青い空の調べ

.夢失き人に夢と希望を、夢追い人に愛と勇気を・・・

旅の記念樹

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《 夢あらば 意気こめ分け入り 踏みしめよ  十和田の守には 青竜まします 》


青森市内から八甲田を抜け、美しい奥入瀬渓流を辿って十和田湖の休屋に着いたのが、陽射し降る真昼時でした。 僕は早速、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする十和田神社に参拝を済ませ、十和田湖に片腕を延ばす中山半島の中頃へと踏み込んでゆくことになりました。 

あぜ道というか小道というか、まるで修験道を思わせるような獣道そのものといった狭い道で、倒木を潜り抜けたり、ガケをよじ登ったり、時には道を見失ったりしながらも悪戦苦闘の末、やっとの思いで辿り着いたのが神妙な雰囲気の漂う入り江で、そこに青竜神社がヒッソリと佇んでいたのでした。 
この青竜神社には、夢を成就する龍神が存在されるようで、僕の霊感からすると十和田湖の創り主である八郎太朗が祭神ではないかと観ずるのです。 

伝説によると八郎太朗は、六尺に余る大男で力強い反面、心の優しい働き者の若者であったそうです。 

或る時、太朗は仲間二人と奥入瀬の奥深い小屋に泊まりながら仕事をしていたのですが、太朗は飯炊き番であったため谷間へ水を汲みに行ったわけですが、その谷川で岩魚を見つけて、三匹とって帰ったそうです。  そうして岩魚を焼いて仲間の帰りを待っていたのですが、あまりにも岩魚が美味しそうなので自分の分を食べてしまいました。 ところが、これがあまりにも美味いので、とうとう三匹とも平らげてしまったそうです。 その途端、太朗は焼けるような喉の渇きを覚えて、谷間へ走り谷川の水をゴクリゴクリと呑み始めたのですが、いくら呑んでも喉の渇きは修まらず、いつしか太朗は足の方から龍に変わっていったそうなのです。 

龍神となった太郎は山の奥の沢を塞き止めて、今いう十和田湖を創り、暫くは湖の主として住んで居たのですが、何百年の後に熊野の修験僧である南祖坊の出現により、法力をあつかう南祖坊に敗れ、太朗は力尽きて十和田湖から追い出される結末になりました。 

十和田湖を追われた太朗龍は幾年月の放浪を経た後に、男鹿半島(秋田県)の付け根あたりに湖を創り、積年の念願であった棲み家としたのです。 

その後、田沢湖の辰子姫との恋路物語や、南祖坊との再戦物語などに繋がってゆくわけですが、多くの苦渋を体験された八郎太朗であるがゆえに、夢の成就へ導く具導神として、現在もなお霊験あらたかなのでしょう。

青竜神社に別れを告げ、静かな入り江を見納めと思って眺めると、そこには二匹の大きな鯉が頭を添わせるように仲良く浮かんでいました。 夫婦鯉は僕を見送るように、しなやかに優しく漂って浮かんでいました。 時おり湖面をゆく遊覧船から、観光客の歓声などが聞こえる以外は人為的な音が何も聞こえない、まさしく自然そのものの温もりの中に飲み込まれて心地良い午後でした。

これは余談ですが後日、北海道への旅に向かう途中に、フェリーの最終便の時間にギリギリであったため、深夜の大雨の中で東北自動車をひた走る僕に、行く手を妨げる修験僧が現れました。 鹿角市から弘前市に抜けるまで常に僕の車の前方から大きな片手をかざして、大雨をフロントガラスにぶつけて視界を遮った修験僧は、太朗龍の天敵である南祖坊その人でした。 僕は八郎太朗や辰子姫を想うばかりに、南祖坊のことを、やや悪役として原稿を書いたので少々修験僧の怒りを受けたのでしょう。 それに気付いた僕は、その場で南祖坊に素直に詫びたのです。

僕の気持ちが伝わったのか大雨は急速に退いて行きました。 山間のカーブの所々には路面から立ちあがるように白いモヤがユラユラと、まるで人の姿のようにユラめいていたことを昨日のことのように覚えています。

 皆さん今日は、里中太一です。今まで他のサイトで立花美里として旅日記を書いていました。また旧夢先案内では神田和世として主にTry通信の中で古事記の解説をしていました。 僕は日本の風土が大好きで、四季折々の自然の語らいに直接ふれたくて、全国津々浦々を一人旅しているものですから、旅路において体験した事や、心に深く刻まれた感動、はたまた地方で出会った人々との想い出などを【旅の記念樹】というタイトルで紹介させていただきます。 以前も旅の記念樹というタイトルで、ビリヤノン(同人誌)や夢先案内にも連載していました。 僕が旅の記念樹で皆様にお伝えしたいのは、日本人ですら忘れられがちな大和の心(魂)です。 いままでは誌面の制約や読者層への配慮を重んじて、内容をカットした部分も多かったのですが、今回は遠慮なく書いていいと天津さんからお言葉をいただいていますので、ほぼ原文のまま掲載したいと思います。 僕は趣味で和歌も書きますので、文章の所々に和歌を盛り込みながら、この【旅の記念樹】の書庫を進めて行きたいと思っています。










《 命あらば 花開きたる 皇子たちの  誠の願い 我は受けたり 》


奈良県の大和飛鳥地方、奈良盆地の南端あたりに、かつて朝廷が栄えた時代がありました。 僕の記憶に深く刻まれている史実は天武天皇の時代で、天皇の子には六人の優秀な皇子がいたのです。
その中に大津という、とりわけ優秀な皇子がおりました。

大津皇子は今で言うところのナンバー2でありましたが、人柄が良くて人望も厚く、文才にも秀でる文武両道の青年で、漢詩などは大津より始まる…と史実に残されているほど、多種多様な道に通達していた人でありました。 多くの和歌なども残し、石川郎女と交わした恋歌は誠に有名です。

天真爛漫な大津皇子は、その器量ゆえに多くの嫉妬や怨恨を受けたようで、無実でありながら謀叛の罪を押し付けられて、24という若さで命を絶たれたと史実には残されています。 さぞかし無念であったでしょう。

僕が文学の道(自称ですが)を選んだ理由も、大津皇子の果たしえなかった理想を受け継ぎたいと思ったからなのです。 大津皇子が、あと十年(五年でも…)生き長らえたとしたならば、その後の日本の文化は更に豊かなものとして伝え残されたかもしれないのです。 それだけの文才を彼(大津皇子)は魂の内に秘めていたはずなのです。

大津皇子に限らず、六人の皇子たちは皆、素晴らしい才能を持っていましたが、壬申の乱を経験した複雑な時代背景の中で、大津皇子の死を境にして病死・謀叛死などで、ことごとく皇子たちは死に絶えてしまったのです。

ここで僕は一縷の望みとして、大胆な仮説を打ち立ててみたいと思います。 
大津皇子は処刑(最後は自討)されたのではなく心ある誰かに逃がされて、生き延びたという仮設なのです。 大津皇子を有望視していた人は数多く、その才能は国家を救うほどの可能性があったはずで、命懸けで大津を救済せんとした人がいても可笑しくありません。僕は心から生き延びていてほしいと遠い過去を仰いでいるのです。

話は変わりますが、古事記の神話が時の朝廷に献上されたのが712年。 663年生まれの大津皇子が生き延びていたならば49才でしょうか。 古事記の編者である大安万侶が亡くなった723年は、大津皇子が60才でしょうか…。

そうなのです、僕は古事記の編者である大安万侶と大津皇子が同一人物であると思えてなりません。 皇子が謀叛の罪で処刑されてから、大安万侶が朝廷に古事記を献上するまでの約25年、これだけの年月があれば霊的素養を修練することが可能であるでしょう。 古事記という神話は高い霊性と深い宗教観、さらに透徹した思想哲学や科学・医学・帝王学、そうして豊かな文化的素養がなければまとめられない内容なのです。 ただ単に漢字を並べただけのものではなく、その内容たるや、一つ一つの文字に込められた深い真意を悟っていなければ、そうやすやすと編纂できる代物ではありません。 しかし晩年(仮説ですが)の大津皇子ならば古事記の編纂は出来たであろうと信じています。

古事記の神話は稗田阿礼という当時の霊能者が神懸り状態になり、異言(現代では霊言と言われている)
を起こして神霊に自由に語らせ、それを『さにわ』という霊の正邪を判断する人が取りまとめ、それらの資料を系統立てて編纂されたものなのです。 考えてもみて下さい。 口で語られた言葉が、どのような意味内容で、どんな文字を使えばいいのかを判断するためには、やはりそれなりの悟性が必要ということです。

こうしたことから考えても、僕は大津皇子以外に古事記の編纂が出来る人は誰一人として考えられないのです。 僕は幾度も飛鳥を訪れましたが、そのたびに必ず見上げるものが飛鳥の西に佇む二上山の二つの峰で、この山に大津皇子の亡骸が眠っていると言われています。 皇子の姉である大伯皇女は、亡くなった弟を忍び、次のような和歌を詠んでいます。


うつそみの 人にある我や 明日よりは   二上山を 弟世と我が見む   (大伯皇女)


大津皇子の死後、皇子の怨霊説を採る人が現代でも居るのですが、皇子の最後の和歌からは、自分の命運を受け入れて、主体的に身を引く覚悟が出ています。 決して恨みがましいものではありませんでした。


百伝う 磐余の池に 鳴く鴨の 今日にて見れや 雲隠りなむ   (大津皇子)


僕が大和飛鳥方面を旅する時は、大和郡山市にある健康ランドに宿泊するのですが、まだ明けやらぬ早朝に輝く星を仰ぎながら露天風呂に浸かり、東の空が薄らいでくる頃に車で走り始めるのです。 二上山の麓あたりに当麻寺という寺院がありますが、この寺院の境内から見上げた二上山は、なんとも言えない複雑な気持ちを味わいました。

先の大伯皇女の和歌のように、まるで我がことのように胸に響き渡ったのでした。


《 我一人 夜明けとともに 迎うるは   大津を偲ぶ 二上の峰 》

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