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わがブッダの道

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前回からの「ブンナカの質問」の続きです:

 ブッダは、「識別作用が消滅するなら、もはや苦しみが生起するということはあり得ない」と言ったのだが、では「識別作用」はなぜ生まれたのか? それは「心地いい経験」を寄せ集めて、それを未来も持続したいためであった。その「心地いい経験の寄せ集め」が〈記憶〉となって、「識別作用」を作り上げるのである。

 さて、自分の心地いい経験の寄せ集めか、あるいは他人の心地いい経験への羨望が、未来にもっともっと何かをやりたいという欲望を育成する。その〈今〉以外のものになりたいという「未来への心理的な時間」が、「識別作用」を育成し、〈今〉と〈未来〉との間の果てしない葛藤連鎖を生み出すのである。そして、そこに「死に近づく恐怖」もまた生まれるわけである。すなわち、それが物事であれ何らかの観念であれ、未来に〈持続〉したい何ものかがある時、「死に向かう恐怖」が生まれるのではなかろうか。それが、ここでブッダが言う「老衰へのこだわり」のすべての意味ではあるまいか。そしてブッダ及びブッダに従う人々は、一般の人々の眼からは、「世の常の恐怖」からは完全に抜け出した人たちのように見えたのである。

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前回からの続き:「ブンナカの質問」です

 次にブッダは、そのブンナカの質問に答えて、「すべての人々は私たちが今いるような生存状態になりたくて、老衰にこだわって、盛んに神々に犠牲を捧げたのだ」と言ったという。
 そうすると「われらのような生存状態」とは、「老衰にこだわりのない生存状態」ということになる。では、「老衰にこだわる」とは一体何か?

 次の 1045詩でのブンナカの質問では、「生と老衰」というように、〈老衰〉は〈生〉と対比して取り上げられている。そうすると、この〈老衰〉とは、実際は〈死〉のことを言おうとしているわけである。だが、それをただ〈死〉というよりも〈老衰〉という言い方をしているのは、「死に向かって進んで行く《恐怖》」を取り上げようとしているからだと思われる。中村元氏の註によれば、あらゆる苦悩の代表としての〈老衰〉であるという。それは、人間の最大の〈苦悩〉は、「死に近づく《恐怖》」だということであろう。

 さて、「老衰へのこだわり」とは「死に向かう〈時間〉」である。「死までの〈時間〉」の中に、〈恐怖〉が生まれるのである。もし、私が何らかの後からの衝撃によって一瞬にして死ねば、そこに恐怖はない。〈死〉はあるが〈恐怖〉はない。従って、〈恐怖〉は〈死〉の中にあるのではなく、〈時間〉の中にある。

 ではそれは、「時計の針が表わす時間」であろうか? 恐怖とは、三十分、五時間、三年、五十年などのことであろうか? はたまた八十才までのことであろうか? いや、恐怖はそのような「物理的な時間」の中にはなく、「心理的な時間」の中にある。すなわち、恐怖は〈思考〉の中にある。これはハッキリしているのではなかろうか。

 すると、ブッダがここで言う「老衰へのこだわり」とは、「死に対する〈思考〉」である。生にも死にも〈恐怖〉は存在しないが、生を「死までの時間」と考えた時、その〈時間〉を作った《思考》の中に〈恐怖〉が存在するのである。従って、〈思考〉が消滅したら恐怖はない。ということは、すべての〈苦悩〉も消滅するということである。

 しかし現実に思考が消滅したら、私は生きては行けない。私は駅へも行けず、外出しても家へ帰って来れない。つまり、「思考の消滅」はあり得ない。
 ブッダが言ったのは、「思考の消滅」ではない。「識別作用の消滅」である。「識別作用が消滅するなら、もはや苦しみが生起するということはあり得ない」と言ったのである。「思考の働き」の中の「識別作用」――〈比較〉〈判断〉〈概念化〉が止む時、〈恐怖〉や〈苦悩〉は消滅する。

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学生 ブンナカの質問

 バラモン、バーヴァリの弟子の三番手は、学徒ブンナカである。彼は生死の問題を取り上げ、ブッダに尋ねる。

<本文>

1043詩:ブンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観されたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王族やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか? 先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1044詩:師(ブッダ)は答えた、
「ブンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」


 ブンナカはブッダを、「動揺することなく根本を達観された」方と呼んでいるが、必ずしもこの時ブンナカが本当にこう呼んだと解すべきではない。これは、この記事を伝承した当時の仏弟子たちの信仰によれば、ブッダはこのように見られていた、ということであろう。

 動揺することなく・・・・―――「動揺」はなぜ心の中に生まれてくるのであろうか? 「動揺」とは一体なんであろうか? それは、「二者択一」または「選択」のことではなかろうか。「選択」がなければ「動揺」はない。だから、ブッダには「選択」はなかったということである。ブッダに「二者択一」はなかった。その「選択」は、「わたし」というものがバカを見たくないためである。「わたし」が損な役回りをしたくないからである。それは、「わたし」というものが<安定>していたいためである。<安定>の追求が「選択」を生み、「動揺」を招く。もし「わたし」が<安定>を追求していなければ、「わたし」は物事の真相を明らかにすることができ、「根本を達観する」ことができるのである。

 この世で捧げる神々への犠牲 ――― 「祭祀(さいし)の道」として、さまざまな神々に動物の生けにえを捧げる。それはもちろん自分たちの身代わりとして、神々の怒りをなだめるためである。

 仙人や常の人々やバラモン ――― 「仙人」は出家していない行者のこと、「常の人々」は一般的な人々、「王族」は王族階級、「バラモン」は理想的な修道者、と考えていい。在家も出家も含めた「この世のすべての人々」を言っているのである。

 ブンナカの質問:
 「一切の《選択》というものがないゆえに、物事の真相の動きがすべて見えているあなたに、お尋ねしようと思って、参りました。世のすべての人々は、なぜにこんなに盛んに、あちらでもこちらでも、自分たちの身代わりとして、神々に動物の生けにえを捧げる儀式に一生懸命なのでしょうか? ブッダ先生! あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。

 (続 く)
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十五、学生ポーサーラの質問(終り)

<本文>

1114詩: 師(ブッダ)は答えた。
  「ボーサーラよ。すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
  かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとして
  いると知る。

1115詩: 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、
  それをこのとおりであると知って、それから(出て)それについてしずかに観ずる。
  安立したそのバラモンには、この<ありのままに知る智>が存する。」

 この1114 詩は非常に重要である。人間の真実のよりどころは《解脱》である、とブッダは言っているのである。人間の確かさは《解脱》であり、《解脱》において人間は存在できる。それがボーサーラを通してブッダが私たちに教えていることである。

 私たちはこの《解脱》を、全人類の財産とすることができるだろうか? そしてブッダがもたらせた《解脱》とは、「<識別作用の住するありさま>を知りつくす」ことによって現出するのである。〈識別作用〉とは、何度も取り上げてきたのでもはや詳細な考察は不要であろうが、比較、評価、基準、二者択一のことである。私たちの内部で、〈識別作用〉が、ある時点から始まり、その機能が起動し、運動を始め、ある時点で終わる。その一つながりな運動全体と、私たちの心の何がその〈識別作用〉を生み出したのかということと、〈識別作用〉によって心の内外にどういう状態が派生したかということを、時間をかけず、考えを差し挟まず、作用している流れのままに「意識」がそれを見張り続ければ、人は〈識別作用〉の機能の終了と共に、直ちに《解脱》する。そして心の中に、比較、評価、二者択一などが生じることはもはやなくなるのである。そして《解脱》それ自体は、特定な思想は必要無く、どのような思想とも関係がないので、「仏教」という宗教をも必要とはしない。そしてその《解脱》において、『智』が初めて機能を始める。だが、私たちはそれを『智』という特定な用語にこだわり、特定な思想や体系に作り上げてゆく必要は全くない。なぜなら、思想も体系も、〈そのもの〉ではないからである。

 これをブッダが言ったので「仏教」であるとか、あるいは別なことをイエスが言ったのでキリスト教とか、とにかく私たちは一つ一つの事実探究や事柄の解明を、自分が覚え、記憶した既成概念を当てはめたり、自分が既に持っている結論に引きずりおろして、その中に整理して済ましてしまうのではなく、事柄の真実に分け入りたい。キリスト教は二千年という時間をかけながら、ブッダがここで指摘した〈識別作用〉を乗り超えることができなかった。結果、宗教の血塗られた歴史を作り上げたし、それは今でも続いていると私は考える(もちろんそれはキリスト教だけではなく、他の宗教も同様ではあるが。諸宗教は、福祉や奉仕や治療活動をやるだけではなく、一方で、世界のこの戦いの歴史を生み出す当事者の役割もしてきた)。<正統>と<異端>とを作り上げた世界の諸宗教の内にはもはや神はなく、神に成り上がった人間か、神を独占した組織が存在するだけである。人間の魂の深みにおいて〈イエス〉と〈ブッダ〉が出会い、対話することによって、未来の人間の精神史が築かれねばならないと私は考える。そして更によけいなことを一言付け加えれば、「人間の魂」ではなく「人間の魂の深み」とは、ギリシャ精神によって十分に耕された人間の精神である。ただ、このブログに誠意を持ってお読みくださる方は、私が申し上げていることを鵜呑みにするのでもなく、無視するのでもなく、ご自分の人生史とご自分の周りで刻々に起こっていることとを、深く深く考えていただきたい。私たちに今必要なことは、単なる救済でも救済思想でもなく、世界内の人間の価値や感情、行動の複雑さを、十分な重さと広さとを持って受け止められる、重厚味ある人間精神である。それについてギリシャ精神の遺産を学ぶことは、文化や民族や教理や個人的体験を超え、重厚な<人間そのもの>を再発見する糸口になりはしないかと考えるのである。とにかくどのような宗教や哲学、芸術でも、そこに人間精神の十分な厚み、重みがない限り、それは救いにも精神史の前進にもならない。それを、私たちは過去二千年の歴史の流れによって十分知ったのである。
十五、学生ポーサーラの質問(4)


内にも外にも《何ものも存在しない》


 学生ボーサーラの次の質問は、「内にも外にも『なにものも存在しない』と観ずる人の智」とは何であり、その人は更にどうしなければならないのか、を問う。

 「内にも外にも《何ものも存在しない》」ということ。ブッダの先にも後にも、人生の真理をここ迄見抜いた人間は、歴史上存在しない。そして今も存在しない。これに近いことを言った人、これに近いことを理解した人はいるが、ここ迄この真理の全構造を見抜いた人は、ブッダ以外にはいないと私は思っている。《何ものも存在しない》ということを見て見て見切り抜いてしまうことが、人間が生きる原点である。そして私たちが〈生〉の全局面と全面的に直面して生きていないと、ここから「無の哲学」などを組み立ててしまう。《何ものも存在しない》ということと「無の哲学」とは、何の関係もない。《何ものも存在しない》ことは人生の事実であり、「無の哲学」は人生に関する思想または思弁に過ぎないからである。《何ものも存在しない》ことを洞察することからは、膨大な〈生〉の創造的なエネルギーが吹き上がってくるが、「無の哲学」は如何なるエネルギーももたらせはしない。

 「私は生き神である」と名乗る人間と、そこに集まる人々とがいる。しかし私が見、体験する限りでは、それら集団の内部関係には解き難い矛盾が内包されている。世界最大の宗教から最小のカルトに至る迄、分裂と、対立と、殺りくと、口論と、矛盾とを抱えていない救済集団に、私は未だかつて出会ったことがない。だが人々は何故ここに救いがあるとか、最も優れているのはこの教えであるとか、究極はこれであるとか、主張したがるのだろうか? なぜグルジェフだけ、なぜ日蓮だけ、宮沢賢治だけ、シュタイナーだけ、バグワンだけなのだろうか? アッラーの名によって、いかに多くの殺人が行われてきただろうか。日蓮の名によって、いかに醜い抑圧が行われてきただろうか。バグワンのナンバー2が離反して、ラジニーシズムはいかに収拾のつかない分裂に陥っただろうか。クリシュナムルティとそのアシスタントであるラージャゴパルとは、人生の最終章に決裂し、クリシュナムルティ協会の所有権を巡って、裁判によって決着を見た。しかし当事者同士は、最後迄決裂したままで終わった。その他日本のカルト集団の醜さと幼稚さは、推して知るべしである。人は自分達自身の集団の内部に発生してくる対立、矛盾すら適切に解決できないままに、なぜ人類の救済や人間の救いを主張したがるのだろうか? そしてなぜ人々はそれに真っ向から直面し、その全貌を見ようとせずに、特定な思想、特定な人物、特定な集団にこだわり、その旗のもとでの救済を叫ぶのだろう? お分かりになるだろうか? 人の求めているものは《真理》ではなく「安心感」であり、自己満足なのである。人は早く自分の気に入る満足に到達したいのである。しかもそれを人にも押し付けたい。なぜなら、「自己満足」は本質的には人間の孤立化過程であり、布教し、仲間を集める行動を取っていないと、「空しさ」が深層心理の底から口を開けて出てくるからである。だから、布教や仲間集めという外側に目を向けさせなければならなくなる。なぜ、どこにも救済など実現していないことに直面できず、なぜ「どこにもない」という位置から、<生>の出発ができないのだろうか?
 お分かりいただけるだろうか? (世間で言われているような救済は)内にも外にも何ものも存在しない。それを本当に隅々迄知り抜いた『智』がある時、<あなた>と<私>の存在状態はどうなるだろうか? どうかこの答え、この結論を、人に求めるのではなく、自分自身の《求道》によって見い出していただきたい。自分自身で探求していただきたい。そうすれば、ブッダ崇拝や仏教徒になることなどではなく、《目醒め》が起こってくるはずである。そしてそれは、我々が今迄人から聴いてきたり、書物で読んできたりしたものとは似ても似つかない、新たな《覚醒》であることであろう。

 人はこの《目醒め》、この《覚醒》にどんな価値、どんな意味があるのかと問われれば、何もないであろう。それには、この世における意味も価値も、何もない。ただ《目醒め》た<あなた>と共に、如何なる疎外もない《完全な自由》と、膨大な創造的エネルギーが存在するだけである。だがそれが、<あなた>を金持ちにしてくれるのか貧乏人にするのか、政治家にしてくれるのか主婦にしてくれるのか、ミュージシャンにしてくれるのかOLにしてくれるのかなど、私は全く知りません。関心もありません。

 そしてボーサーラは、この『智』のある人は、更にどのように導かれねばならないかをブッダに尋ねたのである。

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