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小説「闇川峡谷」1 ケータイ投稿記事

寛延三年の正月、会津藩領猪苗代川西組三城潟村の守衛門一家は、村を離れ、嫁の実家のある闇川村を目指して旅立った。
齢八十の守衛門とその妻イネの老夫婦、嫁のクマ、孫の太郎吉と初音の五人家族である。
一家を支えていた働き盛りの息子、勇吉は、昨年末に起きた百姓一揆の首謀者の一人として、仲間四十余人と共に磔刑となった。
三城潟村に発した百姓一揆軍は、年貢半減を要求して会津若松城を目指したが、猪苗代から最短である会津若松城下北側の蚕養口には向かわずに、会津盆地北部の磐梯飯豊の山裾に沿うように、金川、塩川(喜多方)、小田付(喜多方)、小荒井(喜多方)と西に大きく迂回して、雪ダルマ式に一揆軍を膨らませ、更に飯豊山麓、阿賀野川流域の山三郷の百姓を加えて、鎌や鍬などをかかえ酒気をおびた数万の軍勢となって会津若松城下の西、七日町木戸へと押し寄せた。
一週間に及んだ、この百姓一揆軍は、南会津など会津藩領全土に飛び火し、会津藩首脳は、ついに、足軽鉄砲隊を出動させ、会津城に籠城という事態になった。七日町の木戸をうち壊した一揆軍に対して足軽隊が発砲、一揆軍一人が撃ち殺された。一揆軍は殺された仲間の遺体の引渡しを要求、藩は、ついに、年貢半減と遺体の引渡し、閣僚二人の罷免に応じた。一揆軍は、引き渡された仲間の遺体を、三城潟の宝性寺に埋葬した。
事件後、首謀者四十余名を摘発した藩は、宝性寺の墓を掘り起こさせ、四十余名と共に磔刑にした。
「殺された者を、墓掘り起こして二度殺すとは…。」
「一揆に加わんねど、家さ火つけるぞ…って、脅して歩いたべよ。」
「年貢半減にして貰って、飢え死に、しなくて済んだべ…。」
「これも皆、土津様の社倉法のお陰だべ。」
土津様とは、磐梯山麓に奉られた、会津藩祖保科正之公の事である。
守衛門一家は、その土津神社のある雪の磐梯山を拝み、白い息を吐きながら闇川村を目指した。
闇川橋は、芦の牧温泉の峡谷にかかる橋である。闇川橋を渡ると、クマの兄の良治が、大きく手を振って出迎えた。姪の初音が、橋の上から駆けだして、良治の分厚い胸に飛び込んだ。
「おぉ、随分、背が伸びたなぁ。おーい、太郎吉、そんなに谷底のぞきこむと、橋から落ちっちまうぞぉ」
守衛門が、太郎吉の手をひいた。
「この闇川の橋は、おめだちのひいおじいちゃんたちが、かけかえたんだぞ」
「知ってるよ、掘主水が、追手に追われねように橋の上さ薪積み上げて、火いつけて、燃やして、橋を谷底さ落としたんだべぇ、母ちゃんから何度も聞いた。」
掘主水は、保科正之公の前の会津藩主、加藤明成公の家老である。

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おはよう御座います。
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江戸時代の農民は悲惨ですね。ポチ

2014/10/24(金) 午前 7:00 あるく

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ありがとうございまーす。

2014/11/6(木) 午後 3:13 留守番タロ子


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