yumejiの徒然考

日常の喜怒哀楽を気ままにつづるyumejiの世相観察日誌です

エッセイ

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靖国神社について

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                                              (靖国神社、2012,8)
 
昨年暮れに安倍首相が靖国参拝して中国や韓国から反発をまねいたことに、私は内心、お国のために犠牲になった人たちの霊を弔うことに、偏狭的なナショナリズムの国にとやかく言われる筋合いはないと思っていました。マスコミや周辺諸国の顔色を伺ってばかりいる政治家よりは、よほど信念があるのではないかとも思っていました。
 
歴代内閣の首相がこれまでも参拝してきたし、そもそも神社参拝という日本人固有の慣習が外国人に理解されているのか、安倍さんが参拝したからといって、かつての軍国主義に陥るなんて日本人の誰が思っているのだろうと訝っていました。
 
ところが過日の某新聞のオピニオンページで、ある知識人が「強いリーダーシップを求めるということは自分の意見を放棄して他人任せをすることであり、民主的に決めるということは多様な意見を尊重するがゆえに時間がかかる」と説いていました。つまり成熟した国家ならば民主的に決めることに道理があるというわけです。マスコミは個人的な信念で国を動かされたらたまらないとして、安倍さんの靖国参拝をこぞって批判しています。それでも安倍さんの支持率が低くならないということは、私のような考えの人間がいかに多いということなのか。私の考えは間違いではないのかと思っていたのでした。
 
ところがです。
そんな私が、パソコン上のyahooニュースの見出しで、江川紹子さんの靖国神社についてのエッセイというかコラムを読んで、私が「井の中の蛙大海を知らず」的人間だったのかと考え込んでしまったのです。イメージ 2
 靖国神社といえば、私の祖先や親族の霊に関係するわけではないし、九段坂を歩いていた時に一度だけ境内に足を踏み入れたことはありましたが、参拝したことはありませんでした。もちろん同じ境内にある遊就館なる施設にも訪れたこともありませんでした。だから靖国に関して知っていることと言えば、先の太平洋戦争で犠牲になった兵士と、連合国の裁判で有罪判決を受けた東条英機らA級戦犯の遺骨が合祀されているところ、という程度の認識でしかなかったので
(洋上に浮かぶ富士山=伊豆の沖合から。2013,8)
 
す。その靖国神社の対外的な広報というか、説明案内が昭和20年の敗戦前の価値観そのままだという、江川さんの指摘にショックを受けてしまいました。
 
これまで首相の靖国参拝と言えば、その事実を伝え、そのことにいちいち中国にコメントを求める記者も記者だと、不快な気持ちにさせられたものでしたが、江川さんのような視点で靖国問題を語る記者の原稿を読ませてもらったことはありませんでした。
 
江川さんは『靖国神社に行ってきた』との書き出しで、『安倍首相の靖国参拝について改めて考えてみたい』として、次のように書いています。
『靖国問題というと、外交的な側面ばかりが強調されすぎるような気がする。本当は、それ以上に、日本人自身が日本のこととして、この問題をもっと考える必要があるのではないか』
ごもっともです。
『遊就館には、同神社の歴史観に則って様々な資料が展示されている。それは、日本が対外的に行った戦いはすべて正当である、という全肯定の精神に貫かれ、日中戦争は「支那事変」、太平洋戦争は「大東亜戦争」と戦時中の名称で呼ばれる』
『靖国神社では、先の大戦は今なお聖戦扱い。まるで時間が止まったように、戦前の価値観が支配している』『展示物を見ている限り、軍隊の上官はすべて部下思いであり、責任感に溢れ、一人ひとりの兵士は皆、国のために喜んで命を投げ出したかのようである。中国においても、「厳正な軍紀、不法行為の絶無」が示達され、民間人の殺害など一切なかったかのようである。過去の失敗や過ちから学ぶ視点は、まるでない。あるのは、国に命を捧げることへの称賛。しかも、国のために命がけで何かを成し遂げるというより、ただただ命を捨てる尊さが称えられている』と。
 
江川さんはこうも綴っています。
『国のために己を犠牲にするひたむきな心情に感動し、国を思う悲壮感には思わず居住まいを正さずにはいられない。その思いを否定したり押さえ込む必要はない、と思う。多くの犠牲に対して、私も自然と頭を垂れ、哀悼の思いを捧げた』
『ただ、そのような思いを、戦争やそれを招いた国策、戦争指導者への肯定に導いていこうとするところに、この神社の危うさがある。戦後日本の体制づくりの土台には、戦争への反省があった。そのうえに、日本の復興があり、その後の発展があった。この土台を、靖国神社の価値観はそっくり否定してみせる。反省する必要はない。あの戦いは間違っていなかった。国のために命を投げ出すことこそ尊いのだーーこのような価値観を、感動や感銘と共に心に注ぎ込み、人々の教化に努める。こうした機能を今なお維持している靖国神社は、慰霊のためだけの施設とは言えないだろう』と。
 
江川さんは『それでも遺族や個人が戦没者を偲んで参拝するのは、まったく自由である。しかし、日本政府のトップにいる首相が、同神社の価値観を全く否定せずに参拝したことは、国民にとってどういう意味を持つのかは、よく考えるべきだ』と結んでいます。
 
そうですよね。先の戦争について後世の国家が事実をもとにきちんと検証し、客観的な評価を下さないでいるとしたら、戦争からの教訓も、今後の国家としてのとるべき姿も見出せませんよね。まあ国は過去に何度も大戦における非をわびてはいますが。
結局、英霊を祭り、『天皇陛下バンザイ』のスタンスをそのままに後世に伝えようしている靖国神社はそれで構わないとしても、そうした神社側の姿勢に何ら是非を問うことなく、国家の首長が参拝をするということは、いくら「英霊を慰めて恒久的な平和を誓う」と言ったところで、日本国民は由としても中国や韓国は納得できないのかも知れません。
大戦後の日本のとるべきスタンスについて、福田内閣は1977年に「福田ドクトリン」なるものを発表し、アジア外交3原則を発表しています。これは日本は軍事大国にならず、アジア諸国と対等なパートナーシップを築いていくというものです。ならば、そうした外交精神が形骸化していないことを内外に示すためにも、そろそろ国も靖国神社の在り様を考えるべきではないのかと思うのですが…。
 
でもこれは江川さんの記事を読んでの感想です。私も機会をみて靖国神社に行って、この目で展示物をシカと確かめて、江川さんの問いかけに応えたいと思います。
 
ところで、江川さんの記事は1月17日付の熊本日日新聞に掲載されたものを加筆したというのですが、なぜ中央紙ではなく、地方紙だったのでしょう。
 
追伸。
足尾銅山で、坑道採掘跡が今なお、観光客に開放されていますが、その坑道の中の資料展示室には鉱山の歴史や産業振興を紹介しているのもの、鉱毒被害で天皇に直訴した明治の代議士田中正造にはひと言も触れられてはいません。これが現実なんだと割り切れるのは、国内の問題ですんでいるからなのでしょうか。
日清、日露戦争を描いた『坂の上の雲』の中で、司馬遼太郎は戦争というものに、『国家像や人間像を善か悪かという、その両極端でしかとらえられぬというのは、今の歴史科学の抜き差しならぬ不自由さである』と綴っています。そしてまた『古今、その物事を革新する者の多くは素人である』とも。
尖閣や竹島(おっとこれは日本名の呼び名ですが…)問題を解決するのは、政治家ではなく、私たち素人の一般市民なのかも知れません。
終わり。
 
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『真夜中に動物の苦しそうな鳴き声が聞こえた。空が明るみ始めたころに玄関の扉をあけると、一匹の犬が苦しそうに横になっていた。その犬はこの家の住人が時々散歩してあげているよその家の飼い犬だった。早々に飼い主に連絡し、引き取ってもらったが、間もなく死んだという知らせがあった。犬は飼い主のおばあちゃんと散歩をしていたが、足腰の悪いおばあちゃんは時々犬に声を荒げたり、叩いたりしていた。見かねた住人が犬の散歩を申し出た。そしてしばらくしてその犬と仲良しになった。飼い主は「昨夜から横になって立ち上がれなかったのに、どうやってお宅まで来たのか」と首をかしげたが、住人は「私にわざわざお別れをしに来てくれた」と思った。とたんに涙があふれた』
 
『その犬はいつもある家の玄関前で短い鎖に繋がれていた。犬小屋は道路に面しており、車の排気ガスを浴びながら存分に動くこともできず、一日中退屈そうにしていた。犬の飼い主に「よかったら散歩させましょうか」と声をかけたところ、ふたつ返事で了解が得られ、さっそく翌日から犬と散歩を始めた。以来、犬は私の姿をみつけると全身で喜びを表現した。犬が待っててくれると思うと、私自身の散歩にも張りが出た。ところが一年後、その犬は突然姿を消した。犬小屋もない。どうやら飼い主は引っ越しをしたらしい。なぜか急に寂しくなった』
 
1220日(月)の朝日新聞の『声』の欄に、こんな記事が載っていた。70歳前後の男性と女性の投稿だが、ともに他人の家の犬でありながら、その暮らしぶりに憐みを抱いて無償の散歩請負人をかって出たという。昼のめし時にこの記事を何気なく読んでいたら、思わず目頭が熱くなった。
 
我が家にも雑種ではあるが真黒なラブラドール・レトリバーがいる。この犬はまだ赤ちゃんだった5年前、妻が知人から貰ってきた。今では体重が40㌔にも増え、散歩はとうとう妻の手に負えなくなってしまった。このため、私が毎晩散歩させているのだが、犬にとってのご主人さまは依然、食事を与えてくれる妻であり、私は単なるお友達にすぎない。ま、それでもいいかとあきらめている。
散歩の時間がくれば「早く来い」といわんばかりに鳴き声をあげる。家を出たとたん、散歩の主導権は犬が握り、私はただ後をついていくだけだ。途中、疲れたからと引き返そうものなら、路上に座り込んでてこでも動かない。
 
我が家の犬とはこれまでに九十九里浜に遊びに行ったり、筑波山に登ったり、そして印旛沼をランニングしたりするなど、結構楽しませてくれた。もはや家族の一員なのだ。しつけをさせていないため少々おバカさんだが、他人に迷惑をかけるようなことも、これまでにはなかった。犬の命がある限り、ふびんな思いをさせたくはないと思っている。
(おわり)

詩集『くじけないで』

さびしくなったら

 
さびしくなった時
戸の隙間から
入る陽射しを
手にすくって
何度も顔に
あててみるの
 
そのぬくもりは
母のぬくもり
 
おっかさん
がんばるからね
呟きながら
私は立ちあがる
 
 
 

風と陽射しと私

 風が
硝子戸を叩くので
中に入れてあげた
そしたら
陽射しまで入って来て
三人で おしゃべり
おばあちゃん
独りで寂しくないかい?
風と陽射しが聞くから
人間 所詮は独りよ
私は答えた
 
がんばらずに
気楽にいくのがいいね
 
みんなで笑いあった
昼下がり
 
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1911年(明治446月の生まれというから、今年99歳になる。
栃木市生まれの柴田トヨ(しばた・とよ)さんの詩集『くじけないで』を書店で見つけ、そっとページをめくってみた。新聞で紹介されていてその存在は知っていたのだが、読んだことはなかった。何篇かに目を通していると、思わず心の中にジンとこみ上げるものがあった。ピンク色した可愛らしい表紙。人目をはばかりながらその本を購入した。
 
柴田さんの夢は、自分の詩集が翻訳されて世界中の人に読んでもらうことだそうだ。
100歳に届かんとしている方の、なおもこうした意欲を持ち抱いていることに、そのエネルギーはどこから涌いてくるのかと首をかしげてしまう。
 
料理や洗濯、掃除…おそらく何事にも不自由しているであろう、独り暮らし老人の日常生活を包み隠さず、詩文に投影している。詩文からは明るく立ちふるまおうと窺い知れるが、その分、せつなさが倍になって読み手に伝わってくる。それは、きっとだれしもが共感できる情景がそこに描かれているからなのだろう。
 
詩は平成15年から今年2月まで産経新聞の「朝の詩(うた)」に掲載された35点と、下野新聞に掲載された3作品、未発表の4作品の計42作品。その「朝の詩」の撰者の新川和江さんは詩集の序文で「いい風に吹かれたみたいに、爽やかな気分になる」と感想をつづっている。
新川さんは茨城・結城市の出身。女学校時代に隣町の下館(現在の筑西市)に一時期疎開していた西條八十のもとに自転車で通い、直に詩の手ほどきを受けたと、自身の著書『花嫁の財布』で回顧している。
 
ちなみに西條八十夫妻の墓は松戸市の都営八柱霊園にあるが、本を開いたような墓石にはこんな夫婦愛の詩が刻まれている。
 
われらたのしくここにねむる
離ればなれに生まれ
めぐりあひ
短き時を愛に生きしふたり…
 
(徒然なるままに…おわり)
釧路に駐在していた知人のY紙記者が、この6月から旭川に支局長として赴任した。
彼とは古河(茨城)で3年間ほど一緒に仕事をした間柄なのだが、その彼が全国各地を転勤するたび、現地の写真を年賀状や暑中見舞いのはがきに印刷して届けてくれている。そして数年前からは釧路支局のテリトリーという知床半島の風光明美な大自然(写真㊦ Y紙記者撮影)や、そこに生息するヒグマやキタキツネなどの写真を、北海道版に掲載した記事と一緒に我がパソコンにメールで送ってくれていた。 イメージ 1
先般、「知床旅情」の生みの親の森繁久弥さんが亡くなったさいには、歌手の加藤登紀子さんや女優の草笛光子さん、司葉子さん、竹下景子さんら森繁さんとゆかりのある芸能人へのインタビューをシリーズで紹介するなど、精力的な取材活動を展開してきた。なんともうらやましい限りだ。
私は北海道には何度か訪れたことがあるが、函館や札幌、小樽、登別ぐらいがせいぜいで、釧路まで足を伸ばしたことはなかった。釧路湿原や知床、そして釧路の街…一度は訪ねてみたいと、今でも思っている。
 
釧路といえば、詩人石川啄木は「石をもて追はるるごとく」岩手のふるさと渋民(しぶたみ)を離れ、函館、札幌、小樽と転々とした後、釧路新聞社の記者になった。ところが「インキのビンも凍ってしまう」あまりの寒さに耐えきれず、わずか3カ月で妻子を北海道に残して単身上京してしまう。東京では同じ中学の先輩、金田一京助の世話で本郷に住むが、にわか仕立ての小説は売れず、どん底の生活を送る羽目になる。その頃の自身を自虐的に著したのが「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる…」の一節で知られる『一握の砂』ということだ。イメージ 5(写真㊦ 日本の詩集石川啄木〜角川書店より)
啄木の墓は函館山南端の立待岬にある。その逆方向の函館の街はずれの空港に向かう海岸沿いには彼の銅像があり、そこで彼は津軽の海を見つめている。たぶん渋民の空を眺めているのだろう。渋民は私が20歳の頃、友人と旅した。今は盛岡市の一部だが、鈍行で行かなければ列車が停まらない奥羽街道の小さな集落で、当時彼が代用教員をしていたという小学校の木造校舎が残されていた。その集落を流れる北上川の河畔には「岩手富士」と称される美しい岩手山を望む形で、彼の大きな歌碑がたっていた。(写真㊦ 遠方の山が岩手山)
イメージ 2凍てつく真冬の中尊寺と浄土ヶ浜へのついでの旅だったが、おそろしくひと気のないさみしい世界だったのを覚えている。
何もない田舎ではあったが、啄木はそんな渋民を生涯愛した。
「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」
「ふるさとの山にむかひていうことなし。ふるさとの山はありがたきかな」と。
 
さてここからが本題。Y紙記者から最近、こんなメールが写真とともに届いた。(写真㊦ Y紙記者撮影)
 
『私が転居した旭川の石狩川のほとりは、アイヌの聖地でした。チェップニ。和人は「近文」地区と名付けました。石狩川のほとり。100年前にはサケマスの大群が遡上してきたところです。50を超えるアイヌ集落があったそうです。そこで育ったのがアイヌ神謡集の作者で19歳で夭折した知里幸恵(ちり・さちえ)の育ったところだったのです。昨日、6月8日は知里幸恵の107歳の誕生日で、盛大に生誕祭がおこなわれました。
以下、今朝の北海道版の記事です。
 
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生誕祭
 旭川ゆかりのアイヌ神謡集の作者でアイヌ文化に多大な功績を残し19歳で夭折した知里幸恵の誕生日にあたる8日、旭川市立北門中学校で生誕祭「銀の滴降る日」が行われた。
 生誕祭に先立ち、同校の全校生徒と関係者が講堂に集まり、知里幸恵の研究者である荒井和子さん(83)が「郷土資料室を通してアイヌの歴史を知ろう」と題して講演が行われた。自らアイヌ民族である父と母が、知里幸恵から暖かい励ましを受けた体験を紹介し、アイヌ民族であることに誇りを持って強く生き抜いた生涯を語った。その上で「北門中校の歴史館、そこに幸恵さんの資料集があります。銀の滴が飾ってあります。私のお友達の協力でできた。ぜひ活用してほしい」と訴えた。
 校庭に建立された「知里幸恵文学碑」の前で開かれた生誕祭では、「旭川チカップニ民族文化保存会」によるアイヌ民族のカムイノミが儀式が行われ、参加者一同は知里幸恵に黙とうをささげ、献花が行われた。
 保存会の川村兼一代表はアイヌ神謡集の序文の一部を紹介した上で「いまだにアイヌ語を学ぶ教育機関が設置されていない」とアイヌ民族とアイヌ文化の置かれている状況について訴えていた。』(原文のまま)
 
 
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(写真はCDにある「銀の滴降る降る」の日本語訳のユーカラ。知里幸恵の訳とは少し違う)
 
知里幸恵は、啄木と親交のあった言語学者の金田一京助の助手としてアイヌ語の編さんに貢献した。もう20年ぐらい前になるが、この女性の短い人生を扱った書物を神田の古書店でみつけ、手に入れた。タイトルは『銀のしずく降る降る』だった。著者は元高校教諭の藤本英夫さん。なぜこの本を手にしたかといえば、それよりずっと以前、今度はY紙とはライバルのA紙記者が茨城から苫小牧に赴任したさい、彼がアイヌ音楽のCDを贈ってくれたのが、そもそものきっかけだ。その中の一つに『銀の滴 降る降る』の曲があった。4分の4拍子のゆったりとしたリズムで、数人の女性がシンセサイザーとムックリ(口琴)の音に乗って叙事詩ユーカラを柔らかに歌い上げている。何度聴いても、その都度心が洗われる、不思議な音楽なのだ。
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「『銀の滴 降る降るまはりに 金の滴 降る降るまはりに』と云う歌を私は歌ひながら流れに沿って下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると、昔の貧乏人が今はお金持ちになっていて、昔のお金持ちが貧乏人になっている…」
 
これはアイヌ人の神(カムイ)の象徴であるフクロウが上空から人間の世界を覗いた様子の詩歌という。CDの歌詞とは少し違うが、アイヌ語では「シロカリペ ランラン…ピシカン コンカリペ」と表現する。
 
アイヌ人は長い間、文字を持たなかった。ずっと昔から親から子へとアイヌ文化を口伝えで受けつないできた。それがアイヌ人の叙事詩、神謡ユーカラだった。そのユーカラを文字に書き遺したのが『アイヌ神謡集』であり、その著者がまだ成人に達していなかった知里幸恵なのである。イメージ 3
神謡集におさめられた作品は、幸恵がおばあちゃんから繰り返し聞かされ、耳だけで覚えたというユーカラだった。
 
アイヌ神謡集について、藤本さんは「一語一語の和訳の適切さと表現の豊かさと美しさは驚くばかりだ」と、彼女の和訳を称賛している。彼女の神謡集は大正15年にフランス文壇に紹介されたといわれ、当時の旭川タイムスにその記事が残されているという。イギリスやドイツなどでも紹介されたといわれている。
1世紀も前にわずか19歳で亡くなった1人のアイヌ人女性を、今でも後世の人々があがめているというY紙記者のメールに、チベット人や琉球人同様、民族とは何ぞやを考えさせられた。(写真㊨ 在りし日の知里幸恵〜藤本英夫著「銀のしずく降る降る」より)
 
自転車仲間のO君と、この夏に北海道自転車の旅を企画していたのだが、私の都合で中止になってしまった。彼は旭川からラベンダー満開の富良野に行きたいと鼻息を荒くしていたのだが、私は旭川の知里幸恵のふるさとを訪ねてみたいと思っていた。そんな矢先のY紙記者からの知里幸恵に関する情報だった。奇遇だった。私はこのCDにおさめられたアイヌ音楽を通してアイヌ人への関心を持ち始め、もう10年以上も前になるが、登別に行った際、わざわざ白老(しらおい)のアイヌ人観光村に立ち寄ったことがあった。独特の衣装をまとい、輪になって踊り、あの「びよォ〜ン」というムックリを奏でてくれた。
ほりが深く、毛深いのは沖縄人にも似ている。そもそも縄文人が朝鮮半島を伝わってきた弥生人に同化せず、南北に追われて種を維持してきたのが琉球人であり、アイヌ人だと説く人もいるが、説得力がある。
アイヌ人はあらゆる自然に神が宿ると信じ、琉球人は「命(ぬち)どぅ宝」という言葉に生命の尊さをこめる。ともにその生死観は自然への畏敬にある。刀で力を誇示した大和民族とは「命」に対する考え方が違うような気がしてならない。(おわり)
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富美子が着物のすそをそっとたくしあげると、美しい太ももがあらわになった。富美子はその自分の太ももに水差しに入った少しばかりの水をたらしはじめる。すると水は太ももの内側からゆっくりとすねを伝わって足元に流れ、親指から水が滴り落ちる。その足元で布団に横たわっている、今にも息絶えそうな老人が口を開け、親指から滴り落ちる水をおいしそうに飲む。やがて老人は恍惚の表情を浮かべ、そして静かに息を引き取る。イメージ 2
 
521日(金)に東京・渋谷の映画館で上映された日本文学シネマ『BUNGO』を観にいった。午後9時半からの上映だったので、仕事を終えてからでも茨城からゆっくり上京できたのだが、往路のTⅩ(つくばエクスプレス)のあまりにも閑散とした車内に対して、帰路は午後零時をまわった秋葉原発の最終ひとつ前の便でありながら、まるで朝のラッシュ時並みの芋を洗うような混雑ぶり。蒸し暑さも加わり、エロスの余韻もすっかり興ざめしてしまった。それにしても、首都圏在住の人々の日常的な流れがこうも一方通行なのかと、改めて思い知らされたような気がする。 
 
上映されたのは『別離』のテーマで制作された梶井基次郎の『檸檬』(レモン)、谷崎潤一郎の『富美子の足』、太宰治の『グッド・バイ』の短編小説3本だて。反対に『出逢い』をテーマにした芥川龍之介の『魔術』、森鴎外の『高瀬舟』、太宰治の『黄金風景』も日替わりで交互に一週間連続上映されたが、こちらは時間がなく観る機会を逸してしまった。
いずれも2月にTBSテレビで深夜番組として放映されたというが、私は知らなかった。
 
映画館はJR渋谷駅の忠犬ハチ公駅前のスクランブル交差点を渡ってすぐの「シネゼゾン渋谷」。ビル6階にあり、300席ほどの小ぎれいなホールだった。上映時間は130分ほどで、入場料は11500円。中年や初老の男性客だけだと思っていたら、若いカップルや学生らしき青年、女性が多く、意外な感じがした。
 
最初に上映された『檸檬』は、肺病を患い、生きる意欲を喪失した青年が主人公。ある日、敬愛する漱石の全集を古書店に売ってまとまった金を得たが、女遊びのために金がたりないという友人に気前よく貸してしまう。汚いアパートに戻ると、隣りの部屋の男から革命思想を説かれるが、青年は興味を示さず、男がやがて警察に爆発所持で逮捕されるのを目の当たりにする。八百屋でレモンを一つ買い求めた青年は、その匂いと色、形に安らぎを抱き、久しぶりに馴染みの古書店に入る。そして積み上げた画集の上にそのレモンを置いて出ていく。レモンは爆弾のつもりなのか、自分の人生への清算のつもりなのか。難しい内容だった。梶井自身、肺結核で31歳の生涯をとじており、人生への挫折感を投影した作品なのかも知れない。
 
2番目が『富美子の足』で、冒頭に紹介した一文は私がスクリーンのシーンを回想して綴った。原作でどう描かれているのかは、3本とも本を読んでいないので分からない
元芸者という富美子は富豪の老人に請われて一緒に暮らすが、この老人が画家の卵の青年に富美子の足をカンバスに描き、死ぬ時は一緒に棺桶に入れて埋葬して欲しいとお願いする。青年は富美子の足を描こうとするが、自身の幼いころの子守り女の艶やかな足の感触を思い起こし、夢の中で富美子の足と戯れてしまう。日々、体が衰弱する老人から早く描くようせがまれる青年は、着物のすそをたくしあげた富美子の足を美しく描いてみせる。作品に満足した老人は自分の死期を悟り、富美子の足から滴り落ちる水を飲みながら死んでいきたいと、富美子に懇願する。
谷崎潤一郎といえば、若いころ映画化された本番映画『白日夢』を観て、独りエロスの世界に浸ったりしたものだが、この映画では富豪の老人に寺田農、富美子はあの清純なイメージの加藤ローサが演じている。寺田農の迫真の演技に、加藤ローサは淡々と表情を変えず立ち回り、いくぶん艶っぽさに欠けたが、このストーリーのだいご味はむしろこのギャップにあるのだろう。これが白日夢の愛染恭子だったらあまりにも生々しいが、松島菜々子さんや黒木瞳さんあたりなら、たぶん悩殺されたかも知れない。
 
そして三本目の『グット・バイ』は、とかく暗いイメージのする太宰治の作品の中ではコメディタッチの愉快な映画だった。女の遍歴を重ねる雑誌編集者の男が複数の愛人と関係を清算するために、闇市場で生計をたてる一人の女に仮の女房役を頼み込む。男は自分に女房がいることを愛人に見せつけることで、愛人の方から別れを切り出してもらおうという魂胆(こんたん)だ。女は男の身勝手な頼みごとに腹を立てるが、相当額の金とレストランでのごちそうを条件に女房役を引き受け、ある愛人のもとを訪ねる。1人の愛人との別れに成功した男は再び女に別の愛人のもとに連れて行こうとする。女に次第に魅せられ、自分を正当化するため身勝手な言いわけをくどくどと説明する男に、女はいっこうに聞く耳を持たず、ただビジネスと割り切って次なる愛人のもとに向かうという内容だ。
男は山崎まさよし、女は水川あさみという俳優さんが演じているが、私はどちらも知らない。気性の強い女を演じる水川あさみさんの演技が、貧しい時代を独りで生き抜かねばならない世相を映し出しており、主役の山崎さんを超えて素晴らしかった。
(おわり)

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