|
一枚の喪中はがきに、誰かの親族の死去で年賀状の出せないハガキだと思いつつ手に取った。
学生時代の仲間の死去の通知だった。2週間ほど前の死去だった。 大事な仲間がまた一人あっちへ逝ってしまった。 正月明けに大きな手術を受けて自宅療養をしているとの暑中ハガキがあったが、まさか逝ってしまうとはと愕然とした。 鳥取市から京都に来ていたNA君は、定年後東京の近郊に居を構えて大好きなバイクを弄りまわし乗り回していたはずだったのに! 私の学生時代の濃い仲間は約10人位だった。 北は北海道から京都に来たO君、山形のNA君、岐阜県のKA君、奈良のMA君、大阪のYO君、京都のSA君、鳥取市のNAくん、鳥取西部のA君、島根のSAくん、そして岡山の私という上下3学年の先輩2人、同期5人、後輩3人のメンバーだった。 この仲間は学生運動の拠点だった自治会を核にして集まっていたメンバーで、自治会のメンバーは山形のNA君、奈良のMA君、大阪のYO君、島根のSA君と岡山の私の5人で後の5人の仲間は自治会の周囲にいたシンパだった。 2週間前に逝ってしまったNA君はいつもハキハキして元気良くて、就職は朝日新聞か車のホンダに就職したいと言っていたが、ホンダに入社した。 学生時代から1歳上の恋人がいて、卒業3年目に彼女と結婚した。 ホンダでは営業に所属し、40代に岡山県笠岡市に隣接した福山市の営業所に所長として単身赴任したことがあり、学生時代とは違った濃密な付き合いも出来ていた。 その福山であったイベントに一緒に参加した私は、バザーで薄い布地の赤いジャンパーを買ったが、いまだに大切に持っている。 NA君はコンパなどの飲み会では必ず郷里の民謡「貝殻節」を唄っていた。 僕たちの仲間はいつの間にか「貝殻節」が大好きになってみんなで一緒に唄ったものだ。 何の因果で 貝殻漕ぎなろうた カワイヤノー カワイヤノ〜 色は黒うなる 身はやせる ヤサホーエヤ ホーエヤエーヨイヤサノ サッサ ヤンサノエー ヨイヤサノ サッサ 戻る舟路にゃ 櫓(ろかい)が勇む カワイヤノー カワイヤノ〜 いとし妻子が 待つほどに ヤサホーエヤ ホーエヤエーヨイヤサノ サッサ ヤンサノエー ヨイヤサノ サッサ 浜村沖から 貝殻が招く カワイヤノー カワイヤノ〜 嬶(かか)よ まま炊け 出にゃならぬ ヤサホーエヤ ホーエヤエ〜ヨイヤサノ サッサ ヤンサノエー ヨイヤサノ サッサ〜〜♫ 日本の全国各地にその土地の民謡は沢山あるが、貝殻節は掛け値なしに上位5曲に入る名民謡だと思っている。 私は郷里の民謡として下津井節をうなったが、唱和するものは誰もいなくて東京音頭などを唄っていた。 「踊り踊るなら東京音頭ヨイヨイ」というあれであります。 彼は歌謡曲ではフランク永井が唄った「公園の手品師」をよく唄っていた。 彼の歌を聴いて私はこの曲も好きになっていた。 私が2回生の夏休みに、仲間が5人で鳥取砂丘で遊んだときは、彼を中心に酒と弁当とおかずやお菓子を抱えて「朝までの唄いながらの飲み会」をやったことがあった。 歌集も何もなかったので5人がうろ覚えの歌を頭からひねり出して、歌い出すと仲間が手拍子を叩いたり、一升瓶を叩いて歌を転がしあっていた。 酒を飲むほどに酔い乱れ、寝転んで唄ったり飲んだりを延々と続けて朝までやり切った。
若さゆえのエネルギーの発散だった。 歌は流行歌から民謡・童謡・唱歌・軍歌・流行歌にと多岐にわたる演芸会でもあった。 こんなに歌を唄いまくったことは初めてだったし、以後にもなかった。 また、当時バイクを持っていたNA君とSA君と私が一人づつ仲間を後部座席に載せて、琵琶湖に遠征して遊んだこともあった。 思いおこせば懐かしすぎて悲しくなるのでここらで投稿としたい!合掌! |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- ブログバトン



