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《マルコ福音書》第一章14節〜15節:
14:洗礼者ヨハネが牢に入れられた後、イエスはガリラヤにかえり、神の福音を説いて 15:言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。
◉ 継承性:
いよいよイエスの伝道活動が開始されるが、冒頭、“洗礼者ヨハネが牢に入れられた後”という言葉から始まることによって、イエスの活動が前者(洗礼者ヨハネ)の活動を継承するものであること、そしてまた「時代」の関心、「時代」の動きに接続するものであることを語り出しているのである。
まず私たちはここで、〈霊的真理〉は継承されるものであることを確認しておきたい。「神は宇宙神である」とか、「神は万象の内に潜む」という《神》、そのような「対象化された神」や「客体化されている神」は、世界共通のものであって、あらゆる民族の中に、また古代文明であるマヤやエジプトなどの中に、ネイティブ・アメリカンなどの中に生きてきたし、また現在でもそのような「神信仰」は存続している。それを、「聖書信仰」は「偶像崇拝」として明確に区別してきたのである。なぜなら、あらゆる「対象化された神」、「客体化された神」は、人間の「思考の産物」であって、人間が世界内の〈恐怖〉に怯えた結果、それから「逃避」するために、人間の「思考」が「意識の範囲内」において作り出したからである。したがって、《聖書信仰において現われてくる神》以外のどんな神も、人間の「思考」を打ち砕く力を持たない。人間の内面に《価値の転倒》を起こす力を持たないと言える。
そして、「思考の中身」を構成する正体は、人間の「今以外の何ものかになろうとする欲望」である。「何ものかになろうとする欲望」が、自己の永続化を図ろうとして、「思考の働き」を使うのである。「対象化された神」「客体化された神」とは、人間の願望を延長し、拡大しようとする神であって、その「欲望」を破壊する力を持たない。
私たちの「願望」――それは私たち一人一人の「欲望」であり、私たち一人一人の「理想」であり、「イメージ」である。それは、私たちに二つの側面から人生の「断片化」と「分離化」をもたらす。
一つは、「理想」や「願い」を抱き、人生に「イメージ」を追求するのは、私たちが現実の「事実」を気に入らず、不満足なのである。その「不満」や「空しさ」が、現実から逃避するために「理想」や「目的」、別の「イメージ」を作り出す。それは《現実からの逃避》であって、現実を「変革」する力を持たない。現実を「変革」できるものは常に皮相の奥に潜む「真実」であって、「理想」や「願い」、「イメージ」の追求ではない。したがって「真実の神」とは、「理想」や「願い」や「目的」などを人間に作らせたり、かなえてくれたりする神ではなく、私たちを「真理認識へと駆り立ててくれる神」である。イエスは、自分が「対象化された神」として扱われようとしたときは、いつでもその人に向かって「引っ込んでろサタン!」と言って、その「信仰」を拒絶されたのである(マタイ16の23)。
第二は、「願い」や「理想」や「目的」は、私たち一人一人に「分断化」と「葛藤」をもたらす。なぜなら、「あなたの理想や目的」と「私の理想や目的」は同じではなく、「あなた」と「わたし」は「理想や目的」をめぐって「競争」し、「葛藤」し、「殺し合う」からである。そして、私たちの「願い」や「理想」を増長させ、「目的を与える対象化されている神」は、世界に依然として民族戦争や宗教間の争い、家族間の分離などを引き起こしているのである。「対象化された神」「客体化された神」は、愛や平和や統一の名の下に、世界に「分離化」と「争い」をもたらすのである。
『聖書』によって語りかけてくる神とは、「シェキナーの神」と言われ、「人間と共に歩む神」である。「シェキナー」とは「霊」または「乗り物」を意味するが、「乗り物」は「乗る人(私たち)」と運命を共にするものである。「聖書の神」は人間を特別視する神であって、自然現象や宇宙現象、また人間以外の他の存在以上に、「人間を通して姿(真理)」を表わすのである。それが、「生きて働く神」に触れ、その真理を知るには、人から人への《継承》または《接続》なしにはできないと言われるゆえんである。《継承》または《接続》なしに知られる神とは、「知った」と主張する人間の「思考の産物」である。
だからこそ「救世主」であるイエスでさえ、「神の子」でもあるが「人間」でもあることによって、《接続》なしに「霊的真理」を知ったり、伝道したりすることはなさらなかったのである。それがまた、神の子イエスの「受洗」の意味でもあったと思われるのである。
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