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★仲川権治良が行く百日間夢の旅

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仲川権次良行く夢の旅 文化八年(1811)奥州・会津から百日間てくてく道中記
本日は、ご来訪有難うございます。数年前に編集いたしました道中記とは別にヤフーブログ編集が非常にしやすくなったのを機会に、自宅のパソコンとスキャナー・プリンターをフル活用して出来たオールカラーで編集・印刷本の全頁をそのままに、全16ページにてブログUPいたしました。』 
 
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■195年前・奥州・会津藩から百日間の てくてく歩く漫遊記 !!

 
★★★仲川権治良が行く夢の旅★★★ 
〜「伊勢参拝と西国三十三札所・長野の善光寺参り」〜〔第1回〕

■1800年代の社会の様子とあらすじ
 会津藩〔七代松平容衆公〕では藩校・日新館を建て、武士の子弟10才〜16才 まで、300余藩の中で最高水準の教育をしていた。
★権治良が旅に出かけた文化八年(1811)の会津藩は。
 松平容衆〔カタヒロ〕が、四歳で第七代藩主について五年目、九歳の年であった。その前の容住〔カタオキ〕は、二十八歳で第六代藩主についたが、わずか五ヶ月で逝去している。

第五代藩主・容頌〔カタノブ〕の時代から家老に迎えられた田中玄宰〔ハルナカ〕が就任した翌年から日本中を襲った「天明の大飢饉」から藩民を救うために藩政の大改革を提言し、成果を挙げた。また、五年間の歳月をかけ会津藩校「日新館」の創設をし、病身の第六代・幼少の第七代藩主を守り会津藩を天下の雄藩へと導いた。会津藩の樺太〔カラフト〕出兵の最中六十一歳で亡くなった。(墓地は本人の遺言により鶴ヶ城と日新館の見える小田山頂上に建立されている。)

筆者も、会津人ながらこの年まで会津の歴史をほとんど知らないままであったが、この旅日記を書き始めてから歴史を学び始めて驚いたのであるが、現在のように医療制度が発達してなかったので当時の平均寿命は40歳くらいだったという。何故なら、生後一年以内で病気や栄養不足、あるいは間引き〔食料不足の中、子供を育てるために農林業に就労できなくなるので女子は生れて間もなく人為的に殺されていた時代で、間引きという〕で約50%は死亡していたようである。さらには大災害も襲った。

★天明の大飢饉 〔天明3年(1783)〕はじまる。
3月に岩木山が大爆発し、その後「アイスランドのラキ火山」が噴火、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した霧は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ低温化・冷害を引き起し、さらに7月、浅間山が大噴火し〔嬬恋村では死者四百余名〕、各地に火山灰を降らせる。江戸でも三僂硫仍崖イ積もった。 東北地方の農村を中心に、大冷害となり多くの、餓死者が出た。(推定で約2万人以上)

天明五年(1764)会津藩、秋田藩なども大凶作となり、餓死者が続出、天明六年・七年には江戸開闢以来の大洪水、関東〜陸奥でも大洪水のため大凶作。収穫量は平年の三〇%疫病蔓延し餓死者合わせて推定で約三十万人以上が死亡した。
権治良の旅に出る前年も江戸では大烈風が吹き荒れ大火災が発生、8月にはと長雨と洪水のため、この年の米価は大高騰。

▼文化十一年三月(1811)間宮林蔵(アイヌ族を伴って) 樺太探検を終わり〔文化5年より調査開始)全13巻に清書した地図・地形や異民族の暮らしぶり、などにまとめて江戸幕府に提出した年である。

★御蔵入領の南山通り田島宿(百五十軒ほど)は、江戸との交通や幕府に納める廻米輸送の大動脈であり、若松の城下と日光や鬼怒川水運の上阿久津河岸の中間宿としてターミナルの様な役割を果たしていた。
会津藩からの年貢米を馬で運び上阿久津の河岸で小鵜飼舟〔1艘に米二十五俵〕に積み、関宿で大型の高瀬船(1艘に米600俵〜1,300俵)に積替えて江戸まで運んでいた。

徳川幕府の天下統一によって東海道など五街道に交通施設を設け、往来を活発化させた。〔宿駅=伝馬を配置し各駅をリレー方式での郵便飛脚、物資輸送と宿泊業務を行った。〕
 
当時の日本の人口は3千万人ほどであった。本来天皇の参宮以外は認められなかった伊勢参りが大名や一般にも許され、街道の往来を活発になっていった。文化・文政年代には、1年間に500万人ほどが伊勢へ出かける大流行となっていた。

★文化時代は、一年が355日の太陽陰暦であったので季節の差が非常に多かった。〔1ヶ月は月の満ち欠けであらわし、3年に1回閏年といって、閏月を1ヶ月多く嵌め込んで十三ヶ月とし、三年でほぼ調整していた。)


■仲川権治良(ごんじろう)について  
 江戸時代の安永3年(1775年)南山御蔵入・川島組中荒井村〔現・南会津町中荒井〕に旅籠屋と農業や壁屋(左官)林業などを営む仲川徳左衛門・源七の三男として生れ、16才より31才まで質権奉公をしていた。その後は、家業の旅籠屋の仕事をしながら、経験を見込まれて再雇用され旅行費用などの蓄えをしたであろうと思われる。38才の冬に100日間の旅に出発。 
伊勢参宮の旅から帰郷後、子供の無い兄・徳七の養子として家業を継ぎ後には、徳左衛門を襲名している。


■195年間保存された旅日記の古文書 
 筆者の兄仲川 健・が小学校の校長を退任後、古文書の研究に取り組んだ。解読作業が1998年に終わり、見学寺社の解説付きでの複製日記をいただいていた。
 筆者は、一九五年も前の不明な地名や社会的状況、街道の季節感、流行した当時の伊勢参宮・熊野古道の遍路の様子を少しでもわかりやすく〔多少想像も交えながら〕現代語で綴りたいと思う。
古文書が記録メモであり、日付の無いところなどを推察しながら地図や史料と取組み、毎日がタイムトンネルに入り込んで旅しているような気分で綴り始めています。


■旅コース概略
  東海道〜伊勢参宮〜熊野古道〜和歌山〜京都〜奈良〜大坂〜瀬戸内海・渡船〜備前〔岡山〕〜京都〜琵琶湖の渡船〜長野・善光寺〜草津〜高崎〜そして・会津へ4月10日(新暦・5月20日)帰郷

■伊勢より会津地方に毎年やってくる御師・三日市太夫
 伊勢の方より御師三日市太夫が毎年各地方へ「大神宮の御札」の他、伊勢暦、伊勢のお土産として茶、のり、乾しあわび、干貝、布、紙、帯などを配布し、全国に伊勢講を結ばせた檀家を訪問して初穂料を頂いてグループの代表を集め、参宮の次回の代表〔代参人〕を決めた。持参した各地の旅籠の手刷りのチラシや街道地図、渡し舟の料金表などを渡し、日程や途中の参詣場所や注意すべき峠や関所でのトラブルにならないような挨拶の仕方まで細部にわたって打つ合わせをして巡り伊勢で待つ御師太夫。

■文化8〔1811〕年12月27日〔新暦2月9日〕旅立ち  
 夢と不安を胸に、大雪の会津を旅立ちする。
庄屋様よりの筆書きと名主印を押した証明書(現材のパスポートのようなもの)や、旅の携帯品である財布、薬、筆、御師より預かった地図や各宿のチラシ、手帳としての和紙綴り、予備のわらじ、伊勢講仲間から預かった初穂料、庄屋様や勤め先の檀那様、たくさんの親戚、友人などから頂いた餞別などを、確り懐中にしまっての旅立ちである。
「みんな、行ってくるよ。正月を過ぎてから出発すれば良いのだが、正月になると申年(=去る年)になることもあり、辰の日で旅立ちに縁起が良いので出かけることにした。正月の準備も済み、お店や酒屋の掛け借りの支払いも済ませた。」
「中山道や上州の宿場でも参勤交代の大名達で混雑してしまうので4月10日には帰郷すっからね。あとは皆でよろしく頼みます。」
「今年の代参の予定者の仲間も家族の病気や親戚の不祝儀などもあったりで、行けなくなり、糸沢宿で川島組の村々の代参者と合流し5人で出かけます。」
 庄屋様や村の鎮守様と秋葉神社にも祈願し途中の親戚にも挨拶し糸沢の菩提寺の龍福寺(真言宗豊山派=総本山の長谷寺)にもご挨拶を済ました。この日は、関本の宿で同行者と合流し送別会をしてもらって、明日夜明けと共に雪深い山王峠を越えて、中三依宿で一泊。
大雪の中、2日目で五十里〜高徳〜上阿久津河岸まで行きつけるだろうか。 

 
 では、また、ブログで お会いいたしましょう。  夢 開発プロジェクト 仲川浩庸 奥州会津藩中荒井村生まれ(現=福島県南会津町中荒井)・・現在/那須高原に移住しパソコンと野山散策の日々を送る。年金生活7年目の会津と那須を愛する男。マイブログでは・・「那須を中心とした周辺の美術館」や「周辺各地のフラワーガーデン」「私が企画応援や主催をした、多くのアーティストたちの作品展のブログ展」などのほか、「年金夫婦の旅日記」や「那須の我が家の100坪夢ガーデン」なども掲載いたしております。150余ページの検索窓を設けてありますので、左側のページ見出しよりお好みページをクリックして写真などを御覧いただけます。=左側のページ検索から選択して御覧下さい。
★仲川権治良が行く夢の旅 第2回分は、↓下をクリックして下さい。
= http://blogs.yahoo.co.jp/yumeproj8864/folder/1474163.html です。関之井

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