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「ヨハネによる福音書」は、次のような書き出しで始まる。 “初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。” というものである。 すでに3つの「共観福音書」が存在していたにも拘らず、それから30年以上が経過しながら、ヨハネのグループはなぜ「新しい福音書」を編纂しなければならなかったのだろうか? それは、「共観福音書」では神の探求が不十分か、重大な欠落(または欠陥)があると認識していたからに 違いない。 「ヨハネ福音書」の書き出しは、生の探求としての神の探求が、言葉を通して行うことが最も適切であることを主張している。そしてヨハネの時代、言葉とは「旧約聖書」以外には存在しないのである。 ヨハネとは異なる時代に生きている私にとって、この「生の究極の探求」としての「言葉」は、「ヨハネ福音書に現れたイエス」と、「魔術師のタロット」としての言葉、そして同人「層雲」が追求した「自由律俳句」の学びと創作を通して探求することだと捉えている。この三者の融合点の実践に、私の現代における「神探求」が位置づけられているのである。 |

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