|
会津城落城時は、総勢四千九百五十六人の旧藩士と家族たち。家族の安否確認、再会が果たせるまで、長い年月を要した。
旧会津藩士による反乱を怖れる新政府が、会津人分割統治策を打ち出した事もあって、明治の中頃を過ぎても、戊辰戦争の実態は、明らかにならなかった。 宗太が、下北半島の広沢牧場を訪問する事が出来たのは、益田孝の、提案によるものだった。 明治六年八月八日、アメリカ人技師ルイス・ジャニンと共に、日本人数人の騎馬隊が東北に向かった。隊長は、長州藩閥の中心人物、井上馨である。井上馨は、江藤新平と喧嘩をして、役人を辞めて、鉱山会社をするつもりである。随行するのは、益田孝と益田の義兄の富永冬樹、それから大阪播磨屋の馬越恭平である。そこに、コック兼通訳として宗太が、まぎれこんだのである。むろん、通訳は益田が出来るが、弟を助けて貰った恩人として、同行を頼みこんだのである。盛岡まで同行して、そこから単独で青森に行けばいい。一行は、大田原、郡山、二本松、福島を通って、仙台に着いた。松島で遊び、目的地の岩手県に着いた。 「弟は、益田荘作に戻って福沢諭吉先生の慶應義塾にはいったよ。名村は高松藩邸から逃亡したまま行方不明て事でね。」 宮古湾を眺めながら益田孝が耳うちした。 「益田さん、どうやって、長州閥の井上馨と知り合ったんですか?」 宗太が聞いた。 「そりゃぁ、人間は孤独には耐えられるけど、孤立にはたえられないものだろ。長州の木戸(桂小五郎)と伊藤博文の外遊中に、江藤新平と衝突しちまって、この際、旧幕臣でも呉越同舟でいこうかと思っているに違いないとおもってね。初対面で、いきなり、マルセイユに着いた時、どう思ったかと質問されたよ。」 それで、益田は、日本とヨーロッパのあまりの違いに涙が出たといい、西欧諸国に追い付く為には、産業革命が必要で、鉱山開発だと、そう言った。 「旅行は、他人の懐でするに限るよ。」 益田が、頭を指先でつついて見せた。釜石鉱山を見てから、尾去沢鉱山、阿仁鉱山、秋田に出て、南下して院内鉱山を見て米沢から東京に戻る予定だという。つまり岩倉使節団が帰るまで東京にはいられない訳だ…と、思ったが、宗太は黙っていた。 「問題は、尾去沢鉱山なんだ。尾去沢鉱山は、もともと南部藩のもので、南部藩の御用商人村井茂兵衛が採掘権を与えられていたんだが、廃藩置県で、政府が、債権債務を受け継いだんだ。」 外国人に対する債務が一番大きかったのが盛岡南部藩だったので、外国とのトラブルを恐れた政府は、村井に債務返済を要求した。村井茂兵衛がイギリス人オールトから借りた十一万五千ドルあまりを預かって運用しているという証文がみつかった為である。村井茂兵衛は、南部藩への貸付金があり、相殺すると自分が貰う事になると支払を拒否、政府は、支払の変わりに、尾去沢鉱山を没収する事にした。 やがて、これは政府の権力濫用と見られ、汚職の疑惑をもたれ、井上馨のライバルである江藤新平の居る司法裁判所に移る事になるが、それはともかく、宗太は、盛岡で一行と離れ、下北半島に向かった。 下北半島の冬は早い、十月に入ったばかりなのに、もう、すっかり冬の装いを感じさせる。 「猪苗代湖と似てるなぁ」宗太は、小川原湖をながめながら、大声でさけんだ。「そうですか、勇太郎さんの、末の弟さん。これは頼もしい。イギリス人技師を招いているのですが、なかなか、細かい所まで、意志疎通ができません」 広沢は、そう言ってイギリス人技師を紹介した。 冬になって、広沢は、書斎にこもって書き物をする事が多くなった。執筆しているのは、会津藩祖保科正之の伝記であった。会津に広沢ありと、各藩の昌平坂学問所出身者に敬われた広沢安任。京都守護代時代は、会津藩御用人として活躍しながら、和平工作中に捕縛され監禁された広沢が、今、何を思って、保科正之伝を書くのか。宗太は、暗鬱とした思いで、書斎の窓にともる灯を、見つめ続けた。士庶共学の稽古堂、農民の為に凶作に備えた社倉法。そして、母や叔父たちから、繰り返し語り聞かされた、金曲騒動の顛末。七日間燃え続いた農民暴動、西郷頼母の勇断。土津様(保科正之)を慕い、泣き荒れ狂う農民たち。一揆の農民たちが郭内に入った事を告げる早鐘の音。 ドアを叩く音がした。ドアを開くと、イギリス人技師のマキノンが顔を出した。「宗太さん、今夜は、キリスト様が生まれた聖夜です。」 「あぁ、そうですね。」 過去と現在が、聖夜の夜をとびかった。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用






小説「闇川峡谷」を、読ませて頂きたいので、友達申請しました。
2014/12/10(水) 午後 10:41 [ - ]