ダイアローグ『できるのか』

現実に読み手を作りながら書いていますが、こんど会ったら感想を。

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久しぶりに記事(「村上春樹のノーベル文学賞」)を投稿したのには、ブログが消滅してしまうことを怖れたのが第一にある。どのくらいの期間ブログを利用しないでいるとブログがなくなるのかは知らないが、このブログには外からは見えないものの、私にとって貴重な下書きが山と収められているのだからだ。

それとブログに関して私自身がニュートラルであるポジションを持っていることを自分に確認するためもあった。実はブログについて書いてみることがあってそのことを発見したのだが、これは別のブログの記事にすることにしている。

創作の「ダイアローグ『できるのか』」は、書き続けていない。それは書けないからではなく、書いていけば千枚は越すにちがいない道のりが不健康であるからで、現在は少人数の読み手を得て創作を書きながらいる。それはネットで発表するということをしないで、下書きを読んでもらいながら評を得て書いているということをしているということだ。「ダイアローグ『できるのか』」を書いていくためには、実はそれに見合う読み手が量的に必要であるということがわかっているということでもある。

元気に書いているのだということを古いこのブログの読み手に、また初めてこのブログに来た人には、こういうブログもあるということを知らせて、今日はここで手を止める。

Jump Jack


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そのとおりだろうと私は言ってみて、「アニメ・ゲームの感覚を『小説』に取り入れ、二十世紀後半を生きる人間の負荷を想像的に描くこと」の効力が消えたときに彼のノーベル文学賞受賞はあり、だからその「次」が日本語で書かれないのが、彼の受賞のない理由にはあるのではないかという仮説を立てる。それはどういうことなのか。
小説とは何だろうか。私はスーザン・ソンタグの次の「作家」についての言葉で十分だと思う。文脈を無視して引用する。「作家とは言葉を持ち、世界を観察することを仕事とする者のことです」(柄谷行人・浅田彰との対話『冷戦終結後の政治と文学』)。例えば、いま私の手元に数冊の名の通った名著と言っていい本があるとする。私はそれらの本がすでに書かれた過去のものだからと、そこに書かれているものを俯瞰することも、書かれている「世界(ワールド)」を微細に整理して解説することも本当にはできると思っていない。ソンタグの発言は「しかし作家は自分が直接知ってはいないこと、深い知識を持っていないことについて意見表明を求められても、こうしたあらゆる要求には抵抗すべきです」と続くが、ここで私が言いたいのは「世界を観察すること」と「直接知っていないこと、深い知識を持っていないこと」の狭間に私たちはいるということだ。その両方に股をかけているそのあり方は一般のほとんどだれもが置かれている状況で、例えばと書いた私がそれを解説することができない洞察のある著述からして、そこにある観察が世界・森羅万象に及ぶわけではないこと、このことはほとんどだれもが知っていることだろう。
作家が書くのは、偏狭な、私的な領域と公的な領域とがつなぎ合わなかったりする知らないことを持つ事態の中であって、それはごく一般の人と変るところがあるわけではなく(変るところがあるとしたらそれは書いたものからとらえられるものがそうなのであって逆ではない)、そのため、思わず孤独な呟きや歌や叫び声をあげたり、自分勝手なロジックで物語を作ったり、マスコミやテレビのコーディネーターの口真似かそのものを言ってしまいかねない、主観性に誘い込まれかねない、それは世界のリアリティーからはどこか遠い、どこかが欠けた場所でしかない。
姜氏が「ある意味では日本の私小説の延長上にあるんじゃないかと思う」とも、「種が完全に抜け落ちている。それで世界は成り立つわけです」ともいう村上春樹の作品は、その私たちだれにもあるリアリティーの不足を埋める一つとして、そのように知識や情報や読むことを私たちはするのだから、機能する。作品とはそれだからだ。それが彼の作品で気楽にできるはアニメ・ゲームに見られる想像的な物語的要素の面白さで書かれているためであり、しかしそれは「世界を観察すること」から逃げることに近く、作者が読み手を巻き添えにして、面白ければよいというエンタテインメントの世界でありながらしかしエンタテインメントではないということからそこには観察があるかのような錯覚、そこに安住する光景を見るように私には感じられてならない。この闇は深く軽率だ。読み手の感性にとってめんどうな不協和音が残るいかにも現在である虚構が日本語であらわれたとき、それが読まれるようになったとき、村上春樹とは何だったのかという評価、次に来たものへの橋渡しであったこと、文字でできた虚構に多くの読者を引き寄せたその効力と寄与に対し、ノーベル文学賞受賞はあるだろう。


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村上春樹のノーベル文学賞

毎年ノーベル文学賞受賞がささやかれ、今年も受賞のなかったこの作家について、私は作品をほとんど読んでいないし、言いたいことはなくて「この人のものは幼稚だから読まない」で感想はおわってしまう。ノーベル文学賞受賞作家の作品は、マルケス、クンデラ、シモン、それに日本人だからだが、川端と大江、それは各一冊なら読んだことがある。そこで村上がノーベル文学賞を受賞したら、そこにどのような一般化された評価があるのか。マンデラ、クンデラ、シモン、また川端でも大江でも、その受賞理由をキャッチコピーとして、たった一冊の読書からでも作ってしまうことが自分にはコマーシャリズムとしてできると思うが、村上についてならそれはどうなるか。「アニメ・ゲームの感覚を『小説』に取り入れ、二十世紀後半を生きる人間の負荷を想像的に描くことで世界的な支持を得た」とでも書く気がする。村上より一歳年下の姜尚中(政治学・思想史)は、村上春樹作品について十年ほど前に次のように言っている。

9・11以降、僕たちは種という問題を否応なしに突きつけられているわけですね。種というものの中に、人種、民族と結びついた宗教を入れて考えてもいいと思うんですね。たとえばユダヤ教、そしてイスラム。そこから逃げたい、あるいはそういうしがらみのない世界を望む人たちにとっては村上春樹というのは居心地がいいのかも知れません。村上春樹の小説に出てくる一人称の「ぼく」というのは、地域性や民族性を剥奪されていて、どこでも成り立つわけです。そこにものすごい違和感がある。逆に言うと、こういう小説が生まれてくるところに、今の日本の公をめぐる問題性が現れていると思うんです。僕は、村上春樹というのは、ある意味では日本の私小説の延長上にあるんじゃないかと思うんです。ただ本来の私小説の中では、家族にあるしがらみとどう向き合うかというテーマがあったわけで、それは日本のネーションのつくり方とも不可避に関わっていた。ところが村上春樹の作品世界には、種が完全に抜け落ちている。それで世界は成り立つわけです。今、日本でなぜナショナリズムが湧き出しているかというと、個と類でつくられる世界の中で、「ぼく」という一人称の危うさに耐えきれない人々が、種に全面的に簒奪されるということではないかと思います。村上春樹では、種の問題が解けないのみならず、種が暴力的に立ち現れた時に、対応できないんですよ。彼らが獲得した類というのは、果たして本当に類であるのかどうか。たしかに村上春樹現象というのは世界的な現象なのかも知れない。種をすり抜けるという感覚は。それはグローバル化とも関わる感性の問題かもしれない。ただ、日本において村上が多くの読者を獲得したということは、戦後日本の歴史意識を考えると、僕は普遍的な平和主義の弱さというものがそこにはあるんじゃないかという気がする。(『日本論』2004年刊行)



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5/25

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みなさん、こんにちは。「こんばんは」の時刻ですが。

小説「 ダイアローグ『 できるのか 』 」の書き手です。現在「 3 」まで投稿したところで、これからは時々顔を出すことにしました。

まず、すでに公開している 1 〜 3 ですが、これは 2 と 3 はまだこれから書き直します。

下書きは原稿用紙換算300枚ほどある創作であり、すでに別のブログで途中まで発表したことがあるものですが、このブログで書き直しながら発表していきます。

この小説にはいろいろな意味がこめられていて、その二つを言ってみると、まず第一に「 ブログに創作を書くこと 」それを題材としていることがあります。第二に、「 書くこと 」それをテーマとしているということがあります。

ブログにある創作のデキがどうのということではありません。もしデキというもの、質を問題にするのなら、どこに書こうと質の高いものは高い、質のあるものは質を読み手に感じさせずにはおかないでしょう。その意味では、志高く書いていくつもりです。

そして、ネットに書くもの・ウェブ上に載るもの・画面で読むものとして、これくらいのものもあるのかというもの、またネット・ウェブ・画面だからこそのもの、をめざしたいと思っています。

一回投稿分が多くて、こんなに文字がぎっしりのものは読まないよ、ブログには不向きだ、との意見があることは、ブログも長いことしていますので、私にもわかっています。そこはやはり「 読む 」ことをする読み手のいることを前提して書き、やはり高質のものを読みたい、発見したい読み手のいることを信じています。

にしても、すでに投稿しているものをまだ書き直すと書き手の私が宣言してしまっているので、当分の間は、なんだよまだ先に行かないのか、あれっまた少し書き直したようだなという期間が続くと思います。第10回くらいになれば、1回〜5回くらいのものには手を入れることはなくなります。

予定では30回ほど、11月には書き上げているでしょう。

今回は以上です。


未知なる読み手へ。読み手はいつも書き手には未知だけれど。
では、また。


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Angelina
deadrock でいまあなたが書いたのは下書きで、いま私が Angelina で書いたとしてもこれも下書きです。練習で、書いて後推敲し、それから deadrock と Angelina は先へ先へと書いていく。こちらこそ宜しくお願いします。

私がいまここで書くとしたら、deadrock の書いたものの Angelina の補足になります。私がなぜブログ『 歩行と眼差し 』を知ったのか。deadrock にその出典を質問した deadrock の書いた創作の背景の中にあった引用文。それから私が deadrock の初めての創作をどう読んだか。Angelina から見えたものを書くのです。

いま deadrock が私 Angelina とネット上で知り合って現実に会うまでの期間を書いています。そこでこれから『 木の物語 』や『 ウラフボン 』に deadrock はふれていくでしょう。deadrock が半年間のことが書い後に、Angelina から見たものが補足される。deadrock の次回に続いてそれを書きます。

実は驚いているのです。それで Angelina で書くのが少し難しくなっています。この驚きにも応えながら書いていくのも練習であるとわかります。そしていま書いているこれも練習だからこうして書けるのですし、この下書きが必要なのがわかりながら、Angelina を先延ばしにしてしまうのをお許し下さい。

喩えですが、演劇部に入ったばかりの中学生がプロの役者と練習の舞台に上がり、プロが発声し身体を動かした瞬間に中学生は何もできなくなってしまう。いまの私はそうです。このことは本文に入れるわけのないことですが。それに他にもいくつものことが、あなたの下書き第一番目の記事を読んでいてめまぐるしく浮かびました。たとえば『 檸檬&コメントのコラボ 』を作った側を想像しました。それが今は私にぜんぶ読めるから、それを想像できるのです。実感ではありませんが、自然にできたものではないのだとわかります。これも私たちのめざす会話に出すことではなのですが。あなたのブログの中で見る光景にまず私は圧倒されました。

私たちがブログに出す会話の読み手の中で、氷山の水上にあらわれたのではないその実体の大きさ、その水面下の氷の中に私はいること、私が私のブログのIDと暗証をあなたに知らせ、あなたが非公開の私の記事を読んだのと、私がいまあなたのブログ全体を内側から見るのとはぜんぜん違うこと。それを想像する人はいないので「 Angelina さんはどんな気持ちですか? 」なんて、だれもコメントできかないでしょう。こうしていま感じているものを書くことが、この下書きだけです。それから、人は誰にも読まれないものを書くことも正しいことなのだと、いま書くことになってみて思ったりします。言わないこと、言葉を出さないことも、正しいことであるのだとも思います。しかしその上で私は貴方との会話を deadrock と Angelina の会話として人の中に出してみることにした。このことはそれをしながら、まだこれから先にも考えていくことになるでしょう。

それから、これだったのかとあらためてわかったことがあります。deadrockというのはいない、文だということ。それを書いたのが deadrock だ。というのも的を得ていなくて、いくらだって deadrock を作れるということ。書くこと、あなたがそれをしたことが deadrock としてあらわれるというのか、あなたが書くことであらわれたものなわけです。書くということは、こうだったのだという驚きがあります。

落ち着いていてユーモアのある、経験と智慧と優しさのある中年の男性がこれを書いたことはあっても、その人は書かれた文のどこにもいない。deadrock の書いた下書きの第一番目は、私には楽しく読めて笑えるところもあり、それは私だからですが、心というもののあるのを思い出したように読むのです。そしてここに書いてあることには一つの嘘も虚構もなく、みな事実であることに驚きます。どうしてこんなふうに書けるのか。これまでの文にはない、このブログ『 歩行と眼差し 』にあるどの文とも違う文で、あなたは書かれています。そんなふうにはいかない私は、自分が小さなものに感じられます。それでも私たちの会話は『 木の物語 』のことをめぐってものですから、これはこの私のことであり、Angelina が書くのだということを握っています。

deadrock の続きを読みながら書くべき補足を作っていきます。Angelina で書く下書きは、次回からになります。書いたものが読まれること。それは大変なことだと思います。





( つづく )


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