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平成史/The history of Heisei



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保阪正康著
平成史
平凡社新書
初版2019年3月18日
定価713円(Kindle版)

    前回ブログで二人の昭和史研究家・保阪正康氏と半藤一利氏との対談『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(文春文庫)を取り上げた。今回はそれに続く保阪正康氏の著作である。
    元号は天皇の在位に基づく時代区分であり、もし天皇がいなければ平成の時代は単純に西暦1989年〜2019年の間を指すに過ぎない。平成史は単純にその間の出来事を指すに過ぎない。本書は昭和との対比において語られることが多いが、昭和もまた単純に西暦1926年〜1989年の間を指すに過ぎない。もし昭和の時代がなかったなら、昭和天皇がいなかったら、日中戦争や太平洋戦争が起こらなかったかといえばそれはわからない。戦争は国際情勢の中から起きるものだから、また別の形を変えて軍部が独走したかもしれないのである。
  本書は元号に基づいて書かれているからそれを否定すれば本書を論じる意味がなくなる。元号=天皇制の問題は後述するとしてとりあえず本書の記述に沿って進める。平成史とは文字通り平成の史実にほかならない。
    取り合えず本書の全体像をつかむために目次を抜き出してみる。
  序章 天皇の生前譲位と「災害史観」
  第一章 世界史の中の「平成元年」
  第二章 天皇が築いた国民との回路
  第三章 政治はなぜ劣化したか
  第四章 〈一九九五年〉という転換点
  第五章 事件から見る時代の貌
  第六章 胎動する歴史観の歪み
  終章 平成の終焉から次代へ

  読書の醍醐味はその中から新しいことを発見できなければ意味がない。論理的な一貫性はないかも知れないが本書を読んで学んだことをアット・ランダムに抽出してみる。

著者は平成28年(2016年)8月8日の平成天皇の「生前譲位」を訴える国 
民向けビデオメッセージを昭和20年(1945年)8月15日の昭和天皇の玉音放送に匹敵する「革命的」なものであったと位置づけている。

著者は「災害史観」という新しい史観を提示している。「災害史観」とは、「いわば関東大震災を因として、果となった歴史的事実について深い検証はしてこなかった。実はここに誤りがあったのではなかったか。」 として、その後の社会現象に「関東大震災の後遺症がからんでいるのではないだろうか。」と述べている。そして、「災害史観」の骨格として以下の三点を挙げている。
一形あるものは壊れるという絶望感
二朝鮮人、中国人虐殺にみられる非人間性
三死へと直線的に向かう虚無感
  そして、昭和に続く平成の「災害史観」として、
平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災
  そのほぼ2か月後に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件が上げられる。
  いわば災害による人心の動揺が次の災害を呼び起こす結果となっている。
  個人レベルに置き換えても事件・事故、家庭の不和、病いなど一つの不幸が次の不幸を呼ぶことはありうるし、決して偶然ではない。平たく言えば、災害が災害を呼び、不幸が不幸を呼ぶ。
  更に、
二平成23年(2011年)3月11日に起こった東日本大震災  
  東日本大震災は地震・津波という天災と東電福島第一原発の爆発事故という人災との二つの面から成っていた。

「あえて初めに語っておくことにしたいが、昭和、平成というのは元号であり、西暦のように百年を単位とする歴史観とは大きく異なっている。私はこうした元号は文章上の“句読点”のようなものではないかと思う。」(元号は“句読点”)
  断っておくが、「西暦」も決して世界共通の国際基準というわけではない。西暦もまたキリスト教歴に過ぎない。元号が天皇制に基づく日本固有の暦とすれば、西暦はキリストの生誕に基づく宗教歴に過ぎない。世界にはイスラム歴もあれば仏教歴もある。
  西暦が百年を単位とした通年的なものであるとすれば、確かに元号は通年を区切る“句読点”のようものだ。

「社会主義という思想や理念の崩壊によって、人類史はいわば原始的な時代に入っていくことになった。たとえばユーゴスラヴィアは五つの民族が集まってつくった独立国家であったが、その民族的対立や宗教上の対立はすべてマルクス・レーニン主義という思想で縛りあげていた。したがって民族や宗教といった人間の地肌による対立は、思想で覆われていたのである。」(昭和天皇の死と冷戦終結)
   同じ問題に直面しているのが現在の中国である。中国もまた多民族国家である。中国共産党の崩壊=中華人民共和国の崩壊という危機感を持って指導部は人権弾圧も辞さず引き締めを図っている。

著者は講演などで歴史修正主義の人たちから「先生の考えは、自虐史観ですね。」と問われると「『私は自虐史観ではなく、自省史観の側に立っている。昭和という時代を自省や自戒で見つめ、そこから教訓を引き出し、次代につないでいくという立場だ』と答えることにしている。」(『自虐史観』という言葉)

 ―「青年の社会改革のエネルギーが、政治から宗教に移ったということであり、それがなぜかと問うてみれば、政治的には社会主義体制の崩壊により、政治改革を行うべきその目標がなくなってしまったとの意味になった。
 オウム事件はそうした時代潮流をそのまま反映しているといってよかったのである。」(オウム事件とは何だったのか)
   ボクはこの未曾有の事件を今一つつかみかねていた。「目から鱗」というか保阪氏の解釈を読んで初めてこの事件の本質が垣間見えるような気がした。ボクの持論だが、国家の起源は宗教である。どんな宗教も自分たちの理念を理想とする国家を作ろうとする。そのためには暴力的手段に訴えることも辞さない。最近『宗教はなぜ人を殺すのか』という衝撃的な本が上梓され、本ブログでも取り上げた。宗教が常に平和志向だと考えるのは誤りである。

―「この十年(平成七年〔1995年〕〜)の間、首相は村山富市、橋本龍太郎、小渕三、森喜朗、小泉純一郎と続いた。村山を除いてはいずれも昭和十年代生まれである。太平洋戦争が終わったときには小学生か、それとも小学校に入る以前の年齢であった。そのことは戦後民主主義を肌で学んだ世代ということがもきた。」(戦後民主主義を肌で学んだ指導者たち)
    流れが変わるのは第二次安倍政権になってからだ。あからさまに議会無視の戦後民主主義を否定するような政治姿勢へと変わった。

―平成9年(1997年)7月「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」が成立した。
  「脳死判定の基準(厚生省脳死研究班が1985年にまとめた基準。杏林大学の竹内一夫教授が主任研究官だったために竹内基準といわれる)とは、6つの条件が満たされなければならないとされていた。この中には深昏睡、自発呼吸消失、瞳孔散大、脳幹反射消失などあらゆる器官の消失状態を指すとされていた。この基準はこれまでの心臓死の手前の段階であり、脳死状態といってもまだ身体にはぬくもりがあるし、遺体という感じではない。ただ脳幹反射が消失状態であるために、生への復元はほとんどゼロに近い。」(平成における死生観)
   人の死には脳死と心臓死があり、脳死は心臓死の手前の段階であることを初めて知った。臓器移植にとって「脳死」は必須なのだが、人間の死に対する感情には複雑なものがある。一方で再起不能とわかっていても、身体にぬくもりがある限り死と認めたくないという感情もある。

―「(前略)戦後の死生観は一分一秒でも長く心臓を動かすという生命延長主義がその骨格となった。医療現場はまさにそのようになったのである。
  それに抗するように安楽死とか尊厳死といった考え方が少しずつ平成という時代に表面化してきた。死を単に生命の延長という量で捉えるのではなく、生の実感が伴ってこその生命であり、その実感を味わうことが不可能ならば生には意味がないという、質の時代へ変化してきているというのが尊厳死などを望む人たちの考え方となったのである。」(時代に補助線を引いた西部邁の自裁)
   生を量としてではなく、質としてとらえるという視点は新しい発見である。何が何でも長生きすればよいというものではない。「生活の質」が維持できなければ生きていもしょうがないという考えも成り立つ。
 元全学連副委員長で東大教授、評論家で独特の語り口の西部邁氏の死については見解を留保する。

―「厚生労働省はこのひきこもり(平成の時代は子どもたちが室内に閉じこもり、内向きの遊戯に没頭するようになった。『ひきこもり』という現象が子どもたちばかりではなく一般化するようになった)について『仕事や学校に行かず、且つ家族以外の人との交流をせず、6ヶ月以上続けて自宅にひきこもっている状態、時々は買い物などで外出することもある』といった状態を指すとしている。」( “ひきこもり”という時代の病)   
   「ひきこもり」とは何か、ボクにも今一つわからなかったが、以下のような説明を聞いて少し理解できるようになった。  
 「個人と社会の基本的な関係として、個人には社会に身を置く意欲、労働にかかわる意欲、そして他者との関係に積極的意味を認める意欲があることが必要である。」(同)
 「ひきこもり」とはこの意欲の全般的な減退を指すことはわかった。それでは意欲を取り戻すにはどうしたらよいかが問題解決の糸口となるだろう。

―平成に入って猟奇的殺人や「人を殺してみたかった」などというわけのわからない事件が増えた。その理由を著者は「戦後民主主義を支えてきた人命尊重とか人権尊重といった価値観や倫理観が崩れつつあるということだろう。人道主義とかヒューマニズムといった概念が空洞化を起こしているといってもいい。」(光市母子殺害事件)
   「人命尊重」とか「人権尊重」とか当たり前のことが当たり前でなくなっている社会は恐ろしい。まるで戦場か野生動物の世界に生きているのも同然だからだ。
 
―「安倍政権の下、自国優越主義的なナショナリズムが再燃し、極端な右派が勇気づけられ、リベラルなメディアを攻撃し、ジャーナリストや研究者を脅し、そして在日コリアンを標的とするヘイトスピーチが起きている(アメリカCNNテレビ)」(日本は『右傾化』したのか)
  前回作家の森村誠一氏の自伝『遠い昨日、近い昔』を取り上げた。森村氏の代表作『悪魔の飽食』は300万部の大ベストセラーになった。今旧日本軍を告発したこのような本が大ベストセラーになるだろうか。答えは“ノン”である。それに代わって『永遠のゼロ』のような戦争を美化するような本がベストセラーになっている。明らかに時代は変わっており、右傾化している。「まさにデモクラシーの後をファシズムがついてくる」(第6章 胎動する歴史観の歪み) といえるだろう。

―なぜ平成天皇は生前譲位を求めたのか?
   それには二つの理由がある。
  その1 大正天皇→昭和天皇、昭和天皇→平成天皇の代替わりの時にどちらの天皇も病いに伏し「天皇はいるけど、天皇は存在しない 」という矛盾した状況が現出した。
  その2 「皇太子は先帝の死という悲しみとともに、践祚の儀式(剣璽渡御)を行って百二十四代の天皇に即位している。悲しみとはまったく別の形での厳格な儀式は苛酷である。これは2016年8月に平成の天皇がいみじくもビデオメッセージで明かしたように『家族』にとっては辛い出来事でもあったのである。」(新しい天皇制確立の機運) 

―「平成の天皇が上皇となり、皇后が上皇后となるのは、平成の天皇と同時代を共有した者には、ともすれば『天皇』のイメージを次代に重ね合わせることが難しく、そこに『天皇の二重構造』のような形が生まれるのではないか、との懸念もある。」
(『天皇の二重構造』をいかに防ぐか)
   近現代史で天皇の生前譲位は初めての経験となる。いわば前天皇と天皇とが共存するのは初めてである。そこで新旧天皇の役割分担などを巡って「二重構造」が生まれるのではないかと懸念されている。

  著者は平成の政治の劣化の原因は小選挙区比例代表制の導入にあるとみている。そして、「代議士、政治家になる、というのは思想と志の二面をもっていなければならないのに、それを必要としなくなった。かわって要求されるようになった条件は、テレビなどでの知名度に頼るか、学生時代からよく勉強して名の通った大学に入り、官僚とか有名企業に入って何年か現実を学び、政治家に転向していく道である。」(政治の劣化を示す予兆)
 今や明らかにテレビ出演が政治家になる近道になっている。テレビが政治家になるための登竜門になっている。国、地方合わせてテレビのアナウンサー、コメンテーター上がりの政治家が一体何人いるだろうか。


    
 
 





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