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(内島北朗:赤絵壺)

わたしの「生の探求」は、無教会主義キリスト教に触れたことに始まるが、それはまだ18才にも満たない年代であり、漠としていて十分に自覚的だったとは言えない。
そういう意味では、今のわたしの生の探求の原点は、何と言ってもベルジャーエフと藤井武だと思っている。わたしの思想と生き方の核にはキリストを中心にしながら、何時もこの2人の人物がいる。このどちらを除いても、今のわたしの人生は無い。
今、わたしは探求の原点をさらに明確にし、人生を総決算したいと思い、アウグスチヌスの「告白」を学ぶとともに、ベルジャーエフの「創造の意味」を読み返している。特に「創造の意味」は、今のわたしの思想に直接つながる著作である。

まずベルジャーエフ「創造の意味」の緒論から味読してみたい。この著作の中で、「緒論」は特に重要である。

そこで、彼はこのような書き出しから始めている。

“人間精神は囚われの境遇にある。この囚われの状態を、わたしは「世界」、所与の世界、必然性と呼ぶ。「この世」は、コスモスではない。それは疎隔と反目の非コスモス的状態であり、コスモス的ヒエラルキーを構成すべき生けるモナドのアトム化であり、崩壊である。
辿るべき真の道は、「世界」からの解放の道、必然性による囚われの状態から人間精神を解き放つ道である。真の道は、「世界」の表相での右往左往ではなく、「世界」を超え出て上方へ、あるいは深部へ赴くことであり、「世界」の内ならぬ精神の内なる運動である。「世界」への反応から自由になること、「世界」への日和見主義的順応から自由になることは、精神の大いなる達成である。”
と述べている。

「世界」は人間精神の囚われの状態にある、と彼は語る。「この世」はコスモスではない、とも語る。そして、コスモスとは、真に存在するものであり、真の実在であるが、「世界」は虚妄であり、所与の世界、必然の世界は虚妄である。この虚妄の「世界」とは、われわれの罪の所産である、と続けている。

これは、現代のわれわれのいる世界を、あまりにも的確に捉えた指摘ではなかろうか。ベルジャーエフの指摘から100年以上も経ちながら、「この世」の状況は、今もいささかも変わってはいないように思える。われわれの精神は囚われの状態にあり、コスモス(精神の秩序)を完全に失っているのである。「精神は囚われの状態にある」ということへの痛烈な自覚が、「生の探求」の本当の出発点になるのではなかろうか。そしてこの自覚を、ベルジャーエフの言葉で言えば、
“これは高度の精神的観照の道であり、精神の集中と凝集の道である。”
となる。

そして彼は続ける、“「世界」から自由になることこそ、罪から自由になることであり、誤ちの贖いであり、転落した精神の上昇である(*人間精神は「世界」の俘囚である)。”

“新たな生の創造のために「世界」から自由になる道こそ、罪から自由になる道であり、悪の克服であり、神的生のために精神の力を集中することである。”

ベルジャーエフは、この「精神の囚われの状態から自由になる道」、つまり「罪から自由になる道」は、「新たな生の創造」にあると説く。

そして、彼は、さらにこの新たな生の創造への道を説く。
“創造的行為は、常に解放であり克服である。‥‥個人的悲劇、個人的危機、個人的運命が、普遍的悲劇、普遍的危機、普遍的運命として体験されることの内にこそ、創造の道がある。人間は創造主によって天才的なものとして創られており(必ずしも天才とは限らないが)、この天才性を創造的活動によって自らの内に開示せねばならず、一切の利己的なもの・自尊的なもの、自分自身の滅びへのあらゆる恐れ、他者へのあらゆる顧慮を乗り越えねばならない。”

しかし一般的には、現代において、ベルジャーエフが指摘するような視点への自覚はほとんどと言えるほど、無い。思想の上でそのような主張があったとしても、痛烈とも言えるような自覚は、ほとんど無い。にも拘らず、彼の以下の指摘は、大変重要だとわたしは考える。

“人間本性は既にその基底においては、絶対的人間たるキリストを通じて新たなアダムの本性となり、神の本性と合体しているのであって、それゆえ人間本性は、もはや自らを(*神から)切り離されたもの・孤立したものとして感ずることはできない(*と認識すべきである)。”

こんな主張は、一般的な人々、ポピュリズムな人々には全く無縁であり、「何を訳のわからないことを言っているんだ!」ということになるだろうが、これこそ、「新たな生の創造」への基点になるべき問題である。これは、無教会の矢内原忠雄が言った、「遺りの者」の思想の別の視点だとわたしは考えている。

この世界には、ポピュリズムな人々とは全く次元を別にして、“その基底においては、絶対的人間たるキリストを通じて新たなアダムの本性となり、神の本性と合体している”、隠された人たちが存在するのである。そしてそこから、「新たな精神の世紀(アイオーン)」が始まるものとわたしは信じるのである。

そのような「新たなアダムの本性を持つ人たち」(遺りの者)について、ベルジャーエフは次のように語る。
“創造者たり得、人格たり得るのは、自己の内にすべての世界的なものを感じ取る人間、つまり自己の内なるすべてを世界的なものとして感じ取る人間、自己救済への利己的な志向と、自己の力についての自尊的な反省を、自己の内部で克服した人間、(*神から)孤立し切り離された自己から自由になった人間のみである。”

“人間は、(孤立した)自己から解き放たれることによってのみ、自己へ到達する。”

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