ダイアローグ『できるのか』

現実に読み手を作りながら書いていますが、こんど会ったら感想を。

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そのとおりだろうと私は言ってみて、「アニメ・ゲームの感覚を『小説』に取り入れ、二十世紀後半を生きる人間の負荷を想像的に描くこと」の効力が消えたときに彼のノーベル文学賞受賞はあり、だからその「次」が日本語で書かれないのが、彼の受賞のない理由にはあるのではないかという仮説を立てる。それはどういうことなのか。
小説とは何だろうか。私はスーザン・ソンタグの次の「作家」についての言葉で十分だと思う。文脈を無視して引用する。「作家とは言葉を持ち、世界を観察することを仕事とする者のことです」(柄谷行人・浅田彰との対話『冷戦終結後の政治と文学』)。例えば、いま私の手元に数冊の名の通った名著と言っていい本があるとする。私はそれらの本がすでに書かれた過去のものだからと、そこに書かれているものを俯瞰することも、書かれている「世界(ワールド)」を微細に整理して解説することも本当にはできると思っていない。ソンタグの発言は「しかし作家は自分が直接知ってはいないこと、深い知識を持っていないことについて意見表明を求められても、こうしたあらゆる要求には抵抗すべきです」と続くが、ここで私が言いたいのは「世界を観察すること」と「直接知っていないこと、深い知識を持っていないこと」の狭間に私たちはいるということだ。その両方に股をかけているそのあり方は一般のほとんどだれもが置かれている状況で、例えばと書いた私がそれを解説することができない洞察のある著述からして、そこにある観察が世界・森羅万象に及ぶわけではないこと、このことはほとんどだれもが知っていることだろう。
作家が書くのは、偏狭な、私的な領域と公的な領域とがつなぎ合わなかったりする知らないことを持つ事態の中であって、それはごく一般の人と変るところがあるわけではなく(変るところがあるとしたらそれは書いたものからとらえられるものがそうなのであって逆ではない)、そのため、思わず孤独な呟きや歌や叫び声をあげたり、自分勝手なロジックで物語を作ったり、マスコミやテレビのコーディネーターの口真似かそのものを言ってしまいかねない、主観性に誘い込まれかねない、それは世界のリアリティーからはどこか遠い、どこかが欠けた場所でしかない。
姜氏が「ある意味では日本の私小説の延長上にあるんじゃないかと思う」とも、「種が完全に抜け落ちている。それで世界は成り立つわけです」ともいう村上春樹の作品は、その私たちだれにもあるリアリティーの不足を埋める一つとして、そのように知識や情報や読むことを私たちはするのだから、機能する。作品とはそれだからだ。それが彼の作品で気楽にできるはアニメ・ゲームに見られる想像的な物語的要素の面白さで書かれているためであり、しかしそれは「世界を観察すること」から逃げることに近く、作者が読み手を巻き添えにして、面白ければよいというエンタテインメントの世界でありながらしかしエンタテインメントではないということからそこには観察があるかのような錯覚、そこに安住する光景を見るように私には感じられてならない。この闇は深く軽率だ。読み手の感性にとってめんどうな不協和音が残るいかにも現在である虚構が日本語であらわれたとき、それが読まれるようになったとき、村上春樹とは何だったのかという評価、次に来たものへの橋渡しであったこと、文字でできた虚構に多くの読者を引き寄せたその効力と寄与に対し、ノーベル文学賞受賞はあるだろう。


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