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鬱病患者を見ていると、思考そのものが止まっているのではなく、その思考が自分を中心にして極度の不足感・否定感に囚われていることが分かります。
自分にはあれがない、これがない…。
だから何も出来ない。
楽しみがない。
喜びがない。
だから何もしたくない。
おそらくその不足感・否定感は、さらに深まると被害者意識の権化のようになって、狭い穴倉の中から恨めしく社会を覗き見するような、陰湿なものになりがちであります。
彼らに本当に足りないものは他者を想う気持ちなのです。
もともと躁鬱は病気ではないのです。
よくよく観察すると、躁も鬱も根底には極度の我心(自己中心)があるだけです。
この我心を躁の人が自己表現すると自分勝手な思い上がりとなり、鬱の人が自己表現すると悲観的見解となるのであります。
ここで考えなければならないことは、この我心(自己中心)とは何ぞや…ということです。
この我心の正体は、たんに『わがまま』であったりします。
『わがまま』というのは我(われ)が思うまま…ということで、幼い子供が自分の想いどうりにいかないことに癇癪を起こして泣き喚く行為そのものです。
それが大人になってからは、無闇に癇癪を起こせないし、周囲にワガママを押さえられて萎縮した子供のままの心は成す術もなく、鬱状態に入り込むのであります。
躁状態は、この鬱状態の反動であって、本質的には同じ根っこをもっております。
この我が思いのまま…という子供のままの自己中心を想い返して、周囲の人たちに対する配慮を考えた時に、躁鬱病は霧の如く消滅してゆきます。
その時に何もすることがないという言い訳は出てこなくなり、何かをしてあげたいという建設的な気持ちが芽生えてまいります。
柔軟思考【創造思考】
http://www.geocities.jp/yumesaki373/14sikou.htm
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