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ここでは、ベルジャーエフの「創造の意味」緒論における問題点を取り上げたい。 最初の項に引き続き、さらに、ベルジャーエフは述べる; “わたしはほとんどマニ教とも言える二元論を説く。「世界」は悪であり、神により創られたものではなく、そこに神はいない。「世界」は捨て去るべきもの、徹底的に克服すべきもの、焼き尽くすべきものであり、悪に支配された自然である。「世界」からの自由こそが本書(「創造の意味」)のパトスである。悪の客観的始原は存在し、これに対しては敢然と戦わねばならない。必然的世界、所与の世界とは、悪に支配された世界である。これに対立するものは、精神の内なる自由であり、神的愛の内なる生であり、充実した生である。 しかし、同時にわたしは、ほとんど汎神論的とも言える一元論を説く。世界はその本性からして神的である。人間はその本性からして神的である。世界過程は神性の自己開示であり、世界は神性の内に自己を実現していく。神は世界と人間に内在しており、世界と人間は神に内在している。人間の内に成就することはすべて、神の内に成就する。” ベルジャーエフは「創造論」において画期的でありながら、また創造論において根本的に弱いことを、早くも示しているのではなかろうか。「世界」は悪であると彼が言う時、それはもちろん「虚妄の世界」のことだろうが、わたしにとって「世界」は棄て去るべきものではなく、「世界」は「神的な世界」に、「変容」されるべきものである。 世界は神によって創造されたものだが、虚妄が、悪が、罪が、神によって創られたものではない。ここで語られているように一元論と二元論が対等な対立軸で捉えられては、ベルジャーエフの言う宗教的な体験の深みの中でも、その矛盾は克服できないとわたしは考える。彼の宗教体験の中では、世界創造、宇宙創造としての神体験が弱いのではなかろうか。そこに、ベルジャーエフの創造論が、芸術的な創造論へ向かう要点があるような気がするのである。そして藤井武の場合は、この創造論は「絶対的結婚関係」の創造と、それとは切り離せない「来世」の創造へ向かう、神と人間との関係になるとわたしは捉えている。 さらにベルジャーエフは述べる; “超越的なものと内在的なもの、二元論と一元論という永遠の二律背反から逃れる道は、意識の内には存在しない。二律背反が解消されるのは、意識や理性の内においてではなく、宗教生活そのものの内において、宗教的体験そのものの深みにおいてである。” この宗教論は、わたしには大変弱いもののように感じられる。二律背反を逃れたり解消すると捉えるのでは、新たな世界創造に結びつくものではない。二律背反は根源的に克服され、異なる世界創造へと変容されなければ、新たな世界創造とは言えないのではなかろうか。 そして、その克服を、ベルジャーエフは「宗教的体験そのものの深みにおいて」、と述べるが、宗教的体験そのものの深みとは何か? 彼はそれを、「宗教的体験は、世界を、完全に神的なものであると同時に、完全に神的ならぬものとして生き抜き、悪を、神的意味からの離反であると同時に、世界の発展過程において内在的な意味を有するものとして生き抜く。神秘的認識(グノーシス)は悪の問題に常に二律背反的解決を与えており、そこでは常に二元論と一元論が精妙に絡み合っていた。」と説いている。 この捉え方は、彼はまるで無神論者であるかのようである。二律背反の完全な克服は、神秘的認識やグノーシス的な知識の確立によってではなく、栄光のキリストが聖霊として到来するのと衝撃的に出合う、「存在の変容体験」によってであるとわたしは捉える。その圧倒的な存在体験無しに、新たな世界創造は、芸術的な作品の創作以上にはなれないのではなかろうか。芸術作品の創造が新たな「世界」を創造するのではなく、新たな世界が新たな芸術作品を生み出すのである。創造活動から新たな世界が生まれるのではなく、新たな世界体験から新たな創造活動が生まれるのではなかろうか。 この内面的なメカニズムを、無教会の量義治氏は「絶対矛盾の自己同一」と表現されたが、哲学者にはそれでいいかもしれないが、われわれ一般人には概念が難しすぎて、感覚的にピンとこない。わたしはこれを、「存在の変容体験」と捉えている。この表現も難しい方がいらっしゃれば、自由に言い方を変えても全く問題はないでしょう。 |

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読ませて頂きました!
2019/2/7(木) 午前 10:19 [ まいこ@会社辞めました!! ]
> まいこ@会社辞めました!!さん
ご来訪ありがとうございます。時々しか書きませんが、気が向いた時に、いつでもお越しください。
2019/2/7(木) 午後 2:27 [ おおかわ地蔵堂 ]