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森村誠一
遠い昨日、近い過去
角川文庫
初版2019年2月 25日
定価680円+税(文庫版)

    流行に鈍感で関心の薄いボクは、森村誠一氏の証明シリーズ(『青春の証明』『野生の証明』『人間の証明』)も、『悪魔の飽食』も推理小説も読んだことはなかった。ただし『人間の証明』の映画宣伝に使われた「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」という西條八十の詩の一節と、それに続く「Mother〜」という出だしのジョー中山の歌くらいは覚えている。東京新聞(夕刊)に連載された「この道」(平成27年〔2015年〕1月5日〜同年4月18日)が最初の出会いだった。「この道」は、作家の自伝的エッセーだが、一読して興味を持った。連載紙をすべて保管してあったのだが、置き場に困り廃棄した。再び読むチャンスを与えてくれた本書の刊行に感謝している。
  ボクは作家の作品を読むより自伝を読む方が好きだ。「彼がなぜ作家になったのか?」、創作の秘密を知ることができる。今年96歳で亡くなった日本文学研究者のドナルド・キーンさんの作品も一つも読んだことがない。最初に読んだのが自伝(『ドナルド・キーン自伝』中公文庫)である。同じく本書を読むきっかけとなったのは東京新聞(日曜朝刊)連載の「ドナルド•キーンの東京下町日記」(月一回のち随時掲載)だった。「なぜアメリカ人のキーンさんが日本文学に興味を持つようになったのか」、「日本国籍を取得するほど日本びいきになったのか」、「日本人以上に日本文学・文化に精通しているのか」が分かっておもしろい。 
  作家初の自伝といわれる本書の原作は「この道」である。もし「この道」の連載がなければ本書は生まれなかったかも知れない。

   森村氏は昭和八年生まれ。生家は埼玉県熊谷市で足袋屋の老舗。新しい物好きの父の代になってキャバレーや個人タクシー会社に転業した。昭和20年の熊谷大空襲では生死を分ける焦熱地獄を体験をした。熊谷商工(現熊谷商業)卒業後、進学せずにトヨタ系の自動車部品工場に就職。自転車で小売店に部品を配達する仕事に従事する。配達先は都内にとどまらず近県にも足を伸ばした。その後一念発起して大学進学を志す。入学したのが青山学院大学だった。在学中は好きな登山に明け暮れる。大学卒業後は都市センターホテルに就職しホテルマンとなる。その後ホテルニューオータニにも勤務した。しかし、9年間のホテルマン生活の中で次第に「チームワークよりも、ただ一人で完成できる生活がした」い、「その仕事に自分の署名を入れたい」という欲求が高まる。 その後作家に転身し、紆余曲折を経てベストセラー作家になることは周知の通りである。
    「作家の生命は思想・言論・表現の自由である。これを制約されると、作家は窒息してしまう。それだけに表現の自由に対して敏感である。特に戦時中、読む本、綴り方(作文)すら制限された体験を持っている私は、表現制約アレルギー症がある。」(強制連行労働者)
    森村誠一という作家の原点がここにある。作家は戦時中以下のような苦い経験をしている。
  「私は今でも、登校時、校門で現神人=あらひとがみ=と渾名された上級生に身体検査をされ、鞄に忍ばせていた『金色夜叉』をきんいろよまたと読まれ、『この非常時にこんな文弱作品を読むのはけしからん』と没収されたことを忘れていない。」(飢えた“文狼”)
   そして、「自由無き作家は、文奴(書く奴隷)にすぎず、表現者ではない。」(山村教室)と言っている。
   300万部のベストセラーとなった『悪魔の飽食』は細菌兵器開発のため人体実験を繰り返した731部隊(関東軍第731部隊)を告発した本だが、この本を書く動機となったのは、作家の父方の伯父が陸軍軍医少将であり、軍医学校時代731部隊初代部隊長・石井四郎中将と親しく、石井中将の話しを聞いたからである。
  なお、本書のタイトル『遠い昨日、近い昔』は、詩人・加藤泰三の詩の一節「過ギシ日ハ遠ク昔ノヨウダト、オ前ハ云ツタガ、過ギシ日ハ近ク昨日ノヨウダト、僕ハ黙ッテイタ。」 が基になっている。この詩は詩人が戦場に赴く前にただ一冊残した詩集『霧の山稜』の中の一節である。
   森村誠一氏は学生上がりの作家などと違いそれなりの社会経験を積んでいるので生活者の視点を持った地に足のついた作家といえるだろう。信頼できる作家のひとりだ。

※文庫購入時Kindle版はなかったが、現在は出ている。定価 734円  
  本の売れ行きは紙・電子書籍合わせて年々右肩下がりだが、電子書籍だけは微増だが伸びている。 しかし、総体として出版不況は深刻で売り上げは最盛期の6割にまで落ち込んでいる。(2018年売上高2兆5、400億) 近所にK社専属の単行本の製本所がある。工場の前を通りかかると最盛期はミリオンセラーやベストセラーが出るたびに機械が休まず唸り声をあげていたが、最近はかつてのような勢いはない。
  本種では特に雑誌の落ち込みがひどく、次いで単行本、文庫と続く。わずかに新書が横ばいである。
  大型書店に一歩足を踏み入れる。仮にそこに自分の本が一冊、いや数冊置かれていたとしてもほとんど存在価値はない。砂地に染み込む水のようなものだ。運よく読者の手に取られるのはほとんど奇跡に近い。文筆を生業とする人間は今や厳しい現実に置かれている。しかし、一方で売れる本はバカ売れするから不思議である。読者心理の怪である。



  


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