ゆくの菜園日記

ダイエットはマイナス6キロ台をウロウロしています

東隣町の関係

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かつて勤めていた町での、活性化事業などを思い出しています。
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朝日の記事に「個人事業主の労災適用の………」!
なにげなく朝日新聞の1面から読み出したら、4面の消費増税に絡む大きな記事の横に「個人事業主の共済 恒久化」の文字が目に入った。
「うわ〜っ、どうしたん?」と声が出た。
現役時代に「個人事業主の特別加入」に力を注いだことが、懐かしくて走馬灯のように頭の中を駆け回った。
大学を出て港湾荷役運輸の会社と食品会社で、内容は違うが労務管理を含む業務を体験して、公共職業安定所や労働基準監督署とのパイプを持った私は、転職した商工団体に勤めて間もなく、安定所の課長から「ゆくさん、ちょっと相談があるので顔を出してよ」との電話をもらい、東隣町の安定所に顔を出した。
「岡山県にあなたの転職した商工団体が12か13あるのだが、ほとんどが労働保険事務組合を設置して、失業保険と労災保険の未加入事業所の面倒を見ているんだよ。私がここにいる間に設置してくれよ」とのお話だった。
労働者というか従業員の業務災害や求人活動などに関係した私には、自分の職業人生の縮図のように思われて、「僕が作ります」と大見えを切った。
職場の事務方トップの役員に安定所からの相談を告げて「設置させて欲しい」と提案すると、「なんで会議所が安定所の下請けにならにゃいけんのんなら。やめろ」とストップをかけられた。
社会党の市会議員上がりと聞いていたのに「労働者に冷たいな」と激しい怒りがこみあげて、「会員の商工業者にとって、従業員の管理は大変大きい課題のはずだ。『人・物・金』のトップにあるんですよ。それを手助けすることになり、会員からも喜んでもらえますよ。ぜひ作らせてほしい」と熱を入れて説得を続けると、「そんなに言うんなら認めてやるが、後で泣き言を言うなよ」と言ってしぶしぶと認めてもらった。
事務組合を通すと事業主も特別に労災保険が適用される特典があった。それから事務組合を設置して事務委託増大に熱心に取り組んだことを思い出させてくれた記事だった。
野党提案ではなくて政権与党の動きであることが残念だったが、私にはとっても嬉しい記事だった!
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先日、フェイスブックに玉島市街地に出来た良寛会館でのイベントに参加したことを書いたのだが、フェイスブックのお友達に「良寛さんが倉敷(玉島)にいた事を知らない人が多いですね。特に東京では勘違いでは?と言われた事がありました」とコメントが寄せられて驚いた。
確か20年位前に、私の現役時代に良寛ブームが起きた記憶があるが、私は日本中、特に東京でも「良寛ブーム」が起きて「良寛と言えば岡山県の玉島」は知れ渡っていたものと思っていたのであります。
良寛さんは1758年(宝暦8)に越後の出雲崎で生を受け、1831年(天保2)に74歳の時、北蒲原郡島崎村(今は新潟市に編入)で没した人でしたが、明治時代の詩人・歌人として活躍された相馬御風の評伝で、「清貧の暮らしの中で子供と鞠をついて遊ぶお坊さん」のイメージと、「焚くほどに風がもて来る落ち葉かな」などの立身出世を絶った句や短歌が世の共感を呼んで、一躍全国に知られた方だった。
その良寛さんが以外にも東京では「玉島で修行されたということは勘違いでは?」と言われていることについて、現役時代に良寛さんに係わる様々なイベントに関係した自分としてははなはだ心外だった。
良寛会館では開館一周年記念として、良寛さん出生地の出雲崎の良寛記念館前館長の講話が組まれてあって、質疑の中で私が「先生、玉島では良寛さんは玉島に12年・14年・16年・18年滞在されたといろいろに言われているけれど、先生はどう思われますか?」と質問すると、「良寛さんの遺稿を精査したが玉島では12年おられたことにしています」とのことだった。
このことが10日を過ぎても頭の中で渦巻いていて、「良寛さんの修行された我が玉島の中で、12年いた、いや14年だ、いやいや16年だよ、アホか18年いたんだよ」と言い合っているようじゃ、東京の人も日本中の人も玉島の人間を馬鹿にして相手にしないのは当たり前だなと気づいたんであります。
日本の社会から昔からの日本ならではの大切なものが次々と失われていく今日になって、今こそ良寛さんの生きてきた「欲望を絶つ清貧の道」が再評価されるべきであり、修行時代の玉島あっての良寛さんであることに、玉島の人が気づいて良寛さんを大切に考えなくてはと思う次第であります。
よって玉島の人たちが今なすべきことは、玉島滞在年数を12年なら12年、14年なら14年と意思統一して世間に打って出ることだろうと思う。
おりしも来年2019年は良寛さんが越後から玉島に来られて240年に当たるので、「良寛さん、来玉240年記念行事」と銘打ってイベントを打ってもいいのではと思う。
玉島中に様々な団体が様々なイベントを創設して、花火のように打ち上げるのであります。
大まかな構想が形づくられた時点で「良寛さん記念行事募金」の活動を起こすのも事前の宣伝になることだろう。
また、「良寛さん記念行事宣伝隊」を編成して、大きなのぼり旗を手に持って新潟から東京へアピールの行動をおこすことも必要でありましょう!
新幹線併設の新倉敷駅に大きな懸垂幕を掲げることも必要でありましょう。
「良寛さんと玉島」と題したチラシやパンフレットを作成することも必要でしょう。
「良寛さんと玉島」と背中に文字を染めた法被やTシャツがあってもいいでしょう。
お子さんたちのためにと「良寛飴」や「良寛せんべい」もあってもいいでしょう。
清貧の暮らしを追い求めた良寛さんにふさわしく質素な「良寛うどん」もいいのでは!
乞食のような姿で街を托鉢して歩いた良寛さんにあやかって、「編み笠」を頭に載せて隊列を組んで街中を歩きまわるのもいいでしょう。
イベント期間中に限り、市民のご協力をいただいて民家の軒先で、簡単な湯茶の接待をしていただくことも出来ていいように思えます。
今こそ、オール玉島の英知と努力を結集して「良寛さんづくし」のイベントを起こしてはどうでしょうか!
「玉島から足を洗った者が何を言うか」と向きになる人もいるでしょうが、玉島は玉島に住んだり玉島に仕事に勤めている者だけの物じゃありません。
良寛さんや同志社の新島譲先生のファンや玉島市民センターを満席で埋めた北の国の先生の演劇「谷は眠っていた」を観られた皆の町でもありますよ。
コップの中の争いにうつつを抜かしている時じゃありませんよ!
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写真はモミジで真赤に染った寂光院と良寛さんの図書。
数日前の日曜日に昔の繋がりで二つのイベントに参加した
午前中は市街地の真ん中に昨年設置された「良寛会館」での「良寛さん真筆特別展」に、特別ゲストとして出雲崎町良寛記念館の前館長さんが講演されるのでとの案内に応じたのであります。
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現役時代に「良寛記念館建立準備委員会」を発案して、メンバーを組織して募金活動を展開してきたので、他人事ではなかったのであります。
講演会では何であれ、良寛さんの生れた町の記念館前館長だけあって、私の知らない逸話を沢山聞かせていただいたのはありがたかった。
講演後の質疑になって「先生、玉島では良寛さんの滞在は12年とも14年とも16年とも言われているのですが、どうお考えでしょうか?」と発すると、「良寛さんの遺稿を隅々まで探してきたが、玉島に何年いたという記述がないのです。ですが、あらゆる角度から考えて出雲崎では玉島には12年間住んでおられたと言う説に固まっています」と答えられた。
私もこれを期に「良寛さんは玉島に12年間住まれた」という説を取ることを決心した。
その足で高梁川を渡って水島地区に入り、中央公園前のカフェ&ギャラリー竹に向かった。近くの店で昼食を済ませたがかなり時間があったので公園の中を散策していると、150センチ位の台座の上に裸の子供が、一人は立って空を見上げていて、二人目はうつ伏せに腹這いになって遠くを眺めていた。
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台座を見ると「大地に緑を、未来に夢を」と彫られていた。
「う〜ん?」と首を捻った。
台座の言葉からすると子供の像は小さすぎるし、立っている子もうつ伏せの子も夢を見ているようには思えなかった。
公園管理者が「自分の金ではないのだから、どうせ税金なんだからお好きなように」と決済したんだろうと結論を出した。さて、竹さんに入ってコンサートが始まった。
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二胡はゆかさんで、ピアノは昔東隣町で歌声喫茶を起こした時の初代のピアニストのサッチャンさんだった。彼女のおかげで歌声喫茶は順調に出発できたのだ。
二胡の演奏は数年前に矢掛町でお聞きしたことがあるのだが、柔らかくて繊細かつ野太い音が出る二胡はどこまでも優しく会場に流れた。
伴奏の田中さんのピアノは全く安心して聞いていた。
2時間の中で私が知ってる曲は「赤トンボ・蘇州夜曲・ムーンリバー・故郷・川の流れのように」の5曲だった。
アンコールは聞いた記憶があるものの曲名が最後まで頭に浮いてこなかった。
居心地の良いコンサートだったが、私がプロデュースするなら最後は「故郷」を全員で歌って解散しただろうと思った。
「みなさん、同じ倉敷市の真備町が全国にも例を見ない大変な水害に遭われています。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、懸命に復興に向かわれておられる方々に向かって励ましの気持ちを込めて『故郷』を大きな声で歌いたいと思います。ご唱和ください」と挨拶して手を大きく回していただろうと思った。

昨夜の9時半ごろ、読んでいた本に飽いてテレビのリモコンを操作していると、歌舞伎が写されていて、「あれっ、夏祭?」と釘付けになった。
やはり浄瑠璃・歌舞伎で名作中の名作と言われる大阪を舞台にした「夏祭浪速鑑」だった。
慌てて新聞の番組欄を見るとNHKEテレの「古典芸能招待」という番組だった。
私の大好きな中村吉右衛門が主役の団七久郎兵衛を演じていたのだ。
「一寸徳兵衛」は誰が演じているのかを画面で見つめたが俳優の名前が解らなかった。2012年6月の歌舞伎座公演で3幕が上演された時の動画であり、「しまった、テレビの番組を見ていれば〜」と歯軋りしたが時すでに遅しであった。
昔、現役時代に様々に動いていた頃にこの出し物の準主役の「一寸徳兵衛」が玉島生まれの実在の人物で、浪速の街で男伊達で通した逸話を知ったときから、一寸徳兵衛と夏祭浪速鑑を追い求めて熱を上げて活動していたので感慨深く見入った。
浄瑠璃の原作では第一幕から第九幕まであるが、歌舞伎では3幕めの「住吉神社前」、6幕目の「釣船三婦内」、7幕目の「長町裏」、8幕目の「団七内」の4幕の中で、どれかを抜いた3幕が演じられることが殆どである。
備中玉島の一寸徳兵衛はこの4幕の全てに顔を出しているほぼ中心人物となっている。
「住吉神社前」では団七と徳兵衛が立ち回りを演じ、仲裁に入った団七の女房お梶から団七が徳兵衛の主筋玉島兵太夫の恩を受けていることを知らされ、二人は建て引きを止めて義兄弟となる場面は、長い得物を振りかざしての立ち回りが見ものであります。
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   義兄弟の3人、左から団七久郎兵衛・釣船三婦・玉島出身の一寸徳兵衛

「釣船三婦人内」では徳兵衛の女房お辰が徳兵衛の主筋に当たる若侍を玉島に預かるにつき、お辰の色香に苦情をいう三婦に焼け火箸を顔に当てて傷をつけて「なんと三婦さん。この顔でも思案の外という字の色気がござんすかえ」と啖呵を吐く場面が圧巻であります。その三婦はお辰の気風の良さに驚嘆し、「女にしておくのは惜しいなあ。男に生まれてくるはずが球を落としてきたなあ」と恐れ入る場面が唸らせます。

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徳兵衛の女房、お辰

「長町裏」では団七が匿っている兵太夫の息子の惚れた琴浦を連れ出して悪侍大鳥佐賀右衛門に売ろうとする義平治(女房お梶の父親)の余りにもの強欲に堪忍袋が切れて腰に挿した刀で切り倒す場面、通称「泥場」とも言われ、凄惨な殺しの場面は舅と婿の情と義理に欲が絡み合って息を殺して観る場面である。

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釣船三婦

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吉右衛門演じる団七久郎兵衛

「団七内」では舅を殺した団七を捕まえようと捕り手が迫る中、徳兵衛が一芝居を打って捕り手を煙に巻いて団七を備中玉島へ逃がす場面であり、「玉島」「備中」という言葉が何回も飛び交う芝居であり、玉島に勤務する者として観ていて読んでいて嬉しくて堪らなくなる出し物であります。

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舅を殺して立ち去る団七久郎兵衛

数年前に若くして世を去った5代目勘九郎(最後は18台勘三郎で死去)が主役の団七を何度も演じて、平成12年だったか歌舞伎が初めてニューヨークで公演したときにこの「夏祭浪速鑑」を引っさげてニューヨークに乗り込んで、あっと言わせた作品であった。
 
一寸徳兵衛の生まれた玉島にはひっそりとお墓も建てられているが、ご子孫の方は「徳兵衛がやくざ者だったので世に知られないようにしてきたので、そっとしておいて欲しい」と懇願されたんだが、「徳兵衛は大阪の町で道理が通らぬことには一寸も下がらない男気で上げた人物であり、玉島の男の代表であり、歌舞伎の中でも男伊達で出て来る任侠の人であり、決して恥かしい人物ではありません。玉島の貴重な歴史の一ページを彩る逸話であり、遊び半分で面白がっているのでもありません」と申し立てて、「あなたの熱意と真面目な考え方に降参しました。何も言わないのでよろしくお引き回しを願います」との言質を取ったのであります。
直後の玉島まつりの中で夏祭浪速鑑の主要人物を着物とかつらとお化粧で飾って登場させた時はやんやの喝采を浴びたものです。
18-8-19《倉敷市の真備町の今》
7月6日の夕方から翌朝に掛けての記録的豪雨で町の三分の一が濁流に浸かってしまった岡山県倉敷市真備町。
水害発生からしばらく日を置いて何回かお邪魔したのだが、昨日も知人の消息を尋ねて真備町を彷徨った。
北の国の先生金光ファンの会の名簿から、住所をメモに書きとめて真備に向かったのだが、結局は消息が不明のままだった。
その方の家を探し当ててご近所の方に消息を尋ねると、「多分小学校でしょう」との言葉に地区の小学校の避難先を訪ねると、お世話をされてる方々用のテントが4枚張られていて、入り口の受付で名前と住所を告げて知人の消息を探してもらったが、こちらの避難先の名簿には名前が無かった。
倉敷市の南部方面の仮設住宅か、近くの市町村のアパートか知り合いの家に寄宿されているのかも知れない。
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あの水害発生から42日を経過しているのだが、こちらの小学校の避難者は220人と知らされ、予想を超えた避難者数に驚いてしまった。
自治体関係者もかなり手馴れてきたのか、テントの周辺では関係者の笑顔やおしゃべりが気になって仕方なかった。
応援に駆けつけた市町村の名前を大きく書いたポスターがペタペタと貼られていて、市町村の宣伝合戦の様相を呈しているように思えた。
前にお邪魔した時から比べると井原鉄道高架下に延々と積み重ねられていた「災害ゴミ」の量がうんと少なくなっていた。
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でも、道べりから見える民家の多くは2階の窓が開け放たれていて、住民の姿はほとんど見かけることが無かった。
家や建物はずらりと並んでいるのに「人の姿」が殆ど見られない状況は、酷な表現だがある種の廃墟のようにも思えた。
先日、ある自治体の方と話したんだが「真備町に行かれたの?」と訊ねると、「いいえ、行ってないのです」と言われた。
続いて「今は関係者以外は行ったらいけん」と言われているので、様子を見ているんです」とも話された。
確かに私が家から真備町への道を車で走ると、大きな立て看板に「真備町へは迂回路を利用してください」と書かれていて、一瞬、迂回路を頭に思い浮かべたが、どの道を走ればいいのかが頭に浮かばないので、以前から利用した道を走って行った。
様々な要因があって真備町を訪れる方が極端に少なくなっているように思える。
そうした真備町で昨日は全国各地からの「ボランティア」の方々が20人単位の多くのグループがあちこちで隊列を作られて救援に向かわれていた。
誠にありがたく、心の中で「ありがとうございます」と感謝しながら車を走らせていた。

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