターホテルに就職しホテルマンとなる。その後ホテルニューオータニにも勤務した。しかし、9年間のホテルマン生活の中で次第に「チームワークよりも、ただ一人で完成できる生活がした」い、「その仕事に自分の署名を入れたい」という欲求が高まる。 その後作家に転身し、紆余曲折を経てベストセラー作家になることは周知の通りである。
「作家の生命は思想・言論・表現の自由である。これを制約されると、作家は窒息してしまう。それだけに表現の自由に対して敏感である。特に戦時中、読む本、綴り方(作文)すら制限された体験を持っている私は、表現制約アレルギー症がある。」(強制連行労働者)
森村誠一という作家の原点がここにある。作家は戦時中以下のような苦い経験をしている。
「私は今でも、登校時、校門で現神人=あらひとがみ=と渾名された上級生に身体検査をされ、鞄に忍ばせていた『金色夜叉』をきんいろよまたと読まれ、『この非常時にこんな文弱作品を読むのはけしからん』と没収されたことを忘れていない。」(飢えた“文狼”)
そして、「自由無き作家は、文奴(書く奴隷)にすぎず、表現者ではない。」(山村教室)と言っている。
300万部のベストセラーとなった『悪魔の飽食』は細菌兵器開発のため人体実験を繰り返した731部隊(関東軍第731部隊)を告発した本だが、この本を書く動機となったのは、作家の父方の伯父が陸軍軍医少将であり、軍医学校時代731部隊初代部隊長・石井四郎中将と親しく、石井中将の話しを聞いたからである。
なお、本書のタイトル『遠い昨日、近い昔』は、詩人・加藤泰三の詩の一節「過ギシ日ハ遠ク昔ノヨウダト、オ前ハ云ツタガ、過ギシ日ハ近ク昨日ノヨウダト、僕ハ黙ッテイタ。」 が基になっている。この詩は詩人が戦場に赴く前にただ一冊残した詩集『霧の山稜』の中の一節である。
森村誠一氏は学生上がりの作家などと違いそれなりの社会経験を積んでいるので生活者の視点を持った地に足のついた作家といえるだろう。信頼できる作家のひとりだ。
※文庫購入時Kindle版はなかったが、現在は出ている。定価 734円
本の売れ行きは紙・電子書籍合わせて年々右肩下がりだが、電子書籍だけは微増だが伸びている。 しかし、総体として出版不況は深刻で売り上げは最盛期の6割にまで落ち込んでいる。(2018年売上高2兆5、400億) 近所にK社専属の単行本の製本所がある。工場の前を通りかかると最盛期はミリオンセラーやベストセラーが出るたびに機械が休まず唸り声をあげていたが、最近はかつてのような勢いはない。
本種では特に雑誌の落ち込みがひどく、次いで単行本、文庫と続く。わずかに新書が横ばいである。
大型書店に一歩足を踏み入れる。仮にそこに自分の本が一冊、いや数冊置かれていたとしてもほとんど存在価値はない。砂地に染み込む水のようなものだ。運よく読者の手に取られるのはほとんど奇跡に近い。文筆を生業とする人間は今や厳しい現実に置かれている。しかし、一方で売れる本はバカ売れするから不思議である。読者心理の怪である。
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