ダイアローグ『できるのか』

現実に読み手を作りながら書いていますが、こんど会ったら感想を。

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村上春樹のノーベル文学賞

毎年ノーベル文学賞受賞がささやかれ、今年も受賞のなかったこの作家について、私は作品をほとんど読んでいないし、言いたいことはなくて「この人のものは幼稚だから読まない」で感想はおわってしまう。ノーベル文学賞受賞作家の作品は、マルケス、クンデラ、シモン、それに日本人だからだが、川端と大江、それは各一冊なら読んだことがある。そこで村上がノーベル文学賞を受賞したら、そこにどのような一般化された評価があるのか。マンデラ、クンデラ、シモン、また川端でも大江でも、その受賞理由をキャッチコピーとして、たった一冊の読書からでも作ってしまうことが自分にはコマーシャリズムとしてできると思うが、村上についてならそれはどうなるか。「アニメ・ゲームの感覚を『小説』に取り入れ、二十世紀後半を生きる人間の負荷を想像的に描くことで世界的な支持を得た」とでも書く気がする。村上より一歳年下の姜尚中(政治学・思想史)は、村上春樹作品について十年ほど前に次のように言っている。

9・11以降、僕たちは種という問題を否応なしに突きつけられているわけですね。種というものの中に、人種、民族と結びついた宗教を入れて考えてもいいと思うんですね。たとえばユダヤ教、そしてイスラム。そこから逃げたい、あるいはそういうしがらみのない世界を望む人たちにとっては村上春樹というのは居心地がいいのかも知れません。村上春樹の小説に出てくる一人称の「ぼく」というのは、地域性や民族性を剥奪されていて、どこでも成り立つわけです。そこにものすごい違和感がある。逆に言うと、こういう小説が生まれてくるところに、今の日本の公をめぐる問題性が現れていると思うんです。僕は、村上春樹というのは、ある意味では日本の私小説の延長上にあるんじゃないかと思うんです。ただ本来の私小説の中では、家族にあるしがらみとどう向き合うかというテーマがあったわけで、それは日本のネーションのつくり方とも不可避に関わっていた。ところが村上春樹の作品世界には、種が完全に抜け落ちている。それで世界は成り立つわけです。今、日本でなぜナショナリズムが湧き出しているかというと、個と類でつくられる世界の中で、「ぼく」という一人称の危うさに耐えきれない人々が、種に全面的に簒奪されるということではないかと思います。村上春樹では、種の問題が解けないのみならず、種が暴力的に立ち現れた時に、対応できないんですよ。彼らが獲得した類というのは、果たして本当に類であるのかどうか。たしかに村上春樹現象というのは世界的な現象なのかも知れない。種をすり抜けるという感覚は。それはグローバル化とも関わる感性の問題かもしれない。ただ、日本において村上が多くの読者を獲得したということは、戦後日本の歴史意識を考えると、僕は普遍的な平和主義の弱さというものがそこにはあるんじゃないかという気がする。(『日本論』2004年刊行)



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