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Text:黒崎幸吉著作集(4)(新教出版社):p.297〜「霊の研究」から抜粋
第五、第六 われらの霊と神の霊
第五項目では、「霊は人間に固有のものであるのか」について語られ、第六項目では「霊的な動物としての人間の霊と、上より与えられる神の霊とが別に存在する」ことにつて語られている。
(ヘブライ後の「ルーアッハ」という言葉によって表される)人間の「内にある霊」は、何ら特別な内容を持つ具体的な性質のものではなく、外からの刺激、特に神の霊によって動かされる場合に、初めて動き出す性質を表わしている。この意味において、「心(ヌース)」や「魂(プシュケー)」や「心情(カルディア)」などとは全くその意味が違い、これらがそれぞれ自己の性質・活動・要求などを伴う自主的な性質であるのに対し、人の内の「霊」はすべての場合において神の霊、または霊的な事物の刺激なしには活動しない性質を持つように思われる。
「人の内にある霊」は、「心」や「魂」が人の内にあるというのとは全く異なり、一つの受動的存在、または特別の感受力とも言うべきものであって、神の霊の刺激によって初めて動き出すものであると見なければならない。
第七 霊の働きの進展
この受動的性質に対して、神の霊は旧約時代においても多くの働きをもたらせた。しかしながら、その場合はすべて一つの力としての働きであって、「一つの人格として人間の中に内在するもの」としてではなかった。それ故に、この場合には、たとい神の霊は外より来てわれらの内の霊を動かしたとは言っても、まだわれらの中に新たなる、「あるもの」として留まるまでにはならなかった。それ故に、旧約時代においては新生命、新生の霊は、一つの約束として与えられたものに過ぎず、まだ事実として、新生の霊を把握することはできなかった。
キリストが到来した時にもこの状態は変わらず、ただキリストの中にだけ霊が完全に内住して、その力を現わしてくださったに過ぎず、十二使徒をはじめ他の弟子たちも、ただキリストの力、すなわち霊の力に動かされて、その霊が異常に感動を受けていたのである。
しかしながらキリスト昇天の後、聖霊が地上に降臨なさることによって事情は全く一変した。すなわち、各人の霊の上に神の霊が人格的に降りて、内住するようになったのである。ここに来て、この霊は単に外から来た一つの力として感じられるだけではなく、われらの内に一つの新たなる生命として内住し、われらを支配してくださると感じるようになるのである。人間に固有な霊は、この人格的聖霊の内住を受けて、ここに全く新たな生命が芽生え出たのである。
したがって新生命、すなわち聖霊の内住は、人間固有の霊の発達したものでもなく、また人間に全く無関係な他者が突然に飛び込んで来たものでもない。もし(聖霊が)このようなものであったなら、人はこれを受け入れることができず、聖霊はわれらにとっては他人のようなものであるに違いない。しかしながら、われらはこの霊を受けることによって新しい生命に生まれかわったと知ることができるのは、われらに固有な霊があって、この聖霊を受け入れることができるからである。もしそうではなく、聖霊がわれらの霊の進化したものであるなら、それは新生ではない。 われらの中に「固有の受動的な霊」が存在し、これに対して聖霊が次第にその力を示し、遂にわれらの中に内住なさるに至ったということは、全く奇跡的な事実であると見なければならない。このようにして、新生命は外からやって来た全く新たな生命であると同時に、またわれら自身の生命であることができるのである。
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