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<尾崎放哉と層雲自由律詩>:種田山頭火
振り返らない遊行僧
ふりかへらない道をいそぐ 山頭火
遍歴を1つの修業とする生き方とは、同じところを2度とは訪れない、ということ
である。同じところへは2度とは戻って来ない。それは、遍歴の旅の意味とは、〈こ
の世〉への執着を断つことにあるからである。禅は、「まさに住する処なくして、そ
の心を生ずべし」を、仏教の真髄としているが、遍歴はその実践である。それは今日
に生き、今日に死ぬる生き方であり、常に〈昨日〉を捨て去ることによって見い出す
〈新しい生命〉である。「仏に逢うては仏を殺し、神に逢うては神を殺し、父母に逢
うては父母を殺す」ということも、「昨日に逢うては昨日を殺し、過去に逢うては過
去を捨てる」という意味である。
また見ることもない山が遠ざかる 山頭火
同じ土地、同じ山は2度と見ない、という山頭火の強い断定である。彼は常にその
ことを念じ続けながら、旅をしたのだった。だが現実にはそう簡単には行かず、去年
訪れた地に今年も訪れ、去年泊まった旅館に今年も泊まったりしたこともしばしばあっ
た。
しかしその中で、彼が徹底して貫いた1つの姿勢があった。それは1回1回の人と
の出会いを、最初で、そして最後の交わりと考え、別れに際して決して後ろを振り返
らなかったことである。他のことではかなりだらしがなかった山頭火も、このことだ
けは徹底していたようである。『層雲』同人の橋本健三氏は、山頭火の想い出を「ふ
りかへらない山頭火」と題して、次のように記されている。
昭和14年の春に山頭火が突然現われ、まるで十年来の知己のように、友人も交え
て2、3日を語り明かし、飲み明かして過ごしたのだった。そして山頭火がいよいよ帰
る段になり、橋本氏は見送って行く。
「もういいですよ、ぼつぼつ歩いて行きますから」(山頭火)
「いや構いません、もう少し一緒に行きましょう」(橋本氏)
なおも2人は前方を見ながら歩いて行く。
「さあ、もう1本道でしょうからどうぞお帰りください」(山頭火)
「ではお気をつけになって―――」(橋本氏)
自分はお辞儀をして立ち止まり、改めて別れを述べようとした。
我々が道で別れる場合、そこでお互いに立ち止まり、二言三言挨拶して去るのが普
通である。だが山頭火は歩きながら「どうもいろいろお世話になりました」と軽く独
り言のように述べながら、そのまますたすたと歩いて行くではないか。
自分が次の言葉を述べようとして頭を上げた時は、既に両者の間隔は離れ去ること
十メートル。この間、彼は最初より少しも歩みを緩めることはなかった。
呆然として彼方を眺めれば、彼の僧俗相まじえたる風姿は次第に小さくなってゆく、
もちろん全然ふり返らない。やがて小さく一点となって、松林の陰に消えて行った。
例えばこの時の様子を、仮に第三者が眺めていたとすれば、2人は互いに路傍の人
であり、偶然同じ道を同じ方向に歩いて行き、たまたま1人は他の1人よりも先へ通
り過ぎたものとしか思われなかったであろう。自分は踵(くびす)を返した。(中略)
ああ、3日3晩のあの悪童のような乱酔ぶり、10年の親友のような人なつこさ、それ
に比べ何という淡々たる別離の景であろう。
家路を戻りながらも、しきりに念頭をかすめるのは、ただ「ふり返らない山頭火、
うしろ姿のいい山頭火」ということだった。
翌日すぐ次のようなハガキが着いた。
「最初の、そして最後の会合でありましょう。とにかくうれしく思いました、云々。」
そして、そのようにして〈昨日〉を捨て、〈過去〉をすっかり枯らし尽くすことに
よって、彼の中に〈仏の心〉が結実する。それが次の句である。
すっかり枯れて豆となっている 山頭火
歩くことは枯れて行くためである。歩き詰めて〈昨日〉がすっかり枯れ落ち、彼の
中に仏国土が結実しているのである。それが、枯れ切った後に残る「豆」によって共
感されている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ここで山頭火の「過去を枯らし切る」、「昨日を捨てる」ということが、決して言
葉の遊びや単なる心境文学の産物でないことを確認しておくために、彼が漂泊の旅に
出るまでのいわゆる「彼の過去」を、簡単にふり返っておきたい。それは、各種神経
症やトラウマ、拒食症・過食症、そして多重人格などの問題が、その人の過去の生立
ちと関連して取り上げられ、しかも現在の時代の問題として、非常に広範であると共
に根の深い問題として取り上げられている時、山頭火に焦点を当てることは決して意
味少なしとはしないと私は考えるからである。
種田山頭火(本名:正一):明治15年(1982年)、山口県防府市の大地主の家に
生まれる。家は公園ではないかと思えるほど広かったと言われている。だが父は政治
と女性問題に狂い出し、家産は傾いていった。そして家が傾けば傾くほど、父の女性狂
いは更に激しくなるばかりだったが、その中にあっても封建社会下での〈妻〉の立場
は非常に弱く、それらを苦にして遂に母は井戸に身を投げて死ぬ。山頭火11才の時
である。そしてそのことが、今流に言えば山頭火のトラウマを形成すると共に、彼の
晩年に抱く人生観へとつながっていくのである。
彼は郷里の中学を卒業すると上京し、早稲田大学の文科に入る。だが破産した家か
らの送金は乏しく、かつ本人も神経症に陥り、学業の継続が難しくなって、中途退学
する。そして故郷に帰って家運を挽回するため、父と共に酒造業を始めるが、不運続
きでそれも上手くゆかず、数年で倒産する。そして父は女性と一緒に夜逃げをしてし
まった。
その間に彼も結婚し、男の子をもうけた後、知人を頼って熊本で文房具店を開くが、
酒を飲み歩くだけでまともに仕事もせず、家出する羽目となる。
燕とびかふ空しみじみと家出かな 山頭火
そして東京へ出てきて転々とし、大正9年(山頭火39才の時)離婚。その後病気、
神経症と続く。大正12年、関東大震災に襲われて各所を転々とする。そして震災ショ
ックで精神錯乱に陥る(42才)。また父と酒造業をやっていた時に弟が自殺してしまっ
たことも、もともと神経が繊細であった彼の精神を、不安定なものにしていたと思わ
れる。
その後、酒によって彼の生活は更に荒び、大正13年(43才)熊本に帰った彼は、
泥酔したまま走ってくる電車の前に仁王立した。自殺するつもりだったのだろうと言
われている。だが幸いにして無事であったが、そのことで警察へ引いて行かれるとこ
ろ、ある人が彼を貰い受けて報恩寺という禅寺へ連れて行く。そしてそこの義庵和尚
の教えによって、ようやく少し落ち着きを得、44才にして出家得度するのである。
しかし彼の神経症と憂鬱とはありきたりの信仰によって埋まるにはあまりに深く、
あまりに重かったのである。生家の壊滅と一家離散、母と弟の自殺、結婚の失敗、な
どなど(彼は1度は巣鴨拘置所にも入っている――もっともそれは全くの誤解が原因
だが)。そして46才、「解すべくもない惑いを背負って、行乞(ぎょうこつ)流転
の旅に出る」。それらが彼の〈過去〉の重層構造である。
水をわたる誰にともなくさやうなら 山頭火
自分の〈昨日〉に対して、過去の一切の歩みに対して、「さようなら」と訣別して
いるのである。そして山頭火は、振り返りもせずに彼の道、〈仏の道〉を真直ぐに急
いだ。「仏に逢うては仏を殺し、神に逢うては神を殺す」とは、どんなに善きこと、
どんなに楽しいことも、すべてそれをきれいに捨て去ることを意味する。苦いこと、
悲しいことは当たり前だろうが、どんなに素晴らしかったと思えることも、それが
〈過去〉であり、〈昨日〉である限りは、跡形もなくさっぱりと捨て去るのである。
そして流れる水は滞りなく、さらさらと清らかに流れて行く。その流れは速い。誰に
でもなく、流れ行く自分のすべてに対し、「さようなら」と、水を見送る山頭火であ
る。
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私の尾崎放哉論
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放哉と山頭火:
なぎさふりかへる我が足跡も無く 放哉
山頭火が句作を通して〈仏〉に会い、〈仏〉を詠ったとするならば、放哉は句作において〈神〉を見、〈神〉と対話した人である。(勿論、実際には放哉は仏教に関係することの多かった人だから、このような論評をする人は誰もいないだろうが‥‥‥。だが実際の彼は、仏教関係者では西光寺住職以外のほとんどの人とは心が通じ合わなかったのであり、一燈園の西田氏や、更には書簡を見ると暁烏敏(あけがらす はや)氏のことさえあまり認めていなかった節がある。これらは単に人間の性格として捉えるよりも、放哉はもともと神的体質の人であって、仏性的体質の人ではなかったと考えるのが妥当だと私は考えている。)
山頭火には駄作が無数にあるが、放哉には無駄、駄作は一つもないと言える。それが放哉と山頭火との、一番大きな違いなのではなかろうか。
なぎさふりかへる我が足跡も無く
私にはこの句を読むと〈神〉が見える。山頭火の句は、読み始めると次から次へずっと読み続けたくなる。放哉の句は、一句読むとそこで句集を閉じ、ずっとその一句に立ち留まっていたくなる。
放哉は、歩いて来た後ろを振り返ってみると、渚の中に何一つ自分の足跡が残っていないのに気がつく。自分という存在が、全くこの世の存在ではなかったことを確認したのである。それは、彼が自分の人生というものを自覚した時から、感じ始めていたものではあった。だが今、渚にすべて消し去られている自分の足跡を見て、自分がこの世の存在ではないことをはっきりと確認したのである。
沈黙の池に亀1つ浮き上がる 放哉
亀の甲羅は、長い時間を経た岩を思わせる。だからこの沈黙の池は、やはり古池であろう。それらは、永遠の過去から永遠の未来への息ずきである。単なる岩は無機物だが、それが〈亀〉であることによって、〈生命〉なのである。眼に入るものが1匹の鯉や金魚、あるいはアヒルやその他の鳥たちでは、決してこのような世界に心を運んではくれない。ここでも、放哉が気がついていると否とにかかわらず、彼が見ていたものは、私に言わせると〈神〉である。
石にしくしくしみとほる秋の夜の雨なり 山頭火
実際の場合は、雨は別に石にまで染み透りはしない。実際に雨が染み透っているのは、山頭火の心の中である。山頭火の心は非常に芭蕉的である。芭蕉的とは、〈自然〉を通して自分を見つめ、そこに〈仏〉を見ようとした、ということである。
放哉は自分を見つめる以上に〈自然〉そのものを見つめ、〈亀〉を見つめ、〈足跡そのもの〉、〈さざ波そのもの〉を見つめ、その〈奥にあるもの〉を見ようとした。そしてその奥にいたものは、〈神〉だったのではなかろうか? だから放哉のどの句においても、私は〈神〉を感じ、〈神〉が見えてくるのである。
山頭火が〈死〉を考える時も、常に自分にとっての〈死〉であり、それゆえ彼は〈死〉に甘え、〈死〉を語りつつも、実際の彼はなかなか死にそうにない。
ところが放哉の〈死〉は、自分にとっての死であるよりも、〈死そのもの〉である。自分がどうあれ、〈死〉そのものを見つめ続けた。だから本物の死が、彼にどんどん近づいて来るのである。それが、〈旅〉をしながら徐々に〈死〉に近づこうとした山頭火と、〈不動〉の位置から〈死〉を見据え、〈死〉を招き寄せた放哉との違いである。山頭火はブッダに近く、放哉はイエスに近い。ブッダは自然に死が近づくのを待ち、イエスは自ら死に向かって突き進んだ。
鐘ついて去る鐘の余韻の中 放哉
放哉ほど、「生まれた時から自分はこの世の存在ではない」ということを知っていた人は、稀なのではなかろうか。鐘の余韻は間もなく消える。余韻の中を歩く放哉には、自分の故郷がこの世ではないことが、ひしひしと感じられたはずである。彼の場合、旅をするまでもなく、自分がこの世の者ではないことを知っていたのである。
彼は最後の地、西光寺南郷庵から、「自分の存在は家族や故郷の人々の記憶からは抹消してくれ」(原文は直接にはそのように言ってはいないが、放哉の意味は恐らくこう解釈しても言い過ぎではない)という意味の事を、自分の姉に書き送っている。
炎天の底の蟻等ばかりの世となり 放哉
蟻はただ生活のため、〈生の安定〉のためにだけあくせくする。まだ見ぬ冬のため、炎天の下でもせっせと働く。人間もただ蟻のように、生活のため、金のため、自己保全のためにだけあくせくする者ばかりだと言っているのである。
蟻を殺す殺すつぎから出てくる 放哉
放哉は詩人であるから、本当に蟻など殺しはしない。これは人間を蟻に置き換えた比喩である。生活の事だけに夢中になる奴が絶えない、ということを詠んだのである。
落葉木をふりおとして青空をはく 放哉
からかさ干して落葉ふらして居る 放哉
普通は、落葉が木から振り落とされるのだが、放哉においてはそうではない。落葉が木を振り落とすのである。
空傘の上に落葉が散ってくる。だが放哉においてはそうではない。放哉が落葉を降らしているのである。
社会的な地位を持ち、エリートコースに立っていながら、すべてから外れ、放浪と流竄に身を落とした放哉である。世間の人は振り向きもせず、陰ではバカにもされたかも知れない。しかし、そのすべてをやっているのは自分であって、社会にそうされているのではない。すべてを承知しながら、自分の方からやっているんだ、と彼は言い放っているのである。社会という木から自分が振り落とされているのではない、自分が社会を振り落としているんだ。さまざまな不遇が次から次へと落葉のように降り掛かる。惨めだ、気の毒だと人は言うかも知れない。冗談じゃない、俺がそれを降らしているんだ、ということであろう。
大空のました帽子かぶらず 放哉
私はこの句においても、またしてもイエスを感じてしまうのである。ガリラヤの片田舎から、決然としてエルサレムに顔を向けて進むイエスの都上りの姿が、この句の中から見えてくる。
これは大正14年頃、放哉の兵庫県須磨寺時代の作品である。その頃の日本社会は、ちゃんとした成人男性であれば、外出時は帽子を着用するのが普通であった。小津安二郎の映画などを見ても、男性はみんな帽子をかぶっている。須磨寺での放哉は、堂守とはいっても単なるお寺の寺男である。実は、帽子などは買う金もなかったのかも知れない。
放哉の東大時代の同期というと、実は錚々(そうそう)たるメンバーである。安倍能成(文部大臣)、有田八郎(外務大臣)、藤沼庄平(警視総監)、田辺隆二(関西電力総裁)、十河信二(鉄道院総裁)、前田多門(東京市長)、奥田正造(成蹊学園創立)、野上豊一郎(法政大学総長)、岩波茂雄(岩波書店創立)、中勘助(作家)等々、数え上げると切りがない。それに対し放哉は、四十にもなるのに単なるお寺の寺男である。しかし彼は「きっ」と、詩作することに眼を向けたのである。彼の決然たる姿勢が、この句を作らせた。帽子が無いんじゃない、俺が帽子をかぶらないのだ! 彼の詩人としての天才性の開花は、この須磨寺時代に始まるのである。
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『生死の境』に立脚する:
たった1人になり切って夕空 尾崎放哉
放哉の秀句の中でも、決定的に重要な句の1つではないかと私は思う。ここには、放哉が到達した世界の確立が、はっきりと宣言されているように見えるからである。これは彼の須磨寺時代の初期の作品だと思われるが、おそらくは39才頃に作られたものであろう。
先ずこの句からは、「1人」であることが詠まれていながらも、情緒的な孤独感が全く感じられない。むしろ「ようやく」とか、「やれやれ」といったような安堵感すら伝わって来る。彼は須磨寺では、最初からほとんど毎日のように1人でいたが、この句は、須磨寺へ来て最初に詠まれたものでもない。この句の前には、「雨の日は 御明かし灯し1人いる」とか、「なぎさ振り返る我が足跡も無く」「沈黙の池に亀1つ浮き上がる」「鐘ついて去る 鐘の余韻の中」などの、物理的に1人になったことが主題となって詠われたものが既にあるので、この句では、体がやっと1人になったというようなことを詠んだわけではないと思われる。「たった1人になった」のは体のことではなく、彼の心、心境のことである。
流転に流転を重ねて須磨寺まで来たが、1人になってもまだ彼の心は、「生」か「死」かのいずれかを彷徨(さまよ)っていた。だが、この日放哉は1日が終わり、夕空の中に独りたたずんだ時、ようやく自分が身も心も完全に1人になり切れたことを自覚したのである。夕空の中、闇が静かに近づく気配を感じながら、彼は自分が完全な『単独者』になったことを自覚したのである。そしてやがてすぐに数日後、
高波打ち返す砂浜に 1人を投げ出す 放哉
と詠んだ。「1人を投げ出し」たからといって、決して捨て鉢になったわけでも、やけくそになったわけでもない。むしろ伸び伸びと、自由に、完全に開き切って、自分のすべてを『大自然』という宇宙にゆだね切ったのである。砂浜に自分を投げ出したのではない、『宇宙』というものに自分のすべてを任せたのである。
それは1人『目覚めた』ということである。否定でも肯定でもないところ、死でも生でもないところに、1人目覚めた。そこにそれまでとは全く異なる、新しい『宇宙』を見い出した。そこでは、完全に『単独者』として存在していながら(※「孤独者」ではない)、彼と高波、彼と砂浜、彼と夕空、彼と自然、彼と海、土、光、大気などなどとの間に、全く分離も隔たりも存在しないのである。だから彼は全く伸び伸びと、自由に、砂浜に完全に自分を投げ出すことができた。生死の境に、全く新しい、『完全な宇宙』を見い出したのである。その完全な宇宙とは、彼にとっては『詩の王国』であった。
障子しめきって淋しさをみたす 放哉
これも須磨寺時代の、上に掲げた句の後に作られた作品だが、ここで捉えられている「淋しさ」は、普通に人が感じる孤独感ではない。そんな孤独感ではとても「満たされ」ない。人は孤独に耐えられず、それから逃げ出そうとするか、人ごみに紛れようとするか、あるいは川辺りや山の自然の中で、自分の心を癒そうとするのが関の山だろう。放哉はこの世の淋しさを、むしろ障子を閉め切って満たしてしまうのである。それは、この世からの逃避でも敗北でもない。否、この世への勝利なのである。障子を閉め切って、淋しさを満たせるほどにも彼の中で充実していたもの、淋しさを満たした後に、彼の中でなみなみと膨らんでくるものは、「生死の境」に開花した『詩の王国』である。
咳をしても1人 放哉
これは日本の短律詩を代表する、あまりにも有名な句だ。川端康成も最後の作品『隅田川』の中で、思わず引用している。
放哉の小豆島時代の、人生の最終章で詠まれている句だ。この句を詠んで数カ月後には、彼はこの世を去った。だからこの句を詠んだ頃は、彼の肺結核、喉頭結核は既に始まっていた。流動食など無かった彼にとって、時々は摂取しなければならない飲食の時間は、全身に激痛が走る地獄のような時間だったと記している。
周囲が心配しないようにと、自分が結核になったことは師の井泉水を始め、ほとんどの人たちには伏せておいたが、いつまで経っても咳はますますひどくなるばかり。おまけにほとんど身動きが取れなくなってくると、「長い百日咳」ではごまかしが効かなくなり、結核は師にも分かってしまう。そして師と、彼の後援会長である陶芸家・内島北朗とが、彼を大きな病院へ入院させようとするが、彼はそれを激しく断る。そして「アンタ俺を殺す気か」、と彼は井泉水に書き送る。その意味は、病院に入ってもせいぜい1年か2年程度長く生きられるだけだ。その間全く自由を奪われ、人に自分の生命を預けたまま、病人として死んで行かなければならない。頼むから、自分を病人として殺すのではなく、「詩人として死なせて欲しい」ということなのである。
「今朝、井(泉水)師から〈急〉という手紙が来て、見ると、病院の部屋のことなど、いろいろ書いてある。‥‥‥全く驚いてしまった。東京宛の便、および先日、京都の井師宛の手紙の分、などにも、いろいろ書いておきました通りの、放哉の決心であります。この決心は誰が何と申しても、絶対変更せぬモノとご承知くださいませ。もし今、無理にこの「庵」を出よと言うものアレバ、ちょうど良い機会ゆえ、食を断って死にます決心。今少しくらい長く生きられる放哉を、早く殺さんでもよいではありませんか。
この私の決心を、笑談と思ってくださいますな。
私の病気が京都の病院に入って薬を飲んだところでナオルものですか。第一、あのヤカましい、売店のような、殺風景な、マッ白な病院というもの、アノ中に、入るということを考えただけでも、放哉にわかに死期を早めますよ、呵々(カ、カ)。
この病は〈精神修養〉の錬磨から、治していくより他に仕方がないですよ。「薬」をアビル程飲んだところで、針をブスブス刺したところで、決して治るものではないのです。私はこの病気については、医師不必要論、ならびに「薬」の不必要論を主張します。放哉も、今のセキ薬でセキが止まれば、もはやそれ以後は、何一つ「薬」は飲まない決心であります。頼るところは一つに〈精神修養〉、足のウラ呼吸であります。‥‥‥病院のようなところには、1日もいられない、にわかに死にます。マダ少々は生きられる放哉を、無理に早く殺してしまうべく「庵」から引っ張り出す程、ご両人は放哉に対し無慈悲とは思われません。今少し、生きさせてください、呵々(カ、カ)。
井師は、今少し放哉を了解してくださってホシイと思います。北朗君は、かつて知っていられる通り、私が〈一燈園〉にトビ込んだ時において、既に既に「死」を決心していたので、‥‥‥ただ、その死が今まで延びてきただけ。今回は、どうやら、よい死に所を得たらしい(周囲の自然の景物の中に死ヌノデスカラ)、と思っているのですよ。お分かりくださると思いますが。
只今では、放哉の決心次第一つで、いつでも「死期」を定めることができる、からだの状態にあるのですよ。ナントありがたい、ソシテ嬉しいことではありませんか。放哉はもちろん俗人でありますが、又同時に、「詩人」として死なしてもらいたいと思うのでありますよ。‥‥‥なにとぞ、「詩人」として死なしてもらいたい。結局(もっと)30年も、40年も、生きる問題じゃないのですから。このツカレタ放哉を引き摺り回して、イジメ殺すだけはどうかお許しくださいませ。‥‥‥
この庵‥‥‥を死んでも出ないこと‥‥‥これだけが、確実な決心であります。
もし無理に庵を押し出されるようなことがあれば、意識的に、食を断って、放哉、死にます。上記確実に候。
病院‥‥‥アノ、芝居の売店騒ぎのような、不自由極まるツマラナイ病院なるもの、‥‥‥聞いただけでも‥‥‥死にたくなる、食欲が無くなる。放哉は、モウモウ〈人間社会〉は、イヤイヤ。自然の中で、ダマッテ、死にたい。‥‥‥1人で。‥‥‥ありがたいことであります。 ( 以 下 略 )
(「荻原井泉水・内島北朗への書簡」放哉全集p.726〜729より抜粋)
死がはっきりと見えてきた放哉にとって、病院に入って延命処置を行うことは、〈生〉に堕することであった。だが同時に〈死〉に弱腰になり、自ら食を断って死を迎えることは、〈死〉に堕することである。〈死〉のギリギリまで、「自然」の中の「自分」を見つめ、〈死〉〈生〉〈自然〉のすべての動きと同時進行している「自分の内面」に、どのような変化、どのような純化、あるいはどんな転落が現われてくるのか、その正体のすべてを見抜きたいということ、それが放哉の最後の作業であったのである。そして彼は、それを見事に果たし抜いた。
春の山のうしろから 煙が出だした 放哉
自由律句界に永遠の金字塔を樹立した彼の最後の句、『春の山』は、〈生〉と〈死〉の無限輪廻に転落したこの消滅する有限宇宙への、人間精神の永遠の勝利であり、すべての消滅しゆくものへの『詩の王国』の勝利である。そして南海の孤島で、「咳をしても1人」だった生活の中で死にながら、『詩の王国』の永遠の勝利を詠った彼の人生は、〈生死〉に転落した〈人間なるものすべて〉に対する彼の代贖であった。
大正15年4月7日、放哉は小豆島の彼の砦、「南郷庵(みなんごうあん)」から『大空(たいくう)』へ翔び発った。それは「天の父の家」にある『詩の王国』である。願わくは私たちも、彼に恥じない人生を、今からでも貫きたい。放哉の霊よ、私たちを見守り、私たちを教え、私たちに力を分かち与えてください。
すべての人間が詩人になるのでなければ、人間の真の幸福はありません───埴谷雄高(辻邦生「埴谷さんの宇宙圏の中で」より)。
「天の父の家」は広くて大きい。そこには藤井武やベルジャーエフが追求した『神の国』あり、木食上人が追求した『仏国土』あり、柳宗悦や棟方志功が追求した『美の王国』あり、そして尾崎放哉が追求した『詩の王国』もある。そしてまた私は、私たちが追求する『求道の国』もまた、そこにあると信ずるものである。そしてその入口は、『生死の境』に存在している。
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放哉(ほうさい)の句より2つ3つ(2):
墓のうらに廻る 放哉
何という単純な句であろう。そして何という真実であろう。季語を用いたり、五七五調を重要視する定型俳句ではとうてい作りようのない世界である。俳句は定型俳句から自由律俳句へ進化することによって、持て余している時間をつぶす趣味物から芸術的な自己探求の表現形式に変容した。
私たちは誰のものであれ墓参りをすると、必ず墓の後ろを見たくなる心境に駆られる。そうしてその墓の後ろを見て、そこに眠っている人の但し書きや没した年月などを読んだりするが、それは一種のごまかしであろう。
墓にお参りするのは、そこに眠る人への思いであるが、墓の裏を覗くのは、実は自分の顔を覗くのである。自分の〈死〉を覗く。自分の〈孤独〉を覗くのである。しかしそこには、日頃深層心理が顔を背けている戦慄的な恐怖が働くので、人は何食わぬ顔で死者のことわり書きを読んでみたり、そこに書いてある没年月などを読んだりして、自分の心をはぐらかす。
放哉は、ここでもまた誰の墓かは分からないが、墓の前でその裏側に廻り、〈自分〉を探し、〈自分〉を覗き込み、〈死〉というものに含まれるあらゆるものを見い出そうとするのである。
めしたべにおりるわが足音 放哉
これが俳句であるのは、この言葉が人間の孤独のどん底において詠まれるからである。
飯を食べに下りる足音を、聞いているのは〈自分〉である。「自分はまだ〈生〉に執着しているのであろうか。いまだ飯を食べに向かわせるのは一体何か。そもそも、これは自分の足音なのだろうか。それとも別のものなのだろうか。いや、やっぱり自分の足音だ。」 放哉の脳裏をよぎっていたのは、そういうことではあるまいか。こういう心理現象は、20代くらいにはよくあることで、誰しも経験することかも知れない。しかし、放哉が40才にしてこの句を詠む時、一生孤独を引きづり続けた、戦慄的なその孤独の深さを思わずにはいられない。それが「迷って来たまんまの犬」の姿である。
どんどん泣いてしまった児の顔 放哉
誰も途中であやしてはくれず、泣くところまで泣かなければならない時、子供心はふと自分がこの世の中では独りぼっちなのであることに気づかされる。すると子供の心からは甘え心が払拭され、妙に落ち着いてしまうものである。子供が自分自身に潜在的に目覚める一瞬である。放哉自身の孤独が、子供のその顔を捉えたのである。どんどん泣いてしまったのは、放哉自身でもあったのである。
追っかけて追い付いた風の中 放哉
誰かを追いかけて追い付いたのではない。追いかけたのは〈自分〉である。自分が自分を追って、自分に追い付いた。「風の中」──この言葉は、私に祈りの心を感じさせる。誰も自分を追いかけて自分には追いつけない。だからいつしか人は自分を失い、自分が社会の一部か、生活の一部になり切ってしまっているのを発見するのである。その時、人はもう「迷ったまんまの犬」ではいなくなってしまう。飼犬になっているのである。
〈祈り〉においてのみ、私たちは自分に追いつくことができる。流竄(るざん)の果てに放哉が救われるのは、〈祈りの心〉があったからである。
春の山のうしろから煙りが出だした 放哉
尾崎放哉(おざき ほうさい/本名;秀雄): 1926 年4月7日夕刻、小豆島西光寺奥の院、南郷庵(みなんごうあん)にて喉頭結核のために没す。満41才。
その時、彼の枕元におかれていた辞世の句が、これである。社会人尾崎秀雄に決別し、詩人尾崎放哉として誕生したのが39才であるから、本格的な詩作活動は2年足らず。特に最後の華ともいうべき南郷庵での生活と詩作は、8ヶ月にも満たないものであった。最後の日は、もう眼も見えなくなっていたとのことであるから、この辞世の句が、見える間にでき上がっていたものなのか、見えなくなってからのものであるのか、はっきりはしない。ただ内容から考えれば、見える間に作られていたと考えるのが自然であろう。
流転の果て、〈死〉にはっきりと手で触れながら、彼の眼には春の山から煙りが立ち昇る姿が見えたのである。それは一体何であったのだろうか? 死にゆくダビの火であったのか。いや、決してそうではあるまい。春4月、自然は復活し、人は再び新たな活動を開始する。その海風の肌触りの中に、彼はこの世の果てを超えた新たな別の世界を見ていたに違いない。「春の山から」と詠まずに、「春の山のうしろから」と詠んだのは、この世の果てを超えた新しい世界の動きが見えていたからである。そしてその世界が彼を呼び、彼はそこへ最後の旅立ちをしたのである。
〔放哉が亡くなったその夜も更けて、西光寺の門を静かに叩くひとりの婦人があった。婦人は南郷庵へ行く道を問うた。
「御厄介さまになりましてありがとうございます、尾崎秀雄の妹でございます。」
厚く礼を言って、南郷庵への暗い道に消えて行った婦人こそ、放哉夫人、かおるさんであった。〕(上田都史著『人間尾崎放哉』より)
放哉が社会人であることから追放され、零下40度の満州を無職無一文で流転し、病床であえいでいた時にも彼を見捨てず、放哉を支え続けた夫人。日本へ帰る船中で、自殺を企てようとする放哉を、なだめ、思いとどまらせた夫人。しかし放哉が日本へ帰って一燈園という修行道場へ飛び込む頃は、「一燈園に飛び込んできた時は、彼はその妻君さえもどこかへ振り捨てて来て、全く無一物の放哉だったのである」と彼の師、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)を言わせた程になっていた夫人。
しかし彼女は放哉を忘れることなく、彼に迷惑をかけないようにと、「妹です」とまで言いながら病床の放哉を訪ねたのだった。しかし訪ね当ててみれば、一足違いでもはや放哉はこの世の人ではなく、ただ空しく骸(むくろ)だけが残されていたのである。
放哉を追い続けた彼女の人生は一体なんだったのか。彼女の愛の結末はあまりにも痛ましく、空しかったように見える。そうかも知れない。いや、決してそうではあるまい。
追っかけて追い付いた風の中 放哉
彼女もまた放哉を追いかけ、追い付いたはずである。放哉個人には追いつかなかったが、放哉が追いかけ追い付いた《人生の真実》に、彼女もまた追い付いたのではなかろうか。
春の山のうしろから煙りが出だした 放哉
その煙りは、『尾崎かおる』にもまた見えたに違いないのである。
※ ここに私が記した「尾崎かおる」像は、史実で伝えられているものとは、少し異なります。それを私は百も承知で、この私の「尾崎かおる」像をまとめました。彼女は冷たい人だったとか、「東大出」としての尾崎秀雄が大事だったのだとか、一般的には言われています。また放哉も最後の頃は、薫はもう手紙も何もくれなくなったし、すっかり自分の事など忘れてしまっているのだろう、などとぼやいたりもしていました。しかし私は、尾崎かおるが裁縫を習い始め、それで自立して病気がちの放哉を食べさせるんだと言っていたり、放哉が亡くなるとその4年後には、40の年も待たずに薫も後を追って亡くなって行く、そうした2人の年表を読んだ時、ここに記したような2人に付いての幻影が私の心に生まれたのです。
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放哉の句より2つ3つ(1):
迷って来たまんまの犬で居る 放哉
迷った犬は「異邦人」である。犬の世界もまた、縄張りで張り巡らされている。迷った犬が縄張りの犬から襲われないためには、ボス犬に尾を振り、その手下にならなければならない。しかしこの犬は妥協せず、迷ったまんまでいる。「異邦人」のままである。
その迷ってきたまんまの犬とは、放哉自身である。人間世界にもまた隙間なく縄張りが張り巡らされ、さまざまな領域の力関係が存在する。実業も政治も、教育や学問や宗教も、その縄張りから離れてはほとんど誰をも存在させてはくれず、まして成功への道をもたらせてくれることはない。従って人は生きて行くために、自分が所属している領域の縄張りと妥協する。その歪みがあらゆる領域において、押さえても押さえても押さえ切れず、露出せざるを得なくなっているのが、今の社会の実像ではなかろうか。
尾崎放哉の感受性は、この社会に対しては初めから「異邦人」であった。社会関係に妥協できなかったのである。ほとんどの人は自己と家族の安全と称して、何らかの縄張りに収まって行くが、放哉だけはいつまで経っても「迷ってきたまんまの犬」であり、「異邦人」だったのである。それが彼を戦慄的な「破滅への道」へ追いやり、孤独な漂泊への道をたどらせることになった。
なん本もマッチの棒を消し海風に話す 放哉
障子あけて置く海も暮れきる 放哉
放哉は実業界を離れた後、生活の場として仏教の世界に身を置いたが、そこもまた依然としてこの世の人々が持つ心理的慣習と何一つ異なるものはなく、勢力争いや俗物的な習慣によって痛めつけられる。そして流転に流転を重ねた末に、ようやくにして死の1年前、彼の最後の孤独な安住の地、四国の小豆島(しょうどしま)にたどり着く。そうしてそこで、完全とも言える孤独と海とを確保して、空前の詩境を開花させた。放哉にもしこの小豆島での最後の1年がなければ、彼はよくいる単なる人生の落伍者の1人に過ぎない、と言っても言い過ぎにはならないであろう。
彼は小豆島で長年の念願だった小さな庵、南郷庵(みなんごうあん)を与えられ、ようやく静かに死ねる場所が見つかったと喜ぶ。彼は独り毎日ここで海と死と対話し、人生の最後に向かって急進して行くのである。
消えた何本ものマッチの棒は、独り海風と対話した時間の長さである。そして青くキラキラとしていた海も、いつしかとっぷりと暮れた。「暮れきる」──この言葉は私をギクリとさせる。そこで対話していたのは〈死〉だったのである。「障子あけて置く」──しかもそんなにも長く、片時も眼を逸らさず〈死〉を見つめていた。そこには何の悲しみも、不安も、恐怖もない。感傷の入る隙間もない。ただただはっきりと見つめていたのである。
咳をしても1人 放哉
この〈死〉を見つめ、〈死〉と対話する世界には、もはや何人も入りようがない。しかも人はいい加減な死生観などを持つことによって、自分の認識力を眠らさなければ、誰もが通って行かなければならない生きる道なのである。ここにはギリギリに求道した人間だけが持つ、魂の響きがある。
この句は、私に2つの事を考えさせた。1つはイエスが十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」、と叫んだ姿である。もう1つは、ゴッホが頭に弾丸を打ち込みながらも死に切れず、丸1日ゆっくりと、パイプの煙りをくゆらせながら死を見つめていた姿である。その時ゴッホには、絵を描いていた時には分からなかったすべての事が見え、分かったはずである。
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