ゆくの菜園日記

ダイエットはマイナス6キロ台をウロウロしています

倉本聰先生

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脚本家倉本聰先生の大ファンです。
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北の国の先生がショーケンの追悼を!
ドラマ「前略おふくろ様」の主役のこの俳優には未だに俳優としての魅力を感じないのだが、先生のコメントが気になって仕方がなかった。
『おおおっ』、「尊敬出来る人を持つことの大事さ」を書かれていた。
この言葉を初めて聞いたのは家人が携わった化粧品店で、全くの白紙から徒手空拳で開店した店が、軌道に乗って売り上げが急成長を遂げていたころ、メーカーの「店主セミナー」で新宿の本社で時の社長の講演の中に出てきて、「う〜ん」と唸った。
後にご縁をいただいた北の国の先生が、講演だったか著述の中だったか、同じような言葉を発せられた。
その前後から東隣町の商工業者にも、「この人は」と見込んだ方には熱心に説いてきた言葉だった。
今でも「私の大切な言葉の一つ」になったままであります。
幸い、私の尊敬出来る方は、いや敬愛している方は「北の国の先生」であります。天下に怖い人はこの先生だけです。
あとは私には「どんぐりころころ」であります。
頑固で屁理屈屋でへそ曲がりの男の弱点でもあります。
先生の顕彰活動は私のライフワークになってしまった。
昔からの友人たちからも「お前、いい加減に卒業しろよ」と言われもしますが、馬の耳に念仏であります。
さて、静岡のお友達の記事に、行基の詠んだ詩(短歌)にメロディをつけた「ほろほろと」とコメントをつけたんだが、じっと考えて、「これからのフェイスブック記事の最後には好きだった歌に5,6行くらいのコメントをつけるようにしたい」と考えた。
まず最初にあいうえおの「あ」から『仰げば尊し』を選んだ。
アメリカの古い歌だったそうだが、小中高の厳寒期の卒業式はいつも寒さで震えながら歌っていた。映画では二十四の瞳の卒業式の場面の、涙を流し続ける小石先生(高峰秀子)の泣き顔だった。

年末が近づいてきたので、元気を出して自分の部屋の模様替えに掛った。
40代半ばから夢中で取り組んできた北の国の先生と富良野塾の思い出をしっかりと残そうと、神戸以西では初めての金光公演のときに作成した大幟と、ロビーに展示して富良野塾を実感して貰うために作成を依頼した塾の写真を3枚探し出して、本立てには北の国の先生と富良野塾応援に取り組んだ資料などを並べた。

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金光ファンの会などと大仰な団体名にしては先生の著作が少ないと言われるけど、シナリオ集とパンフレットなどの100点を超える私の宝物は市立の図書館の展示コーナーに貸し出ししているので、誤解されないように願います。
コーナーは誠に小さくちゃちなものですが、先生と奥様と妹さんに直にサイン帖に署名していただいているので、私にとっての「聖地」なのであります!
図書館に来られた方にはぜひご署名をお願いいたします!

富良野塾の思いで

フェイスブックの「知り合いかも」という飛び出し欄を見ていたら、富良野塾出身のある方を思い出していた。
昔、北の国の先生と出会って富良野塾のわが町公演を何年もお願いを繰り返して、やっと先生の承諾を取り付けたんだが、先生への感謝の気持ちと「会場に200人位しか入らない金光では塾生が可哀想だと仰った先生の言葉が耳にこびりついて離れずにいて、何が何でも500人の会場を満席にすることと、不安な想いで来られる塾生のみなさんを熱烈に歓迎したいと思って、差し入れのTシャツと真っ赤なおどろおどろした筆書きの大幟を用意して毎回の公演を迎えていた頃のとだった。
ある年に倉敷芸文館に「谷は眠っていた」か「ニングル」でバスが来られた時、(私の記憶に間違いがあれば失礼なことだが)コンビになっていたマネージャーの寺岡さんに手渡そうとしたら、「ありがとう」と言って傍から長い腕が飛び出てごっぽりと抱えて行かれ、思わず口をぽかんと開けていた。そのときは名前も知らないでいたんだが、数年後の大阪の「二人の天使」に千絵さんと出られた女優さんだったように思う。最初の「今日、悲別で」公演の時、先生と全ての塾生とわが町の関係者で賑やかに前夜祭が行なわれた時の話題の中心は頭をつるりと剃りあげて会釈を振りまかれていた伴さんだった。いま、どうしておられるのかなあ?」
大阪公演での「二人の天使」のチラシがやっと見つかった。

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 昔、富良野塾OBたちによる劇団オアによる「二人の天使」が、大阪で公演された時のチラシと関係資料が出てきた。
くっついていた資料を詳しく読むと塾のマネージャーをされていた寺岡さんが製作を担当され、今中富良野で町会議員をされている長南祐子さんが演出担当と記されていた。
主演の4人の俳優さんの名前だけはかすかに記憶にあったので、二人のことは全く記憶になかったので驚いていた。

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そういえば祐子さんの最近の記事に「二人の天使」に関するものが多いなと感じた理由が瞬時に理解できた。...
彼女にとっては「二人の天使」はご自分の子供のような存在、あるいは青春の強烈な思い出であったことなんだろうとも思った。
先だってから、岡山出身の工場長の演出で「二人の天使」が富良野演劇工場で再演され、さらに復活公演に向けた取り組みをネットで読むうちに、大阪で見せてもらった「二人の天使」の資料が「どこかに残っている筈だと」と捜し求めた努力に、「優しい天使」が「ご苦労様」と肩を叩いて探し出してくれたのだった。

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 北の国の先生の弟子たちの作品はこの「二人」で始めて観せてもらったんだが、期待以上の素晴らしい作品になっていて、大道具も小道具もごく少数でスタッフ・キャストも少人数であったので、全国に展開されたらどうだろうかと塾のマネージャーと語り合ったものでした。私は我が町公演をどこまで真剣に考えたんだろう?
その辺りはストンと抜け落ちているので何ともいえないのだが、富良野塾の我が町公演の夜、食事会の席で北の国の先生に、『先生、熱い興奮と感動に声を震わせて、我が町を拠点にして西日本全体の小さな町で富良野塾の舞台を公演して欲しい。西日本の人たちにこの爆発的な感動をぜひ体験させてもらいたい』とお願いして、この一言が富良野塾の全国展開の尖兵たる環瀬戸内公演に至ったのだが、いろんな諸条件を考えるとこの「二人の天使」こそが正にぴたりと当てはまるお芝居だったかもしれないな」と改めて感じている。

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とはいえ、それははるか昔の歳も若く体力も行動力もパッションも企画力もひらめきも何もかもが溢れ出ていた年代のことであったと思うと一気に寂しさに襲われてしまい…………。

Mieko さんが疎開地に

北の国の先生疎開地にフェイスブックのお友達のMiekoさんが来られました。金光郵便局前で待ち合わせて私のポンコツ軽四の先導で疎開地へと向かい、彼女の車は寂光院駐車場に停めてもらい、私の車はすぐ前のさざんか亭に停めて疎開地へと歩きます。
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 理由はさざんか亭に行くのは道が狭くて危険なのです。
疎開地では先生ご一家がこちらに疎開された経過から始まって、私と先生とのご縁のきっかけやら事情やらを詳しく説明させてもらい、お寺を散策されて金光公民館へと向かい、北の国の先生のコーナーを見学していただきました。
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Miekoさんがはずっと以前に富良野塾の公演のチケットを買っていただき、塾とファンとの交流会にも参加していただいた方だったのです。
交流会参加者名簿も大事にされていたのにはビックリするやら嬉しいやら〜...
彼女は富良野塾の看板女優と交流会で親しくなられたとお聴きしています。
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また疎開先で猪鍋会を開いたと言いましたら、「もし計画がまた出来たらご一緒させてください」と言われたので、「ぜひぜひ」とお答えしました。
同級生の鉄砲撃ちから「お〜い、猪を獲ったぞ〜」との一報がないので、いつになるか判りませんが猪肉が確保出来たらぜひ猪鍋会をやろうと思っています!

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