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    『文藝春秋(6月特別号)』掲載の村上春樹のエッセイを読んだ。書き出しは父と一緒に近所の河原に飼い猫を捨てに行く思い出から始まる。結局猫は村上家に戻ってきてしまうのだが、なぜ飼い猫を捨てたのかは今もって謎のままだ。
  父の名は村上千秋(1917〜2008)。 「父は京都市左京区粟田口にある『安養寺』という浄土宗のお寺の次男として、大正6年(1917年)12月1日に生を受けた。」 ボクの父が大正8年(1919年)生まれだから、2歳年上だ。京都帝国大学文学部文学科卒業後は兵庫県西宮市の私立高校の国語教師を務めていた。また一貫して俳句をたしなんだ。母親もまた母校の国語教師だったが、結婚と同時に退職している。村上春樹の文学的才能は両親とも国語教師という家系から受け継いでいるのだろうか。
   以下村上春樹の父親の軍歴を記す。
    (一) 「僕の父は1936年に旧制東山中学を卒業し、18歳で西山専門学校に入った。本人がどのような進路を希望していたのかわからないが、寺の息子として、それ以外の選択肢はあり得なかったようだ。したがって、そこを卒業するまでの4年間、徴兵猶予を受ける権利を有していたのだが、正式に事務手続きをすることを忘れていた(と本人は言っていた)。そのために1938年8月、20歳のとき、学業の途中で徴兵されることになった。」(親に「捨てられる」)  
  父が配属された部隊は第16師団(伏見師団)に所属する歩兵第20連隊(福知山)だった。」(福知山歩兵第20連隊)、と村上春樹はずっと思い込んでいたが、実際に配属されたのは輜重兵第16連隊(京都深草・伏見)だった。配属された部隊が歩兵第20連隊という誤解が心にひっかかり父の軍歴を調べようと決心するのに時間がかかった。その理由は歩兵第20連隊が南京陥落の時に一番乗りした部隊で血生臭い評判がついて回っていたからだ。
  「父は輜重兵第16連隊の特務二等兵として、1938年10月3日に宇品港を輸送船で出港し、同6日に上海に上陸している。そして上陸後は、歩兵第20連隊と行軍を共にしていたようだ。」(同上)ボクの父が宇品港から大連へ向かったのは1940年(昭和15年)2月25日だった。狩り出されたのは同じく中国戦線だった。
  「ちなみに輜重兵というのは補給作業に携わり、主に軍馬の世話を専門とする兵隊のことだ。自動車や燃料が慢性的に不足していた当時の日本軍にとって、馬は重要な輸送手段だった。」 (同上)  
    「第20連隊は1939年8月20日に、中国から日本に引き上げている。そして父はそのまま1年間の兵役を終え、西山専門学校に復学している。」(京都帝国大学文学部)
   (二) 「父は1941年春に西山専門学校を卒業したあと、その年の9月末に臨時招集を受けている。そして10月3日より再び兵役に就くことになる。帰属部隊は歩兵第20連隊だ。そしてその後、輜重兵第53連隊に編入されることになる。
   1940年に第16師団が満州に永久駐屯することになり、そのかわりとして留守第16師団を基幹として第53師団が京都師管で編成され、輜重兵53連隊もその師団に所属する輜重兵部隊となる(ちなみにこの輜重兵第53連隊には、水上勉氏も戦争末期に属しておられたということだ)。(中略)
    この第53師団は戦争末期の1944年にビルマ(Burma)に派遣され、インパール(Imparl)作戦に参加し、同年12月から翌年3月にかけて英連邦軍を相手におこなわれたイラワジ(Irrawaddy)会戦で、ほとんど壊滅に近い状態に追い込まれることになる。輜重兵第53連隊基幹も師団に帯同し、この激しい戦闘に参加している。」(慢性的な不満、慢性的な痛み)
   「ところが意外な展開というべきか、召集を受けてから2ヶ月後、11月30日に父は唐突に召集解除になっている。つまり兵役をはずれ、民間に戻ってよろしいということだ。11月30日といえば、実に真珠湾奇襲攻撃の8日前のことである。もし開戦に至ったあとであれば、そのような寛大な措置がとられることはまずあり得なかっただろう。」(第16師団の玉砕)
 (三) 「父は京都大学入学後、昭和20年6月12日にもう一度召集を受ける。これで三度目の軍務になる。しかし今回所属する部隊は第16師団でもなく、そのあとに作られた第53師団でもない。そのどちらの師団も共に壊滅し、もはやどこにも存在しない。彼が今回上等兵として配属されたのは中部143部隊という国内勤務の部隊で、どこに駐屯していたのかはし不明だが、自動車部隊ということなので、やはり輜重関係のユニットなのだろう。しかしその2ヶ月後の8月15日に終戦になり、10月28日に正式に兵役を解かれ、再び大学に戻っている。」(終戦と僕の誕生)
    村上春樹の父親は1938年〜1945年まで合計3回召集を受けている。ボクの父は1940年に召集され、1946年に復員するまで継続的に軍務に服した。
    「一度だけ父は僕に打ち開けるように、自分の属していた部隊が、捕虜にした中国兵を処刑したことがあると語った。(中略)父はその時の処刑の様子を淡々と語った。中国兵は、自分が殺されるとわかっていても、騒ぎもせず、怖がりもせず、だだじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首された。実に見上げた態度だった、と父は言った。」(捕虜にした中国兵の処刑)
    「いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを-現代の用語を借りればトラウマを-息子である僕が部分的に継承したことになるだろう。」(同上) 
    「もし父が兵役解除されずフィリピン(Philippine)、あるいはビルマ(Burma)の戦線に送られていたら・・・・もし音楽教師をしていた母の婚約者がどこかで戦死を遂げなかったら・・・と考えていくととても不思議な気持ちになってくる。もしそうなっていれば、僕という人間はこの地上には存在しなかったわけなのだから。そしてその結果、当然ながら僕というこの意識は存在せず、従って僕の書いた本だってこの世界には存在しないことになる。」(自分自身が透明になる感覚)

    戦中派世代を父に持つ団塊世代は戦争の影を引きずる世代というのがボクの定義である。ある偶然のきっかけから、ボクは平成24年(2012年)父の旧本籍地から「兵籍簿」を取り寄せた。父の没後14年目だった。父の軍歴を追跡し父の戦争体験を追認したいと思ったからである。もしボクがこのとき父の兵籍簿を取り寄せなければ父の軍歴は永遠に闇に葬られたことであろう。ボクの息子、すなわち父の孫にとって祖父の戦争は遠い過去の出来事に過ぎないだろうからである。 父の戦争体験を継承するまたとないチャンスであった。
   ボクの父は昭和15年(1940年)に召集され、陸軍の飛行兵として広島県宇品港から大連経由で旧満州に配属された。そして翌年(昭和16年)南方方面へ派遣を命ぜられるのである。当初第25軍の指揮下に入りマレー作戦(Malay operation)に従軍しマレー半島(Malay peninsula)を南下した。マレー半島(Malay peninsula)をからスマトラ島(Smatra island)に上陸と同時に第25軍から第16軍の隷下に入る。蘭印攻略作戦に従軍したものと思われる。以後ジャワ島(Jawa island)、チモール島(Timor island)と頻繁に転戦を繰り返すのである。終戦はジャワ島(Jawa island)で迎えた。
  蘭印戦は、『悲惨な戦いを強いられた他の南方戦とは異なり、大本営の予想すら超える圧勝で終わったため、日本の帰還兵達は「ジャワ(Jawa)の極楽、ビルマ(Burma)の地獄、死んでも帰れぬニューギニア(New Guinea)と評したという。』 (Wikipedia)
    もしボクの父がジャワ島(Jawa island)以外の激戦地に送られていたら、ボクの存在はないことになる。それは村上春樹と同じく戦中派を父に持つ団塊世代の宿命といえるだろう。

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