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あおり運転

   
   高速道路上で執拗に進路妨害を繰り返している。これを危険運転と言わずして何と言おう。法の世界と常識とは大きくかけ離れていると言わざるをえない。。
 
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  追い越し車線での停車など自殺行為に等しい。なぜこれが危険運転にならないのか。裁判所の判断もどうかしている。条文の解釈が問題なのではない。実際起きたことが問題なのだ。そんなことは法以前の問題である。
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  自動車運転死傷処罰法は危険運転の要件を「重大な危険を生じさせる速度で運転する行為」としている。判決は、被告によるあおり運転などの妨害が危険運転に該当するとしつつ、停車は『一般的に危険を生じさせないのは明らか』で、『文書上、運転に含まれると読むのも無理がある』と述べ、『高速道路での停車は危険運転にあたる』という検察側の主張を退けた。」

  一方元検事・高井康行弁護士は「高速道路では停車や低速度の走行がむしろ、危険運転の構成要件の「重大な危険を生じさせる速度」にあたる。運転は車を発進、走行、停止させる行為から成り立ち、「運転」に停車が含まれるのも明らかだ。停車と暴行を一連の行為ととらえ、事故との因果関係を認めた点は妥当だと思うが、停車そのものを危険運転と認定した方がすっきりするのではないか。

  他方人権派の井田良・中央大院教授(刑法)は、危険運転致死傷罪は、少なくとも時速20〜30キロの走行を前提としている。判決が停止を危険運転と認めなかったのは、当然だ。被告の暴行などもあって死傷につながったと判断したことで、拡大解釈にも歯止めをかけた。常軌を逸した妨害運転そのものも、暴行罪と認定できる。同様の事件が今後あった場合は、傷害致死罪などでの立件も検討すべきだ。
                                    (「朝日新聞」12月15日)

  高速道路は高速走行が前提なのだから、そこで故意に低速走行したり停車したりすることは危険運転に当たるのではないか。しかし、判決では「高速道路での停車は危険運転にあた」らないとした。走る凶器に変貌する車両による死傷事故を暴行罪や傷害致死罪で裁けというのもおかしな話しだ。
   本件は危険運転致死傷罪と暴行罪との数罪と考えられる。
  被告・石橋和歩の成育歴を見てみた。男ばかり3人兄弟の次男。両親は石橋が高二の時に離婚。高校中退の中卒。職業は建設作業員。他人に嫌がらせをすることを生きがいとする愉快犯。典型的な半グレ。事件当時は心神耗弱状態か喪失状態。精神鑑定の必要があるのではないかと思った。  
  一挙に両親を失った被害者感情からすれば「懲役18年」は短かすぎる。悪質な交通事故事案にも無期懲役や終身刑 (死刑反対の立場から)が適用されてもよいのではないのか。

    東名あおり運転死傷事故について取り上げた。それに対してコメント欄にノー・コメントなのは意外であり、不満だ。朝日新聞は判決前日まで連日社会面トップでこの事故を取り上げた。一瞬にして両親を失った犠牲者は長女17歳、次女13歳だった。しかも二人の面前で両親は追突の衝撃で路上に投げ出され死んだ。被告・石橋和歩に対する怒りがこみあげてきた。ノー・コメントということはこの事件・事故に対する無関心を示している。

   わたしはこれまであまり事件・事故をブログで取り上げなかったが無関心であるわけではない。世田谷一家殺人事件を筆頭に私にも記憶に残る事件がいくつかある。
    犯罪をテーマとした作家では『復讐するは我にあり』の故・佐木隆三やノンフィクション作家の故・朝倉喬司の名前くらいは知っている。 


 


   
   本書は「東京新聞」史といえるもので、その沿革について以下のように書かれている。
 「もともと東京新聞は大東亜戦争中の1942年、東條英機内閣の強制により都(みやこ)新聞(本邦初の夕刊紙として1884年に仮名垣魯文が創刊した今日(こんにち)新聞の後身、主筆に黒岩涙香ら)と国民新聞(1890年に徳富蘇峰が創刊)が合併、1964年までは千代田区内幸町2丁目10番地の社屋で発行していた。この跡地(今は2丁目2番地1号)に日本プレスセンタービルが建っている。今日新聞は5年後に都新聞と改題して朝刊紙に。記者に長谷川伸や平山蘆江らがおり、中山介山『大菩薩峠』なとを連載。国民新聞は社長兼主筆蘇峰の弟蘆花の『不如帰』などを連載した。(中略)
   1967年9月までは社団法人東京新聞社が発行したが、以後は中日新聞東京本社(港区港南4-6-49)に移り、2006年には旧本社に隣接の東京中日スポーツ(千代田区内幸町2-1-4)へ。「発行元が変わろうと紙名は同じなんだし」とおっしゃるか。(中略) ともかく社団法人時代に入社した者は、中日新聞に吸収される以前のものを「旧・東京新聞」と呼び、現行の中日新聞発行のものと明確に区別、かつて社団法人に在籍したものの有志で組織するグループも東京新聞旧友会と名づけ、中日新聞とは無縁の存在である。
  以下重要なことが書かれている。
  「旧から現在までを通算すれば、東京新聞は2017年に半世紀になったが、縮刷版も社史もなくて、それどころか、内幸町の旧社屋が敗戦直前に戦災をこうむったため、1945年5〜6月の約1ヵ月分は欠落のまま。現在の発行元である中日新聞東京本社はもちろんのこと、都内の大型図書館にもない。当然ながら、縮刷版代わりマイクロフィルムも、前記は抜けている。」(1行列買の旧・東京新聞)
   ボクは昨年1月から購読紙を東京から朝日に代えた。東京は首都圏を中心とするローカル紙で最近は発行部数の減少も著しい。おそらく朝日の10分の1以下である。いくら東京新聞旧友会と名付けようとも中日新聞の応援なしにやっていけないことだけは事実である。ボクが東京新聞を読み始めた頃と比べると読者サービスも格段に落ちた。
 
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長谷川卓也著
進駐軍がいた頃−東京新聞記者として
彩流社
初版2018年12月15日
定価 1、700円+税(アナログ版)

    「今なぜ進駐軍なのか」、それには個人的理由がある。実はボクの父(1997年没、享年77歳)は昭和21年南方より復員後英会話学校で英語を学び米軍調達庁に就職したからだ。そして、ボクが中学1年頃、大手製鉄会社に転職した。米軍調達庁では検査官=Inspectorとして米軍に卸す物資の検査をしていた。もともと技術畑の出身ではないが、その時の経験が買われて製鉄会社に採用されたのだろう。本書が目に留まった理由である。
    進駐軍の思い出といえば、旧グランドハイツでの野球大会や丸の内界隈の進駐軍の事務所に連れていかれ、外人に英語で話しかけられたことである。
  戦後まもないころで日本は物資不足だった。そんな中で我が家は軍人から物資の援助を受け、ずいぶん助けられたようだ。粉ミルクの援助も受けたと聞いた。食料難の時代にボクが173センチの身長があるのは供与された粉ミルクのおかげだろうか。家にはナイフやフォークは事欠かなかったし、コーヒーを沸かすパーコレーターまであった。父は髭剃り後にオールド・スパイスを使っていた。近年懐かしくてネットで買ってみた。ガラス瓶がプラスチック容器に変わったものの乳白色の容器に赤い文字は変わらない。その名の通りスパイシーな香りがする。またボクは長いこと払い下げられたおもちゃで遊んだものだ。鉄製の頑丈なトラックのおもちゃだった。
   おぼろげに記憶しているのだが、旧グランドハイツでの野球大会で大きなチーズの塊りの乗った食パンが出てきた。子どもにはとても食べられるものではなかったが、得体の知れないチーズの味だけは奇妙に覚えている。こうした物資の違いを見ても
日本がアメリカに戦争で勝てるわけがなかった。
読書中=天后空


音を楽しむ:Enjoy sound


   昨年(2017)“東京国際声楽コンクール准本選”で落選した参加者が「寸評に納得できなイメージ 1
い」という趣旨のコメントを添えて動画をYouTubeにアップした。公開約1年で視聴回数は3、000回を超えている。
  わたしの息子は2014年“第6回東京国際声楽コンクール”(一般社団法人・東京国際芸術協会主催)に参加し、地区大会、准本選、本選(=写真)と勝ち抜き学生部門で第5位入賞だった。そのことについて「なぜ1位でなく、5位なのか?」と文句を言うつもりも抗議するつもりもない。結果は謙虚に受けとめ今後の糧にするしかない。
   芸術の評価は大変難しい。審査員や鑑賞者の主観に左右され数式のように客観的評価が難しいからだ。それを防ぐにはどうすればよいか。一つにはできるだけ多くの人に評価してもらうことだ。少人数の審査員ではなく、多人数の審査員に評価してもらうことだ。東京国際声楽コンクールの審査員が何名だったか、具体的な数字は忘れたが、それほど少人数ではなかったように記憶している。審査員を増やすことであたう限り客観的で公平な評価に近づけると思う。本選は、技術点と芸術点に分けて審査されたが、息子の場合、審査員間でそれほど大差はなかった。ただ審査員は全員日本人で外国人は一人もいなかったように思う。「国際」と名がつく以上外国人審査員を加えてもよいのではないかと思う。
  さて息子の場合、本選の動画の視聴回数は公開後約3年経過した現在でも
約1、500回である。落選に抗議する視聴回数の方が多いというのも皮肉な現象である。

戻ってきた財布


   ボランティアの帰りに近所のスーパーに寄って買い物をして帰宅した。その日は自分のショルダー・バッグのほかに2つのトートバッグを肩から下げていた。わたしはどこの国の学習者にも対応できるようにたくさんの日本語学習資料や電子辞書、飲料水のペットボトルをバッグに詰めてボランティアに臨む。その日はスーパーの自動支払機で買い物の精算するためショルダー・バッグから財布を取り出し、再びしまうつもりが、あまりにたくさんの荷物を抱え、しかも午後9時半頃のことで外は暗くよく見えないためショルダー・バッグの口に入れたつもりがバッグとバッグの間に挟み込んでそのまま落としてしまったらしい。帰宅後遅い夕食を摂り荷物の整理を始めたところ財布がないことに気付いた。最後に財布を使ったのがスーパーだから、落としたのは徒歩で数分のスーパーと自宅の間であることは間違いないので、すぐに外出の準備をして帰ってきた道をもう一度たどってみた。スーパーにも寄って落とし物の届け出がないかどうか店員に確認してみた。届け出はなかった。暗澹とした気分で自宅に戻りもう一度3つのカバンの中をチェックしてみた。
  スーパーを出でまもなく小さな公園があり、その中を通ってきた。以前公園の男子トイレの中で空の財布が床に投げ捨てられているのを見かけたことがある。落とし物か盗まれたもので中身を抜いて財布だけ捨てたものと思われる。もしかしたら空の財布が捨てられているかも知れないと思いもう一度同じ道をたどって公園のトイレを確認してみたが、それらしきものはなかった。その晩暗澹とした気持ちで眠りについた。スーパーは女性客が多い。女性に拾われれば警察に届けられて見つかるかも知れないというかすかな希望を抱いて。
    翌朝午前9時過ぎ朝一番にかかりつけの歯科医院から電話がかかってきた。現在通院治療中だが、歯科医院から電話がくる時間帯でも用件があるわけでもないので直観的に財布の件だと分かった。実は財布の中に歯科医院の診察券が入っていた。拾い主から届け出を受けた警察から歯科医院に電話があり、私に取り次いでくれたのだ。歯科医院から遺失物の受付番号と所轄署を教えてもらい早速外出の準備をしてタクシーで現場に出かけた。
    最寄りの警察署の窓口で落とした財布を受け取った。帰って来ないかもしれない財布が手元に戻ってきたのはうれしかった。拾い主は遺失物に対する権利を放棄したので性別はおろか、氏名もわからなかった。財布の中身は現金約7、000円、医者の診察券が2枚、その他各種ポイントカード2枚と仮に紛失したとしても大きな損失にはならないものばかりだった。それよりも一番うれしかったことは長年使いこんだ愛着のある財布が手元に戻ってきたことだった。「明日は早速新しい財布を買わなければならない」と思い込んでいただけにうれしかった。
 わたしは基本的に健康保険証やクレジットカードなどの貴重品は財布に入れないことにしている。それらは別のカードケースに入れてショルダー・バッグに合成樹脂製のチェーンで括り付けてある。
 落とし物が見つかるのはこの国だけだと最近よく聞く。来日外国人が多い作今これだけは誇ってよい日本・日本人の美徳なのかも知れない。諸外国ではスリ、泥棒、置き引きは当たり前のようだ。

  今年息子が共同住宅の玄関付近で高価そうな女物の財布を拾った。中に現金は入っていなかった。その代わり健康保険証やキャッシュ・カード、各種ポイントカードが入っていた。そのまま放置するわけにもいかないので扱いに困った。警察に届けることも考えた。しかし、健康保険証記載の住所から近所の人だと分かった。“協会けんぽ”の保険証なので勤務先も書いてある。とりあえず財布を預かっている旨とこちらの連絡先を手紙に書いて落とし主の住まいと思われるポストに入れた。しかし、一日経っても連絡がない。翌日ネットで勤務先の電話番号を調べ連絡した。すぐに折り返し息子の携帯に本人から連絡がきた。その日は月曜日だったので、勤務先からの電話かと思ったが、偶然定休日で自宅にいるという。早速自宅前で会う約束をして財布を手渡した。前日ポストに入れた手紙には気づかなかったようだ。息子が聞いたところ財布には5万円入っていたという。息子が拾った時は中に現金はなかった。拾った人は現金だけ抜いて財布を外に投げ捨てたのだ。立派に窃盗である。健康保険証もキャッシュカードも落とし主にとっては重要なものであるはずだが、そんなことはおかまいなしに。拾ったのは男だろうか、女だろうか。どんな人がそんなことをしたのだろうか。顔を見てみたいものだ。
  先の善意のお返しにわたしの財布が戻ってきたと思いたい。

  

日本語教室X回


   日本語教室は9月6日以来の参加となった。一時的な災害援助などと異なり継続的なボランティア活動はどうしてもモチベーションが下がりやすい。ボランティアの出入りが激しいのもそのためだろう。改正入管法が成立し、これからますます来日外国人が増え、日本語学習の必要性が増すのに、相変わらずボランティア頼りでよいのか疑問だ。
  担当はベトナム人のギアさん。ベトナムのIT企業から派遣されての語学留学だった。サイゴン大学で電気通信を専攻し、IT企業に就職。コンピューター・ソフトの開発が主な仕事のようだ。出身はホーチミン近郊だが、ギアさんは勤務先の関係でホーチミン住まい。
  ギアさんに聞いてみた。「サイゴン大学ではなく、ホーチミン大学じゃないの?」
「ちがいます。サイゴン大学です。」サイゴンは旧南ベトナム時代の首都。ベトナム解放後はホーチミン市に変わった。しかし、今もサイゴンという名前が頻繁に使われるそうだ。推測だが、特に旧南ベトナム出身者の間でよく使われるのだろう。
  ベトナムは圧倒的に仏教徒が多いはずだが、ギアさんはキリスト教徒だそうだ。カトリックかプロテスタントかは聞き忘れた。旧南ベトナム時代はカトリックのゴ・ディン・ジェムという大統領がいて、激しく仏教徒を弾圧した歴史がある。これに抗議して僧侶の焼身自殺が相次いだ。ベトナム暗黒史の一つである。
  最近はベトナム人学習者が目立つようになった。 ギアさんは仕事の関係で日本語を学習しているが、将来はカナダやヨーロッパ志向だそうだ。戦後生まれのギアさんにベトナム戦争の記憶はないそうだ。

   実は今ベトナムは投資のチャンスではないかと思っている。仮にベトナムにマンションを買って住むとして蛇の脅威はないかギアさんに聞いてみた。するとベトナム全土至るところに蛇がいるそうだ。特に山間部には。熱帯や亜熱帯に住むには蛇、毒虫、感染症などおよそ日本では考えられないリスクが伴うことも考えなければならない。また不発弾や地雷、枯葉剤などベトナム戦争の後遺症もあるだろう。しかし、ベトナムは南北に長い海岸線を持つので海岸線沿いに経済開発が進むのではないかと思っている。それには道路網や鉄道網のインフラ整備がカギとなろう。
  
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