|
まず、原田甲斐が伊達綱宗代理で江戸城参賀し、四代将軍家綱後見となった保科正之にお目見えした1655年、稽古堂開設の1664年、稽古堂閉鎖と稽古堂校長無為庵如黙の喜多方市真木流罪まで。 何しろ、会津藩は、蒲生96万石から上杉120万石加藤40万石から保科正之の23万石と、小さくなる一方でした。 保科正之は、度重なる国替えによって浪人した者たちの混乱と不満を学問によって乗り切ろうとしました。蒲生、加藤氏に学識を高く評価された山内経俊の末裔、横田俊益を登用しました。日本の教育史上活気的な、身分の上下なく学べる「稽古堂」を創立した人です。 保科正之の高遠藩三万石の時代に十三才で保科正之の側近となった高知生まれの友松勘十郎が二千石の家老となったのに対して、二代藩主正経付き家老として破格の出世をして保科正之の遺言で友松勘十郎に処罰された成瀬一派の首領成瀬主計重次は加藤明成の浪人でした。 なお、写真の加藤明成奥方は、保科家の姫、徳川家康の異父妹の娘にあたります。 保科正之死後、息子が藩主になった事で幽閉(ライバルの側室が生んだ松姫が加賀百万石に輿入れが決まったのを妬み毒殺しようとして、米沢上杉家に嫁いだ実娘を殺した罪。)を解かれた正経の生母藤木万の後押しで、飯豊の裾野に流された成瀬一派の釈放運動が始まり、保科正興が2000石の家老となりますが、正経の死後、三代藩主正容つき家老西郷頼母らによって、保科正興も流刑となりました。 稽古堂閉鎖、校長無為庵如黙流罪。三代正容は、その理由を「稽古堂も創立当時の生気なく如黙は学校を私有物として日々俗人を集めて遊興に耽りその上政治の妨げである場所」としてますが、 それより2年前、稲葉氏の指示で伊達騒動の処罰者を許した仙台藩から岡という浪人者が会津城下に表れ、王陽明の心学を唱えはじめました。 庶民の間に流行し夜間に会合する講義は「清座」と称されました。仏法を忌み、葬祭に魚や鳥を用い、過激な者は、自分の家の仏壇を壊す者もありました。城下に千人あまりが徒党を組み流言も流れました。無為庵如黙は大河原や荒井とともに結社し陽明学を議論研究、1683年家老保科正興が陽明学の禁止令を出しました。しかし、庶民の間に「重臣の友松勘十郎や森忠成が学んでいる」と言い出す者が表れ、一ヶ月後に禁止令は解除され、議論沸騰する中で西郷頼母が家老に森忠成が奉行になり、保科正興は、家老を免ぜられました。翌年新潟県東蒲原郡水沢に流罪となりました。五年後流刑地で没しました。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用




会津といえば、江戸末期その後の悲劇ですが・・・確かにこれも有名ですな。歴史好きのあなたに。。。Qちゃん 102歳 おでかけですよー のブログ はじめました、お時間がございましたら、ぜひお寄りください。
2014/5/21(水) 午後 3:13 [ matu8 ]
訪問、ありがとうございます。
2014/11/6(木) 午後 3:15